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↓『現実はマイナーの中に』江川達也著、ウェイツ、2004)より引用(06)


ただ最近、「自分とは何なんだろう」と悩んでいた人、精神的に苦しい人が、社会全般には増えている気がします。
昔はみんなもうちょっと健全だったけど、不健全な人が増えた感じはある。
本気じゃないくせに精神的に不安定という、中途半端な奴が増えている感じですね。


昔は、社会にはっきりとリアルだと感じられるものがあった。
それだけに昔のマニアは、精神が腐敗している人が多かったし本気で苦しんでいて、一般社会からは受け入れられなかった。
でもいまは、社会全体に精神が苦しい人が増えてきている。
だから昔はマイナーと言われたものが、いまは意外と受け入れられ、ときには流行になったりもする。


でもよくよく見ると『エヴァンゲリオン』なども、悩んでいる人に向けて引っ掛けてはいるけれど、実際のウリは滅茶苦茶メジャーなものでしかない。
マイナーで引っ掛けつつもそれは上っ面の姿だけで、結果としてメジャーなところでヒットをしたという図式ですね。
昔より心を病んでいる人は増えてきているけれど、受けるものはやはりメジャーです。
何の解決もされずに薄まりつつ、かつてのマイナーっぽさをまとったメジャーが受けるようになっている、という感じがします。


↑(引用ここまで)
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江川氏も言う『本気じゃないくせに精神的に不安定という、中途半端な奴が増えている感じ』は、私も強く感じています。
「自分とは何なんだろう」と本気で突き詰めて考えて、ひとり悩んで、社会に適合できないでいるわけではなく、「どうして人を殺してはいけないのか?」「今の政治はダメだ」なんてうそぶきながら、てめえは何も行動を起こさず、周りの大人やらネットやらの反応を見て厭世主義を気取って腐っているのがほとんどでしょう。


…それは、そいつの向上心や精神性に見合わないほどの「情報」が収集できてしまう現代の「不健全さ」の当然の帰結でしょうし、子どもに安易に「情報」「ネット」「テレビ」を与えない、与えるならそれに見合ったレベルの「向上心」「リアル」を大人が植え付けてやる、といった国民性が養われなければ、回避は難しいと思います。


厳しい物言いでしょうか。
こういうことを言うと「鬱や精神疾患は”病気”なんだから、周囲の理解が必要だ」とか言われてしまうんでしょうか。


「明日死ぬかもわからない」時代では『本気じゃないくせに精神的に不安定という、中途半端な奴』なんて、野垂れ死んでいくしかありませんでした。
みんな、喰いつなぐことに(少なくとも現代よりは)必死で、そんな中途半端な奴らにかまっている余裕なんて、なかったのです。


しかし、社会に余裕ができて、その『中途半端な奴』の絶対数が膨大になってきたために、「社会」として、受け入れざるを得ない方向にシフトしてきているのは事実だと思うのです。
江川氏も言うようにそれは『何の解決もされずに薄まりつつ』あるわけですが、それは「明日死ぬかもわからない」リアルから目をそらしてのほほんと暮らし続けた我々現代日本人の負債のひとつのように思えてならないのです。


「精神疾患の奴なんて、甘えているだけだ」と言うのは簡単です。
「鬱や精神疾患の人への理解が足りない」と言うのも簡単です。
『楢山節考』で語られる老人問題然り、社会からドロップアウトしていく人たちも多様化する現代で、その根本的な対応から目をそらし続ける私たちの「負債」は国の借金より膨れ上がってるかもしれません。


ペタしてね

また1年、こうして執筆できる環境で過ごせたこと、それぞれ生活環境が変化しても家族や友人たちと相も変わらず過ごせたこと、私を取り巻くすべての人たちと環境に感謝します。


誰かの誕生日にはケーキや御馳走をむさぼる前にその両親と周囲の大人たちに感謝し、クリスマスやら世間の作られたイベントに踊らされることなく自分たちの基準で集い、楽しみ、それぞれが勝手に自己反省をしていた2012年だったと思います。


仕事が忙しくても、周囲に仕事の愚痴をこぼすこともなく。
家事や育児が忙しくても、友人たちと楽しく過ごすこともできて。
…まあ、どちらもそんなに忙しいとは私自身は思っていないんですけどね(笑)。
そんなオチもない話をしている暇があったら、話したいことが他にいっぱいありますし。
そして何より、私の(数少ない)友人たちもそんなふうに過ごしていると感じられたことが、とても嬉しかったりします。


去年の年初め(2012年)に、友人のT君が私にボソっとこう言いました。
「仕事に家事に育児、チョロいでしょ?」と。
彼のその問いかけには、年上である私への期待と世間の大人たちに対する不信が入り混じっているように(少なくとも私は)感じました。
もちろん私はこう答えました、「チョロいよ」と。


仕事に家事に育児と、シングルファザーばりの生活を送っている私ですが、毎日ドラクエ10のレベル上げができるくらい(笑)、本当に「チョロい」んです。それは、周囲への援助のもらい方も含めてですが(援助してくれている方々、言い方悪くてすみません。笑)。
…まあ、多少「やせ我慢」「気を張っている」部分もあるでしょうが、それを差し引いても、きっちり「自分自身の生き様」を体現して歩いていると思うんです。手前味噌ではございますが。


「そんなオレってすごいでしょ?」なあ~んて自慢話がしたいんじゃないんですよ。
仕事の愚痴もない、家事や育児の愚痴もない、世間の商業化されたイベントに(普段の会話すら)流されない、そんな自立した友人関係って素敵じゃないですか? …って言いたいのです。


そんな人間関係を大切にしつつ、もっともっと突っ走って、他者への配慮やオリジナリティを磨いて、今年1年も過ごしてみせますとも!
今年も、どうぞよろしくお願いします。


ペタしてね


昨日仕事中、昼過ぎ3時頃保育園から「迎えに来てください」と電話が。0歳児のほうが、38.8度。
強引に仕事を切り上げて、この後のもろもろを同僚に引き継いで4時前に迎えに行くと、熱はあるけどまあ元気、といういつものパターンでした。2歳児も同時に拾って帰ります。


食糧や水が枯渇していたので、時間も早いし、ちょっとくらいはゆっくり買い物でもできるかな、なあ~んて思っていたら、これが結構大変でした(>_<)。


一旦自宅に寄り水の容器などを持ち出します。
0歳児を背負いながら2歳児の手をつなぎ、スーパーで16リットル水を補充して、無洗米5キロや納豆・豆腐なんかを別店舗を回りながら購入。
買い物をしていると、前回シャボン玉を買ってもらったので味をしめたのか、「シャボン玉ほしいです」と2歳児。
買ってもらえないことを悟ると、スーパーの中で大声で泣き出しました(笑)。店舗の外へ連れ出し、駐車場のはじっこで泣きやませてから、お説教。
「わがままを言うな」に「はい、わかりました」「ごめんなさい」と目を見て答えるまで10分。0歳児を背負いながら、30度近いスーパーの駐車場で勝負しました(笑)。


16リットルの水に5キロの米、買い物袋もろもろ、2人ぶんの保育園バッグや自分の鞄に2匹の子どもを引き連れながら5時すぎに帰宅。0歳児が寝る気配がないので、そばに置いて遊ばせてやります。
洗濯機を回しながら夕飯の準備、昨晩から干してあった洗濯物をたたみ、2歳児と遊んでやりながら明日の保育園バッグの準備。連絡帳のチェック。
洗濯が終わったら乾燥機&物干し、6時に予約していたご飯が炊きあがったので味噌汁を作り、0歳児の離乳食も用意し、子どもたちに夕飯を食べさせます。
夕飯の片づけをし、洗い物、乾燥機が終わったら2歳児と一緒にたたむ。お風呂をわかす。もう7時すぎです。
お風呂を出て、2歳児の着替えを待ってドライヤーをかけてやると、8時半。0歳児は38.2度。もう寝かせる時間です。
熱が下がらなかったら明日の保育園はどうしよう(泣)?


いや~、昨日は結局、保育園に迎えに行ってから、4~5時間動きっぱなしでした!
今朝は37.7度の0歳児を実家に預けてもらい、2歳児だけを保育園に。いつもどおり、5時半起きです(笑)。


ペタしてね

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↓『ヒンシュクの達人』ビートたけし著、小学館新書、2013)より引用(16)


やっぱり悪口とか暴言っていうのは、バランス感覚なんだよ。
一応、塀の上ギリギリのところを歩くけど、落ちる方向をちゃんと考えておかなきゃいけない。
そうするにはやっぱり「昔の芸」とか「歴史」みたなものをキチンと踏まえておかなきゃいけないって思うんだ。
オイラの今までの芸にしても、よく「たけしは古いものをみんな壊してきた」なんて言うヤツがいるけど、本当はそうじゃなくて、古いものを取り込んで新しい芸を作ってきたと思ってるんだよ。


↑(引用ここまで)
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私は職場が変わったとき、「前の職場はこうだった」「このやり方はおかしい」と思うことが多く、ついついそれを意固地になって新しい職場にも適用しようと四苦八苦してしまいます。
その新しい職場の、今までの「歴史」というか、「流れ」「どういう経緯でこうなったのか」をほとんど知らないくせに、相当生意気だと思われていたことでしょう(笑)。


先日、私の今の職場から転勤していった新人を迎え、飲む機会がありまして、彼が「今の職場は、○○に全然力を入れていない。新人の私は、どうしたらいいでしょう?」と言っていました。
「それをおまえが変えていくんだよ!」とやいのやいの元・同僚たちに言われている中、私の先輩にあたる人は、さらっとこう言ってのけました。
「その職場には、その職場の”流れ”や”歴史”がある。まずはその波に乗ってみて、それから考えればいい」と。


むしろその件については最前線で力を入れているはずのその先輩の口から、そんなバランス感覚に富んだセリフが出てきたことに、私は感嘆の声をもらしました。


何か新しいことをしよう、オリジナリティを発揮しよう、と思ったときは、まずはその場の「流れ」「どういう経緯でこうなったのか」を知る。「歴史」を学ぶ。
…そういう手続きをきちんと踏まないと、いくら「これが正しい」と思ってやっていたとしても、どうにも付け焼き刃の「軽薄なもの」になってしまいがちだというのは、頷ける話です。


「自分が正しいと思った道を突き進め!」なあ~んて、言うのは簡単ですが、「軽薄さ」「古いものから学ぶこと」を指摘できる大人でありたいものです。


ペタしてね

2歳も過ぎ、だいぶこちらの言葉も理解できるようになってきたということで、そろそろトイレトレーニングを始めてはいかがでしょう、と保育園の先生が提案してくれたので、もちろん乗っからせていただきました。


延長保育の時間(7:00~9:00と16:30~18:45)は紙おむつ着用ですが、通常保育の時間は、先生がトイレの面倒も見てくれているようです。
ズボンとパンツを2枚ずつ追加。かわりに、紙おむつは8枚から4枚に。
びちょびちょのズボンとパンツを持って帰ってくる日も多いですが、どのくらいでトイレが習慣化するでしょうか?


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↓『毒舌訳 哲学者の言葉』有吉弘行著、双葉社、2012)より引用(01)


仕事がまったくなくて、ひたすら家に引きこもっていた頃、つくづく思ったのは、「金がないとゴミって出ないんだな」ってこと。
本当に金ないとゴミも出なくなるんですよね。買い物とかしないし。
最低限生きていくぐらいのものしか喰わないし。
無駄なゴミって一切でないです。
ゴミが出るうちは、まだカネに余裕があります。
僕の場合は100円ショップで買った50枚入り45Lのゴミ袋で1年間余裕で大丈夫でした。1年どころか余りました、ゴミ袋が。それで何年もいけます。


エコバッグとかマイ箸とか甘いです。
偉そうにエコバッグ持ってる人は、たぶん大家族の使い古した割り箸使えないと思うんですよ。
もったいないから捨てないで、ずっと使いまわしてるきったね~割り箸なんか。
それにエコバッグ作るからって工場を拡大したりするのも、はっきり言ってバカバカしいです。


「エコ」って、なんかオシャレな感じしますもん。
「エコ」とか言ってる人たちは、しょせん無駄遣いできるからエコとか言うんです。


金ないと、1日1食で布団かぶって、1日中、家でじっとしてるんで「超エコ」です。
動かないぶん、呼吸もあんまりしないんで二酸化炭素もあんまり出ないし。
電気代もったいないから昼間は電気つけないし。究極のエコです。


↑(引用ここまで)
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「エコ」とか口にするなら、「清貧」と呼ばれるくらい徹底しろよ、といつも思います。
「エコカー」「エコ家電」なんて、言葉を聞いただけで本当に笑っちゃいます。…みなさん、なんで平気な顔してそんな言葉使えるんですかね?
「毎月○○円電気(ガソリン)代がおトク!」だなんて、「その商品自体に何万円払うと思ってんねん!」て、みなさんなんでツッコまないんですかね?


有吉氏の言うように、「エコ」なんて口にするなら、自動車なんて乗ってはいけません。移動は徒歩のみ。基本は家でじっとしているべきでしょう。
ティッシュペーパー、自動販売機、コンビニなんて「エコ」の対極です。絶対に利用してはいけません。むしろ「ティッシュペーパーを使うのをやめよう!」「自動販売機を使うのをやめよう!」と周囲の人を啓蒙して歩くべきでしょう。
旅行や外食なんて、もってのほか。「無駄遣い」の最たるものです。
もちろん、電化製品なんてできるだけ使わない。その都度使い切って料理すれば、冷蔵庫も必要ありません。


…このくらい徹底している人がいたら、その人は「環境に配慮して暮らそうぜ!」「”エコ”を推進しよう!」と声高に言っていいと思います。そんな人、会ったことないですけど(笑)。


というか、ティッシュペーパーも使わないし、自動販売機も使わないし、出先では割り箸は断って汚ったない(笑)自分の箸を必ず使い、鼻をかむのも手を拭くのもハンカチを使い、紙ナプキンやビニール袋はもらわない…そんな私より徹底して暮らしている人には、滅多にお目にかかれません。
しかしそれでいて、「自分は”エコ”を推進している」なんて微塵も思っていないですし。
自動車にも乗りますし、コンビニも利用してしまうときもありますし、「節電」にもそんなに取り組んでいません。
口が裂けても「エコ」だなんて恥ずかしい言葉は言えません。


だからこそ、言いたい。
「エコ」なんて口にする奴、口にする企業は、ロクなもんじゃない、と。


ペタしてね

予防接種シリーズも、これでしばらくお休み。
2歳児と0歳児ともに、B型肝炎予防接種を受けてきました。2歳児は3回目。
ひとりあたり3,240円。
次回以降は、3歳、1歳になってから。


土曜の午前中は仕事だったため、S君が子どもふたりと一緒にプールへ行ってくれたので助かりました!
プール終了後、予防接種 → かっぱ寿司 → お昼寝 → S君と一緒にドラクエ10 → Kちゃん合流して中華料理屋さんへ。


私事(ドラクエ10)ですが、ドラゴンガイアカードを先日手に入れ、S君と一緒に倒しに行くも、討伐直前まで行って、まさかの全滅(ToT)。。
やっぱり「打撃完全ガード」をあんなに頻繁に使われたら、戦士のS君と武闘家のサポート店長だけでは、なかなかダメージを与えられないですね。。「零の洗礼」が使える賢者を引き連れて、あmたチャレンジしに行くしかないですね。。


ペタしてね

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↓『現実はマイナーの中に』江川達也著、ウェイツ、2004)より引用(05)


欲望には段階があるけれど、普通に発展していけば何番目かに「認められたい」という欲望が、そうとう大きなものとしてある。
衣食足りてくると、やはり人から認められたい、人の気持ちがこっちに向いていて欲しいと思うのは、人間の本能だと思います。


でも本能にあまりにも忠実だと、ムカツクつやはぶっ殺せみたいな話になる。
暴走してはいけない。
どこかでほどほどにしなければいけないけれど、いまはそれができない状態になっています。
ほどほどにしないから、本質が見えてこなくなってしまうわけです。
「腹八分にしておきましょう」「食うことにそんなに興味をもってもしょうがないじゃないですか」と思いますね。
ただ、「認められなくてもこうやって暮らしていればいいだろう」「これぐらい認められたらいいだろう」と思っていても、作家をやっていると、ついもっともっと認められたいと思うようになるものなんです。
手塚治虫みたいな人は、過度に認められたくなるタイプですね。


水木しげるは、どこか認められたい気持ちが薄い感じがするんです。
だからこそ、世界が正しく見える。
認められたいという思いがあまりにも強くなってしまうと、盲目的になってしまう。
だから認められたいという気持ちは、ほどほどにしたほうがいい。
適当なところで、「認められなくてもオーケー」という訓練をしておかないと、ずっと認められ続けていると、それが当たり前になってしまう。
異様に認められてしまうと、それを維持したくなる。
そして結局、作家やミュージシャンは崩れていってしまうわけです。


「本当は自分って何だろう」という矛盾から始めたものが、いつの間にかすり替えられて、「人から認められよう」という目標に移動してしまう。
途中で「認められることに縛られてはいけないんじゃないか」ということに気づけば、作家として最初に志した方向へ戻れるんです。


↑(引用ここまで)
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なにも作家に限らず、子どもでも大人でも、誰かに認められたり、褒められたりすることは、つねに欲して暮らしていると思います。
特に子どもはそれが顕著で、「自分の居場所」感というか、「自分はここにいてもいいんだ」という「赦されている」感が日常的にないと、極端な引っ込み思案になるか、または極端に攻撃的な言動をするようになるかして自己防衛していかないと、やりきれないはずです。
…大人でも、周りからいつも「あいつはすごい」と評価されている人が、他人に攻撃的すぎたり、おどおどしすぎたりする必要はないですもんね。


でも、その「認められたい」欲求が「過度に」なってしまうと、「他人に認められるために○○する」「褒められるために○○する」といった「本来の自分のカラー」とは違った部分が、自分の暮らしや思考パターンの多くを占めるようになることは想像に難くありません。


育児でも「褒めて伸ばす」とか何とか言って、必要以上に子どもを褒めるポイントを探してあげすぎて、「褒められる」「認められる」というアメなくしては何をやるにもモチベーションが上がらない人間になってしまうことって、よくありますよね。
…特に親のほうも「子どもに嫌われたくない」「子どもからも認められていたい」という欲求を「過度に」持っている場合も多いと思います。
「子どもをしつけて、社会へ送り出す」という「社会的役割」よりも、個人的な「認められたい」欲求が上位にきてしまう、典型的なパターンですね。


そんなパターンに陥らないためにも、江川氏も言うような、普段から「認められなくてもオーケー」という「あそび」の部分を意識して持つようにしておく必要があると、私は強く感じています。


ペタしてね

職場の先輩が、クラシックのコンサートや文化的なものに誘ってくれるので、毎回乗っかるようにしています。…そうでもしないと、なかなか文化的なものに触れる機会ってないですからね!


今回は、歌舞伎座の「團菊祭」に誘っていただいたので、花道の見える2等席(14,000円)と、幕間休憩の夕食(3F花籠・2,600円)も予約してもらって、初・歌舞伎に行ってきました。

歌舞伎の入門本も貸していただいたり、3本の演目の筋書もプリントにしてミニ勉強会を開いたり、いろいろ下準備はして行きました。




今回とれたチケットは、16:30~20:30の夜の部。

尾上松緑「矢の根」

市川海老蔵・尾上菊五郎「極付番隨長兵衛」

尾上菊之助「春興鏡獅子」

の3本立て。

東銀座の駅3番出口から、歌舞伎座の地下に直結しています。16:00前には集合。

まずはイヤホンガイド1,700円(1,000円の保証金は後で返却されます)をレンタル。いたるところに売り子さんがいます。




「もなかアイス」310円、珈琲310円、筋書(今日の演目のあらすじと役者などが載っているパンフレット)1,300円を買って待ちました。

ちなみに20:30にはお土産屋さん(歌舞伎座1F入って右手にもあります)は終わってしまうようなので、お土産なんかは先に買っておくといいかも。




やっぱり、きちんと予習して筋書が頭に入っていると、セリフもかなり聞き取れるもんですね!

イヤホンガイドは、片耳にきっちり入れてしまうと、肝心の役者さんの声や音が聞き取りにくいので、耳たぶの上あたりにひっかけておくと、なかなかいい感じに観劇できました。

特に3本目の舞踏系は、踊りと歌詞の意味を逐一教えてくれるので、素人は必須です!

イヤホンガイドのほかに「字幕ガイド」なるものも1,000円でレンタルしているようなので、それでもいいかも。


次回は6月のコクーン歌舞伎「三人吉三」(中村勘九郎、中村七之助、尾上松也)です。


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