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↓『住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち』川口マーン惠美著、講談社、2013)より引用(03)


さて、日本人に比べるとゆったりと休暇を満喫しているように見えるドイツ人だが、一方で、燃え尽き症候群が社会問題になりつつある。
ストレスにやられる人間が増えているのは、日本だけではないのだ。


燃え尽き症候群とは、働いても働いても仕事が減らない状況が続くうちに、眠れず鬱になったり、ぱたりと何もできなくなること。


ドイツ人は常に物事を悲観的に考えるので、燃え尽き症候群に対しても報道はかなり大仰だ。
「これは新しい国民病であり、軽視してはいけない。兆候が出れば、すぐに医者にかかるべきだ」となる。


まさにそのせいで、最近は、精神科やカウンセラーの紹介状をもらっても、順番待ちで半年ぐらいはアポイントが取れない。
そうこうしているうちに、長期病欠者の急増で、雇用者と健康保険の負担も無視できない金額に膨れ上がってきた。


ドイツのメディアは、燃え尽き症候群の増加現象を、「休暇の最中でさえケータイやパソコンを持ち歩き、会社のためにスタンバイしなければならなくなったストレスのためだ」と分析しているが、私はそうは思わない。
人々がケータイやパソコンを携行しているのは、会社のためではなく、仲間のネットワークから離れないため、あるいは、休暇中の自分の写真を即時フェイスブックにアップするためだ。


↑(引用ここまで)
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電車の中で、レストランで、皆でこぞってスマートフォンをいじくり回しているさま。
…何なんでしょう、そこに私が感じる「違和感」は?
その光景に、ある種の「異常さ」、「恥知らず」感を見て取るのは、私の感覚のほうが異常なんでしょうか?


オナニーを覚えたサルのように、片手で操れるネットやゲームの端末を与えられた日本人は、一心不乱にそれを使って「暇つぶし」をする。公共の場でもお構いなしに、画面に見入る。バカ高い毎月の料金を払う。どんなに生活の苦しい人だって、生活保護を受けている人だって、スマートフォンの料金だけはなんとか工面する。


その姿は、どこか「モノを作る側の人間に操られている」ようにも(少なくとも私には)見えますし、「おまえら、そろいもそろって、他にやることないんかい!」「個性、個性と言うなら、そういうときの過ごし方こそ、”個性”を出すべきなんと違うか?」とツッコミを入れられても仕方のない状態のように思います。
そう、それは、ところかまわずニンテンドー3DSを開く子どもたちの姿に酷似しているのです。


少なくとも、私は人前でケータイをいじくる自分が「恥ずかしい」です。
急いでメールを返信するときや、電車の時間を調べたりするとき以外は、公共の場ではできるだけケータイを出さないようにしています。
それは何というか、自分の「見え」を意識するから。
ショッピングモールでニンテンドー3DSの画面を凝視しながら練り歩くガキんちょのようにはなりたくないから。


「見え」と「持て余した時間の使い方」と「プライド」。
「別に人それぞれでいいじゃん」と開き直られれば口をつぐむしかありませんが、こんなことを言う「頑固オヤジ」がもっといてもいいと思いませんか?


ペタしてね

S君とKちゃんが遊びに来てくれたので、日中はさんざんS君とドラクエ10を進めて、2歳児と0歳児を連れて、計6人で近所の「馬車道」へ。


さすがに休日の夕飯どきということもあって、そこそこ混んでいましたが、2歳児はピザも食べられるし、S君がちぎってくれたり、子どもたちの相手もたっぷりしてくれるので、本当に助かります。




サラダ+メイン料理一品+ピザ食べ放題+ドリンクバーで1,190円+税です。

S君と一緒に延々と食べ続けたので、今日は一日、ほぼ何も食べませんでした。。(笑)


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↓『現実はマイナーの中に』江川達也著、ウェイツ、2004)より引用(08)


「気持ちよくいたい」という気持ちに奉仕しすぎている。
教育というのは、世の中には悪人や弱者などいろいろな人がいるんだから、自分だけが気持ちよく幸せになることなどありえないし、そんなことがうまくいくわけはないと教えてやらなくちゃだめなんです。
でもそんなことを誰も教えない。宮崎アニメは、そういうことをまったく教えない。


でも私は昔からなぜか、敵で死んでいったやつに感情移入しちゃうわけです。
『マジンガーZ』の阿修羅男爵がすごくかわいそうで……(笑)。
彼は中間管理職で、いつも辛い思いをしているんです。
敵役がうまくいっているときよりも、敵役が哀れになったときに、「この人はどうしたらよかったんだろう」とつい考えてしまう。
作者の側にはそういう配慮は一切ないですね。
作者の冷淡さに、脇役がちょっとかわいそうになってきます。


子どもたちに、自分、他人、さまざまな人がいる中で、自分なんでもかんでも正しいなどということは、ありえないんだと教えなくてはいけない。
というより、「自分は間違っていることのほうが多い」「お前らは生まれながらにして間違っているんだ」と、ある程度教えないとだめです。
最初からすべてを正しくわかるわけがない。


でなければ教育というものは存在しない。
もともと人間がだめな生き物で、何もわかっていないから教育するわけです。
最初に教育という概念を考えた人は、何もかも正しく理解していて、立派ですばらしい人間を教育しようとは思わなかったでしょう。
人間は生まれながらの状態のままでは、バカで愚かなんだ、ということがわからなくてはいけない。
生きていく中で、学んでいくことによって人間はできていく。
いまの日本の作品は、あまりにも学びの心が足らなさすぎですね。


↑(引用ここまで)
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想像力の欠如。
大人も子どもも、「いっぺん自分のアタマで考えてみる、想像してみる」という作業をしなさすぎなんです。
というか、子どもを教育する立場の大人自身が、商売人から与えられたエンターテインメントを、与えられるままに何も考えず日々享受し続けているのですから、「世間が”これがいい、正しい”と言っていても、おまえは自分の頭で考えなさい」なんて子どもに教えられるはずがないですよね。


江川氏の言う阿修羅男爵の例のように、「あの脇役は普段、何を食ってどんな暮らしをしているんだろう」とか、「主人公にやっつけられている敵役が自分だったら、どう思うだろうか」とか、そういった作業はただの空想遊びのようにも思えるかもしれませんが、それは、隣人の生活ぶりや思考に思いを馳せる、つまり「他人の立場に立ってものを考えられる」能力にほかならないと思うのです。


電車やら飛行機やらで泣きわめく赤ちゃんに「うるさいなあ」と思いつつも、「でも、自分があの親の立場だったら大変だろうなあ」と思えるか、どうか。
車の運転をしていて、信号のない横断歩道で待っている人を見かけたら、「この車どおりじゃあ、なかなか渡れないんだろうなあ」と思って一時停止できるか、どうか(というか、歩行者のいる横断歩道の手前での一時不停止は違反です。ちゃんと一時停止している人、私以外に見たことないですけど…笑)。


「おまえだけが暮らしているんじゃないんだよ」「おまえが気持ちよく過ごせていても、そのせいで他人が気分悪く過ごしていることもあるんだよ」という、子どもや若者たちに「身の程をわからせる」関わり方ができ、また日ごろの姿勢でも示せる大人でありたいと、そう思ってやみません。


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佐藤整骨院帰りに「AfternoonTeaRoom」へ行ってきました。




定番の「マッシュルームサラダサンド」1,230円。




期間限定「エリンギとやわらかポークの黒ゴマパスタ」1,230円。

醤油味のしみ込んだエリンギと豚肉が秀逸です。ちょっとパスタのゴマ風味が強めです。




+290円でハーフサイズのスイーツもつけたり。


客単価は軽く1,500円超えしますが、焼肉や中華ほどでもない腹具合のときは、多用しちゃいます。


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↓『現実はマイナーの中に』江川達也著、ウェイツ、2004)より引用(07)


自分がなぜテーマ的なことを描かなければいけないかというと、本来、テーマを語らなければいけない教育界や言語界があまりにもだめだからです。
本当は作家として、もっと自由なものを好き勝手に描きたい。
でもしっかりするべき側がちゃんとしていないから、自分がそっち側の人として、正論やテーマを言わなきゃならなくなっている。


仮に参加者が大暴れする祭りを主催するとしたら、私は基本的に祭りを盛り上げる係なわけです。
でも最後に犯罪にならないように、ある程度のレベルまでコントロールする係も必要なわけです。
宮崎駿や私はマンガ家として自由に暴れたい。
でもマンガ家が自由に暴れられるためには、それをコントロールする社会の側がしっかりしていないと、こっちも安心して祭りを盛り上げられません。
コントロールするほうが頼りないから、盛り上げるほうが心配してしまって、逆に自分がコントロールする側のことを言っているわけです。
盛り上げるほうがあまりにも規模が大きくなって、コントロールする側の規模や能力が異様に低くなってしまった。


↑(引用ここまで)
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私がこれまで、「自動販売機を平気で使える神経はおかしい」とか、「子どもに安易に携帯電話やおもちゃを与えるな」とか、「渋滞や行列にすすんで並ぶのはオリジナリティを埋没させている。恥を知れ!」とか、この場でさんざん言ってきたことは、江川氏の言う『コントロールする側』の意見ばかりだったことに気付かされます。


なぜ、正論を嫌う私が、こんなにも『コントロールする側』の意見ばかり口にしなければならないのでしょうか?
それは、日本という国が日常的に『盛り上げるほう』「お祭り気分」に偏っている、多くの国民が「食」や「旅行」や「娯楽」のことばかり考え、どこか「うわついている」と肌で感じているからです。
…そんなことないですか?
みなさん、私が知らないだけで、独自の「役割意識」「美意識」をお持ちでなおかつ日々それを実践されており、子どもや若者たちへ啓蒙的に接し、政治や歴史に関する勉強や情報収集も欠かさず民「主」主義を体現されていて、またそれぞれに「恥」を知ってらっしゃるのでしょうか?
…甚だ疑問です。


まあ、私もこれだけ言うからには、「じゃあオマエはできてんのか?」に応えられるよう自分の背中を強く意識して暮らしているのですが、どうにも世の中の「不況、不況と言いつつも(では一体何が”好況”なのか? バブル経済の再来を望んでいるのか?)、世間の意識が”娯楽”に傾いている風潮」に違和感を禁じえず、バランスをとろうと、『コントロールする側』の意見を数多く口にせざるを得ないのです。
「娯楽産業」「エンターテインメント」の数に対して、「民衆を節度ある方向へコントロールしよう」とする人たちの数が、少なすぎると思うのです。バランスが悪すぎる。


もし「全国民はお国のために尽くすべき」「”清貧”こそ人間のあるべき姿」とか言いすぎる世の中なら、「自分のために生きたっていいはず」「”遊び心”をなくしちゃイカンでしょ」と多く発言して、バランスをとろうともするのでしょうが、いかんせんそれとは真逆の世情が長く続いているように思えてならないのです。


…一昨日の雪(2013年1月15日現在)で、1歳の子どもを背負いながら昨晩2時間、公共玄関やら駐車場やらの雪かきをしていた私たちの横を素通りできる住民たちの多さを思うと、私はまだまだ眉間にしわを寄せながら『コントロールする側』を演じ続けなければならないのかなあ、と苦笑いをするしかないのでした。。


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また職場の先輩に誘われ、先日18:30~22:00すぎまで中村勘九郎、中村七之助、尾上松也の「三人吉三」を観てきました。

渋谷はBunkamuraのシアターコクーンです。


先輩が筋書の冊子を作ってくれたりもして、事前に予習をしていったので、きっちり楽しめました。

ほぼ最前列の1階平場席で、水あり、吹雪ありの大エンターテインメントでした!


おかげで帰りは24:00近くでしたが、火の見櫓でお嬢吉三が太鼓を打ち鳴らすシーンの後で大量に舞ってきた紙吹雪が体中いたるところに張り付いた状態で帰ってきました。

串田和美氏が演出していて、歌舞伎は歌舞伎なのですが、まるで現代劇!


意外にも飲み食いしながら観劇OKで、おだんごやコーヒーをいただきながら、リラックスして観ることができました。


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↓『住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち』川口マーン惠美著、講談社、2013)より引用(02)


ある日、私が定期健診で病院に行ったら、医師が日本の福島第一原発事故のことをテーマに話しかけてきた。
私が、「現在、日本では原発がすべて止まっている。問題は電力供給だ。日本には石油もガスもない。すべて輸入に頼らなければいけないので、貿易収支がマイナスになっている。ドイツや日本のような産業国で、電気代が高騰すると致命傷だ。その点、ドイツは褐炭があるから、恵まれている」と言うと、医師は、「褐炭?」と意外な顔をしたのだ。
褐炭のことなど、考えてもみなかったという顔である。


そして、彼は次のように言った。
「日本は海に囲まれているのだから、オフショア風力発電をすれば良い」


私は、「日本の近海は北海やバルト海と違い、海底が急に深くなるところが多いので、やたらに風車を建てることはできない。
しかし、ドイツのオフショア発電だって簡単ではない。10年後に原発の分を再生可能エネルギーで代替するのは、おそらく無理だろう」と言うと、「いや、私は可能だと信じる」と、急に不機嫌になり話を打ち切られた。


しかし、この医師が特異な人というわけではない。
ドイツでは、脱原発決定から一年、脱原発の決定に大いなる誇りを持つあまり、良い面ばかりしか見なかったのである。


(中略)


これまでのように、常に全会一致のような状況は非現実的で、かえって不健康だった。
賛否両論があってこそ、地に足の着いた、良い妥協案が見つけられるに違いない。


↑(引用ここまで)
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TPPにせよ、集団的自衛権の問題にせよ、「全会一致」とはいかないまでも、「勢い」だけでダーッと一方に流れてしまう傾向は、いまだに日本に根強い気がします。
そしてそんな状況は、川口氏も指摘するように、『不健康』だとも思います。


「経済を活性化しないと、日本は危ないんじゃないのか?」と煽られれば、たいした考えもなしにTPPの流れに乗っかる。
「北朝鮮がミサイルで狙っているぞ!」と煽られれば、矢面に立つ自衛隊のことなど何ひとつ考えずに、集団的自衛権の行使容認に傾く。


…公明党やらが反対しているから、ちゃんと『賛否両論』あるじゃないか、って?
あんなもの、「慎重に議論が進められているように見せる」パフォーマンスに決まっているじゃないですか(笑)。
仮に、真面目に議論しようとしているなら、連立与党の公明党なんかではなくて、日本共産党や社民党あたりの言い分も、バンバン放送していいはずですよね。
安全な会議室から命令を出すだけのおっさんたちの話ばかりでなく、現場で命を張る自衛隊の人たちの意見も、バンバン取り入れてみていいはずですよね。
でもそれはあまり、というかほとんど出てこない。


「オレはそんな、日本の腐った”政治”や”経済”に興味なんてねぇし」みたいな若者だって、「今、これが流行っています」「行列のできる○○グルメ特集」みたいなメディアの煽りに、御多分にもれず洗脳されているのではないでしょうか。
メディアは「食」・「美味しいものを食べる」ことに当然誰もが興味があるのがデフォルトでしょ? 、と決めつけんばかりの様相ですが、そんなに「食」に興味がない人だって、もっといていいはずです。
「スマホの新機種」や「ケータイゲーム」に興味がない人だって、もっといていいはずです。
要するに、こういった日常的な私たちの興味でさえ、誰かの「意図」によって煽動されていて、考えなしの愚民どもはダーッとそちら側に流されてしまっている…そんなふうに思えてならないのです。
そしてそれは、気を付けて暮らしているつもりの私だって、きっと例外ではないはずです。…ちょっと油断すれば、すぐに「その他大勢」の仲間入りです。


いちいち疑問に思う、「面倒くさい」人。
「ケータイ」「ネット」「流行りもの」に背を向ける、いわゆる「頑固者」。
…もっといていいはずの、こんな人たちの少なさが、毎週毎週私にこんな文章を書かせている。そんな気がするのです。


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毎年恒例、連続宿泊の仕事が無事終わりました。…今年は大雨でなかなか気苦労が絶えませんでした(>_<)!


ようやくいただいた代休で、歪んだ身体を矯正してもらいに、「佐藤整骨院」へ。

…休みの日でも、結局6:30起きですけど(笑)。



出かけがてらにマクドのモーニングを。

「ビッグブレックファスト」なる新作を発見。持ち帰りも可というので、早速注文。




…マフィンが2個に、マクド版ソーセージに、スクランブルエッグ(塩・胡椒の小袋つき)。ハッシュドポテトは別についていました。

ドリンクMとセットで560円。


ハンバーガータイプをバラしただけと言ってしまえばそうなのですが、ナイフとフォークを使ってちょいちょい食べられるのは、そこそこ「ゆったり感」を演出してくれますね。

これにさらにホットケーキまでついた「ビッグブレックファストデラックス」まであるとか。


明日も代休(>_<)!

朝はゆっくり、職場の先輩に誘われ、夜から渋谷で「コクーン歌舞伎」の予定です。


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↓『住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち』川口マーン惠美著、講談社、2013)より引用(01)


(ドイツで)脱原発法案が可決された直後を改めて思い起こすと、あのときが幸せの絶頂だったといえるだろう。
EU内で孤立しつつも脱原発に向かって突き進む自分たちの姿に、国民はほとんど恍惚状態だった。
脱原発のためなら生活が少々不便になっても構わないと本気で思っていた。
「自分たちは、物質的豊かさよりも倫理を尊ぶ民である。たとえ電気代が高くなろうが、生活が不便になろうが、貧乏になろうが、世界中で自分たちだけが正しいことをしているのだ」と信じていた。


……しかし、実際にはそれは不可能だ。
ドイツ人にとっての脱原発は、停電の心配がなく、冬の夜中もベッドのなかで震えることなく、蛇口をひねればいつでも熱いお湯が出るのが前提だ。
その状態を手放すことなど、想像さえできない。


冬に布オムツを冷たい水で洗わなければいけないなら、私は三人も子供を産むことはなかっただろう。
しかし、電力不足で産業の稼働率が下がり、国が貧しくなったときに私たちが陥る生活の悲惨さは、冷たい水でオムツを洗うことなどとは比較にもならないほど凄まじいはずだ。


貧しい国の暮らしを、すでにドイツ人も日本人も知らない。


ドイツのエネルギー転換――これはいわば、GDPを下げずにエネルギー転換ができるかどうかという壮大な実験なのである。


↑(引用ここまで)
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私はどちらかというと、「脱原発」寄り、「不便を受け入れよう」という考え方の持ち主だと思います。


ただ、「脱原発」を謳う政党が、川口氏も言う『電力不足で産業の稼働率が下がり、国が貧しくなったときに私たちが陥る生活の悲惨さ』をどこまで理解しているのかが、疑問に思うことがあります。


そりゃあ、3.11であれだけの原発事故を起こしておいて、「”安全”なんかよりも、”産業”を重視すべきだ」と面と向かって言い切れる人は、あまりいないでしょう。
「原発はすべて廃止すべきだ」と、思っている国民の方が多いかもしれません。


でも、だからこそ言いたい。
「どのくらい不便になることを想定していますか?」「どのくらいの”不便”だったら受け入れられますか?」と。


「脱原発」をさも絶対的正義のように振りかざすのであれば、「計画停電やら電気代の高騰やらで産業はみるみる衰退するし、生活はかなり不便になりますよ」ときちんと言えよ、と。


暗くなったら電気を消して、寝る。
日中も、贅沢をせずに慎ましく暮らす。
計画停電中は、冷暖房はもちろん使えない。
…そんな高度成長以前のような暮らしを日本国民が受け入れられるか、どうか。


受け入れられないなら、「原発」に頼るしかない。
「原発もイヤだけど、不便もイヤ」なんてワガママを叶えてくれる、超ウルトラ級のエネルギーなんて、どうやら存在しないようですから(笑)。


結局は妥協点を探していくしかないのでしょうが、最近は特に「脱原発」を口にする人たちが、それに付随する「不便」について言いたがらない現状に一言物申したいと思い、こう書きました。


ペタしてね

休日終わりに、今更ごはんも作りたくないけど、そんなに満腹にもなりたくないなぁ…などと、ワガママを言って「ココイチ」のテイクアウトを、今回はライス少なめに。




期間限定「印度カレーライス・チキン」820円(-50円で770円)。

味はインド料理やさんで「バターチキンカレー」を食べるような仕上がり。…でも、あれ? ライスの量に合わせてなのか、ルーがだいぶ少なめ。。

まさか、減るのはライスの量だけではないと言うのか!?




地域限定「辛味噌豚かしらカレー」795円(-50円で745円)。

やはりこれも! …ライス100gぶん、ルーも減らされちゃうんですね。。

当初の目的どおり、満腹になりすぎることはありませんでしたが、なんだか「もったいない」感が。。(笑)


…量はともかく、豚のかしらが良い歯ごたえで、辛味噌やネギと合わさって、これだけで丼ものがいけそうです。




サラダなんかも注文してみたり。


…やはり幼少の頃に培った貧乏根性はなかなか払拭できないということでしょうか。。(笑)

次回は、いつものライスふつう(300g)で注文しちゃいそうです。


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