------------
↓『現実はマイナーの中に』江川達也著、ウェイツ、2004)より引用(11)


あとは公務員の世界とマンガ家の世界ではまったく違う。
マンガ界の中でも、手塚治虫の世界観と、ちばてつや、本宮ひろしラインと、いろいろあるわけです。
そういうものを理解していくと、だんだん世界が見えてくる。
安定な公務員と究極の不安定な世界、その両方を見ておかないといけない。
公務員をやっていて守られていると、見えてこないものがたくさんあるんです。


フリーランスで頑張らないと明日から給料はない、という世界で生きている人の世界観と、給料が毎月決まっている人の世界観では全然違う。
あの世界にいると社会がまったく見えないんです。どんなに見ようとしても見えない。
自分がフリーランスになったときに初めて見える。
フリーランスになって、しかもみんなから敬われずに、何でもない浮浪者に近いぐらい軽んじられたときに、初めて世の中が見えてくるときがある。
ちやほやされているうちは絶対に見えないものがあるんです。


ちやほやされていたら、あえてそいつらを全員切り捨てて、一人で地面に立ってみないとわからないものがある。
明治時代の人はバカにされることがあっても誰も守ってくれなかったけれど、しっかり地面に立っていたよ。


↑(引用ここまで)
------------


私もフリーランスで周囲からまったく敬われず仕事を続けた経験がないので、江川氏の言うように毎月給料をもらっている身では見えてこないものも、きっと多くあるのはないかと思います。


「そんな自分が偉そうなこと言えないよなあ」と思うだけに、人生わかったような顔をしてしゃべる職場のおっさんやおばはんの厚顔無恥ぶりがとっても気に障ります(笑)。
私が言うのもなんですが、「お前らごときが人生の何を知っているっちゅうねん」「自分の発言がサブいかサブくないかも判断できん奴が、何偉そうに語っとんねん」なんて、しょっちゅう思っています(口には出さないですけど)。


しかしおかげさまで、手前味噌ながら、日々の周囲への気配りやら、数か月先から逆算した仕事ぶりやら、面倒なことでも「私がやります!」というきっぷのよさやらを評価していただいてか、「みっちゃんなら、どの業界に行ってもやっていけそうだね」と言っていただけることも多いです。
また、私の(数少ない)友人たちも、世間では就職難などと言われていますが、その身ひとつで就職や転職をサクサク決めていきます。


今の自分に安穏としない、どの世界に入っても通用する自分であり続ける「向上心」と、「自分なんて毎月給料をもらってぬるま湯につかっている身分にすぎない」という「自戒」の念とをバランスよく持ち続けられる自分でありたいと、心から思うのです。


…このくらいの「向上心」と「自戒」のバランス感覚を微塵も持ち合わせていないおっさんやおばはんの自慢話に、今日も心の中でツッコミを入れる私なのでした(笑)。 …陰湿?


ペタしてね

二十歳以来、ずっと妹と私の髪を切ってくれている美容師さんのお店に毎月通っているので、2回に1回は妹を連れて行き、お昼ごはんを食べて帰ります。




困ったときの、「コメダ珈琲」。


「たっぷりたまごのピザトースト」620円なんかはもはや定番です。


…家でアイスコーヒーを飲むときにも、コメダの豆菓子が欲しすぎて、30袋も買って帰っちゃいました(^_^;)。


ペタしてね

------------
↓『現実はマイナーの中に』江川達也著、ウェイツ、2004)より引用(10)


科学も数学も物事を単純化しますが、単純化は形而上の話にすぎない。
ある条件においては真理だけど、ちょっと条件を外して違うところを見れば、所詮それもローカルな理論であって、真理ではなくなってしまう。
マトリックス(個人や国家の意図で作られた)世界の中で生きている人がそれをすべてだと思い始めて、それ以外の世界があることを忘れてしまうと、社会は壊れ、腐敗していくんだと思います。


そういう意味で、両輪というか、グラデーションなんですね。
何がどの場所にあるというような整理をするのがグローバルスタンダードですが、曖昧さ、カオスの世界も残しておこうという余裕が必要です。
理論の世界の人たちでも、本当にわかっている人はわかっているんです。
科学が本当にわかっている人は、科学というものはあくまで一部で、形而上の世界で、たまたまそこと合うところだけをやっているにすぎないと知っている。
でも、ほとんどの似非科学者はわかっていない。だからおかしくなってしまう。
両方わかっていないとだめですね。


↑(引用ここまで)
------------


私は学生時代、東京女子大学哲学科の森一郎先生に師事していたのですが、「じっくりものを考えること」「あくせく働いて”メシの種”を得る”生活の必然”とは一線を画した”哲学”」をこよなく愛する人でした。
私の中ではまさに「哲学者」そのものです。


しかし近年、大学も「世の中の役に立つ」「意味のある」「経済界からニーズのある」研究ばかりが求められ、「世の中の役に立つ”哲学”を」などという矛盾極まりない要求をされたり、ややもすると「哲学科など不要」とまで言われる様相を呈していると聞きます。
江川氏の文章を読んで、まず想起させられたのがこの「大学再編」「経済偏重」「みんながそれを疑わない」という問題です。
いまや学生も教員も日々レポートや報告書に追われ、本来「メシの種」や「経済」とは全く別のところで「暇(スコレー)」を文化的・教養的に扱い、また愛する空間が「学校(スクール)」であったはずなのに、みんな忙しく、「(経済的に)無意味なことでもじっくり考える」余裕などまるでありません。
まるで「経済的に豊かになる」という20世紀的なお題目に、いまだにみんなこぞって毎日追いかけられているように見えてしまいます。


また、この「経済最優先」の波は、なにも学校に限ったことではなく、私たちの暮らしの至ることろに入り込んできているようにも思います。
子どもが「○○なんて勉強したって将来”役に立つ”の?」とうそぶくのも、大人でも「そんなことをいくら思い悩んでも”意味ない”よ」と思考停止を恥としない風潮も、その波のひとつです。
「自分はそんなことはない。ちゃんと考えている」と思っているそこのあなたも、「役に立つ」という言葉を、「メシの種になる」「生活が楽になる」と同義に使っていることがあるのではないでしょうか?


江川氏の言うところの『曖昧さ、カオスの世界も残しておこうという余裕』が持てない世の中では、文化的な、生活に直結しない「教養」「学問」「ユーモア」が消えていってしまうように思えてならないのです。


ペタしてね

先日、S君とT君が来て、いわゆる「さんまー」をやろう、というので、久しぶりに乗っかりました。




夕方からずっと、ご飯も食べずやっていたので、22:30ちょっと前に「くら寿司」にテイクアウトの電話を。

閉店ギリギリでも、こころよく(たぶん)引き受けてくれました。

22:20頃電話で、22:50受け取り。


私にとっても久しぶりの「さんまー」で、思い出してやったルールはだいたい以下の通り。


1.「二萬~八萬」は抜いて、108枚で行う。

2.「北」は抜きドラで、引いてきたら自手の右にさらす。さらしたら、枚数ぶん嶺上牌から持ってくる。

3.「北」は役満以外のときは手役に使えない。河にも出せない。

4.嶺上牌は4列(8枚)、通常ドラ1列、王牌4列。

5.チーなし。

6.サイコロは1個のみ使用。

7.30,000点もちの35,000点返し。

8.ツモあがりは、残りふたりから折半。たとえば満貫なら4,000オール。つまり親かぶりがない。


…筒子と索子しかないだけに、4人麻雀よりだいぶスピーディーで、久しぶりだったからか、4人打ちより面白いかも。だいぶ神経削りましたが。

結局午前4時すぎまでやってました(ToT)。


その途中で、仕事が繁忙期のT君からも電話が。

本当に忙しそうで、夜中のワールドカップ見てる場合ちゃうやろ、って(笑)。

一緒にカレーでも作りたいものです。


ペタしてね

------------
↓『住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち』川口マーン惠美著、講談社、2013)より引用(04)


また、アンケートによると、ドイツで働いている人の三分の一が、同じ時間内にこなさなければいけない仕事がどんどん増えていると感じている。


確かに、それはあるだろう。ドイツ人の労働時間は短く、しかも賃金は高い。おまけに、社会保障費も高い。
社会保障費の半分は雇用者が負担しなければいけないし、労災保険は全額負担しなければならないから、雇用者側は、当然、できるだけ従業員を増やさずに、労働効率を上げようとする。


つまり、同じ時間内にこなさなければならない仕事がだんだん増えていっても不思議ではないのだ。


(中略)


日本に帰ると、元気そうなお年寄りが、スーパーの駐車場の前で車の誘導をしている姿をよく見る。
リタイア後のアルバイトだろうが、ドイツなら絶対にドイツ人のしない仕事だ。


こういった仕事を日本人がしているという事実が、どんなに素晴らしいことかを、日本人はもっと自覚すべきだ。


そのうえ日本の労働現場は、幸いなことに、合理化だけに縛られていない。
ホームに立って乗客の安全を確認する駅員とか、駐車場へ出入りする車の交通整理をする係員とか、工事現場の横で歩行者が安全に通れるよう誘導する人など、ドイツ人が聞いたらびっくりするような仕事も多い。
ドイツなら、こういう職は経費のせいで絶対に消えているはずだ。


↑(引用ここまで)
------------


おそらくドイツだけでなく、日本でもご多分にもれず、「合理化の波」

は押し寄せてきているように感じます。


私の職場でも、事務員の数が年々ひとり、ふたりと減ってゆき、ついには近年、我々従業員全員が、今まで事務員の方が取り次いでくれていた福利厚生や諸手当の手続きを、仕事の合間を縫って自分自身の責任でやるようお達しが出ました。
これでますます、従業員が本来の業務以外でパソコンの画面に向かっている時間が増え、コミュニケーションがとりづらい職場になっていくことでしょう。
…こんなことは、どこの会社でも自分でやってるよ、当たりまえだ、なあ~んて怒られちゃうかもしれませんけど(笑)。


さらに、私の職場では、従業員の数自体も年々減らされ続けているうえに、新たに、年度初めの計画書を出せだの、報告書を出せだのと、従業員ひとりあたりにのしかかる雑務が、じりじりと増えていっているのも実感しています。


川口氏は、日本の良い面ばかり持ち上げてくれているようですが、そんな日本の「サービス」に特化した仕事も、「合理化の波」にさらわれ、徐々に無くなっていってしまうのではないでしょうか。


私個人としては、時間的・精神的「ゆとり」が、後々仕事が通りやすくなるような何気ない会話を生んだり、誰かの悩みに気づいてあげられたり、仕事上の問題点に気づけたりするようにしてくれていると思うのです。


お客さんや取引先とのちょっとの無駄話すらままならないような「ゆとり」のなさというのも、なんだか殺伐とした雰囲気でやりづらいですし、そんな状況では新しいサービスや企画を考えるのも面倒くさくなってしまうよなあ、と危機感ばかりが募ります。


ペタしてね

S君が私の仕事中に、2歳児と0歳児のプールに付き合ってくれたので、マクドナルドをテイクアウトしてみんなで食べました。




今、売り出し中の「ジャパンバーガー」や「フランスバーガー」を。大量に(笑)。




メンチカツやチーズも美味しかったです。

2匹を昼寝させた後は、ドラクエ10三昧です。。


ペタしてね

------------
↓『江川達也のニッポンを鍛えろ!』(江川達也著、ぶんか社、2004)より引用(09-2)


育児評論家や人権派の人たちに言わせれば、体罰はいけないということになっている。
しかし、言葉で言い聞かせても通じない人間には、抑止力として体罰を行使する可能性を残す必要がある。
「これをすれば殴られるから、やめておこう」という、そういう抑止方法が効果的な人間は存在する。
教育の現場から体罰を一切排除してしまうのは、刑罰を一切なくし、本人の良心に任せて犯罪をなくそうとするようなもので、不可能なのである。


体罰が問題となっているのは、言葉で諭せばわかる子どもにまで、簡単だからと言葉より前に体罰を与えてしまうからである。
体罰を全て一括りに取り上げて、全面的に排除するという画一的なやり方はリアリティが欠如しているのである。


以前、戸塚ヨットスクールが、スパルタ式教育で死者を出すに至り、あそこでの教育法は誤りだったとされているが、オレはそうは思わない。
あのやり方が一番しっくり来た子どもだっていたはずだ。
問題だったのは、その教育方法が合わない子どもにも、そのやり方を適用したことにある。相手に応じた対処の仕方こそ重要なのである。


では、体罰を科すべきか、話してわからせるべきかの線引きはどうやって行うのか、誰がそれを判断するのかと、人権派はオレに反論するかもしれない。
しかし、その人たちは個性を無視した、画一化された教育こそが問題であると、さんざん声高に叫んできたのではないか。
一人一人の子どもに合わせた教育のしかたを教育現場が真剣に考えるのは、当たり前のことだろう。


↑(引用ここまで)
------------


このところ(2013年2月現在)、教師の「体罰」がことさら話題に上がっているようですが、私が「体罰」と聞いてまず想起したのが、江川達也氏のこの文章です。


この文章は、以前に”【哲学】197:「抑止力」と「赦(ゆる)し」のバランス”で私自身が一度引用させていただいたもので、そこで私は「”教育的立場”という側面を持つ我々”大人”は、”厳しい物言い”や”暴力”のような”抑止力”と、静観したりフォローしてやったりする”赦し”という、その両方のカードを持っていなくてはダメだ」と言いました。


はっきり言います。
「体罰」もとい、「暴力」は、間違いなく必要です。


学校教育だろうが、家庭教育だろうが、いくら諭してもわからないガキは、必ず一定数、います。
もしくは、いつもは話せばわかる子どもでも、気分によってはダダをこねたりすることも当然あり、そんなときこんこんと諭すよりも、一発殴ってやったほうが教育的効果が高いときも、ごまんとあります。
クラスメイトや他の家族など、周囲の目がある中では、もちろん子どもにもプライドがありますから、ダラダラお説教するより、むしろ一発殴ってやったほうが、「くそーやられた! でも、自分が悪いんだからしょうがないよなぁ」と後腐れなく、子どものほうも気持ちを切り替えやすい。
また、「体罰」「暴力」の可能性は、「悪いことをしたら殴られるぞ」という子どもにとっての「抑止力」にもなり、逆に今の「体罰」報道が垂れ流されることで、「体罰はいけないことだ」「どうせ殴られやしない」などという共通認識をガキどもに持たせることにもなり、ガキのワガママを増長させるだけでマイナス要素が大きいと思うのです。


昨今の「過剰」報道でもわかるように、今の日本では、「体罰はいけないこと」が「正解」とされています。
問題なのは「体罰」ではなく、適切に、計算して「暴力」を行使できない教師の「能力」、ひいては教師の「採用基準」であるはずです。
それを整理して考えずに、「体罰」自体が悪いかのように誘導する報道、その報道を鵜呑みにする群衆にこそ問題があると思うのです。


「体罰」「暴力」は、学校教育でも、家庭教育でも必要です。
「静観」「赦し」も、もちろん必要です。
その両方を認めたうえで、「教育」「育児」という混沌とした現場の中で、大人たちが試行錯誤しながら、子どもの成長を計算に入れて、「こいつをこう成長させてやろう」という「ねらい」をもって、あくまで冷静に、適切に行使する。
特に「学校教育」は「免許」を持った「プロ」の教師を雇って行われているのですから、こういう「短期的・長期的計算」が得意な者だけを採用すればいいと思うのです。
こういう「計算」が苦手な、「教育活動」に向いていない教師が大勢紛れ込んでいるから、問題が起きるのです。


…死者を出してからあまりクローズアップされませんが、江川氏も言う「戸塚ヨットスクール」のような「言って聞かせる」に偏らない「鉄拳制裁」の可能性を残した「学び舎」に学ぶところは非常に多いと思うのですが、どうでしょうか?


ペタしてね

最近は、私が仕事中でも、S君が子どもの面倒を見てくれたりしているので、夕方に何かをテイクアウトしたりして、夕飯をこしらえてあげたりします。


なんだかココイチが混んでいたので…




「ほっともっと」の「サムギョプサル弁当」590円。731kcalです。




「焼肉ビビンバ」550円。これも731kcalです。添付のコチュジャンが辛い!


明日も、私が仕事中、Sさんと一緒に2歳児と0歳児をプールに連れて行ってもらいます。…もはや、彼が父親と思われているでしょうね(笑)。


ペタしてね

------------
↓『現実はマイナーの中に』江川達也著、ウェイツ、2004)より引用(09)


それでも、(ものの見方が)比較的自由にはなってきました。
でも一つ何かが出ると、みんなパーッとそっちに寄ってしまう感じは相変わらずあります。
人間には、「私は人とは違うんだ」というほかとの差別に快感を感じる欲求と、「ほかと違っていると心配」「みんなと一緒であることがうれしい」という欲求がある。
日本は後者に重きを置きがちですね。


↑(引用ここまで)
------------


私はどちらかというと、『私は人とは違うんだ』という差別欲求のほうが大きいタイプだと思うのですが、「人と違う」「個性的」などと評されることをあからさまに喜ぶ「自慢話系」のおっさんやおばはんを見かけると、なんだかやるせない気持ちにさせられます。
…それはきっと、「自分がいつも話題の中心でいたい」「目立ちたい」という精神性自体が、ちっとも「個性的」ではないからでしょう。
さまぁ~ずのおふたりなんかがよく言う「グイ」(相手のことを考えず「自分が、自分が」とグイグイ来る人)ってやつですね。


まあ、そんな「グイ」な人は放っておいて(笑)、問題なのは、日本人の『でも一つ何かが出ると、みんなパーッとそっちに寄ってしまう感じ』のほうです。


「自民党じゃダメだ」とこぞって民主党に投票したかと思えば、その3年後には「民主党は口ばっかりだ」と自民党に投票する節操のなさ。


携帯電話なんて、電話ができて多少メールでも打てれば十分なはずなのに、子ども向けのおもちゃみたいな「スマートフォン」に、みんなこぞって数万円のお金+基本料金を払う。


「食」は確かに大きな「快楽」には違いありませんが、テレビやインターネットでは「グルメ」番組がこれでもかと日々垂れ流され、「美味しいものが食べたい」ということが、あたかも国民共通の関心事であると言わんばかりの世情に、異を唱えることもなく流される人数多。。


…そりゃあ、民主党の事実上の公約破棄やその厚顔無恥ぶりは目に余るものがありますし、「スマホ」の大画面やアプリは魅力的に見えますし、美味しいものに興味がないと言えば嘘になります。
でも、安易なものに私たちを引っ張ろうとする「政治家」や「企業戦略」に易々と乗っからず、我が道を行く人がもっといてもいいんじゃないかな、と思いませんか?
「流行に流されて何が悪いの?」と、「安易なもの」に無配慮に飛びつく人の多さが異常だとは思いませんか?


オイルショックの当時にトイレットペーパーをみんなこぞって買い溜めしたあの頃の国民性と何ら変わっていない『でも一つ何かが出ると、みんなパーッとそっちに寄ってしまう感じ』には、危機感を禁じえません。


ペタしてね

最近は休日ひとりで子どもふたりの相手をしているとふさぎ込んでしまいそうになるので(笑)、モーニング終了の10:30前を狙って、「朝モス」限定のホットサンドや「モーニング野菜チーズバーガー」をテイクアウトして、2歳児と一緒に食べて、12:00前にはお昼寝タイムに…というのが定番になってきました。




先日そのついでに、モスとミスドのコラボ商品を買ってみました。




「モスのフレンチクルーラー ベリーショコラ」290円。407kcalです。

酸味のあるベリーソースやホイップクリームにパリパリ食感のチョコレートがなかなか合います。


ペタしてね