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↓『現実はマイナーの中に』江川達也著、ウェイツ、2004)より引用(10)
科学も数学も物事を単純化しますが、単純化は形而上の話にすぎない。
ある条件においては真理だけど、ちょっと条件を外して違うところを見れば、所詮それもローカルな理論であって、真理ではなくなってしまう。
マトリックス(個人や国家の意図で作られた)世界の中で生きている人がそれをすべてだと思い始めて、それ以外の世界があることを忘れてしまうと、社会は壊れ、腐敗していくんだと思います。
そういう意味で、両輪というか、グラデーションなんですね。
何がどの場所にあるというような整理をするのがグローバルスタンダードですが、曖昧さ、カオスの世界も残しておこうという余裕が必要です。
理論の世界の人たちでも、本当にわかっている人はわかっているんです。
科学が本当にわかっている人は、科学というものはあくまで一部で、形而上の世界で、たまたまそこと合うところだけをやっているにすぎないと知っている。
でも、ほとんどの似非科学者はわかっていない。だからおかしくなってしまう。
両方わかっていないとだめですね。
↑(引用ここまで)
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私は学生時代、東京女子大学哲学科の森一郎先生に師事していたのですが、「じっくりものを考えること」「あくせく働いて”メシの種”を得る”生活の必然”とは一線を画した”哲学”」をこよなく愛する人でした。
私の中ではまさに「哲学者」そのものです。
しかし近年、大学も「世の中の役に立つ」「意味のある」「経済界からニーズのある」研究ばかりが求められ、「世の中の役に立つ”哲学”を」などという矛盾極まりない要求をされたり、ややもすると「哲学科など不要」とまで言われる様相を呈していると聞きます。
江川氏の文章を読んで、まず想起させられたのがこの「大学再編」「経済偏重」「みんながそれを疑わない」という問題です。
いまや学生も教員も日々レポートや報告書に追われ、本来「メシの種」や「経済」とは全く別のところで「暇(スコレー)」を文化的・教養的に扱い、また愛する空間が「学校(スクール)」であったはずなのに、みんな忙しく、「(経済的に)無意味なことでもじっくり考える」余裕などまるでありません。
まるで「経済的に豊かになる」という20世紀的なお題目に、いまだにみんなこぞって毎日追いかけられているように見えてしまいます。
また、この「経済最優先」の波は、なにも学校に限ったことではなく、私たちの暮らしの至ることろに入り込んできているようにも思います。
子どもが「○○なんて勉強したって将来”役に立つ”の?」とうそぶくのも、大人でも「そんなことをいくら思い悩んでも”意味ない”よ」と思考停止を恥としない風潮も、その波のひとつです。
「自分はそんなことはない。ちゃんと考えている」と思っているそこのあなたも、「役に立つ」という言葉を、「メシの種になる」「生活が楽になる」と同義に使っていることがあるのではないでしょうか?
江川氏の言うところの『曖昧さ、カオスの世界も残しておこうという余裕』が持てない世の中では、文化的な、生活に直結しない「教養」「学問」「ユーモア」が消えていってしまうように思えてならないのです。
