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↓『本能の力』戸塚宏著、新潮新書、2007)より引用(03)


中には海に放り込まれてもボードを操ろうとしない生徒もいます。入学したてで「私の尊厳は……」と理屈を並べるような生徒です。
こういう生徒は、無理やり海に出されたものの、訓練なんぞやるつもりはなく、そんなものに付き合ってたまるか、と思っています。
その反抗的な姿勢を「何もしない」ということでアピールしているわけです。


こういう生徒とは根競べです。
ライフジャケットをつけていますから、放り込まれたまま何もしなければ流されて行きます。
我々は、どんどん流されて行っても知らん顔をする。ある程度離れたら、望遠鏡で様子を見る。


すると向こうは「どうして助けに来ないんだ、そんなはずはない……」という顔をします。
彼らはそれまでの人生で、自分は何もしなくてもだれかが何とかしてくれると思いこんでいる。
最終的に誰かが面倒をみてくれる、というのは、彼らにとっての「既得権」なのです。
駄々をこねていればそのうち何とかなる、という子供と同じです。


こういう傾向は特に甘い家庭の子供に多く見られます。
彼らを簡単に助けてしまうと、生徒が主人で我々が召使いという関係になってしまいます。
彼らは「やっぱり最後は誰かが何とかしてくれるものなんだ」と、既得権を確認します。


↑(引用ここまで)
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…『生徒が主人で我々が召使いという関係』。
そんな逆転現象を、巷でよく目にします。


たったひとりの子どもの機嫌に振り回される親や祖父母。


「頼むから学校に来てくれよ」とサボる生徒にお伺いを立てる教師。


「どうしたの? オレ何かした?」と、気分屋の彼女に振り回される男。…これはまあいいか(笑)。


いずれにせよ、こんな傍若無人ぶりの根底には必ず、ワガママを押し通したり、泣き叫んだりすれば、高確率で周囲の大人たちが自分の言うことを聞いてくれた、ということの「学習」があります。
『彼らはそれまでの人生で、自分は何もしなくてもだれかが何とかしてくれると思いこんでいる』のです。


そして、彼らの態度は見ていて腹立たしいだけでなく、ゆくゆくは、自分の思い通りに物事が運ばないストレスに耐え切れず(普通、自分の思い通りになんか運ばないことが当たり前なのですが)、引き籠ったり、周りに当たり散らしたりする危険性を孕んでいるのです。
親や祖父母がいつまでも生きているわけではないですし、別に王様でも女王様でもない彼らが、死ぬまで周囲が召使いのようにお伺いを立ててくれるはずがありません。
「幸せ」だと感じられるハードルが異常に高く、ちょっと思い通りにいかないとすぐに他人のせいにするその感覚は、とても「幸せな人生」と言うことはできないでしょう。…そう思うのは私だけでしょうか?


だから、子どもが泣きわめいたら、泣かしておきましょうよ。実は監視しつつ、意識的に放置してやりましょうよ。


生徒が学校をサボったり遅刻したりするなら、「おまえの”教えを請うこと”に対する姿勢はその程度か」と、追いつめましょうよ。そいつに教わる気がないのなら、進路変更を勧めましょうよ。「教わる気がないのならひとりで生きていけ」と。


彼女が急に不機嫌になったら、放っておきましょうよ。あなたにその理由をうまく伝えようともせず別れ話になるのなら、「どこへでも行け」と言い放ちましょうよ。「不機嫌になっただけで理解しろ」なんてガキみたいな表現方法しか持っていない「コドモ」とはさっさと別れましょうよ。…これは余計なお世話ですかね(笑)。


実年齢や精神年齢が「ガキ」の者に「主人的」な立場を与えるのはとても不幸なことだと、心からそう思うのです。


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休日の「いいかげん飯」は、「かつや」のテイクアウトを久しぶりに。




「かつカレー」637円。




期間限定のかつ丼なんかも。


…さて、子どもらをゆっくり昼寝させた今日の「いいかげん飯」は、どうしましょう?(笑)


ペタしてね

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↓『本能の力』戸塚宏著、新潮新書、2007)より引用(02)


体罰は「相手の進歩を目的とした有形力の行使」と定義しました。人間が進歩するためになぜ有形力の行使が必要なのか、ここで説明しておきましょう。


それを理解するには、まず人間の行動原理を知る必要があります。
人間の行動原理は突き詰めて言えば「快を求め、不快を避ける」ということになります。これは皆さんも納得されることでしょう。


快は心地よいので人間はその状態を目指し、到達すればそこに留まろうとします。
逆に不快は嫌だからそれを取り去ろうとします。ということはこうも言えます。
人間は快の状態では動かないが、不快の状態では動かざるをえない、と。


人間の進歩は、不快を取り去ろうと行動を起こすことによってはじめてもたらされるのです。
つまり、人間が進歩するためには「不快」が必要不可欠なのです。本能に基づいている限り、不快感は「悪」ではなく「善」なのです。


ところが、日本の戦後教育は、子供に「不快」を与えるべきではないという考えが主流になってしまいました。
たとえば、木登りや橋から川に飛び込むといった遊びを禁止しました。
一歩間違えれば生命の危険が伴う、という理由です。
しかし、この「一歩間違えれば…」というのが実は「不快」の状態でした。


↑(引用ここまで)
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戸塚氏の言うように、『人間は快の状態では動かないが、不快の状態では動かざるをえない』ことは、たとえばテレビゲームに興じる子どもたちを(無論、大人たちも)見れば一目瞭然です。


謎解きの「謎」や、困難なステージ、低いレベルなど、様々な種類の「不快」を用意して、それを「快」の状態に持っていこうとする過程がだんだん楽しくなるように作りこまれたものが「テレビゲーム」ですから、人間が『動かざるをえない』行動原理をうまく利用した商売とも言えるでしょう。
ドラクエのレベル上げも、やってみれば楽しいですからね(笑)。


そして、子どもの危なっかしい遊びを「危ないからやめなさい」と親が過保護に禁止してきたことで、『一歩間違えれば生命の危険が伴う』遊び、戸塚氏の言うところの「質の高い”不快”」が子どもたちから奪われてしまったため、子どもたちは手近な「不快」→「快」のプロセスが味わえる「テレビゲーム」に興じている、というのが私の考えです。


私は、外出時も食事時も携帯ゲーム機を片時も離さない子どもたちを見ては「なんで親はそれを許すんだろう?」「なぜ親は安易にゲーム機を買い与えるんだろう?」といつも疑問に思うのですが、それほどまでに「質の高い”不快”」が子どもたちから奪われている、ということなのでしょうか。


こんなこと言うと怒られるかもしれませんが、子どもって、多少高いところから落ちても、大丈夫ですよ(笑)。


やや離れたところから親が監視しつつ、内心ヒヤヒヤしながらも、ある程度子どもに自由にやらせて、失敗させる。すっ転んでも、じっと堪えて待つ。
こうした「質の高い”不快”」の与え方は、確かに面倒だし、「それは危ないからやめろ」と禁止してしまう方が親としてラクチンです。
でも、こうしてヒヤヒヤしながら「不快」→「快」へのプロセスを味あわせるよう仕向けていけば、周囲とのコミュニケーションを絶ってまでテレビゲームをする子どもになんて育たないと思うんです。


テレビゲームなど、他人によって作られた「不快」を一生懸命取り除くより、木の上から飛び降りても、なんとか怪我しないように工夫することの方が、よっぽど愛される「社会人」に育つと思うのは、私だけでしょうか?


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子どもらには、いつものメニュー「ごはん、味噌汁、豆腐、納豆、ゆで卵」を与えておいて、お茶もかねて夜20:00すぎに「珈琲館」へ。




「グラタンパン」600円。596kcal。サラダつき。




「昔なつかしナポリタン」670円。666kcal。これもサラダつき。




「珈琲館ハウスサンド」520円。682kcal。こいつもサラダつき。


子どもらを満腹にしておけば、比較的のんびり食事を楽しめます(笑)。


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↓『本能の力』戸塚宏著、新潮新書、2007)より引用(01)


前述したように、われわれのスクールが日本中のマスコミから攻撃された理由は、戦後ずっと信じ込まれてきた「体罰は悪」という風潮の中で我々が体罰を行ったからです。
それも、こっそりではなく堂々と。マスコミからすれば、「確信犯だ」という言い方になるのでしょう。


しかし、本当に「体罰は悪」なのでしょうか。
そうだと言う方には、まず体罰の定義を明確に示していただきたいのです。
それができないなら、体罰反対は実はあなたの考えではなく、他人の考えをそのまま言っているに過ぎないことになります。


↑(引用ここまで)
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この文章は、「戸塚ヨットスクール」の校長である戸塚宏氏によるものです。


私も、「体罰」については、一部の教師や親が適切に行使できていないから問題になっているだけで、子どもたちに「スジの通っていないことをしたら、大人に殴られるぞ」という意識を持たせることは、教育上必要なことだと思っています。
「どうせ殴られやしない」とタカをくくっている、やりたい放題のガキどもには、実際には使わないにしても、「暴力」の可能性を残しておく必要があると思うからです。
そして、そんな「暴力」の可能性が抑止力として必要な、「言って聞かせる」ことなど到底できないタイプの、増長した子どもたちは、いつの時代も一定数います。
「どんな子どもも、話せばわかる」なんていう甘っちょろい幻想を口にする大人など、「なんやコラ、殺すぞ」と顔を近づけ凄んでくるチンピラのような子どもを目の前にしたら、なにもできず立ちすくんでしまうことでしょう。


だから、教師の体罰かなんかで記者会見をしているどこぞの校長が、失礼神妙な顔で「体罰などあってはならないことで、大変申し訳なく…」なんて言っている姿を見ると、思わず笑ってしまうのです。
おまえは教育者として、それを本気で言っているのか、と。
「すべての子どもは、話せばわかる。進歩させられる」と本気で思っているのか、と。


また、体罰の是非以上に、戸塚氏も言う『体罰反対は実はあなたの考えではなく、他人の考えをそのまま言っているに過ぎない』、といった類の「思考停止した大人」の多さにも警鐘を鳴らしたい。


「体罰は悪」「戦争は悪」「命は何よりも大事」「エコを推進しよう」「原発はなくすべき」…等々、そんなどこかで聞いた風な耳触りのいい提言は、私に言わせれば、どこかの誰かが勝手に言っている『他人の考え』の受け売りでしかなく、一度でも自分のアタマで反芻して導き出した「自分の考え」ならば、その人独自の、オリジナリティ溢れた言い回しになるはずだと思うのです。


自分が発言するとき、他人の受け売り・「それっぽい発言」になっていやしないか気をつけるのはもちろん、他人が発する言葉ひとつひとつがそいつ独自のものであるのかどうか、見極められる自分でありたいものです。


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夏休みももう終わり。

朝から懇意にしてくれている自動車のディーラーに点検に。



子どもの相手をしながらゆっくりコーヒーなんかをいただいて、午後は近所の「はいから亭」へ。




もう夏休みも終わりです。。行ききれなかったプールは9月に再チャレンジするとして、とりあえず仕事をがんばりましょう!


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最近、松本人志氏出演のテレビ番組『ワイドナショー』をよく観るのですが、先日「晩婚化」について討論する場面がありました。
元サッカー選手の前園氏が「僕はあまり結婚の必要性を感じないというか…炊事も洗濯も別にイヤじゃないですし」と発言したところ、ある女性アナウンサーが間髪入れず、「別に家事をやってもらうために結婚するんじゃないでしょ!?」と喰ってかかったのです。…私はその女性アナウンサーの発言にどこかひっかかりを感じました。


私の率直な疑問は「だったらオマエ(失礼)は何のために”結婚”するんだ?」です。


その女性アナウンサーの言わんとするところはわかります。「女は”家政婦”じゃないのよ」でしょう?
であるならば、「オマエ一個人が”セックス付き家政婦”以上のどんな魅力を持っているというのか?」と是非聞いてみたいのです。
世の男性が、オマエに「何」を求めて「求婚」すると考えているのか。思い上がるな、と。


別に、「女は”セックス付き家政婦”であるべきだ」なんて言いたいんじゃありません。個人的にはむしろ真逆です。
「セックス付き家政婦」を否定するなら、それに取って代わる「結婚」のスタイルを提示してみせろや、と言いたいのです。
そんなオリジナリティ・独自の考えも持ち合わせていないくせに、プライドだけで『別に家事をやってもらうために結婚するんじゃないでしょ』とかぬかしてんじゃねーよ、と言いたいのです。…言葉が汚くてすみません。


前園氏の発言どおり、世の男性の多くは、まだまだ「結婚」に「料理や掃除など、身の回りの世話をしてくれる女性と一緒になる」という期待を持っていると思います。むしろそれを「あたりまえ」に思っている男性も少なくないかもしれません。
もっと言えば、女性ですら、「結婚」に「料理や掃除など、好きな男の身の回りの世話がしたい」なんてイメージを持っている人が大多数なのではないでしょうか。


「結婚したら、夫と妻で、家事を分担する」。それもいいでしょう。
「出産したら、夫にも育児に参加してもらう」。それも最近よく聞きますね。
ただ、「そこに”結婚”に対するオマエらの独自性、独自の解釈はあるのかい?」と問いたいのです。


私は、これまでこの場でもお話しさせていただいているように、「結婚」は「してもしなくてもいい人生の負荷」「精神的にも経済的にも自立した男女が”苦労”を味わい、楽しむ場」と解釈しています。
それは、自分のない頭をしぼって編み出した「私独自の考え」です。


皆が皆私と同じ解釈である必要はもちろんありませんが、せめてこのくらいのことは考えてから、「女は家政婦じゃない」『別に家事をやってもらうために結婚するんじゃないでしょ』と口にしろや、と心底思ったのです。


というかむしろ、そういう思考の欠落こそが、「精神的に自立していない」ことの表れなのかもしれません。
世の「結婚」「家庭」に対するホンワカしたイメージ、それも前時代的な「男が嫁をもらう」「女が男の家に入る」名残りを多く引きずったままの「結婚」イメージを、そのまま鵜呑みにして大人になった「精神的ガキ」が「結婚」とかぬかしてんじゃねーよ、と。


はっきり言います。
「結婚」は「過去の遺物」です。役所が戸籍や税金を管理するための、しょうもない、古めかしい制度です。
私は、妻の父親の顔を立てるために、またそれを申し訳なく思う私の父のために、「結婚したい」と思う妻のために、「結婚」しました。
もし妻の父親が「結婚」に対して、「前時代の名残りだ」という独自の解釈を持っていてくれたなら、私は「結婚」なんていう制度を利用しなかったでしょう。できれば、そこでも「オリジナリティ」を出して、若者たちに「そんな生き方もある」と背中を見せて死んでいきたかったのですが。。(笑)
…「毎週ブログで偉そうなことを言っておきながら、結局あいつも時代には逆らえなかった」と評されても、文句は言えません。


また、ついでに言うと、「結婚」していることで、「収入は妻との合算」と見なされ、夫婦で完全に独立した収支でやりくりしていたとしても、役所に納めている子どもの保育料も、ひとりめ毎月5万円、ふたりめ以降毎月2万5千円と、合計すれば家賃並みに高くなってしまっています。私ひとりの収入だけなら、もっと安くおさまるんですけどね(笑)。
ちなみに、「ひとり暮らしの延長だから」と、家賃も光熱費も保育料も、毎月20万円近くを私ひとりで支払っています。それ以外でも、妻とは全くの別会計です。…それでも「収入は妻との合算」ですよ?(笑)
つまり「結婚」は「過去の遺物」どころか、経済的マイナスすら及ぼすことすらあるのです。少なくとも、私のような生き方をすると。


男も女もその親も、「別に”結婚”なんてアホな制度利用せんと、”育児”に飛び込みたいなら産んだらええやん」と全会一致で決められる時代は、まだまだ先なんですかね。。
…ん? 私と私の娘から始めればいいか?(笑)


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たっぷりいただいた夏休みも、もはや終盤戦。

前日に庄和飯店の店員さんから得た情報で、地元のお祭り・花火大会に。




花火大会に来る人たちで駐車場はごったがえし。。

すると近くの「山田うどん」の店長さんが、勝手に車を停めて行かれないか店先にいるのを発見。

「食事をしていってくれたら、停めてお出かけしてもいいですよー」と言ってくれたので、急遽入店。


…しかしながら、地元の公園で上がる花火は、腹に響くほどの大音量で、S君と手をつないでいた2歳児が「帰りたい、帰りたい」と泣き叫ぶので、仕方なく帰ることに。。(ToT)


近すぎでも、よくないっつうことですかね(笑)。


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↓『いつも心に紳助を』島田紳助著、小池書院、1996)より引用(14)


お寿司ひとつにしても、うちはくるくる寿司しか食わさん。それが、愛情です。
「おまえらが大人になった時、OLになってみんなでお寿司食べに行って、トロ、ウニ、イクラ、言うて、白い目で見られたらどうすんねん。食べた時『おいしい。こんなおいしいお寿司、食べたことありません』って言うほうがよっぽど愛されるで」
って、チビらに言うんです。周りの人が言うかもしれない。
「紳助さんとこ、あんまりエエもん食べてないんじゃないですか」
「いいえ。父は食べてましたけど、私らは、食べさせてもらえませんでした」
「なんで?」
「愛してるから、って言ってましたよ」
そんなふうに、わかってもらえると思うんですね。


そう、愛してるから、やたら買い与えたりもしない。
小遣いも、ちゃんと小遣い帳つけて、月末に経費は申告さすんです。
参考書はしゃあない、でもジュースは認めへん、という具合です。


子供を育てるって、結構大変ですもんね。
家にいっぱい張ってあるんです、目標や約束みたいなこと。ぼくも、嫁さんも、うちへ来るいろんなヤツも。
それを同じ大きさで、同じところに張ってある。おまえら子供やから別とか、そんなことを全然しないんです。おんなじなんです。


↑(引用ここまで)
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…『子供を育てるって、結構大変ですもんね』。
私は「育児」について、紳助氏の言う「結構大変ですもんね」くらいの言い方が、とてもしっくりくると思うんです。


「育児は大変よ。ナメない方がいいわよ!」と言いたくて仕方ない奥様方もどうかと思うし、「うちは全部妻に任せてるんで」みたいな男もバランス感覚に欠けていると私は思ってしまいます。
おまえら、自ら「結婚」「育児」という「人生の負荷」に飛び込んだんとちゃうんかい、と。


別に「結婚しない」、ひとり自由気ままな暮らしもできた。
別に金も労力もかかる「育児」なんて面倒なことに関わらない生き方もできた。
では何のために、自らその道を選んだのか、と。


確かに誰かと共同生活すること、毎日の家事・育児は大変です。相手への気遣いと、終わりのない作業の連続です。
朝、子どもを起こして朝ごはんを食べさせる。着替えさせる。検温して、保育園の支度をして連れていく。
熱が高くなって保育園から呼び出されることも少なくない中、なんとか仕事を終え、保育園に迎えに行く。
保育園帰りにグズったり、なかなか帰りたがらない子どもをゆっくり誘導しながら帰宅。
ごはんを炊き、夕飯の準備をし、洗濯機を回し、明日の用意をする。
子どもに夕飯を食べさせ、ワガママを言ったら叱り、洗濯物を干し、洗い物をして、子どものトイレトレーニングをし、風呂に入れ、寝かしつける。


…いやー、こう書き出してみると、結構大変そうですが(笑)、自らこの作業がしたくて、こんな「人生の負荷」が欲しくて、自ら「育児」に飛び込んだのですから、やっぱり紳助氏の言う『子供を育てるって、結構大変ですもんね』くらいの表現が妥当なところじゃないかと思うんです。
確かに大変かもしれないけど、やらなくてもいいことを、自らすすんで手を挙げてやっているだけなのですから。


そういう意味で、毎日「大変、大変」とぼやく人の神経がわからないし、「夫が育児を手伝ってくれない」と嘆く主婦の神経も、また言われる夫の神経も理解できないのです。


言ってみれば、「”大変”な育児」を「大変」に感じないコツは、「自分からすすんで、その”大変”を味わうために育児に飛び込んだんとちゃうんかい!」と自問することなのかもしれない、と最近思うのでした。


ペタしてね

せっかくの夏休みにあいにくの雨なので、近所の屋内プールつき温泉に。

子どもを遊ばせて(というかS君に遊んでもらって)、お昼は中華! …ひさしぶりの庄和飯店へ。




平日ランチの小鉢が、まさかの「麻婆豆腐」! あたり日です。



単品で「五目炒飯」や「ホタテ貝柱と黄ニラのXO醤炒め」を頼んだりも。


この夏休みは、毎日S君に世話になりっぱなしですm(_ _)m。


私はお金出しっぱなし(笑)。


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