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↓『本能の力』戸塚宏著、新潮新書、2007)より引用(02)


体罰は「相手の進歩を目的とした有形力の行使」と定義しました。人間が進歩するためになぜ有形力の行使が必要なのか、ここで説明しておきましょう。


それを理解するには、まず人間の行動原理を知る必要があります。
人間の行動原理は突き詰めて言えば「快を求め、不快を避ける」ということになります。これは皆さんも納得されることでしょう。


快は心地よいので人間はその状態を目指し、到達すればそこに留まろうとします。
逆に不快は嫌だからそれを取り去ろうとします。ということはこうも言えます。
人間は快の状態では動かないが、不快の状態では動かざるをえない、と。


人間の進歩は、不快を取り去ろうと行動を起こすことによってはじめてもたらされるのです。
つまり、人間が進歩するためには「不快」が必要不可欠なのです。本能に基づいている限り、不快感は「悪」ではなく「善」なのです。


ところが、日本の戦後教育は、子供に「不快」を与えるべきではないという考えが主流になってしまいました。
たとえば、木登りや橋から川に飛び込むといった遊びを禁止しました。
一歩間違えれば生命の危険が伴う、という理由です。
しかし、この「一歩間違えれば…」というのが実は「不快」の状態でした。


↑(引用ここまで)
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戸塚氏の言うように、『人間は快の状態では動かないが、不快の状態では動かざるをえない』ことは、たとえばテレビゲームに興じる子どもたちを(無論、大人たちも)見れば一目瞭然です。


謎解きの「謎」や、困難なステージ、低いレベルなど、様々な種類の「不快」を用意して、それを「快」の状態に持っていこうとする過程がだんだん楽しくなるように作りこまれたものが「テレビゲーム」ですから、人間が『動かざるをえない』行動原理をうまく利用した商売とも言えるでしょう。
ドラクエのレベル上げも、やってみれば楽しいですからね(笑)。


そして、子どもの危なっかしい遊びを「危ないからやめなさい」と親が過保護に禁止してきたことで、『一歩間違えれば生命の危険が伴う』遊び、戸塚氏の言うところの「質の高い”不快”」が子どもたちから奪われてしまったため、子どもたちは手近な「不快」→「快」のプロセスが味わえる「テレビゲーム」に興じている、というのが私の考えです。


私は、外出時も食事時も携帯ゲーム機を片時も離さない子どもたちを見ては「なんで親はそれを許すんだろう?」「なぜ親は安易にゲーム機を買い与えるんだろう?」といつも疑問に思うのですが、それほどまでに「質の高い”不快”」が子どもたちから奪われている、ということなのでしょうか。


こんなこと言うと怒られるかもしれませんが、子どもって、多少高いところから落ちても、大丈夫ですよ(笑)。


やや離れたところから親が監視しつつ、内心ヒヤヒヤしながらも、ある程度子どもに自由にやらせて、失敗させる。すっ転んでも、じっと堪えて待つ。
こうした「質の高い”不快”」の与え方は、確かに面倒だし、「それは危ないからやめろ」と禁止してしまう方が親としてラクチンです。
でも、こうしてヒヤヒヤしながら「不快」→「快」へのプロセスを味あわせるよう仕向けていけば、周囲とのコミュニケーションを絶ってまでテレビゲームをする子どもになんて育たないと思うんです。


テレビゲームなど、他人によって作られた「不快」を一生懸命取り除くより、木の上から飛び降りても、なんとか怪我しないように工夫することの方が、よっぽど愛される「社会人」に育つと思うのは、私だけでしょうか?


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