------------
↓『本能の力』戸塚宏著、新潮新書、2007)より引用(11)


しばらく前、石原慎太郎氏と久米宏氏がテレビで対談をしていました。
このとき、文部科学省に送られた「いじめられたから自殺をする」という予告の手紙について、石原氏が「あれは子供の書ける文章じゃない」と言ったところ、久米氏が「いや、今のこともは素晴らしい文章を書きますよ」と反論していました。


久米氏の言っていることは、ある意味で間違いではありません。
ヨットスクールに来る子供の中にも一見、素晴らしく良くできた作文を書くタイプは珍しくないのです。
が、よく読むと中味がまったくない。
あくまでも小器用に、一見良さそうな文章を書く技術を身につけているだけなのです。
同様に、絵が上手な子供もいます。これも心が伴っていない。


おそらくこういう子供たちは、幼い頃に作文や絵を褒められ、「個性を伸ばす」という方針で、その方面の能力ばかり伸ばされてきたのです。だから技術だけは身についている。
これでは本物の才能につながりません。


小学生のうちに、本人の向き不向きと関係なく国語も算数もなんでも叩き込むというのは正しいのです。
最低限、すべての科目をやらせることが人間性を育むのです。


↑(引用ここまで)
------------


『小学生のうちに、本人の向き不向きと関係なく国語も算数もなんでも叩き込むというのは正しい』というのは、私も賛成です。


ガキどもの「なぜ勉強しなきゃいけないの?」にしっかり答えられない大人の多さを考えると、「教養」というものについて、自分独自の考えを編み出そうとしてこないまま、「自分のアタマで考える」ことをしないまま大人になってしまった日本の戦後教育の背景が伺えます。


「子どもたちには、ひとりひとり個性がある」だの、「人には向き、不向きがある。勉強が苦手でも運動ができればいい」だの、子どもたちに「なにくそ」と感化させ、向上心を持つ機会を奪う、甘っちょろいセリフが横行しすぎなんですよ。


「お勉強」したことが、将来「役に立つ」かどうかなんて、どうでもいいのです。
算数や、国語や、理科、歴史など、さまざまな世の中の現象について造詣が深くない大人は、それは「大人」と言えるのか。
国民ひとりひとりが「自立」してはじめて成り立つ「民主主義」社会の一員が、そんなことも知らないで、その程度の「教養」も身につけていないで、選挙権を与えられてしまうのか、と。


中途半端に「権利」意識ばかり高いガキどもは「”教養”なんてなくたって生きていけるじゃん」などとぬかすかもしれませんが、「世の中のことは、世の中に造詣の深い、教養の深い他人に任せて、おまえは他人の作った”世の中”の仕組みに寄りかかって、家族や政治に責任を持てない”ガキ”のまま生きていこう、と言うんだな?」と追いつめてやればいいのです。
…まあ、自分の子どもだったら、一発ビンタをくれて、「逃げるな。いいからやれ」で十分なんですけどね(笑)。


私の好きな海外SFドラマ「スタートレック」では、宇宙船の艦隊士官になるためのアカデミーで、「体育」や「武道」はもちろん、「微分積分」や「物理学」、「哲学」も必須科目である、という設定がありました。
人の上に立ったり、何かに「責任」を負ったりするためには、深い「教養」は必須条件である、というメッセージだと私は感じました。
逆に言えば、「教養」もないような軽薄な人間は、何かに「責任」を持てない程度の人間性だと見なされても仕方ない、ということです。


「勉強ばかりできてもダメな奴はたくさんいる」「東大生でもコミュニケーション能力のない奴はたくさんいる」と外から言うのは簡単です。
そう言う人に私は問いたい。
「では、あなたの”教養”は、どれほどの深さなのですか?」と。
「選挙権を与えられるにふさわしい”教養”をお持ちなのですか?」と。


ペタしてね

3歳も目前の最近になって急に、ぐっすり寝ていたはずの2歳児が夜中に立ち上がり、しくしくと泣くようになりました。
「どうしたの?」「大丈夫だよ」と話しかけても、「こわい」とか言うだけで泣くばかり。
「悪い夢でも見てうなされたのかな?」とか思いながら、泣き疲れて寝てしまうまで待っていました。


つい先日も、夜中に起きだして、ひとり泣いていました。
「どうしたの?」とたずねると、「おばけこわい」と。


そこで、私はピンときました!
なるほどそうか、と。
我々大人は「なんだ、夢か」と、経験則から自分を納得させることはできますが、「夢」というシステムを理解できていない2歳児は、「おばけに追いかけられた」夢を見れば、それは本当に「おばけに追いかけられた」こととして捉えてしまうんじゃないか、と。


そこで私は、「夢を見る」というシステムについて、淡々と語ってやりました。
「おばけに追いかけられた」と目をつぶって想像しても、「実際にそこにおばけはいない」こと。
「人は寝ている間にいろんなことを思い出したりする」こと。
「父である私も、こんな夢を見たことがある」という経験談も。
…とはいえ2歳児ですから、私の言葉は全部理解はできなかったでしょう。
でも、彼女は「はい」「わかりました」と、彼女なりにとりあえず納得したようで、また布団に戻ってすやすやと眠りました。


いや~、大人にとって、経験から「あたりまえ」と思ってしまっていることでも、初見の子どもにとっては「一体何なんだこれは?」とびっくりすることは少なくないんですね。


今回は、「”夢”というシステムを知らない」ことに気付かなかった大人の話です。
それと、「子どもだから、説明してもどうせわからない」と決めつけて、「説明せずに結論だけ強制する」(たとえば「大丈夫だよ」だけを連発して寝かせてしまう、とか)になりがちな大人の話でも、あります。


ペタしてね

------------
↓『本能の力』戸塚宏著、新潮新書、2007)より引用(10)


海で溺れている子供を、腕に覚えのある男が飛び込んで助け、子供は一命を取りとめた。
この場合、男は強者の論理で子供を助けたのです。
体力があり、技術があったから助けることができた。
力があったから、強かったから正義が実行できたのです。


ところが、弱者はこうはいきません。
「誰か泳げる人が助けるべきだ」「堤防に柵がないからいけない」「なぜ『危険』という看板がないのか」などと、全て人のせいにします。
こんな万年野党の姿を見たことがあるでしょう。
弱者の理論は現場では役に立たないのです。
溺れている子供一人救うことはできません。
このように役に立たないものを正義とは呼びません。


「力は群れのためにある」という基本を押さえずして、力については語れません。
強い者は力に余裕があります。
だから、それを自分のために使っても、なお余力を他の人のために使うことができるのです。


↑(引用ここまで)
------------


「力こそ正義」とニーチェも言っていましたが、「弱者は守られるべきだ」「いじめはよくない」みたいなことを、みなさん言いすぎなんですよ。
ニーチェに言わせれば、まさに「ルサンチマン(弱者の妬み)」です。
それは、「自分たちは弱者だから守られて当然、強者がなんとかしろ」という、他人任せの精神性です。


有事に我先にと渦中に飛び込めず、いざとなったら足がすくんでしまうような「力のない者」「弱者」が、「堤防に柵がないからいけない」「なぜ『危険』という看板がないのか」みたいなことを、机の上でぶつぶつとのたまわっている。
「おまえ、そんな偉そうなこと言ってるけど、いざ強面の男に絡まれたら、何も言えへんやろ」と言ってやりたくなる輩です。


しかし、一歩間違えれば、私もそんな「口先男」になっていやしないか、と不安にもなります。
最近は、育児にかまけてトレーニングにも通えてないですし(笑)。
私のこんな物書きも、「体を鍛えていないヤツの言い訳(by有吉弘行氏)」にならないよう、「有事に率先して力を発揮できる」ことを意識した、理論と実践のバランスのとれたものでありたいと、改めて思わされました。


ペタしてね

マクドやらで高カロリーを摂らされるよりも、多少お金をかけても、ドトールでミラノサンド+ドリンクをいただくようにしている今日この頃。。




最近は、期間限定の「炭焼きチキンとごぼうサラダ」410円+ドリンクセットでよくいただきます。


もちろん、定番の「クロックムッシュ」330円のときも。


ペタしてね

------------
↓『自分を愛する力』乙武洋匡著、講談社現代新書、2013)より引用(02)


「そんなこと、私たちがやっておくから」
「それは危ないから、やめておきなさい」
そんな方針のもと、過保護に育てられてしまっていたら、僕はどんな人間に育っていただろう。
待っていれば、きっとだれかが助けてくれる――。
あたかも、親鳥がエサを運んできてくれるのを、ただ巣の中で口を開けて待っているひな鳥のように、ひたすらだれかの手助けを待つ、受身一辺倒の人生になってしまっていたのではないだろうか。


でも、当時の両親の心境を考えれば、きっとやさしい”親鳥”でいたかったにちがいない。
僕があれこれ困ることがないよう、すべて先回りして「やっておく」ことのほうが、親としてはずっとラクだったはずだ。
しかし、父も、母も、けっしてそれをしなかった。
それが僕のためにならないことを理解していたのだろう。
両親の”手を出さない勇気”が、僕を大きく育ててくれたのだ。


↑(引用ここまで)
------------


今回も、「育児」に関する話です。


いや~、難しいですね、『手を出さない勇気』を実践するのは。
特に、『それは危ないから、やめておきなさい』は言っちゃいますよね。子どもが転ぶとわかっていたら、つい、先回りして言っちゃいますよね。手を貸しちゃいますよね。


これだけ毎回「過保護はやめよう」と大口をたたいている私でも、先回りしてやってあげちゃったり、「危ないよ」といちいち声をかけてあげちゃったりすることも多いです。すみません。


とはいえ、基本は子どもを「放置」させておくよう努めています。
0歳児がハイハイして壁に頭をぶつけることがわかっても、あえて放っておきます。そして頭をぶつけます。泣きます(笑)。
2歳児が食事中によそ見をして、ごはんをこぼしそうになっても、あえて放っておきます。「こぼすよ!」と言いたい気持ちをおさえて。そしてこぼします。「食べているときによそ見するな!」と私に怒られます。「ごめんなさい」と言うまで待ちます。
…こんなことを何回か繰り返しているうちに、子どもは勝手に学習して、自分で気をつけるようになるもんですよ。


「まだ0歳児なんだから、頭をぶつけちゃいそうなら、先回りしてあげてもいいんじゃない?」と言う人もいるでしょう。
「まだ子どもなんだから、”気をつけなさい”くらい言ってあげてもいいんじゃない?」と言う人もいるでしょう。
…「じゃあ、何歳になったら”失敗から自分で考えさせる”んだ?」と私は言いたい。
『待っていれば、きっと誰かが助けてくれる』なんていう根性でなく、「自分で気をつけないと痛い目にあうぞ」という自己管理能力をつけさせてやりたいなら、心を鬼にして、ケガするとわかっていながらケガさせてやらなきゃいかんと思うんです。


「危ないからやめなさい!」「ほら、こぼしちゃうよ!」「なんでそんなことするの!?」
…こんな怒号ばかりの家庭環境では、言うほうも、言われるほうも、それを聞かされるほうも、げんなりしちゃいますよ。
そして、その怒号は、やかましいわりに、教育的効果は薄いという。。(笑)
でも、巷の母親どもって、こんなことばかり言っていると思いません?
結局、「自分がラクしたい」から、先に手を差し伸べちゃったり、先回りして注意しちゃったりするんですよ。


「手を出さない勇気」。
「口を出さない勇気」。
子どもが「失敗から学習する」「自分のアタマで考える」ような人間に育ててやりたいなら、まずは親が「自分のアタマで考え」て、「口を出しすぎ」な自分をいさめないと。
本当は「こぼされたら、後処理が大変」だから子どもに怒号を浴びせているだけなのに、「こぼさないように、自分で工夫するには、どう仕向けたらいいか」なんて教育的効果を考えずに機械的に怒号を浴びせているだけなのに、「自分はちゃんと育児をしている」とプライドばかり高い母親が多すぎるんですよ。
「自分のアタマで考えている」親なら、「効果的に黙って、意図的に子どもを放置して、あえて失敗させる」ようにしないわけがない、と私は思うんです。


…逆に、育児放棄ぎみの、どう見ても賢くないヤンキーみたいな母親の子どもが、まれにメチャクチャいい子なときって、ありますよね?
「どうしてあんな親から、こんなちゃんとした子が?」みたいな(笑)。
それは、母親が化粧やら男やら遊びやら、自分のことに一生懸命で、子どもをがっつり「放置」していることで、自動的に「失敗から、自分で学習する」しかない、自己学習のサイクルがうまく出来上がってしまったケースだと、私は想像します。
偶然、適度な「放置」が作られるくらいでも、いいってことですよね。
やっぱり「関わりすぎ」「しゃべりすぎ」は、よくない。


ペタしてね

先日、私が体調を崩して休んでいるとき、S君とY君が来訪。

子どもらの面倒を見てくれるのかな? 、と思いきや「麻雀やろうぜ」(笑)。




Y君のリクエストで、お昼はテイクアウトの「ココイチ」。




腹痛くてのたうちまわったって言うてるのに、ビビりながらカレーをいただきました。


ペタしてね

------------
↓『本能の力』戸塚宏著、新潮新書、2007)より引用(09)


しかし、どうであろうと子供は小学生くらいの間、健全な形でいじめられ、いじめる経験(お前は木登りもできないのか、と囃したて、強い者が弱い者に”不快感”を与え、向上させる作業:注釈引用者)をしなければなりません。
とはいえ、現代の日本ではそういう環境を作ることは難しい。
昔のようにたくさん兄弟がいれば、一種の異年齢集団が否応なしに形成されるのですが、それもなかなか難しいようです。


そこで提案したいのが寄宿舎制度です。
二十四時間子供を預かって、その中でかつてあったような子供の世界を人為的につくってみようということです。


「お前はこの班に入りなさい」と、一年生から六年生を振り分けて、六人ないし十二人、十八人の班を作らせて生活させる。
六年生が卒業すれば一年生が入ってくる、そういうシステムで六年間を過ごす。


そもそもエリート養成のためには、小学生を対象にした寄宿舎のある学校が必要です。「ハリー・ポッター」シリーズにも出てくるので今の人にもなじみはあるのではないでしょうか。


ヨーロッパは、建前では合理主義を振りかざしていますが、実は体験的に本能を重視しています。
上流階級では子供を寄宿舎に預け、人間の基礎作りを見事にやっています。
先日、イギリスのパブリック・スクールの様子を紹介しているテレビ番組を見ました。
それによると、授業の三分の一が体育だと伝えていました。


現在の日本では者の見方が短絡的になっていて、ついつい今の成果ばかりを求めます。
だから「三分の一を体育にしよう」などと提案したら猛反発を受けるでしょう。
しかし、教育は子供の将来のために行うものです。
イギリス人は体育を多くすることで、子供を強く育てている。
それは長期的に見れば必ず彼らのためになるわけです。


この日本で今すぐに寄宿舎制度を創設するのは無理だとしても、そのつなぎとしてやれることはあります。
参考になるのがアメリカのサマースクールです。
アメリカの中・上流家庭の子供の多くは、夏には二カ月近くサマースクールに出されています。
異年齢集団の中でいじめられ、いじめる経験をする中で人間の基礎ができ上がっていくのです。
日本のボーイスカウトも悪くはありませんが、やはり昨今の風潮を受けて、上下関係が甘くなってしまっているようですから、実のところあまり期待できません。


↑(引用ここまで)
------------


子どもは、毎日母親や祖父母などの大人たちに囲まれて、「かわいい、かわいい」とアイドル視されて過保護に生活するよりも、保育園や、戸塚氏の提唱する「寄宿舎」など、異年齢の子どもたちに囲まれて生活する方が、確実に「強く」育つと思うのです。
それは、子どもにとっても、親にとってもいいことだと思います。


テレビやゲームも一切なく、冷暖房も教育的配慮から設置しない、もしくは弱めて使用する。
そしてできるだけ屋外で遊ばせ、子どもどうしのトラブルやケガもいい具合に起きてくれる。
兄弟が5人も6人もいることが一般的でない昨今では、保育園などのこんな環境は、子どもが育つのにベターな環境だと思うのです。
さらに、親も専業主婦(夫)にならないことで、「仕事」という社会的居場所も得られ(ついでに「収入」も得られ)、「家」という閉ざされた空間の中で「家事」や「育児」のことばかり考えて悶々と過ごすこともありません。


…いや~、私も仕事でたまに連休をもらったりして、数日子どもと二人っきりで過ごすこともあるのですが、正直、これが毎日続くのかと思うと、ノイローゼになるかも、と考えてしまいます(笑)。


朝、子どもを起こして着替えさせる、朝ご飯を作って食べさせる。
洗い物を片付けて、洗濯機を回し、部屋の掃除をする。
洗濯物を干し、子どもを昼寝させたら、テレビを見たり、一緒にちょっと昼寝をする。
子どもが起きたら着替えさせ、洗濯物を取り込んだら、もう夕方です!
夕飯の買い物に行き、ごはんを炊き、夕飯の支度をする。
子どもに夕飯を食べさせ、トイレトレーニングをし、洗い物をして、お風呂をわかし、お布団を敷き、子どもと一緒にお風呂に入り、着替えさせ、寝かしつける。
…専業主婦(夫)の方には申し訳ないのですが、こんなふうに毎日子どもとふたりっきりで、家とスーパーの往復の暮らしでは、私はどうにも息が詰まってしまいます。。
いや~、主婦(夫)って、精神衛生上、よくないっすよ(笑)。
数日こうして過ごすだけで、ノイローゼぎみになりますもん。特に、子どもが「イヤイヤ」モードに入っちゃったりすると、声を荒げることもしばしば…。


…話が横道にそれました(笑)。
そんなわけで、私は「”保育園”という環境」と育児を分担して行うことを、強くお勧めします。
…私が家事や育児に対して生真面目すぎるだけなのかもしれませんが。
「みっちゃんは真面目すぎるのよ」とよく職場のおばちゃんにも言われますので(笑)。


子どもにとっての「異年齢集団」という環境。
親にとっての「育児の分担」という環境。
その両面から、戸塚氏の言う「寄宿舎制度」に魅力というか、未来を感じてしまう、今日この頃でした。。


ペタしてね

鉄板焼をテーブル席でいただく、5,000円のおまかせコース。

メインの肉料理、ごはんもののあとは、デザートです。




やわらかいスポンジケーキに、メープルシロップ&ホイップでした。




…ちなみに、同席させていた2歳児が食べられるものを、ということで、コースとは別に「メープルトースト」を。


鉄板でこんがり焼いてくれたトーストに、メープルシロップ&ホイップが。


以上です。

18:00にお店に入って、料理が終わったのが20:00すぎ。

当人と親どうしの顔合わせとしては、このテンポで2時間は、長い会席になりそうですね(^_^;)。



…後日、S君と彼女は無事会席を終えたそうです。

7,000円のコースで、メインはサーロインステーキ。S君のお父さんがたくさん話題を提供してくれたようです。

無事に終わって何より!


ペタしてね

------------
↓『本能の力』戸塚宏著、新潮新書、2007)より引用(08)


教育もしつけも、「今」だけを考えると戦術を誤ってしまいます。
子どもが泣こうが騒ごうが、それに左右されることのない確固たる戦略に基づいて事を進めねばなりません。


↑(引用ここまで)
------------


育児も、職場の新人教育も、要は「こいつをどんな奴にして、外に出してやりたいか」という最終目標に照らし合わせて接してやる。
それに尽きます。


子どもが、学校や会社など、親の目が離れたところで、自分から挨拶ができる。道端のゴミが拾える。誰もがやりたがらない仕事でも「自分がやります!」とフットワーク軽く動ける。結果、先輩や上司にかわいがってもらえる。
…こんな奴に育ってくれれば、それで十分ですよね。


だから、オムツがとれるの遅かろうが、言葉を覚えるのが遅かろうが、ワガママを言って泣き叫ぼうが、そんなことに一喜一憂する必要なんて、ないんです。
小学校へ行く頃には、きっとオムツはとれてるでしょうから(笑)。言葉もしゃべれるようになっているでしょうから。


職場の新人だって、扱いは似たようなものです。
そいつがひとりでお客様の前に立って、失礼のない、フットワークの軽い、そしてできればお客様に好感をもっていただけるように鍛えてやればいい。
そこから逆算して、挨拶や、服装や、言葉づかいなんかを、日頃から適宜注意してやればいいんです。


そういう視点から見ると、けっこうみなさん、「今」に一喜一憂しすぎだとは思いませんか?


真面目なお母さんが、子どものオムツや言葉やワガママに日々悩んでいたりするのを見ると、「そんなん、二十歳になったら全部解決してまっせ?」と言ってあげたくなってしまいます。
「こんな風に育って社会へ出ていってほしい」という最終目標にあまり関係ないことは笑って過ごして、いちいち悩んでいる暇があったら、子どもを保育園や親に預けて、どこかに出かけて行ったらいいんです。
あなたの素敵な生き方は、「育児」以外のところにもたくさんあったはずですよ、って。
あなたのエネルギーを「家事」や「育児」にだけ向けるのはもったいないですよ、って。
「育児」は確かに重要かもしれませんが、最終目標達成のための長~い作業なんですから、のらりくらり、最終目標に関係ないトラブルはそこそこ適当にあしらって、楽しんだらいいと思うんです。


それだけに、出産してしばらく休んでいた女優だかアイドルだかが、「ママ」であることを全面に押し出して「私はこんなベビーマッサージをしています」だの「私はこんな素敵なお弁当を作っています」だの言って復帰しているのを見ると、本当に腹が立ちます。
おまえらが言っていることは、「育児って素敵」だの「家事も楽しめる」だの、「”家事”や”育児”は女の一番の関心事でしょ」というメッセージを送って、一般の主婦層に刷り込みをしているんやぞ、そのことを分かっているのか? とツッコんでやりたくなります。
「”家事”や”育児”にとらわれすぎず、もっとオリジナリティを持って生きていい」というメッセージこそが、悩める真面目な主婦層に必要だと私は思うのですが。。


ともあれ、「育児」や「教育」を戦略的・長期的に考えられず、「今」に一喜一憂させられている人たちの多さを思うと、「挨拶ができてフットワークの軽い、大人たちにかわいがられる」若者で街があふれかえることを夢想して育児に取り組む私なんて、ごくごく少数派なのかも知れませんね(笑)。


ペタしてね

…先日、友人の両親どうしの会食の下見に行ったつづきです。


鉄板焼屋さんで、カウンターでなくテーブルでいただくのは初めてです。




野菜焼き、バーニャカウダーソース添えの次は、白身魚が。




そしてメインはポークのデミグラスソース。さすがに5,000円のおまかせコースでは、単品で頼んでも5,000円するサーロインなんかは出してはくれませんよね。




なかなか美味しかったのが、このメイン後の料理「梅としらすの焼き飯」。

梅と醤油が、ほんの少~しだけ香る感じで、塩加減も抜群でした。…これはカウンターで熱々を食べてみたい!

「本当に梅が入っているの?」と思うくらいのほんのりさ加減で、素敵な仕上がりでした。


そしてあとは、デザートを待つのみです。(つづく)


ペタしてね