関東一の祇園「熊谷うちわ祭り」 関東三大祭り「世良田祇園祭」 | 縄文家族|天竜楽市

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埼玉県熊谷市で七月二十、二十一、二十二日に行われた熊谷うちわ祭りは「関東一の祇園」と呼ばれるほど人気の高いお祭りで、熊谷駅から国道17号(中山道)まで市街地を見物客が埋め尽くす。

その祭りの華やかさは映像を見て頂くのが一番だろう。

摺鉦の響きは幻想的。


第貳本町区(本三四)の山車
天保年間(1830~1844)建造と云われ、明治二十四年に神田から購入。この頃、東京では電線の架設が始まり、多くの山車・屋台の曳行が休止され、経済力のある地方都市がそのような山車・屋台を購入。江戸型山車の活躍の場は東京郊外へと移っていった。
熊谷の山車六台は典型的な後期江戸型山車で前方に囃子台、後方にせり上がり式の三層高欄人形台を持つ。


第壱本町区(本壱弐)の山車は明治三十一年(1898)建造、見送り幕『龍虎相克』、彫刻『獅子の繭遊び』(彫師小林栄次郎)は籠彫りの技法。

町内に張られた電線は低めで、国道17号など広いとおりに出た時などに上高欄と人形がせり上がって披露される。


本石町鎌倉町屋台

関東で歴史と伝統ある祭りではどこでもそうだが、熊谷でも、関東の流儀通りに、出し飾り(人形)を載せた屋台を「山車(だし)」、載せていないものを単に「屋台(やたい)」と厳密に呼び分けている。


熊谷の屋台は江戸屋台の影響だけでなく、秩父や鹿沼、後述の世良田など、熊谷を取り囲むように配置される歴史と伝統ある絢爛豪華な屋台を曳く祭りからの影響も見られるようだ。


熊谷の愛宕八坂神社例大祭が「うちわ祭り」と呼ばれるのは、元々は来客者に赤飯を振る舞っていたが、いつしか代わりにうちわを配るようになったからだという。
暑い熊谷の夏祭りに訪れる見物客にとってうちわは最高の「おもてなし」でもある。こうした心づくしが熊谷うちわ祭りに大勢の見物客がやって来る理由かもしれない。

熊谷のお囃子は両手をしっかり振り上げ大きな所作で太鼓を叩く。

摺鉦の音が大きく鳴り響き笛の音がかき消されてしまうこともあるが、世良田屋台囃子の「さんてこ」が源流にあるようだ。元は現深谷市の岡部から伝わったお囃子だというが、かつて「関東三大祭り」に数えられ絶大な人気を博した世良田祇園の屋台囃子がそれ以前に深谷、岡部を含む群馬、埼玉の広範囲を席巻していたのだ。


両手をしっかり振り上げて太鼓を叩く。世良田屋台囃子の特徴として「哀感のあるメロディ」が挙げられる。
曲目は「三手鼓」「鎌倉」「昇殿」「大間昇殿」「神田丸」などだが、江戸囃子とかなり異なっているというのは一聴すれば明らか。

掛け声は「アーオ


哀感のあるメロディ、腕を高く上げ腕全体を振り下ろす小太鼓の叩き方など、陽気なメロディで手首のスナップだけで小太鼓を叩く江戸囃子系とは異なる遠州二俣祭囃子。世良田屋台囃子の影響というものもあるのだろうか?
全盛期の世良田屋台囃子が関東一円に強い影響力があり、遊侠の街二俣へやって来た芸人、囃子方が世良田のお囃子を知っていた可能性は高い。

昨平成二十五年の世良田祇園祭はゲリラ豪雨で屋台曳き廻しが中止となってしまった。

それでも雷雨の中、少しだけ曳かれた新町の屋台。
非情に大形の屋台で威風堂々としており、この祭りがかつてただならぬ隆盛を極めた大祭であったことが一目瞭然である。
神田祭秩父夜祭と並ぶ関東三大祭りの威厳が伝わってくる。


現在は群馬県太田市世良田町になる上野国新田郡世良田郷は清和源氏の流れを汲む新田氏から分かれた世良田氏が拠点としていた。
世良田氏の始祖、新田義季は世良田郷の他に新田郡得川郷も領し、世良田氏とも得川氏とも呼ばれた。また『吾妻鏡』には徳河義秀と記されているという。
長子得川頼有が得川郷を継ぎ、次子世良田頼氏が世良田郷を継いだ。世良田頼氏はのち三河守となった。
のち三河の戦国大名松平清康は、この世良田氏の後裔を名乗る。

こうした経緯から世良田は徳川家発祥の地とされ、寛永二十一年(1644)、日光東照宮の旧社殿を世良田に遷し、世良田東照宮が建立されて当地は幕府の庇護を受けた。七代将軍家継は幼名を世良田鍋松といった。

こうして江戸時代大いに栄えた世良田の祇園牛頭天王社てんのうまつり神田明神祭秩父妙見祭と並ぶ「関東三大祭り」と称されたという。
御一新後の神仏分離により明治以降は世良田八坂神社祇園祭として大型の屋台十一台と派手な世良田屋台囃子のお祭りは関東一円に絶大な人気を誇る。
東武伊勢崎線世良田駅へ浅草から直通の臨時電車が走り、祭典期間中伊勢崎線は終夜運転を繰り返したという。

ところが、昭和32年、世良田村は境町と尾島町に分割編入されてしまう。境町に編入された地域からは「客屋台」と称して三台の屋台が出ていたが、現在この女塚三ツ木栄町の屋台は「境ふるさとまつり」に参加。
ただし女塚と栄町は八坂神社奉納の居囃子、三ツ木は下町の屋台に囃子手として乗り、世良田祇園祭には今も加わっている。


昭和35年、今度は国道354号の屋台の通行が禁止となる。客屋台は世良田祇園祭に参加できなくなる。
さらに今井南八下新田の屋台が国道の南に分断。国道の通行だけでなく横断すら認められなかったようだ。

この為、十一台の屋台が集まっていた世良田祇園祭は上町大門新町下町上新田の五台の屋台のみになってしまい、全国的に祭り文化が衰退した1960年代時代の波に呑まれ、毎年十万人以上の見物客を集めていた関東三大祭り「世良田祇園祭」は、いつしか忘れ去られてしまった


昭和後期には物客は訪れぬ地元民だけのささやかなお祭りになってしまっていたという。


本来の二俣町祭典とは八月二十~二十三の4日間に椎ヶ脇神社祭典奉納煙火、舟屋台、神輿渡御、諏訪神社祭典十台大屋台随行神輿渡御という日本有数の巨大な祭典だった。

真夜中過ぎに二尺玉を連発で打ち上げる大音響の奉納煙火、芸妓を侍らせ屋形船を浮かべるお大尽、舟に神輿を乗せ天竜川を渡る渡御、随行する舟屋台。
翌朝には二俣の街に十台の二俣型総朱漆塗一層唐破風大屋台が繰り出し、手踊り、狂言、大名行列、真夜中過ぎには電飾の花屋台と典雅に響く三味と鼓のお囃子、朝まで鳴り止まない鯔背な若衆の三味線流し。
二日間を掛けて狭い二俣の街並みをひしめき合うように十台の大屋台を伴って巡行する古式ゆかしい日本一の神輿渡御。荒ぶる軍神、諏訪大明神と共鳴仕合う日本一勇壮豪快な大屋台曳き回し。

それは、この世のものとは思えない光景であった。

遊郭、芸者置屋、旅籠、世界一の寿司職人を育んだ料亭、楼閣、常設の芝居小屋、一年中眠らない、東京さえ凌ぐと云われた遊侠の街の一年で一番熱い四日間。

今の二俣まつりとは、その余韻でしかない。

この熱き焔のような祭典を、百年後にも遺せるように、世良田のケースも念頭に置きながら考えてゆかなければならないと思う。

祭りの規模や神と人を一体とする熱狂は変わりはないが、見物客の賑わいは往時をかなり下回る。祭りが(商売上の)かき入れ時ではないから「祭りなんて止めてもいいのだ」という商店さえ出てきた。
見物客の多さが全てではないが、祭りの継続を後押しするものではある。そして時代の波に翻弄されれば「関東三大祭り」さえ、存続の危機に瀕してしまうのだ。鹿島の花火に「日本三大花火」と呼ばれた面影は既にない。

この十四台大屋台随行神輿渡御という日本有数の神事、神と人が一体になる街中をひっくり返す熱気がある今なら、この二俣諏訪神社祭典を世間の注目を集め百年先に残る祭りにすることは可能だ。


世良田祇園祭は近い将来、十一台の屋台を再び八坂神社に集結させ、関東三大祭り世良田おぎょんの復活を目指しているという。少しづつ見物客も戻りつつあるようだ。

大型の屋台と摺鉦の音が響き渡る幻想的な光景は今も健在

今年、平成二十六年の世良田祇園祭屋台曳き廻しは七月二十六日(土曜日)

翌27日は神輿渡御(屋台の曳き廻しはない)

見物客の賑わいは逆転され大きく引き離されてしまったが、世良田祇園祭の屋台曳き廻しは熊谷うちわ祭りをさらにスケールアップしたような関東最高峰の祇園だ。