昼頃、神輿は佐原信用金庫前の御仮屋へ。この交差点で屋台の「のの字廻し」や踊りが披露される。
須賀神社
擬宝珠高欄と脇障子、それを支える組子
木鼻の象が古さを物語っているような・・・
ところで、今回小見川の駅に降りて、先ず目に飛び込んできたのは・・・
大根塚町の祭禮ポスターの写真!!
どうやら以前にこのブログ水運による屋台文化の伝播 小見川の屋台・・・に掲載していた写真が転用されているようだ。
あちこちに貼られたポスター
写真を気に入って使ってもらうのは嬉しいことです!
せっかくなので一言教えて頂けると、より一層の励みになります!
昨年の小見川祇園祭に登場した大根塚町の神輿
天地を焦がすような強烈な熱気!!
城下町小見川の売りは、かつて水運で栄え古い蔵が残る街並みと屋台を曳くお祭り。
因みに遠州二俣の売りといえば、戦国の城下町、水運で栄え古い蔵が残る街並み、屋台を曳くお祭り、鹿島の花火と鳥羽山の桜・・・
そのままの文言で二俣でも使えてしまえそうな小見川のポスター。
この街がやっていることから二俣が学ぶべきことは非常に多いだろう。
小見川祇園祭の特徴といえば、二階舞台に歌手が乗り込み、夜はノリノリのダンス大会となってしまうこと。
然し、小見川の各屋台は全て自前で芸座連(囃子)を持っており、佐原の山車にも乗り込むなど実力は高く伝統を高次元で守っている。
そもそも舞台屋台であるから、二階舞台をステージとして使用するのは本来の正しい用法である。
守るべき歴史と伝統は遺し、時代に合わせて変えるところは変えていく。大正から昭和半ばまでは、どこのお祭りでも、屋台の電飾や音響装置の新しさを競い、カラオケを中心とした余興が流行したことを忘れてはならない。それもまた祭り文化なのだ。
北下宿町の屋台(以下、屋台の画像は全て昨年のもの)
江戸時代の建造。小見川の屋台の基本形は佐原型二層屋台の上層に(大人形を載せて山車とはせず)唐破風屋根の二階建舞台屋台としている。
一般的に関東の古い屋台は横須賀の禰里と同じように腰から下の構造はシンプルなものが多い。
立派な彫刻屋台や豪華絢爛な秩父の屋台であっても、腰から下はボロ隠しのように幕が引かれている。脇障子が付く場合も前方に付くことが多く、これは豪華に仕上げた舞台と、囃子手や控えの舞人が乗る舞台裏を明確に区分しているということである。
下高欄の支えに持ち送りや斗供が用いられることも滅多にない。
それ故、江戸時代に造られたという北下宿の屋台の仕様は関東では珍しく、その造りは掛塚、二俣、犬居町など天竜川水運で結ばれた地域の古い屋台との共通点が感じられる。
遠州の古い屋台が御簾を下ろし御簾脇彫刻を有していること、また二俣屋台同様に北下宿、南下宿の屋台は赤漆(春慶塗)が塗られていることは利根川流域と天竜川流域の水郷の街は相互に何らかの影響があったというのだろうか。