暑いでね、熱いでね、二俣の夏は。
大判屋さんの特大かき氷で“涼”をとらんとね。
わらび餅も冷えてるでねぇ!!
平成6年8月4日(木)に最高気温40.6℃と当時の日本歴代二位(2013年現在日本歴代九位)を記録した猛暑の街、全国的な猛暑であった昨年も39.8℃と2013年全国六位を記録した「天竜区二俣」だからこそ、かき氷やわらび餅の涼感が全身に浸透していく。その格別な美味しさは、「二俣」ならではだ。
二俣という街は遠州東西南北交通の要衝であり、戦国の世には徳川家康と武田信玄が二俣城を巡って激突、江戸時代には「秋葉詣で」の宿場町として賑わいを見せ、古くから天竜川水運による商業都市として栄えた。
明治維新後も北遠の良質な木材や高級茶葉の取引、昭和二年に全国一の取引高を記録した繭市場の隆盛により「山」の旦那衆は札束を握りしめ二俣吾妻町の花街に繰り出した。東京からこの街へ直接買い付けに訪れた商人や旅役者、東京から招いた芸妓衆の三味線の師匠らにより都会の文化はいち早くこの街へ入ってきた。
昭和後期までの二俣は商店街のみならず町裏まで商売屋が立ち並び、必要なものは大半が近所で手に入った。二俣では少し外れの町であっても豆腐屋や八百屋がリヤカーを曳いて売りに来る。コンビニもマイカーも不要で、路線バスが連なって走り、秋葉、天龍二社のタクシーが街を流していて国鉄や遠鉄の駅に運んでくれた。
都会と同じ何一つ不自由ない暮らしをしながら育った僕らは、街の外に一歩踏み出せば、そこには美しい山や河の自然が溢れていて、毎日日が暮れるまで駆けずり回って遊んだ。そして日が暮れても、街は明るかった。
猛暑の街「二俣」で子供達の夏の一日は長い。まだ、自動販売機もろくにない頃、街には何軒もの駄菓子屋があり、またお好み焼きやかき氷もあちこちで食べられて、その上チリンチリンと音がすれば、あの安くて冷たくて美味しいわらび餅にありつけたのだ。
僕ら二俣の昭和の子供達は、間違いなく世界で一番幸せだったと思う。
そして二俣は少し寂れてしまったが、今もまだ「昭和のまま時間が止まった」街だ。
三角錐の紙の袋に目一杯黄な粉をまぶした透明なわらび餅はたったの五十円で、何十年も変わっていないあの味と共に、あの頃、子供の頃のあの時代へ、あっという間に僕らを連れて行ってくれるのだ。
わらび餅売りのおじさんよりお願い
時代と共に若いドライバーさんがこうしたリヤカー屋台を見かける機会が減り、屋台との遭遇に不慣れな運転をしてしまうドライバーさんが増えてきたとのこと。
わらび餅の屋台は主に舗道、横断歩道を通行しますが、急発進や急停車、急な方向転換は出来ません!!
わらび餅屋台の回りには必ず子供がいます!!
ドライバーの皆さん、二俣の街でわらび餅屋台を見かけたら、寛大な心で道を譲ってあげて下さい。お願いいたします。
静岡県浜松市天竜区二俣町二俣
夏の間、二俣の街のどこかで「わらび餅屋さん」に遭遇できます。
昭和のまま時間が止まった街「二俣」へ、のんびり散歩にお出かけ下さい。
街の中心部へは「二俣本町駅」が便利
天浜線は一時間に一、二本の運行。新幹線「掛川駅」乗り換え
新幹線「浜松駅」最寄りの遠鉄「新浜松駅」からは「西鹿島駅」へ遠鉄電車が12分間隔で運転
二俣中心部はバスも頻繁に走っている。
二俣は寂れたとはいえ、交通の要衝でありアクセスは決して悪くはない!!
マイカーの利用は新東名「浜松浜北IC」より飛龍大橋方面へ向かえば3分で二俣!!
灼熱の街「二俣」では、これから夏のイベントが盛りだくさん!!
七月二十六日(土) フェスタ天竜
昭和のまま時間が止まった「二俣」のクローバー通り商店街で様々なイベントがあり、街を散策するだけで楽しい一日になる。
当日は「横町商店街」でも独自のイベントが!!
スズギンサイクル店舗では昭和ビート歌謡「ジグソウパズルン」のライブも!!
横町の叉水連はブログでもお伝えしているように、来年以降の大屋台神輿渡御随行休止を表明している。元々小さい町が若連の減少により一年を通じた祭典の準備が困難となり、安全な曳き廻しには不可欠の老朽化した大屋台の補修の目途が立たっていない。
然し、風情ある横町の街並みを往く浜松御殿屋台草創期の名工三嶽駒吉の渾身の匠の技が随所に鏤められた現存する最古の浜松型重層入母屋造御殿屋台という浜松市にとって何よりの歴史と伝統ある叉水連大屋台の勇姿を今後も見たいというのは祭りを愛する浜松市民最大の願いである。
大屋台を休止するにしても、祭りそのものを止めるということは、日本人ならば出来ない。何らかの形で祭りを続け、横町商店街をもう一度活気のある町にして、いつか叉水連大屋台の渡御随行を復活させたい。それが横町商店街の女将さん達の願いだ。
そこには、江戸時代から、明治、大正、昭和と積み重ねてきた時代の重みがあり、それは平成生まれの若者や子供達にとっても、何故か懐かしいと思える空間であり続けている。
そして、それはこれからも・・・
あの幸せだった時代の二俣の記憶を、時間を止めてこのまま、未来の子供達にも伝えていかなければ。
八月二日(土) 日本一天下の名物「鹿島の花火」
明治初期より百四十年以上続くという鹿島の花火
元々は椎ヶ脇神社祭典奉納煙火であり、重要な神事であった。
それ故に真夜中十二時過ぎから二尺玉を連発で打ち上げるという当時としては壮大なスケールの花火であり、二俣町はこの花火を「日本一」と標榜し、日本三大花火の一つに数えられていた。
鹿島の花火は山間に響く大音響で知られ、窓ガラスが普及し始めた頃、二尺玉の天地を揺るがす大音響により、鹿島の家々の未だ脆弱な初期の窓ガラスが粉々に砕け散ってしまったといい、その後二尺玉の打ち上げは控えるようになってしまったという。
大正より二俣諏訪神社祭典は、この椎ヶ脇神社奉納煙火の翌日から三日間に定められ、その四日間の二俣町の盛況ぶりというのは半端なものではなく、二俣の街を人が埋め尽くしたという。
昭和中期になると、全国的に日本の祭文化の衰退が見られた。この為、浜松まつりや鹿島の花火のような集客が見込めるお祭りは、あろう事か神事を遠ざけ、神社とは関係のないフェスティバルとなってしまう。
然し、時代が下がり、バブル期を過ぎ昭和が終わりを告げると、徐々に伝統と歴史のあるお祭りが見直されていく。平成の現代において、見物客の多く集まる祭りというのは、歴史と伝統、神事を全面に打ち出した本物の日本のお祭りであり、フェスティバル化された祭りの凋落は非情に著しいものがある。
日本一であった鹿島の花火は椎ヶ脇神社神輿渡御が切り離された頃には「東海一の大花輪」と謳い、やがて遠州一の座も遠州ふくろいの花火に奪われ、いつしか「天竜夏の風物詩」というローカルなイベントになってしまった。
祭りのフェスティバル化は時代の要求であったが、時と人の世は移り変わり、今こそ祭りには本物の日本の伝統が求められている。
北鹿島の舟屋台が「聖天」を奏で竜宮伝説で名高い椎ヶ淵から天龍川を渡っていた、あの時代の「椎ヶ脇神社祭典」に「もどせ」をするべきだろう。
八月三日(日) 西古連大屋台漆塗りお披露目
掛塚型大唐破風が、この一本の漆黒のラインにより、一層力強く威風堂々としたものになった。
簑甲を朱、葺地を黒、裏甲を金、破風板を黒で塗る。それが二俣の伝統。
仏壇屋台でもない。
棺桶屋台でもない。
神と共に祭りを行い、粋で鯔背な祭りと高い美意識を伝えてきた二俣という街だからこそ。
漆などというものは高級品を志向すればキリがないが、屋台の美しさというのは色彩感覚のセンスが全てを決める。
一台の屋台が今、その色彩を完璧に身に纏った。
既に屋台小屋での組み立て作業に多数の見学者が詰め掛け、フライング気味に彫刻まで取り付けられた姿をブログにアップした方もいるようだが、飾り付けを行い、お披露目されるこの日に、一人でも多くの方が実際に自らの目でこの屋台の美しい姿を見に行くべきだと思う。
そして八月二十二、二十三、二十四の金土日が二俣諏訪神社祭典
西古連大屋台漆塗りにより二俣諏訪神社祭典の夜、大明神の夜が一層華やかになる。
普段やや閑静な二俣の街を諏訪神社祭典に向けて少しでも賑やかなものにしようと、藤井陶器店さん店頭で二俣まつりDVDを再生中!!
一枚千円でこの内容に大変好評頂いておりますが、実際に内容をご覧になった上で、一家に三枚、全親戚に一枚づつ、お買い求めください!!
二俣諏訪神社祭典を見たことがない、という方々にも「面白い」「この祭りは凄い」と満足頂ける内容ですので、この機会に二俣を初めて訪れる方も、二俣の土産にお持ち帰りください!!
二俣の街中がひっくり返って大馬鹿騒ぎ、荒ぶる軍神タケミナカタと一体になって岸和田のだんじりより遙かに大型の屋台を全速力で走らせる勇壮豪快な日本一のお祭りです!!