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華北平原に住んでいた倭人
低地(山東)の東夷(夷=委)が倭人、人方
高地(山西)の委人が巍(魏)、鬼方
倭は稲玉を持って低く踊る様
嵬は高いを意味する
高宗伐鬼方。三年克之。
殷の高宗(武丁)は鬼方を討伐し、三年してこれに勝利した。『易経』既済篇
殷は鬼方、人方を攻撃していたが、殷もまた衣(夷)なり。
夷人は良い着物を来ていたから衣人とも云い、(本来は)物腰柔らかく委と云う。
鬼方は古羌であり、印欧語を話していたとも云われるが、匈奴の前身とする説もある。
匈奴は断髪文身、夏后氏(夏王朝)末裔。
長江下流域の越人も断髪文身、夏后氏末裔。
倭人は断髪文身。
倭人(隼人族)宗像(胸形)氏は胸に刺青(文身)
匈奴の匈=胸、胸に刺青。
良渚文化(BC3300~2000)は長江下流域で高度な灌漑水田、治水事業階層化社会、神権政治、国家形成、太陽神、鳥トーテム(鳥夷=日本人的先祖)
良渚文化人支配層が淮水を遡り黄河中流域に進出
二里頭文化(BC2070~1520)
夏王朝、中原での水稲耕作開始
淮水流域から米の貢納
四川三星堆文化(BC2000~1400)
都市建設、青銅器祭祀
良渚文化様式の翡翠
良渚文化人の一部は長江上流域で三星堆文化を築き、その末裔が現代の雲南に住む少数民族の彝(イ)族という。
彝族はのイは、本来は夷族、または倭族と書いた。
夷=倭であるが、彼ら長江倭人は、倭人(縄文人)と似た文化を持つが、日本へ来たのではなく、
良渚➡三星堆➡雲南と内陸へ移動した東夷族。
良渚文化の跡地(長江下流域)は
馬橋文化(BC1900~1200)に引き継がれたが、
馬橋文化は良渚文化的農耕経済・玉器・階層社会が消失、
狩猟採集生活に回帰、陶器も粗雑になる。
良渚文化人の一部は越文化へ、或いは台湾から太平洋へ拡散(ラピタ人、オーストロネシア語族)
夏王朝、殷王朝期には長江下流域の灌漑水田稲作文化は(おそらく洪水によって破壊され)衰退。
淮水流域が灌漑水田稲作の中心地となる。
黄河は黄砂堆積により華北平原では天井川となっているため、淮水の支流は黄河本流に迫っている。
1128年には南宋が金の侵入を防ぐため、黄河の堤防を破壊。
黄河本流は淮水に流れ込み、淮水下流に溢れた水は巨大な洪沢湖を形成、さらに溢れた水が長江に合流した。
黄河の南流は1855年まで700年続き、洪水によって今度は済水が黄河本流となった。
有史以来、黄河、済水、淮水、長江の四河川は何度も氾濫し、度々流路を変えている。
洪水による良渚文化の消失、夏王朝の中原進出と灌漑水田が淮水流域へ移行するといった考古学的に確認される推移は、
鯀(東夷族であるという)の治水事業失敗、禹王による治水事業成功、夏王朝成立という伝説に合致する。
良渚文化に先行する長江下流域の河姆渡文化(BC5000~4000)は、鬼界カルデラ噴火(BC5300)後に勃興する文化で、
早期末縄文文化と玦状耳飾り、縄文のついた土器、漆器、木工技術などに共通点が見られ、
縄文人との交流が確認される。
彝族や台湾先住民などには縄文文化との共通要素が見られるが、稲作衰退期の長江倭人が弥生人の祖先になったわけではなく、寧ろ長江倭人(その文化は彝族を介して、チベット、ビルマ、タイへ。越人を介してベトナムへ伝搬)のルーツの一つが縄文類似文化である。
同時期の
遼寧興隆窪文化(BC6200~5400)
山東後李文化(BC6400~5700)
河南裴李崗文化(BC7000~5000)
朝鮮櫛目文土器文化(BC6000~)
などにも縄文文化との交流、類似要素が見出される。
続く
遼寧紅山文化(BC4700~2900)
河南仰韶文化(BC5000~2700)
山東大汶口文化(BC4100~2600)
そして良渚文化には
中~晩期縄文文化との共通要素に加え
早くも弥生文化的要素が見出される。
中国の研究では、
東夷族が山東、遼寧、江蘇浙江の沿岸部(東夷文明圏)で、それぞれ黄河、遼河、長江文明を築き、中華文明の源流を作ったのだという。
さらに中国の研究者によれば、東夷族の言語は、
オーストロネシア語と接触した日琉語であるという。
中国の研究者はまた、
黄帝を紅山文化人であるとした上で、
仰韶文化など内陸の彩陶を用いる文明を西羌文明とし、炎帝神農氏に結びつけ、
黄帝の子孫が漢族となり
炎帝の子孫が日本人になったという。
紅山文化は弥生の原郷の一つとされるが、
紅山文化人の人骨を解析した結果、最も近いのは現代日本人であり、次いで韓国人である。
黄帝、檀君、瓊瓊杵尊の伝承は紅山文化の同一人物がルーツであるかもしれない。
炎帝神農氏(羌姓、春秋斉呂氏、北周宇文氏・宇文支流遼耶律氏祖)は日本の天皇氏の男系祖先であるスサノヲ(=牛頭天王)と同一視されているが、
神武朝の初期大王家は彦火火出見尊(炎尊=炎帝)の称号を世襲していた。
黄河や沿海州悪魔の門の古人骨からは、縄文人祖先がいたことが確認されている。
大陸に進出した縄文人が現地で混血し、弥生人となって帰って来たのである。
縄文早期、前期だけではなく、中期、後期、晩期において縄文人と東夷文明圏の交流が確認されている。
東夷族の祖は
太昊伏羲氏(太昊族、風姓、晋司馬氏祖)
少昊金天氏(少昊族、嬴姓、秦趙氏・秦氏、西涼・唐李氏、高麗王氏、黠戛斯可汗阿熱氏、戦国趙・北宋南宋趙氏、徐夷、諸葛氏、金官加羅金氏祖)
太昊族、少昊族が東夷族の二大支族であったが、太昊族風姓程氏は周代に少昊系東夷族の征伐で功を上げ司馬の氏を賜り、子孫の司馬遷は『史記』に東夷族の詳細を記さず、少昊を五帝に数えなかった。司馬遷と司馬懿は遠い同族になる。
このため晋の時代に陳壽は『三國志』で初めて東夷伝を立て、倭人について明らかにした。
陳壽『三國志』は荀勗らに絶賛されたが、陳壽は領著作郎を罷免され、のち長広郡太守に左遷される。
『三國志』を絶賛した荀勗が魏志に気に入らない部分があったためとされるが、倭人条を含む東夷伝が理由の可能性はある。
司馬懿、司馬遷の共通祖先である堯舜の時代から風姓程氏は天文を司る一族であった。
帝俊の妻、羲和は10の太陽を産んだ女神で天照大神にも比定される太陽神だが、その子孫の義氏、和氏は夏王朝の天文官であった。
天文は、海洋交易民縄文人の子孫東夷族が得意とする分野だったのだろう。
程氏は顓頊帝の孫、重黎の後裔で火神祝融の子孫という。
程伯休甫は周公東征に従った。
この時征服した國家は、
殷、東、徐、熊、盈、攸、商蓋(奄)、九夷、豐、敷古(蒲姑)、淮夷などの東夷諸國。
殷滅亡後も徐国を筆頭に殷系東夷勢力は強大で、周朝は度々これを攻め、程氏は大司馬の職を授かり子孫は司馬氏を名乗る。
『晋書』宣帝紀では、程伯休甫は周宣王の時に徐方を平定したという。
晋朝が成立すると、司馬炎は程伯休甫に聖祖武皇帝と追贈した(のちに司馬炎自身が武帝の諡号を贈られている)。
少なくとも、司馬炎存命中は東夷征伐の程伯休甫はリスペクトの対象だった。
司馬炎に武帝の諡号が贈られたことは、程伯の武帝追号は無視されたことになる。
陳壽は二代恵帝に称賛され、中央に復帰した。
魏興,西域雖不能盡至,其大國龜茲、于寘、康居、烏孫、疏勒、月氏、鄯善、車師之屬,無歲不奉朝貢,略如漢氏故事。而公孫淵仍父祖三世有遼東,天子爲其絕域,委以海外之事,遂隔斷東夷,不得通於諸夏。景初中,大興師旅,誅淵,又潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡,而後海表謐然,東夷屈服。其後高句麗背叛,又遣偏師致討,窮追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。長老說有異面之人,近日之所出,遂周觀諸國,采其法俗,小大區別,各有名號,可得詳紀。雖夷狄之邦,而俎豆之象存。中國失禮,求之四夷,猶信。故撰次其國,列其同異,以接前史之所未備焉。『三國志』東夷伝序文
魏が興ると、(大司馬曹真の功績によって)月氏(親魏大月氏王)など西域は魏に朝貢したが、
公孫氏が遼東に割拠しと東夷と諸夏(この場合は中華)は遮断された。
景初年間、師旅を興し公孫淵を誅した。
また軍を浮海させ楽浪郡、帯方郡を接収し(これは魏の明帝が派遣した帯方太守劉昕、楽浪太守鮮于嗣の功績。劉昕は東漢氏の祖先)東夷を屈服させた。
その後、高句麗が背いたため、師(毌丘倹)を派遣して討たせ、
(毌丘倹の命で追撃した玄菟太守の王頎は)粛慎の庭に到達し、東の大海に臨んだ。
長老が言うには、異面の人(倭面土=ヤマトの倭人)が居て、日の出る所に近い。
(私、陳壽は)遂に諸国を観察し、その法や習俗を採録し、小大を区別して、それぞれの名号を詳しく記載することができた。
夷狄の邦といえども、俎豆の象が存在している。
中国が礼を失えば、これを四夷に求める(と孔子が言った)のは信用できる。
そこで、その国を撰定し順序立て、その同異を列ねて、前史で未だ備えていなかった所(主に東夷について割愛した『史記』を指していると思われる)を補完することが出来た。
陳壽は、公孫淵を討ったのは司馬懿の功績であるが、陳壽はそこを強調せず、明帝や劉昕、毌丘倹、王頎らの功績を強調している。
そして司馬遷の不備を暗に批判している。
魏が卑弥呼に親魏倭王の称号を贈り、陳壽が倭を誇大に見せる記事を書いたのは、
曹真に対して司馬懿の功績を大きく見せるためという説があるが、
陳壽は司馬一族の祖先と、司馬炎の程伯に対する思いを当然知っていたから(そうでなければ、この時代の歴史家になれるはずがない)、司馬氏におもねるならば東夷伝を書くはずがないのだ。
寧ろ、陳壽が参考にした魏の資料には、倭に対して、より詳細な情報があったかもしれないが、司馬氏にとってタブーといえる東夷伝を起草するにあたってギリギリのところを攻めたのではないか。
それでも、やや筆が滑った部分があったと荀勗が判断し、陳壽の才を惜しんで外地に逃がしたのだろう。
陳壽は司馬昭による高貴郷公弑逆のエピソードは記さず、ただ
五月己醜,高貴鄉公卒,年二十。
とだけ書いた。
帝の死を崩と書かず卒とするのは、異常である。
東晋の明帝は司馬昭らによる簒奪の経緯を知り、顔を覆って「どうして皇祚を長く保つことができようか」と恥じたという。
明帝の生母は鮮卑族であったと伝わる。東晋一の聡明な皇帝であったが、即位2年で27歳の若さで崩御した。
陳壽が書けなかった甘露の変の詳細は南朝宋の時代になって裴松之が作った注によって明らかになっている。
陳壽が書けなかったことと、
司馬遷が書かなかったことは
大きく意味合いが異なる。
日本の歴史家が『史記』に東夷の記述が少ないことを見て、東夷族を軽視し、日本人のルーツを今日まで知ることが出来ず、
日本人のルーツを明らかにする研究が中国人研究者の独壇場になっていることは、非常に遺憾である。
特に、司馬遷が東夷の最重要人物たる少昊金天氏を五帝に数えなかったことは、日本人の歴史理解において致命傷となった。
少昊が西帝とされることも、日本人に少昊と東夷の関係を錯誤させる理由の一つだが、
少昊が東夷の祖でありながら、西帝、白帝とされるのは、秦が西遷した際に大祖先の少昊を西の帝として祀ったことによる。
少昊の孫の帝嚳の子には
堯(祁姓、漢劉氏祖)
后稷(姫姓、周、北斉高氏、隋・十国呉楊氏、周武則天祖)
契(子姓、殷、箕子朝鮮、春秋宋、孔氏、萊夷、烏桓祖)
があり、
その後裔である東夷諸王家は帝嚳を東の天帝、上帝、帝俊として祀った。
帝俊は日本(蓬莱、扶桑、瀛洲)に居ると信じられており、
始皇帝や漢の武帝は芝罘(煙台)や
碣石など倭人が交易にやって来る場所を東夷族の聖地として訪れ神事を行った。
このことを唐の太宗李世民は、『春日望海』の詩に詠んだ。
披襟眺滄海,憑軾玩春芳。積流橫地紀,疏派引天潢。
仙氣凝三嶺,和風扇八荒。拂潮雲布色,穿浪日舒光。
照岸花分彩,迷雲雁斷行。懷卑運深廣,持滿守靈長。
有形非易測,無源詎可量。洪濤經變野,翠島屢成桑。
之罘思漢帝,碣石想秦皇。霓裳非本意,端拱且圖王。
漢民族の祖先とされる
黄帝軒轅氏(姫姓、北魏拓跋氏・元氏、西夏拓跋氏・李氏、南涼・吐蕃禿髪氏・源氏祖)、
黄帝の子孫である
顓頊高陽氏(高夷、高句麗・北燕高氏祖)
帝舜有虞氏(嬀姓、春秋陳、戦国斉田氏、新王氏、仲・中華袁氏、呉孫氏、南朝陳、ベトナム胡朝祖)
禹王夏后氏(姒姓、匈奴攣鞮氏、胡漢劉氏、胡夏赫連氏、春秋越、魏曹氏=夏侯氏祖)
も東夷族である。
こうして見ると、中国歴代王朝だけでなく、周辺異民族の王朝も殆どが黄帝(但し、一般的には少昊は黄帝の子であるが、少昊を黄帝の父とする説も存在する)に連なる東夷族であり、炎黄も兄弟で太昊伏羲氏に連なる万世一系の祖先伝承を持っている。
さらに突厥可汗阿史那氏は匈奴王子と雌狼の女神アセナを始祖とし、唐代の阿史那氏墓誌には匈奴単于の功績を讃えるものがあり、
チンギス・ハーンのボルジギン氏は阿史那氏と似た狼を祖先とする伝承がある他、吐蕃王家を始祖とする説がある。
テュルク系では、全ての王家はオグズ可汗の子孫であり、オグズ可汗は冒頓単于であるとされ、ハンガリーやブルガリアの建国者もアッティラを介して始祖冒頓に繋がる。
カール大帝も女系でアッティラの子孫であることを標榜した。
リューリク朝も阿史那氏説が有力になっている。
考古学的(遺伝子なども含め)には、匈奴攣鞮氏や突厥阿史那氏は遼河文明紅山文化人の流れを汲む可能性が高く、
オスマン家の出身母体であるカイ族の源流は遼河水系シラムレン付近の奚(庫莫奚、クマン・カイ)に繋がる説がある。
庫莫奚はまた、宇文部支流の一つであり、炎帝に連なる氏族とされる(契丹も宇文支流であり、ボルジギン氏に繋がる蒙兀室韋も宇文支流)。
世界の王家が源流を辿れば、現代日本人に最も近いという紅山文化に行き着く祖先伝承を持ち、実際に考古学的に紅山文化との関係が指摘されている。
殷の祖先の契は帝嚳の妃である簡狄で、彼女は玄鳥の卵を呑んで身ごもり契が生まれたという。
如何にも東夷族的な鳥トーテム、卵生神話にも近い逸話だが、
帝嚳との血縁が疑われるエピソードでもある。
簡狄は有娀氏の娘とされ、それぞれ北狄、西戎を意味すると思われ、永らく殷王家は北方遊牧民かアーリア人ではないかとする説があったが、
遼河文明の夏家店下層文化(BC2000~1400)との関連性が指摘され、
殷滅亡後に遼河流域への殷系東夷族の拡散と
夏家店上層文化(BC1100~300)との関連から、
殷王家の故地は遼河文明圏で、日琉語を話す東夷族であると考えられるようになっている。
周の祖である后稷の母、姜源も帝嚳の妃であったが、ある時、野に出て、巨人の足跡を踏んだことでにわかに妊娠してしまう。
姜源は、これを不祥として生まれた子を氷の上に棄てたが、鳥がその子を翼で抱き暖めたので、神秘を認め、拾い育てることにしたという。
こちらも親子関係が疑われるエピソードで、やはり鳥が関係する。
姜という姓から、炎帝神農氏との関係や、羌族、また西戎と周が関連すると考えられている。
周は姫姓であり、姜姓炎帝と姫姓黄帝は同族で、
炎黄が共に仰韶文化から始まったと従来は考えられてきた。
周方(姫姓)と羌方(姜姓)が協力して殷に克ったのは、おそらく事実であるが、
沿岸部の東夷文明圏は、かつては内陸の中華文明に劣っていたと考えられてきたが、近年の考古学的成果により、東夷文明圏の先進性が明らかになると、
周も東夷族で、殷によって西遷させられたとする見方も出てきた。
中国では、これまでの黄河流域から全てが始まったという考えから、
中華文明を作ったのは日琉語を話す東夷族、
黄帝は紅山文化の出身という説が広まり、
夷華同源として東夷族を野蛮な未開部族とは見なさない考えが主流になってきている。
今でも日本では、
華夏=文明
蛮夷=未開
というステレオタイプな見方が主流だが、
殷周時代には、夏の遺民と想定される淮夷などを蛮夏と呼んでいる例もあることから、
時代ごとに主導権を握り、天下の中心(中国)を制した勢力が、周辺勢力を蛮夷と呼んでいるに過ぎないことがわかってきた。
南北朝時代には、胡族の北朝が自らを中華、漢族の南朝を島夷と呼んでいる例からも明らかである。
南朝から見れば自らが中華であり、北朝は胡【えびす】であった。
また、周辺異民族も中華を制すれば、自らを黄帝の子孫であると称したのである。
こうした祖先伝承が全て真実である可能性は低いが、
少なくとも、始皇帝や漢武帝、唐太宗は、渤海湾や山東から東の海上に祖先を見て祀った。
祖先とする東夷族の伝承を信じていたのであろう。
大祖先である少昊は東夷族であり、東の海上に居るという。
帝嚳は東の天帝・帝俊と同一視され、
少なくとも秦皇帝家や漢皇帝家、その子孫であるという秦氏や倭漢氏は、そう信じていたのは歴史的事実である。
唐の高宗は、660年に天皇を称し、663年に白村江で倭軍を破り、666年に泰山で東夷の倭王、新羅王を従え封禅の儀を執り行った。
大汶口文化の故地である泰山で封禅を行ったのは
秦始皇・二世、漢武帝、後漢光武帝・章帝・安帝、隋文帝、唐高宗・玄宗、宋真宗、清聖祖・高宗である。
中国統一王朝で封禅を行っていないのは晋元明で、
晋皇帝家は東夷を征伐した祖先伝承を持つ司馬氏であった。
臺與が親密だった魏との関係から一転して、晋初に朝貢を停止し、晋も臺與を親晋倭王と認めた記録が無い。
晋にとって東の天帝は重要ではなかったのだろう。
元はフビライが日本との国交を願ったが果たせず、二度の日本遠征で手痛い敗北を喰らった。
日出処を祀る気にはなれなかったのであろう。
庶民出身の明皇帝家には、そもそも東夷の祖先を祀る伝承は無かった。
封禅を行った王朝は、明確に東夷の祖先伝承を持ち、東の海上にいるとされる大祖先を祀ったのである。
嬴姓(少昊族)の秦は、東夷系の土器を使用しており、山東から陝西へ転封された伝承が事実であることが明らかになっている。
始皇帝は、同じ少昊族の嬴姓徐夷の末裔である徐福を遣わして日本を探索させた。
秦滅亡後、秦の王族は、同じ嬴姓趙氏である趙の王族と区別するため秦氏を名乗る。
秦人が東を目指し、韓半島(南部ではなく楽浪郡に存在した可能性が高いとされる)の秦韓を経て倭国に渡り秦王国を建て、秦氏として日本に仕えた、というのは、彼らの祖先伝承を考慮すれば何一つ矛盾は無い。
漢にしても、魏の時代に靈帝子孫劉昕が帯方郡太守となり、倭国女王との交渉を経て、東に聖帝がいると知り、313年に高句麗が楽浪郡・帯方郡を占領し漢人の虐殺を始めると(これ以降、楽浪帯方に漢式墓が見られなくなる)、韓半島南部の倭国勢力圏に逃れ、のちに帰化して倭漢氏となったという伝承には無理がない。
坂上氏系譜では
靈帝宏➡南海王➡石秋王延➡帯方太守昕(弟に百済上柱国楯)➡帯方太守昉➡沂州司馬曻➡阿知使主照➡都賀使主➡高貴王阿多倍➡東漢直掬直
となっている(諸説あり)。
難升米が帯方郡を訪れた時(238年)には、既に帯方太守は劉夏に交代していたが、『魏晋南北朝論拾遺』によれば劉夏は楽浪太守劉茂と同族とされる。
劉茂の一族は前漢宣帝子孫で王莽に廃された楚王家の末裔。
帯方・楽浪に漢皇室に連なる一族が複数居たのは間違いない。
『三國志』韓伝を見れば、三国時代から晋初にかけて三世紀の馬韓や辰韓が倭国に比べ未開地域なのは明らかであり、文化的に進んでいるのは秦漢人の居住区域だけであった。
倭国に中国の先端技術をもたらした倭漢氏、秦氏が(漢人といえど庶民には技術はないので)先進文化や職工を抱えた秦漢系王侯貴族であった可能性は高い。
永嘉の乱によって西晋が乱れ、309年に山陽公(献帝末裔の後漢本宗家)劉秋が胡漢の将軍汲桑によって殺害され山陽公家は断絶する。
胡漢の劉淵は匈奴が漢皇室と婚姻し女系で劉氏の血を引くことから、蜀漢の後継を標榜しており、後漢皇帝家は邪魔であったと思われる。
東晋はのちに山陽公末裔を探す詔勅を出したが見つからず、安楽公家(劉備の子孫)を立てて山陽公家を復活させている。
劉備の血統より山陽公家に近い(大量にいたはずの)後漢皇族が見つからないのも解せぬ話で、
献帝子孫も含め後漢皇族が帯方劉氏に身を寄せ、のちに一族大挙して日本に渡り倭漢氏族を形成したというのは、充分ありうるストーリーだろう。
『新選姓氏録』では山陽公劉秋の弟、劉信が坂上一族当宗氏の祖とされる他、献帝に連なる複数の家系が帰化して倭漢氏族を構成した。
ただ、秦氏にせよ倭漢氏にせよ、彼らと共に倭国へ渡った門人、使用人の中には、現地採用された濊貊や韓人も含まれていただろうし、
永らく中国の西域への窓口であった秦には、ソグド人やイラン人との混血もあっただろう。
また、春秋時代の黄河下流域に、現代ヨーロッパ集団、現代トルコ集団とクラスターを形成する人類集団がいたことが古人骨のDNA解析から明らかになっている。
中国の研究者は、
東夷族はオーストロネシア語と接触した日琉語話者であるとし、漢字を発明したのは東夷族であるとする他、
古羌が印欧語を話していたとする説がある。
中国語はシナ・チベット語族の中でも特異な言語であり、文語に起源があるという説がある。
日琉語族が、てにをはを省略し、語順を変えて記録に用いた漢文(読む時は倭訓で読み下す)を、そのままの語順で音読したものが中国語になったという。
始皇帝は文字を統一したが、地域によって発音は異なったまま会話は通じず、漢文を書いて筆談することで意思の疎通を図っていたが、これは方言がきつい江戸時代の日本でも同様であった(逆に漢文が書ければ、中国、朝鮮、日本、越南は意思の疎通が可能だった)。
漢はBC108に衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡など漢四郡を置いて朝鮮半島を支配下に置く。
漢人支配層と現地民のやり取りは当然漢文になる。
現地知識人に漢文教育を普及させ、文書行政が行えるようにする。
同様の漢文普及は越南や雲南でも行われていただろう。
漢代には現代の新疆やベトナム、北朝鮮まで漢人の役人が派遣されたが、その領域の内側にも夜郎、滇、閩越など少数民族の独立国家があり、狄、羌などは長城の内側、漢の領域内で遊牧生活をしていた。
現代中国にも55の少数民族集団が存在するが、永らく中国の行政区域内に暮らしてきたにもかかわらず、彼らは独自の言語や文化を保ってきた。
羌族などは、4000年前から中国王朝の領域内に暮らし、何千回と反乱を繰り返してきたが、完全に滅ぼされることも同化されることもなく、現代も少数民族羌【チャン】族として暮らす。
春秋時代の姜斉や五胡の後秦など中原に独立国家を建てたり、
鮮卑慕容部の支配下に入った吐谷渾、その滅亡後は吐蕃の傘下に入るなど、
漢族、モンゴル族、チベット族などとの同化融合も繰り返してきた。
鮮卑拓跋部に率いられたタングートは西夏を建国。この時は独自の文字を持った。
現代の北部チャン語はタングート語に近いが、漢語やチベット語も話される。
チャン族は古羌の末裔ではあるが、漢蒙藏との混血から、古羌そのものではない(広義の羌はチベット族を含むが、チベット族とチャン族は本来は異なる民族。然し、歴史的経緯から現代チベット族の中に古羌の後裔がいるのは間違いなく、チベット語アムド方言やカム方言話者は古羌の血が入っていると考えられている)。
日本では無知な学者が多く、安易に古羌をチベット系などと言うが、
欧米や中国の研究者は、古羌の言語を印欧語トカラ語派と推定している。
また古代中国に居た允姓之戎も印欧語トカラ語派話者で人種的にヨーロッパに近いともいう。
トカラ語はBC3000頃のアフェナシェヴォ文化(南シベリア~西モンゴル)で話されていたと推定される言語。
ヒッタイトや月氏の言語とする説もある。
『漢書』では月氏と羌は文化や言語が近いとしている。
秦人の祖先は山東東夷族だったが、BC905年に周孝王によって現在の甘粛省張家川回族自治県に秦邑に封じられた。
現代も少数民族自治県となっている場所だから、当時も羌や戎と雑居する土地であったろうし、
だからこそ異民族を慰撫する目的で、
殷末に剛力で知られた悪来の子孫である嬴姓趙氏を周の西域の守りとして封じたのだろう。
呂不韋をソグド人とする説もあるが、姜姓呂氏は羌族と考えられている。
羌斉のあった山東、黄河下流域の春秋時代人がヨーロッパに近い遺伝子を持っていたと判明したことは、羌族印欧語説の傍証の一つになっている。
始皇帝の風貌は、
鼻は高く尖り
目は切れ長
胸は鷹のように突き出ていたとされる。
また、金髪碧眼だった、コーカソイドであったという説があるが、
山東出身で羌戎との雑居地域に移住した嬴姓趙氏が(呂不韋とは関係なく)コーカソイド的な文化や風貌をしていても何の不思議もない。
漢族にモンゴロイド要素が強まったのは、寧ろ胡漢融合で北東アジア人が流入した以降であるかもしれない。
前漢は高祖が白登山で冒頓単于に大敗して以来、
事実上、匈奴に従属していた。
東アジア最大の国家は匈奴単于国で、漢は毎年、大量の絹、米、酒を匈奴に貢納することになった。
匈奴は漢から贈られた米を食べ、絹を西域に転売して莫大な利益を上げた。
漢が匈奴に一矢報いたのは武帝の時代で、衛青、霍去病が匈奴を撃破した。
西域には張騫を派遣して情報を得ると、烏孫には公主を嫁がせ交易路が開かれた。
南は南越を滅ぼし、夜郎と滇を従属させた。
BC108年には衛氏朝鮮を滅ぼし、韓半島に四郡を置く。
漢帝国を東アジア最強の国とし、四方の周辺異民族に影響力を及ぼした武帝はBC110に最初の封禅を行い、BC89までに八回も封禅を行う。
この頃、
然東夷天性柔順,異於三方之外,故孔子悼念不行,設浮於海,欲居九夷,有以也夫!樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時獻見雲。『漢書』
楽浪海中(渤海湾岸)に現れる倭人について言及される。
陳壽は『三國志』東夷伝と併せて読めば、中国で礼が失われた時、孔子が浮海して(大海に筏を浮かべて)行きたいと言った九夷が俎豆の礼が残る倭国のことであることがわかる。
東夷(の王)=九夷=倭人である。
太后秉統數年,恩澤洋溢,和氣四塞,絕域殊俗,靡不慕義。越裳氏重譯獻白雉,黃支自三萬里貢生犀,東夷王度大海奉國珍,匈奴單于順制作,去二名,今西域良願等復舉地為臣妾,昔唐堯橫被四表,亦亡以加之。『漢書』王莽伝
前漢末、王莽は東夷王が海を渡り国珍を奉じたことを王氏政権の権威を高めるためのプロパガンダに使った。
東夷王=倭王=東の天帝の権威を中華皇帝の正統性を喧伝する為に利用する事例は、最近では国家主席が就任前に必ず日本の天皇に謁見を求めるように現代まで継続する。
この視点を知っておかないと日中関係を理解することは不可能である。
習近平は事実上の中華皇帝であるが、その正統性を担保したのは就任前に謁見した明仁天皇であり、
また、天安門事件を収束させたのは明仁天皇訪中であったことは、
当時の中国外交部長である銭其琛が「天皇訪中は六四天安門事件での西側諸国の対中制裁の突破口という側面もあった」と事情を明らかにしている。
維新後、日本は中華民国を中華の正統と認めず、支那共和国と呼んだ。
満州皇帝溥儀にも中華皇帝としての復権を認めなかったが、
昭和天皇は汪兆銘政権を中華民国として承認した。
中華皇帝の権威を日本天皇(東夷天帝)の権威によって担保するというのは、東アジア華夷文明圏の四千年続く伝統的な安全保障手段であり、鬼畜米英に口出しされる筋合いの無いものである。
『今本竹書紀年』による東夷諸族と中国の交渉
夏紀
相 七年 於夷來賓。
少康 二年 方夷來賓。
芬 三年 九夷來禦。
發 元年 諸夷入舞。
殷紀
太戊 六十一年 東九夷來賓。
武丁 三十二年 伐鬼方。 次於荊。
三十四年 王師克鬼方。氐、羌來賓。
周紀
武王 十二年辛卯,王率西夷諸侯伐殷
十五年 肅慎來賓
十六年 箕子來朝。
成王 元年 武庚以殷叛。周文公出居於東。
二年 奄人、徐人及淮夷入於鄔以叛。秋,大雷電以風,王逆週文公於郊。遂伐殷。
三年 王師滅殷。
九年 肅慎氏來朝,王使榮伯錫肅慎氏命。
二十四年 於越來賓。
二十五年 王大會諸侯於東都,四夷來賓。
新が滅んだ時、前漢最後の皇太子であった劉嬰が即位したが更始帝に攻められ弑逆された。
更始帝は景帝末裔で候であったのは曽祖父の舂陵侯劉熊渠の代までで祖父劉利は傍流である。
赤眉帝劉盆子は高祖劉邦庶子の末裔で父の代に庶民に落とされていた。
光武帝劉秀は、やはり舂陵侯家の傍流で劉熊渠の弟劉外が曽祖父にあたる。
更始帝、赤眉帝との争いを制し、後漢を建てた光武帝であったが、劉氏一族ではあるものの前漢皇帝本宗家との血縁は遠く、血統上の権威は磐石では無かった。
最終的に成家皇帝公孫術を倒し光武帝が中華統一を果たしたのは建武十二36年であった。
先に上げた楽浪太守劉茂の祖先で楚王家嫡流の劉般は建武八33年に楚王家の祭祀を光武帝に命じられ甾丘候に封じられているが、前漢宗族の格では劉般が上になる。
のち劉般は光武帝側近となり、
明帝の代には行執金吾事、章帝の代には宗正を務めた。
光武帝は晩年の建武中元元56年2月に封禅を行い翌57年2月5日に崩御。
中元二年春正月辛未,初立北郊,祀后土。
東夷倭奴國主遣使奉獻。
二月戊戌,帝崩於南宮前殿,年六十二。『後漢書』光武帝紀
金印を賜った倭奴国遣使奉献は、崩御直前の出来事であった。
この遣使は封禅のため東へ巡狩した際に後漢から煙台を訪れる倭人へ要請したものではないか。
或いは楽浪郡を通して封禅之儀以前の要請であったかもしれない。
奴国王は倭を代表する政権では無かったが金印を賜ったのは、光武帝の権威を高める為に、そんなことはどうでもよかったのだろう。
百余国に分かれ頻繁に朝見に訪れていた倭人の記事をあえて本紀に載せるには、中国側に相応の理由があったはずである。
永初元年冬十月,倭國遣使奉獻。『後漢書』孝安帝紀
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。
安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。『後漢書』東夷伝
安帝は106年に13歳で即位。
倭国王来禦は翌107年である。
今回は倭奴国ではない。
正式なヤマトの倭国王である。
安帝劉祜は清河孝王劉慶の子であったが、和帝の子は次々と夭折し、劉祜が皇太子に立てられたが、讒言により廃され清河王に落とされていた(劉慶も一度廃太子となっている)。
和帝が崩御すると生後百日の殤帝が即位したが二歳で崩御し、ようやく安帝が擁立された。
この年、劉慶が薨去。
未だ元服前の安帝の立場は微妙である。
このタイミングでの倭国王来禦は政権基盤を固めたい安帝にとってビッグイベントとなったのは間違いない。
生口160人を引率するのだから、総勢4~500名が大船団を組んで現れたのではないか。
首都洛陽での倭国使節団は大パレードで迎えられ、さぞ大勢の見物客で賑わい、国威発揚の一大行事として若き皇帝の権威を多いに高めたのであろう。
然し、安帝の治世の大半は皇太后の鄧綏と兄の鄧騭が運営した。
鄧氏兄妹は外戚としては良質な政権運営を行ったが、
先零羌の反乱は十年続き、烏桓、鮮卑、南匈奴、武陵蛮、越巂夷、高句麗、濊貊などが相次ぎ反乱、
天候不順が続き飢饉が蔓延した。111年と117年には日食も起きた。
121年に鄧綏が崩御すると、安帝は鄧氏一族を粛清。
この年は濊貊、鮮卑、高句麗、馬韓、焼当羌の侵攻があった。
122年も天候不順が続き、鮮卑の攻撃も止まず。
123年には楊震を大尉に任命。
安帝側近の宦官らが暗躍する事態に楊震は安帝を強く諌めたが、安帝は聞き入れなかった。
南匈奴の協力により鮮卑は敗れた。
124年、安帝は東に巡狩し封禅を行う。
京師に帰還すると楊震を罷免。
最終的に楊震を自決に追い込む。
南匈奴が叛き、鮮卑が侵攻したが、安帝は長安に行幸。
125年、2月に安帝は南に巡狩したが3月に32歳で崩御。
安帝の祖父章帝も85年に封禅を行っているが、班超の活躍もあり西域との交通を復活させるなど、成果はあった。
安帝の時代は相次ぐ異民族の侵攻で西域を失い、
倭国王来禦の一大イベントを活かせず韓半島も不安定になった。
名臣楊震の諫言も入れず、
封禅や行幸など晩年の国威発揚事業も不発に終わり、
宦官の台頭など後漢衰退の原因を作った。
封禅を行った皇帝は、名君が多いが、秦二世胡亥と並び、目立った功績を上げられないまま親政開始五年で安帝はこの世を去った。
《つづく》