縄文家族|天竜楽市

縄文家族|天竜楽市

天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️



華北平原に住んでいた倭人

低地(山東)の東夷(夷=委)が倭人、人方
高地(山西)の委人が巍(魏)、鬼方

倭は稲玉を持って低く踊る様
嵬は高いを意味する

高宗伐鬼方。三年克之。
殷の高宗(武丁)は鬼方を討伐し、三年してこれに勝利した。『易経』既済篇

殷は鬼方、人方を攻撃していたが、殷もまた衣(夷)なり。

夷人は良い着物を来ていたから衣人とも云い、(本来は)物腰柔らかく委と云う。

鬼方は古羌であり、印欧語を話していたとも云われるが、匈奴の前身とする説もある。

匈奴は断髪文身、夏后氏(夏王朝)末裔。
長江下流域の越人も断髪文身、夏后氏末裔。
倭人は断髪文身。

倭人(隼人族)宗像(胸形)氏は胸に刺青(文身)
匈奴の匈=胸、胸に刺青。

良渚文化(BC3300~2000)は長江下流域で高度な灌漑水田、治水事業階層化社会、神権政治、国家形成、太陽神、鳥トーテム(鳥夷=日本人的先祖)

良渚文化人支配層が淮水を遡り黄河中流域に進出
二里頭文化(BC2070~1520)
夏王朝、中原での水稲耕作開始
淮水流域から米の貢納

四川三星堆文化(BC2000~1400)
都市建設、青銅器祭祀
良渚文化様式の翡翠

良渚文化人の一部は長江上流域で三星堆文化を築き、その末裔が現代の雲南に住む少数民族の彝(イ)族という。

彝族はのイは、本来は夷族、または倭族と書いた。
夷=倭であるが、彼ら長江倭人は、倭人(縄文人)と似た文化を持つが、日本へ来たのではなく、
良渚➡三星堆➡雲南と内陸へ移動した東夷族。

良渚文化の跡地(長江下流域)は
馬橋文化(BC1900~1200)に引き継がれたが、
馬橋文化は良渚文化的農耕経済・玉器・階層社会が消失、
狩猟採集生活に回帰、陶器も粗雑になる。

良渚文化人の一部は越文化へ、或いは台湾から太平洋へ拡散(ラピタ人、オーストロネシア語族)

夏王朝、殷王朝期には長江下流域の灌漑水田稲作文化は(おそらく洪水によって破壊され)衰退。


淮水流域が灌漑水田稲作の中心地となる。
黄河は黄砂堆積により華北平原では天井川となっているため、淮水の支流は黄河本流に迫っている。

1128年には南宋が金の侵入を防ぐため、黄河の堤防を破壊。
黄河本流は淮水に流れ込み、淮水下流に溢れた水は巨大な洪沢湖を形成、さらに溢れた水が長江に合流した。

黄河の南流は1855年まで700年続き、洪水によって今度は済水が黄河本流となった。

有史以来、黄河、済水、淮水、長江の四河川は何度も氾濫し、度々流路を変えている。


洪水による良渚文化の消失、夏王朝の中原進出と灌漑水田が淮水流域へ移行するといった考古学的に確認される推移は、
鯀(東夷族であるという)の治水事業失敗、禹王による治水事業成功、夏王朝成立という伝説に合致する。

良渚文化に先行する長江下流域の河姆渡文化(BC5000~4000)は、鬼界カルデラ噴火(BC5300)後に勃興する文化で、
早期末縄文文化と玦状耳飾り、縄文のついた土器、漆器、木工技術などに共通点が見られ、
縄文人との交流が確認される。

彝族や台湾先住民などには縄文文化との共通要素が見られるが、稲作衰退期の長江倭人が弥生人の祖先になったわけではなく、寧ろ長江倭人(その文化は彝族を介して、チベット、ビルマ、タイへ。越人を介してベトナムへ伝搬)のルーツの一つが縄文類似文化である。

同時期の
遼寧興隆窪文化(BC6200~5400)
山東後李文化(BC6400~5700)
河南裴李崗文化(BC7000~5000)
朝鮮櫛目文土器文化(BC6000~)
などにも縄文文化との交流、類似要素が見出される。

続く
遼寧紅山文化(BC4700~2900)
河南仰韶文化(BC5000~2700)
山東大汶口文化(BC4100~2600)
そして良渚文化には
中~晩期縄文文化との共通要素に加え
早くも弥生文化的要素が見出される。

中国の研究では、
東夷族が山東、遼寧、江蘇浙江の沿岸部(東夷文明圏)で、それぞれ黄河、遼河、長江文明を築き、中華文明の源流を作ったのだという。

さらに中国の研究者によれば、東夷族の言語は、
オーストロネシア語と接触した日琉語であるという。

中国の研究者はまた、
黄帝を紅山文化人であるとした上で、
仰韶文化など内陸の彩陶を用いる文明を西羌文明とし、炎帝神農氏に結びつけ、
黄帝の子孫が漢族となり
炎帝の子孫が日本人になったという。

紅山文化は弥生の原郷の一つとされるが、
紅山文化人の人骨を解析した結果、最も近いのは現代日本人であり、次いで韓国人である。

黄帝、檀君、瓊瓊杵尊の伝承は紅山文化の同一人物がルーツであるかもしれない。

1紅山文化 2 大汶口文化 3仰韶文化 4河姆渡文化

炎帝神農氏(羌姓、春秋斉呂氏、北周宇文氏・宇文支流遼耶律氏祖)は日本の天皇氏の男系祖先であるスサノヲ(=牛頭天王)と同一視されているが、
神武朝の初期大王家は彦火火出見尊(炎尊=炎帝)の称号を世襲していた。

黄河や沿海州悪魔の門の古人骨からは、縄文人祖先がいたことが確認されている。

大陸に進出した縄文人が現地で混血し、弥生人となって帰って来たのである。

縄文早期、前期だけではなく、中期、後期、晩期において縄文人と東夷文明圏の交流が確認されている。



東夷族の祖は
太昊伏羲氏(太昊族、風姓、晋司馬氏祖)
少昊金天氏(少昊族、嬴姓、秦趙氏・秦氏、西涼・唐李氏、高麗王氏、黠戛斯可汗阿熱氏、戦国趙・北宋南宋趙氏、徐夷、諸葛氏、金官加羅金氏祖)

太昊族、少昊族が東夷族の二大支族であったが、太昊族風姓程氏は周代に少昊系東夷族の征伐で功を上げ司馬の氏を賜り、子孫の司馬遷は『史記』に東夷族の詳細を記さず、少昊を五帝に数えなかった。司馬遷と司馬懿は遠い同族になる。

このため晋の時代に陳壽は『三國志』で初めて東夷伝を立て、倭人について明らかにした。
陳壽『三國志』は荀勗らに絶賛されたが、陳壽は領著作郎を罷免され、のち長広郡太守に左遷される。
『三國志』を絶賛した荀勗が魏志に気に入らない部分があったためとされるが、倭人条を含む東夷伝が理由の可能性はある。

司馬懿、司馬遷の共通祖先である堯舜の時代から風姓程氏は天文を司る一族であった。
帝俊の妻、羲和は10の太陽を産んだ女神で天照大神にも比定される太陽神だが、その子孫の義氏、和氏は夏王朝の天文官であった。
天文は、海洋交易民縄文人の子孫東夷族が得意とする分野だったのだろう。

程氏は顓頊帝の孫、重黎の後裔で火神祝融の子孫という。
程伯休甫は周公東征に従った。
この時征服した國家は、
殷、東、徐、熊、盈、攸、商蓋(奄)、九夷、豐、敷古(蒲姑)、淮夷などの東夷諸國。
殷滅亡後も徐国を筆頭に殷系東夷勢力は強大で、周朝は度々これを攻め、程氏は大司馬の職を授かり子孫は司馬氏を名乗る。
『晋書』宣帝紀では、程伯休甫は周宣王の時に徐方を平定したという。
晋朝が成立すると、司馬炎は程伯休甫に聖祖武皇帝と追贈した(のちに司馬炎自身が武帝の諡号を贈られている)。

少なくとも、司馬炎存命中は東夷征伐の程伯休甫はリスペクトの対象だった。
司馬炎に武帝の諡号が贈られたことは、程伯の武帝追号は無視されたことになる。
陳壽は二代恵帝に称賛され、中央に復帰した。


魏興,西域雖不能盡至,其大國龜茲、于寘、康居、烏孫、疏勒、月氏、鄯善、車師之屬,無歲不奉朝貢,略如漢氏故事。而公孫淵仍父祖三世有遼東,天子爲其絕域,委以海外之事,遂隔斷東夷,不得通於諸夏。景初中,大興師旅,誅淵,又潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡,而後海表謐然,東夷屈服。其後高句麗背叛,又遣偏師致討,窮追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。長老說有異面之人,近日之所出,遂周觀諸國,采其法俗,小大區別,各有名號,可得詳紀。雖夷狄之邦,而俎豆之象存。中國失禮,求之四夷,猶信。故撰次其國,列其同異,以接前史之所未備焉。『三國志』東夷伝序文

魏が興ると、(大司馬曹真の功績によって)月氏(親魏大月氏王)など西域は魏に朝貢したが、
公孫氏が遼東に割拠しと東夷と諸夏(この場合は中華)は遮断された。
景初年間、師旅を興し公孫淵を誅した。
また軍を浮海させ楽浪郡、帯方郡を接収し(これは魏の明帝が派遣した帯方太守劉昕、楽浪太守鮮于嗣の功績。劉昕は東漢氏の祖先)東夷を屈服させた。
その後、高句麗が背いたため、師(毌丘倹)を派遣して討たせ、
(毌丘倹の命で追撃した玄菟太守の王頎は)粛慎の庭に到達し、東の大海に臨んだ。
長老が言うには、異面の人(倭面土=ヤマトの倭人)が居て、日の出る所に近い。
(私、陳壽は)遂に諸国を観察し、その法や習俗を採録し、小大を区別して、それぞれの名号を詳しく記載することができた。
夷狄の邦といえども、俎豆の象が存在している。
中国が礼を失えば、これを四夷に求める(と孔子が言った)のは信用できる。
そこで、その国を撰定し順序立て、その同異を列ねて、前史で未だ備えていなかった所(主に東夷について割愛した『史記』を指していると思われる)を補完することが出来た。

陳壽は、公孫淵を討ったのは司馬懿の功績であるが、陳壽はそこを強調せず、明帝や劉昕、毌丘倹、王頎らの功績を強調している。
そして司馬遷の不備を暗に批判している。

魏が卑弥呼に親魏倭王の称号を贈り、陳壽が倭を誇大に見せる記事を書いたのは、
曹真に対して司馬懿の功績を大きく見せるためという説があるが、
陳壽は司馬一族の祖先と、司馬炎の程伯に対する思いを当然知っていたから(そうでなければ、この時代の歴史家になれるはずがない)、司馬氏におもねるならば東夷伝を書くはずがないのだ。

寧ろ、陳壽が参考にした魏の資料には、倭に対して、より詳細な情報があったかもしれないが、司馬氏にとってタブーといえる東夷伝を起草するにあたってギリギリのところを攻めたのではないか。
それでも、やや筆が滑った部分があったと荀勗が判断し、陳壽の才を惜しんで外地に逃がしたのだろう。

陳壽は司馬昭による高貴郷公弑逆のエピソードは記さず、ただ
五月己醜,高貴鄉公卒,年二十。
とだけ書いた。
帝の死を崩と書かず卒とするのは、異常である。

東晋の明帝は司馬昭らによる簒奪の経緯を知り、顔を覆って「どうして皇祚を長く保つことができようか」と恥じたという。
明帝の生母は鮮卑族であったと伝わる。東晋一の聡明な皇帝であったが、即位2年で27歳の若さで崩御した。

陳壽が書けなかった甘露の変の詳細は南朝宋の時代になって裴松之が作った注によって明らかになっている。

陳壽が書けなかったことと、
司馬遷が書かなかったことは
大きく意味合いが異なる。

日本の歴史家が『史記』に東夷の記述が少ないことを見て、東夷族を軽視し、日本人のルーツを今日まで知ることが出来ず、

日本人のルーツを明らかにする研究が中国人研究者の独壇場になっていることは、非常に遺憾である。

特に、司馬遷が東夷の最重要人物たる少昊金天氏を五帝に数えなかったことは、日本人の歴史理解において致命傷となった。

少昊が西帝とされることも、日本人に少昊と東夷の関係を錯誤させる理由の一つだが、
少昊が東夷の祖でありながら、西帝、白帝とされるのは、秦が西遷した際に大祖先の少昊を西の帝として祀ったことによる。

少昊の孫の帝嚳の子には
堯(祁姓、漢劉氏祖)
后稷(姫姓、周、北斉高氏、隋・十国呉楊氏、周武則天祖)
契(子姓、殷、箕子朝鮮、春秋宋、孔氏、萊夷、烏桓祖)
があり、

その後裔である東夷諸王家は帝嚳を東の天帝、上帝、帝俊として祀った。
帝俊は日本(蓬莱、扶桑、瀛洲)に居ると信じられており、
始皇帝や漢の武帝は芝罘(煙台)や
碣石など倭人が交易にやって来る場所を東夷族の聖地として訪れ神事を行った。
このことを唐の太宗李世民は、『春日望海』の詩に詠んだ。

披襟眺滄海,憑軾玩春芳。積流橫地紀,疏派引天潢。
仙氣凝三嶺,和風扇八荒。拂潮雲布色,穿浪日舒光。
照岸花分彩,迷雲雁斷行。懷卑運深廣,持滿守靈長。
有形非易測,無源詎可量。洪濤經變野,翠島屢成桑。
之罘思漢帝,碣石想秦皇。霓裳非本意,端拱且圖王。

漢民族の祖先とされる
黄帝軒轅氏(姫姓、北魏拓跋氏・元氏、西夏拓跋氏・李氏、南涼・吐蕃禿髪氏・源氏祖)、

黄帝の子孫である
顓頊高陽氏(高夷、高句麗・北燕高氏祖)
帝舜有虞氏(嬀姓、春秋陳、戦国斉田氏、新王氏、仲・中華袁氏、呉孫氏、南朝陳、ベトナム胡朝祖)
禹王夏后氏(姒姓、匈奴攣鞮氏、胡漢劉氏、胡夏赫連氏、春秋越、魏曹氏=夏侯氏祖)
も東夷族である。

こうして見ると、中国歴代王朝だけでなく、周辺異民族の王朝も殆どが黄帝(但し、一般的には少昊は黄帝の子であるが、少昊を黄帝の父とする説も存在する)に連なる東夷族であり、炎黄も兄弟で太昊伏羲氏に連なる万世一系の祖先伝承を持っている。

さらに突厥可汗阿史那氏は匈奴王子と雌狼の女神アセナを始祖とし、唐代の阿史那氏墓誌には匈奴単于の功績を讃えるものがあり、
チンギス・ハーンのボルジギン氏は阿史那氏と似た狼を祖先とする伝承がある他、吐蕃王家を始祖とする説がある。

テュルク系では、全ての王家はオグズ可汗の子孫であり、オグズ可汗は冒頓単于であるとされ、ハンガリーやブルガリアの建国者もアッティラを介して始祖冒頓に繋がる。
カール大帝も女系でアッティラの子孫であることを標榜した。
リューリク朝も阿史那氏説が有力になっている。

考古学的(遺伝子なども含め)には、匈奴攣鞮氏や突厥阿史那氏は遼河文明紅山文化人の流れを汲む可能性が高く、
オスマン家の出身母体であるカイ族の源流は遼河水系シラムレン付近の奚(庫莫奚、クマン・カイ)に繋がる説がある。
庫莫奚はまた、宇文部支流の一つであり、炎帝に連なる氏族とされる(契丹も宇文支流であり、ボルジギン氏に繋がる蒙兀室韋も宇文支流)。

世界の王家が源流を辿れば、現代日本人に最も近いという紅山文化に行き着く祖先伝承を持ち、実際に考古学的に紅山文化との関係が指摘されている。

殷の祖先の契は帝嚳の妃である簡狄で、彼女は玄鳥の卵を呑んで身ごもり契が生まれたという。
如何にも東夷族的な鳥トーテム、卵生神話にも近い逸話だが、
帝嚳との血縁が疑われるエピソードでもある。

簡狄は有娀氏の娘とされ、それぞれ北狄、西戎を意味すると思われ、永らく殷王家は北方遊牧民かアーリア人ではないかとする説があったが、
遼河文明の夏家店下層文化(BC2000~1400)との関連性が指摘され、
殷滅亡後に遼河流域への殷系東夷族の拡散と
夏家店上層文化(BC1100~300)との関連から、
殷王家の故地は遼河文明圏で、日琉語を話す東夷族であると考えられるようになっている。

周の祖である后稷の母、姜源も帝嚳の妃であったが、ある時、野に出て、巨人の足跡を踏んだことでにわかに妊娠してしまう。
姜源は、これを不祥として生まれた子を氷の上に棄てたが、鳥がその子を翼で抱き暖めたので、神秘を認め、拾い育てることにしたという。

こちらも親子関係が疑われるエピソードで、やはり鳥が関係する。
姜という姓から、炎帝神農氏との関係や、羌族、また西戎と周が関連すると考えられている。

周は姫姓であり、姜姓炎帝と姫姓黄帝は同族で、
炎黄が共に仰韶文化から始まったと従来は考えられてきた。

周方(姫姓)と羌方(姜姓)が協力して殷に克ったのは、おそらく事実であるが、

沿岸部の東夷文明圏は、かつては内陸の中華文明に劣っていたと考えられてきたが、近年の考古学的成果により、東夷文明圏の先進性が明らかになると、
周も東夷族で、殷によって西遷させられたとする見方も出てきた。


中国では、これまでの黄河流域から全てが始まったという考えから、
中華文明を作ったのは日琉語を話す東夷族、
黄帝は紅山文化の出身という説が広まり、
夷華同源として東夷族を野蛮な未開部族とは見なさない考えが主流になってきている。

今でも日本では、
華夏=文明
蛮夷=未開
というステレオタイプな見方が主流だが、
殷周時代には、夏の遺民と想定される淮夷などを蛮夏と呼んでいる例もあることから、
時代ごとに主導権を握り、天下の中心(中国)を制した勢力が、周辺勢力を蛮夷と呼んでいるに過ぎないことがわかってきた。

南北朝時代には、胡族の北朝が自らを中華、漢族の南朝を島夷と呼んでいる例からも明らかである。
南朝から見れば自らが中華であり、北朝は胡【えびす】であった。

また、周辺異民族も中華を制すれば、自らを黄帝の子孫であると称したのである。

こうした祖先伝承が全て真実である可能性は低いが、
少なくとも、始皇帝や漢武帝、唐太宗は、渤海湾や山東から東の海上に祖先を見て祀った。
祖先とする東夷族の伝承を信じていたのであろう。

大祖先である少昊は東夷族であり、東の海上に居るという。
帝嚳は東の天帝・帝俊と同一視され、
少なくとも秦皇帝家や漢皇帝家、その子孫であるという秦氏や倭漢氏は、そう信じていたのは歴史的事実である。

唐の高宗は、660年に天皇を称し、663年に白村江で倭軍を破り、666年に泰山で東夷の倭王、新羅王を従え封禅の儀を執り行った。

大汶口文化の故地である泰山で封禅を行ったのは
秦始皇・二世、漢武帝、後漢光武帝・章帝・安帝、隋文帝、唐高宗・玄宗、宋真宗、清聖祖・高宗である。

中国統一王朝で封禅を行っていないのは晋元明で、

晋皇帝家は東夷を征伐した祖先伝承を持つ司馬氏であった。
臺與が親密だった魏との関係から一転して、晋初に朝貢を停止し、晋も臺與を親晋倭王と認めた記録が無い。
晋にとって東の天帝は重要ではなかったのだろう。

元はフビライが日本との国交を願ったが果たせず、二度の日本遠征で手痛い敗北を喰らった。
日出処を祀る気にはなれなかったのであろう。

庶民出身の明皇帝家には、そもそも東夷の祖先を祀る伝承は無かった。

封禅を行った王朝は、明確に東夷の祖先伝承を持ち、東の海上にいるとされる大祖先を祀ったのである。

嬴姓(少昊族)の秦は、東夷系の土器を使用しており、山東から陝西へ転封された伝承が事実であることが明らかになっている。

始皇帝は、同じ少昊族の嬴姓徐夷の末裔である徐福を遣わして日本を探索させた。

秦滅亡後、秦の王族は、同じ嬴姓趙氏である趙の王族と区別するため秦氏を名乗る。
秦人が東を目指し、韓半島(南部ではなく楽浪郡に存在した可能性が高いとされる)の秦韓を経て倭国に渡り秦王国を建て、秦氏として日本に仕えた、というのは、彼らの祖先伝承を考慮すれば何一つ矛盾は無い。

漢にしても、魏の時代に靈帝子孫劉昕が帯方郡太守となり、倭国女王との交渉を経て、東に聖帝がいると知り、313年に高句麗が楽浪郡・帯方郡を占領し漢人の虐殺を始めると(これ以降、楽浪帯方に漢式墓が見られなくなる)、韓半島南部の倭国勢力圏に逃れ、のちに帰化して倭漢氏となったという伝承には無理がない。

坂上氏系譜では
靈帝宏➡南海王➡石秋王延➡帯方太守昕(弟に百済上柱国楯)➡帯方太守昉➡沂州司馬曻➡阿知使主照➡都賀使主➡高貴王阿多倍➡東漢直掬直
となっている(諸説あり)。

難升米が帯方郡を訪れた時(238年)には、既に帯方太守は劉夏に交代していたが、『魏晋南北朝論拾遺』によれば劉夏は楽浪太守劉茂と同族とされる。
劉茂の一族は前漢宣帝子孫で王莽に廃された楚王家の末裔。
帯方・楽浪に漢皇室に連なる一族が複数居たのは間違いない。

『三國志』韓伝を見れば、三国時代から晋初にかけて三世紀の馬韓や辰韓が倭国に比べ未開地域なのは明らかであり、文化的に進んでいるのは秦漢人の居住区域だけであった。

倭国に中国の先端技術をもたらした倭漢氏、秦氏が(漢人といえど庶民には技術はないので)先進文化や職工を抱えた秦漢系王侯貴族であった可能性は高い。

永嘉の乱によって西晋が乱れ、309年に山陽公(献帝末裔の後漢本宗家)劉秋が胡漢の将軍汲桑によって殺害され山陽公家は断絶する。
胡漢の劉淵は匈奴が漢皇室と婚姻し女系で劉氏の血を引くことから、蜀漢の後継を標榜しており、後漢皇帝家は邪魔であったと思われる。

東晋はのちに山陽公末裔を探す詔勅を出したが見つからず、安楽公家(劉備の子孫)を立てて山陽公家を復活させている。
劉備の血統より山陽公家に近い(大量にいたはずの)後漢皇族が見つからないのも解せぬ話で、
献帝子孫も含め後漢皇族が帯方劉氏に身を寄せ、のちに一族大挙して日本に渡り倭漢氏族を形成したというのは、充分ありうるストーリーだろう。
『新選姓氏録』では山陽公劉秋の弟、劉信が坂上一族当宗氏の祖とされる他、献帝に連なる複数の家系が帰化して倭漢氏族を構成した。

ただ、秦氏にせよ倭漢氏にせよ、彼らと共に倭国へ渡った門人、使用人の中には、現地採用された濊貊や韓人も含まれていただろうし、

永らく中国の西域への窓口であった秦には、ソグド人やイラン人との混血もあっただろう。

また、春秋時代の黄河下流域に、現代ヨーロッパ集団、現代トルコ集団とクラスターを形成する人類集団がいたことが古人骨のDNA解析から明らかになっている。

中国の研究者は、
東夷族はオーストロネシア語と接触した日琉語話者であるとし、漢字を発明したのは東夷族であるとする他、
古羌が印欧語を話していたとする説がある。

中国語はシナ・チベット語族の中でも特異な言語であり、文語に起源があるという説がある。

日琉語族が、てにをはを省略し、語順を変えて記録に用いた漢文(読む時は倭訓で読み下す)を、そのままの語順で音読したものが中国語になったという。

始皇帝は文字を統一したが、地域によって発音は異なったまま会話は通じず、漢文を書いて筆談することで意思の疎通を図っていたが、これは方言がきつい江戸時代の日本でも同様であった(逆に漢文が書ければ、中国、朝鮮、日本、越南は意思の疎通が可能だった)。


漢はBC108に衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡など漢四郡を置いて朝鮮半島を支配下に置く。

漢人支配層と現地民のやり取りは当然漢文になる。
現地知識人に漢文教育を普及させ、文書行政が行えるようにする。

同様の漢文普及は越南や雲南でも行われていただろう。

漢代には現代の新疆やベトナム、北朝鮮まで漢人の役人が派遣されたが、その領域の内側にも夜郎、滇、閩越など少数民族の独立国家があり、狄、羌などは長城の内側、漢の領域内で遊牧生活をしていた。

現代中国にも55の少数民族集団が存在するが、永らく中国の行政区域内に暮らしてきたにもかかわらず、彼らは独自の言語や文化を保ってきた。

羌族などは、4000年前から中国王朝の領域内に暮らし、何千回と反乱を繰り返してきたが、完全に滅ぼされることも同化されることもなく、現代も少数民族羌【チャン】族として暮らす。

春秋時代の姜斉や五胡の後秦など中原に独立国家を建てたり、
鮮卑慕容部の支配下に入った吐谷渾、その滅亡後は吐蕃の傘下に入るなど、
漢族、モンゴル族、チベット族などとの同化融合も繰り返してきた。

鮮卑拓跋部に率いられたタングートは西夏を建国。この時は独自の文字を持った。

現代の北部チャン語はタングート語に近いが、漢語やチベット語も話される。
チャン族は古羌の末裔ではあるが、漢蒙藏との混血から、古羌そのものではない(広義の羌はチベット族を含むが、チベット族とチャン族は本来は異なる民族。然し、歴史的経緯から現代チベット族の中に古羌の後裔がいるのは間違いなく、チベット語アムド方言やカム方言話者は古羌の血が入っていると考えられている)。

日本では無知な学者が多く、安易に古羌をチベット系などと言うが、
欧米や中国の研究者は、古羌の言語を印欧語トカラ語派と推定している。

また古代中国に居た允姓之戎も印欧語トカラ語派話者で人種的にヨーロッパに近いともいう。

トカラ語はBC3000頃のアフェナシェヴォ文化(南シベリア~西モンゴル)で話されていたと推定される言語。
ヒッタイトや月氏の言語とする説もある。
『漢書』では月氏と羌は文化や言語が近いとしている。


秦人の祖先は山東東夷族だったが、BC905年に周孝王によって現在の甘粛省張家川回族自治県に秦邑に封じられた。

現代も少数民族自治県となっている場所だから、当時も羌や戎と雑居する土地であったろうし、
だからこそ異民族を慰撫する目的で、
殷末に剛力で知られた悪来の子孫である嬴姓趙氏を周の西域の守りとして封じたのだろう。

呂不韋をソグド人とする説もあるが、姜姓呂氏は羌族と考えられている。
羌斉のあった山東、黄河下流域の春秋時代人がヨーロッパに近い遺伝子を持っていたと判明したことは、羌族印欧語説の傍証の一つになっている。

始皇帝の風貌は、
鼻は高く尖り
目は切れ長
胸は鷹のように突き出ていたとされる。
また、金髪碧眼だった、コーカソイドであったという説があるが、

山東出身で羌戎との雑居地域に移住した嬴姓趙氏が(呂不韋とは関係なく)コーカソイド的な文化や風貌をしていても何の不思議もない。

漢族にモンゴロイド要素が強まったのは、寧ろ胡漢融合で北東アジア人が流入した以降であるかもしれない。

前漢は高祖が白登山で冒頓単于に大敗して以来、
事実上、匈奴に従属していた。

東アジア最大の国家は匈奴単于国で、漢は毎年、大量の絹、米、酒を匈奴に貢納することになった。

匈奴は漢から贈られた米を食べ、絹を西域に転売して莫大な利益を上げた。

漢が匈奴に一矢報いたのは武帝の時代で、衛青、霍去病が匈奴を撃破した。
西域には張騫を派遣して情報を得ると、烏孫には公主を嫁がせ交易路が開かれた。

南は南越を滅ぼし、夜郎と滇を従属させた。
BC108年には衛氏朝鮮を滅ぼし、韓半島に四郡を置く。

漢帝国を東アジア最強の国とし、四方の周辺異民族に影響力を及ぼした武帝はBC110に最初の封禅を行い、BC89までに八回も封禅を行う。

この頃、
然東夷天性柔順,異於三方之外,故孔子悼念不行,設浮於海,欲居九夷,有以也夫!樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時獻見雲。『漢書』

楽浪海中(渤海湾岸)に現れる倭人について言及される。
陳壽は『三國志』東夷伝と併せて読めば、中国で礼が失われた時、孔子が浮海して(大海に筏を浮かべて)行きたいと言った九夷が俎豆の礼が残る倭国のことであることがわかる。
東夷(の王)=九夷=倭人である。

太后秉統數年,恩澤洋溢,和氣四塞,絕域殊俗,靡不慕義。越裳氏重譯獻白雉,黃支自三萬里貢生犀,東夷王度大海奉國珍,匈奴單于順制作,去二名,今西域良願等復舉地為臣妾,昔唐堯橫被四表,亦亡以加之。『漢書』王莽伝

前漢末、王莽は東夷王が海を渡り国珍を奉じたことを王氏政権の権威を高めるためのプロパガンダに使った。

東夷王=倭王=東の天帝の権威を中華皇帝の正統性を喧伝する為に利用する事例は、最近では国家主席が就任前に必ず日本の天皇に謁見を求めるように現代まで継続する。

この視点を知っておかないと日中関係を理解することは不可能である。

習近平は事実上の中華皇帝であるが、その正統性を担保したのは就任前に謁見した明仁天皇であり、
また、天安門事件を収束させたのは明仁天皇訪中であったことは、
当時の中国外交部長である銭其琛が「天皇訪中は六四天安門事件での西側諸国の対中制裁の突破口という側面もあった」と事情を明らかにしている。

維新後、日本は中華民国を中華の正統と認めず、支那共和国と呼んだ。
満州皇帝溥儀にも中華皇帝としての復権を認めなかったが、
昭和天皇は汪兆銘政権を中華民国として承認した。

中華皇帝の権威を日本天皇(東夷天帝)の権威によって担保するというのは、東アジア華夷文明圏の四千年続く伝統的な安全保障手段であり、鬼畜米英に口出しされる筋合いの無いものである。

『今本竹書紀年』による東夷諸族と中国の交渉

夏紀

相 七年 於夷來賓。
少康 二年 方夷來賓。
芬 三年 九夷來禦。
發 元年 諸夷入舞。

殷紀

太戊 六十一年 東九夷來賓。
武丁 三十二年 伐鬼方。 次於荊。
三十四年 王師克鬼方。氐、羌來賓。

周紀

武王 十二年辛卯,王率西夷諸侯伐殷
十五年 肅慎來賓
十六年 箕子來朝。

成王 元年 武庚以殷叛。周文公出居於東。
二年 奄人、徐人及淮夷入於鄔以叛。秋,大雷電以風,王逆週文公於郊。遂伐殷。
三年 王師滅殷。
九年 肅慎氏來朝,王使榮伯錫肅慎氏命。
二十四年 於越來賓。
二十五年 王大會諸侯於東都,四夷來賓。


新が滅んだ時、前漢最後の皇太子であった劉嬰が即位したが更始帝に攻められ弑逆された。

更始帝は景帝末裔で候であったのは曽祖父の舂陵侯劉熊渠の代までで祖父劉利は傍流である。
赤眉帝劉盆子は高祖劉邦庶子の末裔で父の代に庶民に落とされていた。
光武帝劉秀は、やはり舂陵侯家の傍流で劉熊渠の弟劉外が曽祖父にあたる。

更始帝、赤眉帝との争いを制し、後漢を建てた光武帝であったが、劉氏一族ではあるものの前漢皇帝本宗家との血縁は遠く、血統上の権威は磐石では無かった。
最終的に成家皇帝公孫術を倒し光武帝が中華統一を果たしたのは建武十二36年であった。

先に上げた楽浪太守劉茂の祖先で楚王家嫡流の劉般は建武八33年に楚王家の祭祀を光武帝に命じられ甾丘候に封じられているが、前漢宗族の格では劉般が上になる。

のち劉般は光武帝側近となり、
明帝の代には行執金吾事、章帝の代には宗正を務めた。

光武帝は晩年の建武中元元56年2月に封禅を行い翌57年2月5日に崩御。

中元二年春正月辛未,初立北郊,祀后土。
東夷倭奴國主遣使奉獻。
二月戊戌,帝崩於南宮前殿,年六十二。『後漢書』光武帝紀

金印を賜った倭奴国遣使奉献は、崩御直前の出来事であった。

この遣使は封禅のため東へ巡狩した際に後漢から煙台を訪れる倭人へ要請したものではないか。
或いは楽浪郡を通して封禅之儀以前の要請であったかもしれない。

奴国王は倭を代表する政権では無かったが金印を賜ったのは、光武帝の権威を高める為に、そんなことはどうでもよかったのだろう。

百余国に分かれ頻繁に朝見に訪れていた倭人の記事をあえて本紀に載せるには、中国側に相応の理由があったはずである。

永初元年冬十月,倭國遣使奉獻。『後漢書』孝安帝紀

建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。
安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。『後漢書』東夷伝

安帝は106年に13歳で即位。
倭国王来禦は翌107年である。

今回は倭奴国ではない。
正式なヤマトの倭国王である。

安帝劉祜は清河孝王劉慶の子であったが、和帝の子は次々と夭折し、劉祜が皇太子に立てられたが、讒言により廃され清河王に落とされていた(劉慶も一度廃太子となっている)。

和帝が崩御すると生後百日の殤帝が即位したが二歳で崩御し、ようやく安帝が擁立された。
この年、劉慶が薨去。
未だ元服前の安帝の立場は微妙である。

このタイミングでの倭国王来禦は政権基盤を固めたい安帝にとってビッグイベントとなったのは間違いない。

生口160人を引率するのだから、総勢4~500名が大船団を組んで現れたのではないか。

首都洛陽での倭国使節団は大パレードで迎えられ、さぞ大勢の見物客で賑わい、国威発揚の一大行事として若き皇帝の権威を多いに高めたのであろう。

然し、安帝の治世の大半は皇太后の鄧綏と兄の鄧騭が運営した。
鄧氏兄妹は外戚としては良質な政権運営を行ったが、
先零羌の反乱は十年続き、烏桓、鮮卑、南匈奴、武陵蛮、越巂夷、高句麗、濊貊などが相次ぎ反乱、
天候不順が続き飢饉が蔓延した。111年と117年には日食も起きた。

121年に鄧綏が崩御すると、安帝は鄧氏一族を粛清。
この年は濊貊、鮮卑、高句麗、馬韓、焼当羌の侵攻があった。

122年も天候不順が続き、鮮卑の攻撃も止まず。

123年には楊震を大尉に任命。
安帝側近の宦官らが暗躍する事態に楊震は安帝を強く諌めたが、安帝は聞き入れなかった。
南匈奴の協力により鮮卑は敗れた。

124年、安帝は東に巡狩し封禅を行う。
京師に帰還すると楊震を罷免。
最終的に楊震を自決に追い込む。
南匈奴が叛き、鮮卑が侵攻したが、安帝は長安に行幸。

125年、2月に安帝は南に巡狩したが3月に32歳で崩御。

安帝の祖父章帝も85年に封禅を行っているが、班超の活躍もあり西域との交通を復活させるなど、成果はあった。

安帝の時代は相次ぐ異民族の侵攻で西域を失い、
倭国王来禦の一大イベントを活かせず韓半島も不安定になった。
名臣楊震の諫言も入れず、
封禅や行幸など晩年の国威発揚事業も不発に終わり、
宦官の台頭など後漢衰退の原因を作った。

封禅を行った皇帝は、名君が多いが、秦二世胡亥と並び、目立った功績を上げられないまま親政開始五年で安帝はこの世を去った。

《つづく》


アイヌの起源はカムチャツカ

岩宿人、縄文人は古モンゴロイドに分類されるが、
最初に日本列島に到達したY-DE系統はオーストラロイドに近い人々であった。
出アフリカ直後の古人類はソマリ人(Y-E1)、アンダマン人(Y-D1a2b)に似ていたと想定される。


Y-DE(YAP)頻度の高い民族は総じて父権が強く排他的、好戦的で膠着系言語を話す。
ソマリ、アンダマンのオンゲ、センチネル、チベット、ビルマ、ヤマト族に共通する。

一方、岩宿時代(38000~15000BP)の日本には石刃技法を携えた古モンゴロイドY-F、K系統が到達し、
Y-DE系統との共存共栄、互恵関係が築かれた。

縄文時代前期まではY-D1a2aの比率が40%程度と低く、平和が保たれたが、Y-D1a2aの比率が70%まで高まる弥生時代には戦闘の痕跡が増えてくる。
フェニキア人、ベルベル人にも多いYAPは戦闘民族の血脈を示す。

現代アイヌのDNAはサンプル数が少なく決定的なものではないが、
岩宿時代に日琉共通祖先と分岐した非縄文系D1a2aのマーカが八割程度を占める。

アイヌ祖先は岩宿人・縄文人と共通する容貌や遺伝子を持っているものの、縄文時代開始以降に日琉共通祖先との交流は極めて少ない。

アイヌと琉球民族の分岐時期は37745年前と推定されており、
これは日本人(ヤマト・琉球・アイヌ)とアンダマン人(オンゲ・ジャラワ・センチネル)との推定分岐年代45000年と大差がない。

最終氷期最寒冷期(20000BP)に現代人的行動を伴って東南アジアに(環日本海・環東シナ平原地域から)南下した人々は古モンゴロイドが想定される。

文化水準から見れば、南方系古モンゴロイドは岩宿時代の本州島からの南下と考える方が自然である(それ以前の東南アジアに現代人的行動を伴わないオーストラロイド、アボリジニが住んでいたが、Y-C1b系統の彼らが、Y-C1a系統と共に中期旧石器時代、金取~竹佐中原段階に日本に到達し、アンダマン人と共に南下した可能性もある)。

同時期に、最初に北米大陸に進出したのは古モンゴロイドであると推定されるが、岩宿時代末期の日本と共通する大形尖頭器を使用している。



縄文人コネクション仮説(縄文人が太平洋地域に広まった)とする説があるが、
日本から北方への尖頭器、彫刻刀石器の拡散は岩宿時代末期、
北海道とシベリアの細石刃技法の共有は岩宿時代中期、
局部磨製石斧の南方への伝播は岩宿時代後期であり、

古モンゴロイドの岩宿人が
岩宿時代に
シベリア、東南アジア、北米に拡散したと考えられる。

そうした拡散する岩宿人集団の一枝に、
カムチャツカに進出し、
オーストラロイドと古モンゴロイドに共通する特徴を持ったY-D1a2a集団がいた。
彼らは長期間孤立し、祖先的形質を長期に保持していた可能性が高い。

北海道は後期旧石器時代後葉(25000~18000BP)にバイカル湖付近まで共通する細石刃文化圏(湧別技法)に属していた。
当時の北海道は樺太、シベリアと陸続きで古代北東アジア人と交流していたのは間違いない。
この時期の北海道には、アムールや後のニヴフとなる民族の共通祖先がいたと想定される。
ニヴフ語は膠着語で日本語との推定分岐年代は25000年前。

本州島(四国、九州や対馬、種子島は陸続きで一体化していた)は、この時期、大陸とは孤立したナイフ形石器文化を有していた。
この時代の本州岩宿人も膠着語を話していたと想定される。
18000年前に北海道と東アジア(東シナ平原)から細石刃技法が本州へ流入する。

中期旧石器時代のオーストラロイド的形質、岩宿時代の古モンゴロイド的形質を併せ持った原クリル人がカムチャツカに進出したのは、25000年前の北海道が北東アジア文化圏になる以前か、或いは18000年前に東アジアと本州の交流が再開される時期の何れかが想定される。

縄文時代の開始以降、北海道と本州は同じ文化圏に属し、土器や石器の伝播から本州と沿海州、中国沿海部と交流があったのは確かである。
その古代北東アジア人、古代東アジア人は新モンゴロイドである。
沿海州と黄河の8000年前の人骨から12%程度(つまり曾祖父母のうち一人)縄文祖先の遺伝子が検出されている。

アイヌ祖先がオーストラロイド及び古モンゴロイドの祖先的形質を保持出来ていたのは、縄文時代が始まる前に、列島外の孤立した地域にいた可能性が高い。

弥生時代が始まると、僅か数百年で本州の縄文人は新モンゴロイド的形質の強い弥生系縄文人へと移行する。

弥生文化の影響は、北海道の続縄文文化にも及ぶ。
縄文時代晩期、東北と北海道には共通の亀ケ岡文化圏に属していた。

研究者によっては、縄文文化の要素が残り、弥生土器にも縄文を施文する東北全域もまた、続縄文文化であるとする。

最新の研究では、エミシは東北の縄文系弥生人に加え、高句麗人の比率が高いと想定される。
彼らは騎馬文化や製鉄文化を有していた。
当然、彼らが話していたのは膠着語の日琉系言語であったろう。

弥生時代前期以降、渡来人の流入が増えたのは確かである。
然し、BC1000頃に北九州で灌漑水田が開始された頃、使用された土器は縄文土器であった。

学界は灌漑水田農耕の開始を伴う縄文晩期末葉を弥生早期と呼びかえたに過ぎない。
灌漑水田を開始したのは縄文人である。

東日本の灌漑水田開始期も縄文晩期の土器をそのまま継続使用しており、徐々に弥生文化の要素が増えていく。
ある日突然、弥生人が縄文人を駆逐して文化が入れ替わったわけではない。

灌漑水田の開始が弥生文化の開始と定義するなら、稲作の北限を超えた地域は、いつまで経っても弥生文化とは認定されない。

青森の亀ケ岡人はBC400年には水田稲作を開始したが、寒冷のため数世代で一旦放棄している。

北海道の続縄文~擦文文化は、本州の弥生~古墳~中世文化の影響が強い。彼らは農耕にも着手したが、青森で無理だった稲作にはチャレンジしなかっただけである。

3~13世紀のオホーツク文化も縄文文化と無関係ではない。
オホーツク人の縄文祖先要素は24%と推定されている。

擦文文化からアイヌ文化への移行は、縄文から弥生のようには、はっきりしない。
擦文文化からの継承もあるが、異質の要素も入り込んでくる。

縄文と弥生は連続性が認められるが、多くの渡来人が流入し、特に前期以降に新たな文化要素が加わったのは明らかだ。

擦文文化からアイヌ文化の移行には、北からの渡来人の流入を全く想定しないというのは不可解である。
擦文文化までの和人文化に比較的近い様相から、ある程度擦文要素は引き継ぐものの、和人とは全く様相の異なる文化に変容するからだ。

安藤氏が夷島に進出し、北海道住民と和人の交流が増えたにもかかわらず、文化は遠く離れていくのである。


続縄文文化とは異なるオホーツク文化は5~9世紀に北海道北部に広まった。

同時期に千島列島にもオホーツク文化が流入している。

オホーツク文化は9世紀に北海道からは姿を消し、樺太で13世紀まで継続する。担い手は一般的にニヴフが想定されているが、粛慎靺鞨の文化とも共通性が高い。

一方、擦文文化とオホーツク文化双方の影響を受けたトビニタイ文化(9~13世紀)が道東に出現する。



アイヌ文化成立後、トビニタイ文化の子孫はメナシクルと呼ばれる集団になる。

シュムクルは北海道先住集団で唯一、本州に起源があると主張する。
彼らは本州と交流していた続縄文~擦文文化や、鎌倉幕府から逃れた奥州藤原氏残党(義経伝説を持つ)、東北エミシや、和人と言葉が通じる(日琉系言語を話す)渡党と呼ばれる集団に近いかもしれない。

では、シュムクルと激しい抗争を繰り広げたメナシクル(トビニタイ文化人)は、どこからやって来たのか❓

17世紀にカムチャツカに進出したハザール人(当時のコサックとは、ウクライナ~南ロシアに住む遊牧民をルーツとするハザール可汗国民の末裔と称するテュルク系・ユダヤ系武装傭兵集団である)は、
カムチャツカ南端と北千島列島に住む民族をクリルと呼んでいる。

クリルの語源は(メナシクル、シュムクル、ルルトムンクルで明らかなように)アイヌ語で人を意味するクルに由来する。

アイヌ語といえば
カムチャツカの語源は
アイヌ語の
カムkam(広がる)
チャクcak(弾ける、飛び散る、爆発する)
カka(ところ)
に由来するという説がある。

この時代、千島列島のみならずカムチャツカ南端もまた、クリルという地域名(クリル人が住む場所)で呼ばれていた。

17~18世紀の探検家ステパン・ニコラエフらの記録にクリル民族について触れられている。

クリル人はイングル、またはインナフというくるくるとカールした削りかけの棒を拝礼の対象とし、狩りの獲物を捧げていた。
その記述は、アイヌのイナウの習俗と似ている。




また、彼らは色黒で目が大きく鼻が高く髭を生やしており、周辺の先住民(北方対応したのっぺり顔の新モンゴロイド)とは全く異なる外見であった。

新モンゴロイドの北方対応というのは寒冷対応のために、たまたま発現した遺伝子変化の一つで、
同じく寒冷地に住むスラヴ系ロシア人や北欧人は顔がのっぺりしておらず、髭もある。
白い肌や金髪碧眼など白夜対策として、また違った方向での北方対応が起きたと考えられる。
必ずしも北方寒冷地に住んでいるから同じような遺伝子変化が起きるとは限らない。

クリル人は北方寒冷地に暮らしながらもオーストラロイド的な出アフリカ直後の祖先的形質を残した異色のカムチャツカ先住民であった。

ロシア人にとって豊かな髭はステータスでもあり、
コサックは髭の薄いコリャークやイテリメンを下に見る一方、豊かな髭をたくわえるクリル人には一目置いていた。

但し、エスキモー・アレウトや極東のチュクチ・カムチャツカ住民はエヴェンキなどシベリアの典型的な新モンゴロイドに比べ、コーカソイドやオーストラロイド的形質もやや備わっているとされ、ロシア人との混血以前にクリル人からの遺伝子流入があった可能性もある。

クリル人の祖先の岩宿人は膠着語を話していた可能性が高いが、エスキモー・アレウト語族、チュクチ・カムチャツカ語族と同様の抱合語に言語置換したのは、彼ら新モンゴロイドとのカムチャツカでの交流を示す証左でもある。
興味深いことにチュクチ・カムチャツカ語族の中で、カムチャツカ語派でクリル人と隣合って暮らすイテリメン人だけが膠着語である。
イテリメンが初期のクリルから受けた影響、クリルがエスキモー・アレウト、チュクチから受けた影響などが言語形成に複雑な関与をしているようだ。

知里真志保博士は、アイヌ語を北方(水が固体の氷で存在する地域)言語であると断言し、アイヌは北方から北海道へ侵入した民族と唱えていた(のちに知里真志保博士は政治的配慮からかアイヌをエミシの子孫であると発言するようになる)。

カムチャツカへ進出したコサック(ハザール人)が、クリルに一目置いた理由は、髭や容貌だけではない。

クリルは、明らかに中国製の多彩な布や上衣、食器などを所有していた。彼らはそれをただでくれるという。

一方、コリャークはクロテンやキツネ、ラッコ、カワウソの毛皮と引き換えに瑠璃色のガラス玉やナイフを求めた。

コサックの目的はカムチャツカ先住民から徴収したヤサーク(税)
をロシア帝国に納め、
違法行為などやりたい放題の自分たちの行いを贖罪する意味もあった。

コリャークたちは僅かな西洋の利器を渡せば、喜んで毛皮を貢納したが、クリルはそうではなかった。

彼らは独自の交易ルートを持ち、中国から(コサックが提供する物より)遥かに高価で価値ある物を所有していたのである。

コサックの視点から見て、彼らクリルが、他のカムチャツカ先住民より高い発展段階にいることが明らかであり、その商人たちの背後にいる文明国家(つまり日本)との間でカムチャツカ地方の領有権を巡る争いが起きる事が懸念された。

コサックによるヤサークの取り立ても、クリルに対しては他のカムチャツカ先住民のようには上手くいかなかった。
クリルは中国や日本から、遥かに上等な製品を得ているのだから当然である。

コサックのウラジミール・アトラソフはカムチャツカ南端クリル地方のゴリギナ川周辺で、ヤサークの支払いを断られたためにクリルと戦ったが、結局、クリルからのヤサークは受け取れずカムチャツカを去った。

コサックによるシベリア、カムチャツカ進出は先住民にとって苛烈な支配となっていた。
ハザール人コサックは、当初ロシア帝国拡大に協力していたが、
のちにウクライナ・コサックはハザール再建を目指してロシアからのウクライナ独立運動を進めるようになる。

日本やアイヌがロシア(ソ連)から受けた酷い仕打ちは、全てウクライナコサック(ハザール)に起因する。
日露戦争の主力はウクライナコサックであり、
ロシア革命後は極東で緑ウクライナ運動を展開し日ソ分断を画策、
満州国にはウクライナ人傭兵集団がいたが、米国に要請されたソ連軍が満州へ攻め込むと、あっさり寝返り、
ソ連の対日ザバイカル作戦指揮官もウクライナ出身のハザールユダヤ人ロディオン・マリノフスキー、関東軍を撃破した第36軍司令官はキエフ出身のウクライナ人アレクサンダー・ルチンスキーであった。
北方領土侵攻の主力もウクライナコサックであり、今も北方領土はウクライナ系住民が多い。
日本とロシアが友好的になると、ウクライナ人が分断工作を行うのは、現在も変わっていない。

十八世紀後半になると、温厚なスラヴ系ロシア農民がカムチャツカへ移住するようになり、コサックの影響力は低下。
カムチャツカ先住民とロシア人は共存共栄の関係へと大きく変わっていった。

この頃になると、日本政府はアイヌが住んでいるところは日本の領土であるとロシアに主張するようになる。

ロシアはカムチャツカのクリルをアイヌとは認めないようになり、カムチャツカ先住民もロシア人との共存共栄の結果、同化が進んでいく。

現在、カムチャツカ南部住民のうち、純粋な先住民をイテリメン、ロシア人と混血した住民をカムチャダルと呼び、カムチャツカクリルは滅び、北千島から移住した100人と南千島(クナシル)から移住した一家族がアイヌの先住権を主張しているという。

然し、カムチャダル、イテリメンの大多数にアイヌ系祖先がいて、サハリンやアムールを含めれば10万人を超えるアイヌ系住民が存在するという米国研究者の推定がある。

日本だけではなく、中国ロシアの記録にも登場するアイヌは、環オホーツク海に跨る大帝国を築いた誇り高き海洋交易民族であった。

日本の記録は北海道、
中国の記録は樺太やアムール(黒龍江)
ロシアの記録はカムチャツカを中心に伝え、それぞれ全容の把握が容易ではないが、
中国やロシアの記録は、彼らを劣った未開の部族とは伝えていない。

それぞれクリル、骨嵬・苦夷【くい】、蝦夷【えぞ、かい】と伝えられる民族は、同一集団であり、岩宿時代にカムチャツカへ移住した集団を祖先とする。

カムチャツカからは日本列島、沿海州からシベリアに見られる荒屋型彫刻刀石器も出土しており、末期岩宿人の活動範囲は広範に広がっていた。

御子柴型尖頭器に似た石器が北米で発見されているところから、岩宿人が最初に北米に渡ったと推定する研究者もいる。

カムチャツカでクリルの祖先が一万年以上何をしていたかは、はっきりわかっていない。

アイヌは浜辺に打ち上げられた寄り鯨を利用していた。
外洋へ出て積極的に捕鯨を行うことはなかったとされるが、

トリカブト毒を銛、槍や矢、或いは吹き矢などにつけて鯨に打ち込み、弱った鯨が浜辺に打ち上がるのを待つという寄せ鯨漁を行っていた。

毒を用いる寄せ鯨漁は、アラスカのコディアック島や、カムチャツカのイテリメンと共通する漁法である。

知里真志保博士はアイヌは海洋民であると断言する。
アイヌがベーリング海の漁民と同じ文化を持ち、
同様の抱合語を話し、
北方の凍てつく海上生活に由来する語彙がアイヌ語の多数を占める事実に注目すべきである。

カムチャツカではイヴァシュカ式と呼ばれる、押圧縄文、刺突文、貝殻文を施した縄文土器に似た土器が出土しているが13世紀以降のものとされ、土器の年代は古くても11世紀頃とされる。

千島クリル(ルルトムンクル=海中の人)は竪穴式住居に住み、19世紀まで土器を作って暮らしていた。

オホーツク文化人は5世紀頃までに千島列島に進出。北樺太から北海道北部、北千島までオホーツク文化が広がった。
土器と竪穴式住居はオホーツク文化が縄文文化より受け継いだものである。

米国の研究者はオホーツク文化が樺太南部と北海道北西部の鈴谷文化から始まったと考えており、縄文~続縄文文化に起源があるという。

オホーツク文化は、
日本の縄文人24%、
古代古シベリア人(チュクチ・カムチャツカ)22%
によって始まり、
その後、アムール川流域の
古代北東アジア人(ANA)の遺伝子流入54%(mt-Y)によって樺太で成立した。

『日本書紀』に登場する粛慎【みしはせ】=靺鞨(唐朝成立の『晋書』は靺鞨を粛慎氏として記載)は日本海沿岸の本州や北海道に進出し、日本海で鯨漁をしていたと想定されるが、オホーツク文化は靺鞨文化の影響も強い。

青銅などの工芸品は満州、ロシア極東からの輸入であった(金属を独自に生産する技術はなかったと見られる)。
また、カムチャツカから黒曜石を大規模に調達していた。

オホーツク文化はオホーツク海を通じた海洋交易で成立していた。
オホーツク文化の拡大はカムチャツカクリルを刺激しただろうか。

オホーツク文化人の43.2%がmt-Yに属している。
現代アイヌのデータでは、20%がmt-Yに属し、縄文人や日琉人には見られないため、オホーツク文化人からアイヌへの遺伝子流入が指摘されている。

アイヌの熊崇拝は擦文文化にはなく、オホーツク文化起源であり、構造船もオホーツク文化の影響とされる。

粛慎(靺鞨)は、晋の時代になっても石鏃を使用し、『晋書』には、中国の鉄に勝る鋭さと記録される。
縄文時代の沿海州住民は日本から黒曜石を輸入していたことが判明しているが、日本が金属器時代を迎え(金石併用時代が長く続いたこともわかっているが)黒曜石の輸入が減ると、カムチャツカの黒曜石に目をつけたのだろうか❓

靺鞨は倭人に劣らぬ海洋航海技術を持っていた(とはいえ倭人のように外洋を知っているわけではないが)。
白村江の戦いで倭人を撃破したのは靺鞨水軍であるとされる。

オホーツク文化は海の文化であった。
それも冬には流氷で埋め尽くされる凍てつく海の文化である。
道東のオホーツク文化人の食事の80~90%は海洋生物由来となっていた。
また、(主に樹皮が得られない地域で)衣服には魚皮衣が用いられた。

ある研究者は
オホーツク文化こそアイヌ文化そのものだという。
ある研究者は
クリルがオホーツク文化を吸収しつつオホーツク人をカムチャツカや千島から駆逐していったという。

樺太に発生したオホーツク文化がカムチャツカへと広がる過程には靺鞨人の航海技術が貢献したと思われる。

オホーツク文化人の造船技術と海洋民カムチャツカクリルの邂逅は、孤高の海洋民にとって、より広い海原へと乗り出すきっかけとなった。

海洋民クリルはオホーツク文化圏の海上輸送に貢献するとともに、
新天地では、その場所にある既存の文化を吸収していった。

オホーツク文化にはニヴフ、靺鞨、アムールのツングース、北オホーツクのコリャーク、カムチャツカのイテリメン、そしてアイヌが複雑に絡み合っている。

オホーツク文化=ニヴフ、
擦文文化=アイヌという単純な図式ではない。
擦文文化には和人、東北エミシ、また粛慎(靺鞨)の影響も複雑に絡み合う。

最終的にはオホーツク文化、擦文文化に代わって日本文化とはかなり異質なアイヌ文化が13世紀以降に成立する。

オホーツク文化を受容したクリルは千島列島を南下、道東へ侵入し、オホーツク文化から擦文文化へと移行するトビニタイ文化を形成する。

或いは道北では、より早い段階で擦文文化への同化が進んでいったかもしれない。

オホーツク、トビニタイ、擦文文化から(それらの文化を統合しながら独自色を打ち出した)アイヌ文化への変貌期には、周辺でも大きな動きがあった。

奥州藤原氏の滅亡、東北エミシの和人への最終的な同化、奥州藤原氏残党による北海道への退転(義経伝説)、鎌倉幕府による蝦夷管領の設置。

オホーツク文化人は千島から完全に撤退し、擦文文化は道北から樺太南部へと広がる。
道東はメナシクルのトビニタイ文化が擦文文化への同化を強めていた。

突如、骨嵬と呼ばれる強力な戦闘集団が出現する。

1264年、アムール~樺太に居住する吉里迷【ギレミ】(ニヴフ、ギリヤークに比定)が
骨嵬【クイ】や亦里于【イリウ】が連年、侵攻してくるとフビライ・ハーン(可汗)に訴えた。

骨嵬はアイヌに比定されるが、
亦里于はウィルタとも別のアイヌ集団とも考えられる。

このため元朝は文永の役(1274)より10年早く骨嵬を攻撃している。

続いて1268年に津軽で蝦夷の蜂起があり蝦夷代官職の安藤氏が討たれている。
(『日蓮上人遺文』によれば1275年に安藤五郎がゑぞに頸をとられたという)

更に1284年から三年続けて元は骨嵬征伐を行う。

この遠征により骨嵬は樺太から一掃されたと考えられているが、
1297年には骨嵬が黒龍江流域を侵略し元軍に二度撃破されている。
この骨嵬による大陸侵攻を率いたのは安藤氏とする説がある。

この後、1320年に出羽の蝦夷が蜂起したことをきっかけに安藤氏に内紛が生じ、1326年から二年続けて幕府軍が追討軍を派遣するに至る(安藤氏の乱)。
結局、武力では制圧出来ず1328年に安藤氏の内紛は和談が成立するが、
相次ぐ蝦夷の反乱は、征夷大将軍を戴く鎌倉幕府の権威を失墜させ、1333年の幕府滅亡に繋がった。

それ以前から奥州藤原氏や安倍氏、清原氏は十三湊を拠点に蝦夷地(北海道)や北宋、沿海州(女真)と独自に北方交易を行っていたとされるが蝦夷地の詳細はよくわかっていない。

1356年に成立した『諏訪大明神絵詞』には、蝦夷ヶ島には渡党、日ノモト、唐子がいて、

渡党は日本語が通じ津軽と往来交易しているという。

東蝦夷地に住む日ノモトは、
千島~カムチャツカへ繋がる東方へ通じ
その姿は夜叉のようで
禽獣魚肉を常食とし
農耕を知らず九沢(通訳)をおいても言葉は通じない。

西蝦夷地に住む唐子は、唐太や中国に通じ
夜叉で禽獣魚肉食、農耕知らず言葉は通じない。

その後、勢力を盛り返した安藤氏は康季の代1436年に奥州十三湊日ノ本将軍を称し後花園天皇にも認められる。
然し康季は1443年(1432年の説もある)、南部氏に敗れ蝦夷地へ逃れる。
その後、津軽へ復帰するも1454年に安東政季が蝦夷地へ退転、1456年に政季は秋田へ移り能代の檜山城に拠点を移す。

翌1457年にコシャマインが蜂起。
道南十二館のうち十館を落としたが、武田信広によって平定された。

以降、アイヌと倭人の抗争は一世紀に亘って続く。

武田信広は上国守護蠣崎季繁の跡を継いで(婿入りし)蠣崎氏を名乗り渡島に地位を築き、蠣崎氏はのちに松前藩主となる。

1646年に松前藩史として新羅明神(甲斐源氏武田氏の祖先源新羅三郎義光に由来)に奉納された『新羅之記録』によれば、渡党は奥州藤原征伐から逃れた者や流人など和人の子孫であるという。

渡党には卑弥呼時代のようなシャマニズムも伝わっており、亀ケ岡~青苗~擦文文化以来の本州との関係も想起される。
シュムクルが主張する祖先は本州から移住してきたにも合致する。
北海道の縄文、続縄文、擦文人は東北の亀ケ岡人(エミシ)と同系であり、東北から断続的に移住者を受け入れるなど交流を保っていた人々と考えてよい。

東北エミシも常に反乱していたわけではなく、公の姓を賜ったり、朝廷に帰順する者も多く、やがて武士の源流に繋がっていく。

そして何より、亀ケ岡人は縄文時代から俎豆の礼を知った文明人であった。

渡党の多くは松前藩傘下に入り和人に同化したが、アイヌに同化した集団がシュムクルであったと考えられる。
松前藩はアイヌに日本語を禁じたが、渡党集団に和人を選ぶかアイヌ(基本的には自由民)を選ぶかの踏み絵であったのではないか。

中国の記録に戻る。

1305年、骨嵬はまたも大陸へ侵攻、元軍の追跡を逃げ切る。

一転して1308年には首長玉善奴(イウシャンヌ)と瓦英(ウァイン)らが、ニヴフの多伸奴・亦吉奴らを仲介として、毛皮の朝貢を条件に元朝への服属を申し入れる。

また、遼東の骨嵬が野人女真と海上(樺太)で沈黙交易を行っていたことが
『析津志』に記される。
骨嵬は銀鼠(オコジョ)の毛皮を出し中国の物を受け取っていた。

元は東征元帥府、
明は奴児干都司をハバロフスクのヌルガンに設置、ニヴフや野人女真、苦夷(アイヌ)と交易を行った。
ヌルガン城は金朝の時代から設置され、金もギレミ(ニヴフ)やウデヘと交易を行っている。

野人女真、金朝は粛慎、靺鞨の末裔である。
粛慎、挹婁、勿吉、靺鞨、渤海、女真、金朝、満州、清朝は概ね同一民族だが、金朝と清朝時代は中国王朝として詳細な記録があるものの、それ以外の時代は記録が残っておらず、アムール地域の動向は不明な点が多い。

明のヌルガン経営は元ほど上手く行かず(元と違い武力行使せず穏健に仏教に帰依させようとした)ニヴフの反乱を招く。
奴児干都司は1435年に廃止。

1449年、土木の変で明がオイラトに屈辱的な大敗(正統帝が捕虜となる)を喫すると明の北方民族に対する影響力は急激に悪化、北方交易は衰退する。

アイヌは北方交易で鉄製品が得られなくなり、
和人からの鉄製品購入に依存せざるを得なくなった結果、価格交渉の決裂からコシャマインの乱に繋がったとされる。

明の撤退から後金政権樹立(1616年)まで沿海州との交易の様相はよくわからない。
その期間にアイヌと和人の抗争が続く。

満州(女真)族による国家の再興、清朝による中国支配を背景に、アムール流域と樺太との山丹交易が盛んになってくる。

17世紀のコサックがカムチャツカで目にしたように、山丹交易で樺太アイヌが入手した中国の文物はカムチャツカまで運ばれている。

この時点でアイヌの交易ネットワークは、北海道、南樺太、千島列島全域、カムチャツカ南端の広大な範囲に及ぶ。

1669年のシャクシャイン蜂起、その鎮圧を契機に松前藩の支配が強まっていったと見られ、また北からはコサックの圧力も高まってくる。

然し、氷の海からやってきた海洋民がオホーツク文化、擦文文化を呑み込み、
骨嵬の登場から元との戦争、アムールへの侵攻、
そして元や明、清との通交から交易に特化したアイヌ文化が生み出され、

中国から得た絹や官服は蝦夷錦として日本に渡るだけでなく遠くカムチャツカまで行き渡るなど、
海洋交易民としてのアイヌ諸勢力の隆盛は、広大な領域に確かな一時代を構築したといえる。

日本では、アイヌが虐げられた弱小民族というイメージが広まり、
その武勇や全盛期の版図、
コサックに一目置かれた文化水準などが正しく伝わっていない。

本来ならばアイヌ自身が、その歴史に深く斬込み、誇り高き海洋商人団、戦闘民族としての輝かしい歴史を明らかにすべきだろう。


浜松市天竜区の神社には多くの出雲神が祀られています

諏訪神タケミナカタ
気多神オホナムチ
岐神(二俣神)クナト(=サルタヒコ)
弁財天アラハバキ(=スサノヲの娘イチキシマヒメ)
そして
縄文中期の諏訪の王スサノヲ




クナトノ大神威様
アラハバキノ大神威様
の結界は今も
修験者(ラビ)が守っており
山岳地帯の磐座を中心に張り巡らされています。

諏訪大社(御神体山は守屋山)御頭祭は
75頭の鹿の頭を神饌とします。

ユダヤでは75頭の羊の頭を神饌とする神事(イスラエルのモリヤ山で行われる過越祭)を行った。

遠州光明山、秋葉山には
フタマタノオロチ退治に由来する75膳献供の神事として伝えられています(サマリア人はゲリジム山で75頭の子羊を屠る神事を行った)。

出雲族の伝承によると
クナトノ大神威様とは

エジプト新王国時代第18王朝のファラオで
アマルナ革命を行ったアメンホテプ四世(アクエンアテン=イクナートン)と関連があると云う。

エジプトで一神教への宗教改革が失敗したのち、
イクナートンとアテン神を崇拝する司祭オサルセフが民を引き連れエジプトを出るのですが

・オサルセフはモーセと名を変えた

・オサルセフはエジプトで神々(アメン神を中心とする八百万の神)への崇拝を止めさせ、聖なる動物の肉を食べるよう命じた

・神はエジプトに初子を撃つ試練を与えた

・神は二本の門柱と鴨居に羊の血を塗っている家は災いが過ぎ越されるとモーセに伝えた(⛩️鳥居、過越祭の起源)

このようなエジプトの伝承から
モーセ一行のうち何人かは日本へやって来て
クナトを祀り
過ぎ越しの神事を伝えたのではないかと考えられています。

アマルナ革命(BC1358~1336)

モーセの出エジプトはBC1290頃

(映画『ハムナプトラ』の時代設定はBC1290にファラオを殺害したイムホテップが20世紀に復活、大災厄を及ぼす=クナト再臨を示唆)

この頃、中国では漢字が龜卜の骨に刻まれるようになります(卑弥呼の龜卜は殷と同じ方法『三國志』)。

甲骨文字の記録は殷(商)王朝第23代国君である武丁(在位BC1250~1192)の時代から残されています。

武丁の時代、殷は勢力を拡大し
土方、貢方、基方、苟方、人方、鬼方を次々と従え
合計で81の敵国や反乱した方国を征服しました。

殷はイ(夷、衣、委)であったと考えられ
アルタイ語を話す東夷族であり

郭沫若は漢字は東夷族が作ったとしています
SOVのアルタイ語を簡略化しSVOの文語体で記録したものが甲骨文であると

日本や契丹では
漢文で記録し、これを口語で読み下す運用をしてきましたが、
漢文をそのままの語順で読む周代以降の中国語ではなく、

こちらが本来の漢文の運用方法であり、異なる言語や方言(それぞれの方国で使用される言葉)を超えて意思の疎通を図れるツールとして漢字が使用されるようになったのです。

人方は山東の低地に住む委人で、のちに #倭人 と呼ばれるようになります。

鬼方は山西の高地に住む委人で、地名の魏になります。

委は禾=稲(本来は粟)を振って舞うシャマンを意味します。

鬼は高いを意味します。
倭は低く舞う様を表します。

漢字の原義として
そもそも「人」とは倭人のことを言ったのです。

『三國志』で陳壽は
古の東夷、九夷とは倭人のことであると断言しています。

殷は倭人の王朝であり
漢字を作ったのは倭人ですから、本来の「倭」に悪い意味があるはずがないのです。

中国文明を作ったのは東夷族であり、その中核部族である倭人とは、日本から海を渡ってきた #縄文人 なのです。

武丁の時代の殷は生産技術が発展し
婦好、婦癸らの女性が将軍として活躍しました。

武丁は宗教改革を行いました。

それまで殷の国君は王であり
東の天帝(日本にいる帝俊)を上帝として祀っていました。

武丁は自らを帝と名乗ったのです。

これまで発見された甲骨碑文の70%は武丁の時代のものです。

武丁は、それまでのように王が神を祀るのではなく、
自らを神(帝)としました。

これは、自らを現人神としたイクナートンのアマルナ革命に通じる宗教改革と言えます。

そして、力をつけた殷王が
東の天帝に背き、権力を集中させ

王家の出身母体である人方と激しく争うようになったのです。

殷の王は
甲乙丙丁といった十干(10の太陽)を示す名を持っており
殷王家は10支族に分かれていたと想定されています。

古代中国に伝わる射日神話は、他の9つの太陽を撃ち落とし、現王家へ権力の集中を示すエピソードと考えられますが、

武丁期以降、殷王家と他の方国との争いが激しくなってきました。

殷周革命(BC1046)により

周方(スハ)は殷に代わって中国の主となります。

周は西夷とされています。

周方と共に殷打倒に燃えたのが羌方です。

羌族(古羌)は羊をトーテムとする遊牧民でした。

現代、イスラエルでは古羌の末裔とされる中国の少数民族である羌(チャン)族をユダヤ人として認定しています。

周方を助けた羌方は斉を建国(姜姓呂氏、太公望呂尚)

武丁期以降、羌族は殷人から激しく弾圧されていましたが

姜斉の初期の君主は
2代丁公
3代乙公
4代癸公
と、殷王と同じく十干から名付けられており、太陽崇拝であったと想定されています。

・姜姓の祖は炎帝神農氏(スサノヲ)炎帝=炎尊(彦火火出見尊)

・斉の文化は日本と共通点が多い

・稲作は斉の美田(山東半島)から伝わった

・弥生時代の日本には山東と共通の支石墓や
山東人と想定される人骨が発見されている

などの神話伝承や考古学的知見から

出雲と斉の関係に関心が持たれてきました。

古ユダヤ=古羌=斉=古出雲

出雲族とユダヤの関係は確かに歴史的にも繋がりが示唆されるのです。

#日ユ同祖論 は
明治維新後すぐにスコットランド人のノーマン・マクラウド、N・マクレオッドが提唱し、広まっています。

日本にハザールユダヤ資本が入ると同時に英国人が広めた、というところに

ハザールのプロパガンダではないのか❓
という疑念はあるのですが😅

また、

秦の始皇帝の実父は呂不韋(姜姓呂氏)であり始皇帝はユダヤ人である‼といった

『日ユ同祖論』者がしきりに秦氏をユダヤ人認定したがるのは眉唾モノであると思います🤣🤣🤣

戦前には
極東の #緑ウクライナ計画
#河豚計画 など
ハザールユダヤが積極的に東方進出を企図しており

日突同祖論である
#トゥーラニズム
(ウラル・アルタイ語族学説)

日満鮮同祖論(東夷族の原郷は大凌河)

との対抗でハザールユダヤが積極的に流布した可能性も否定出来ません🤣

シュメル(回転縄文~回転印章)や
エラム(都はスーサ‼牛トーテム‼牛頭天王‼炎帝‼スサノヲ‼)
がアルタイ系に近い膠着語を話し、おそらくアジア人だった

・エラム➡ドラヴィダへアルタイ語要素が伝わった(日本語タミル語接触言語説)

・ナトゥーフ文化と草創期縄文文化の酷似

・ナトゥーフ人はわざわざ洞窟内に草葺屋根の木造竪穴式住居を建てた

・メソポタミアでも何故か初期の住居は現地の気候にそぐわない木造掘立柱地下ピット式(つまり竪穴式住居)

・エジプトの都市伝説では、ピラミッドは日本人が来て建てた

・トルコ人と日本人は兄弟(ユーラシアステップを介して交流があった)

・古代テュルク人は海の民だった(地中海~黒海~カスピ海~ユーラシアステップ~日本海の交易ルートがあった)

・フェニキア人と倭人が交易していた(浜松市天竜区の縄文遺跡からフェニキア文字❓トヨクニ文字❓に似た碑文が発見 #水窪石)


・エジプトとバビロニアの狭間にいたフェニキア人(カナン人)がユダヤ教に改宗し、#ラダナイト となり、フェニキア人~倭人の海洋交易ルートとステップ交易ルートを継承、
ラダナイトはハザール可汗国を乗っ取り、#ハザールユダヤ となった。

以上から

モーセが日本に来てクナトを祀った

ハザールユダヤの原郷は縄文時代の日本である(古出雲族)

その原郷とは
黒曜石交易の中心として36000年間繁栄した
諏訪である‼


クナトの封印が解かれたとき
メシアが再臨し
諏訪にイスラエル建国を宣言する‼

超正統派ユダヤ人が大挙して日本へやって来る‼

我々が真の日本人、出雲族である‼

大凌河から帰還する天孫族にくっ付いて来た中国人の子孫=大和族は出ていけ‼

🤣🤣🤣

シオニストというのは
こうした理論展開で
ハザール可汗国を奪ったように
世界各地で他国を奪っていく人達😱

ウクライナ最初の憲法
『オルリク憲法』
コサックはハザール人である‼
ロシア人を倒し
ウクライナ(=復活ハザール)を建国すべし‼

第一次世界大戦中に
ハザールユダヤは
ボリシェヴィキ革命を起こし
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国(ハザリア2.0)を建国

第二次世界大戦後
ハザールユダヤは
(仮の)イスラエルを中東に建国

そして、第三次世界大戦によって…

🤣🤣🤣🤣🤣🤣

中世イスラムの文書によれば

ハザールでは時に
時間はゆっくり流れ
時に巻き戻される
ハザール人には昼の顔と夜の顔がある
ハザール人は子供の頃から他民族になりすます教育を受ける

ハザールの伝説によれば
過去と未来、全ての創造物は溶け合って交ざり合わさっている

ハザール人は時間ではなく空間に未来を見る

「時間と空間を分けずに時間と3次元空間が混然一体となった4次元時空としてとらえたほうがうまく説明できる」
アインシュタイン(ドイツ系ユダヤ人であり、シオニスト)

「時間は幻想。過去・現在・未来はすべて同時に起きている」
ブロック宇宙論

ハザール人の言葉
「夢は魔界の庭園に他ならない
現在、夢は現実との交換以外に成立しない」

ハザール人は時空を超え
永い年月を費やして
形而上のあらゆる創作(捏造❓)を行い
必ず野望を形而下に実現する

現実の世界で
現在、それに抗っているのは
ロシアと中国である

そして、一神教を捨てテングリに帰るべし、というカライ派の言葉に日本人は耳を傾けるべきでしょう。

一神教

イエスの再臨(ハルマゲドン)で救われるのは
イエスを信奉する僅か14万4000人
それ以外の、私たち含む異教徒は
サタンと共に地獄に落ちます😱

一方、
東洋の未来仏弥勒菩薩(マイトレーヤ)
遍く衆生96億を救済します🥰🤗🥰🤗

マイトレーヤ
ミトラス
アマテラス

太陽神は同一です

アメン神=アメ
アテン神=テン

日本人は
八百万の神(テングリ)信仰に立帰り
ロシア中国と力を合わせ
多民族共生、異文化共生、
共存共栄を実現し
誰もが救われる未来を目指さなくてはなりません





ウクライナ戦争の原因の一つとされ、

陰謀論界隈の主役として悪名高いハザール

日本ではその歴史は殆ど知られていないが、
歴史から現在を知り未来を予測するためにハザール史の知識は重要である。



ハザール可汗国(628~969)

中世において非常に強い影響力を持った国家を形成し、

黒海、ハザール海(カスピ海)とコーカサス、草原に君臨した。

テングリズム、
ユダヤ教、
イスラーム、
キリスト教に属する多様な集団を内包し、

ハザール可汗は祭祀王として君臨。

精強な軍隊と
交易ネットワークを駆使し、

一時は
ビザンツ帝国、唐と並び
世界の三大国家の一つとなった。

その複雑な歴史は、現代も東欧、中東社会に影響を及ぼし、ロシア、ウクライナは今まさに、ハザールの地を巡って激しく対立している。

(๑•̀ㅁ•́ฅ✧
それでは、これまで日本人が誰も書かなかった
知られざるハザールの歴史の闇に迫っていきます🔱( °᷄▽°᷅ )🔱



ハザール(Xazar、Khazar、Qazar)
の語源として

farsiファルシ(ペルシャ)、
Cesare、Kaiser(カエサル)、
「抑圧する」というテュルク語の動詞、

に由来するといった諸説がある。

ハザール可汗の最初の信仰であり、アルタイ諸語の遊牧民に広まったテングリと呼ばれるシャーマニズムは、

日本の神道に通じるものがあり、

その起源は、シュメル語の ディンギル(「空」) 、
古ノルド語の トール( Þōrr、北欧神話の雷神)、
中国語 で「空」を意味する天
に通じているという。

メソポタミアの記録にそれらしい部族が記録されている。

スバルトゥ、スビル(アッカド語Šubartum、シュメル語 Su-bir )は、

古代メソポタミアのアッカドから見て北に位置する蛮族。

シュメルでは、
「天幕に暮らし、神々の場所を知らず、動物の如くつがい、神への奉納を知らない」とされ、

都市に拠らずテントを建て移動する遊牧民が想定される。

ウルの王シュルギ(BC2094~2046)の碑文に、北方の恐るべき国として記録された。

スバルトゥはフルリ人の影響下にあったとされ、
ヒッタイトとの条約で言及された神の名Unag-astuasは、

アルメニアで今日も神の名であるAstvats(古典アルメニア語:Astuas)に関連し、

シュメルのネルガルと同一視されるアストゥバヌ(フルリ人の信仰では軍神アシュタビ)由来の可能性もあるという。

また、歴史家の一部はスバルトゥはチグリス川のアッシリア(Assyria)の初期の名前としている。



アゼルバイジャンの言語学者ガザンファル・カジモフは、

紀元後にフン族と共にアルバニアに戻った(ハザール可汗国の母体となった民族の一つ)サヴァールsavarların
が 

BC3千年紀にシュメール人の 北、ザグロス地方に住んでいたスビル族の一部であることは疑いようがなく、

フン族は 3000 年前にシュメル人の近くにいたスビル族と同じルーツに由来という。

Savirs(サヴィル)、Suvars(セイバーズ、スヴァール)と呼ばれる民族は2~6世紀にカスピ海沿岸にいた遊牧民で、

サヴィル人の一部はダゲスタンに居住し、
「アルメニアのヘロドトス」と呼ばれるモブセス・ホレナツィ(410~490)は、彼らをカスピ海のフン族と呼んでいる。

557年にアヴァールの攻撃を受け、
一部はアヴァール人と混ざりながらトランスコーカサスに移住し、アゼルバイジャン人の祖先の一つとなった。

※558年に西進を開始してローマ人に認識されるようになり、
568年にはハンガリー平原を制圧し突如として大帝国を築いたアヴァールは、
考古学的にも
支配層が北東アジア由来である蓋然性が高まっている。
最初にアヴァール=柔然説を唱えたのはフランスの東洋史学者ジョセフ・ド・ギー二ュ(1721~1800、彼はフン=匈奴説の提唱者であり、漢字はエジプトのヒエログリフ起源と唱えた)。
アヴァール=柔然(鳥丸)
フン=匈奴
クマン、カイ(オスマン王家の出身部族)=庫莫奚=韃靼
といった(チンギスハンのみならず)東洋の遊牧民が度々、西洋に侵略したとする説は、遺伝的にアヴァール支配層の東アジア由来が確認された事実に伴い(欧州の歴史学界において)近年急速に支持が高まってきた。
突厥の攻撃による柔然可汗国の崩壊は555年。

アヴァールの侵入を受けたサヴィル人の一部は北に撤退して突厥の支配を受け入れた者もいた。

7世紀には大半のサヴィル人はブルガール、ハザールに吸収され同化していくが、

ダゲスタンに残ったサヴィル人はフン族の王国 (サヴィル)を立て、

ハザール可汗国の影響下にありながらも10世紀まで独立を保ったという。

ビザンツ皇帝コンスタンティヌス7世は
“De administrando Imperio “『帝国の統治について』で、

 Tourkoi (マジャールのビザンチン呼称) は、以前はSabartoi asphaloi (「信頼できるセイバー」) として知られていたと述べている。

ハンガリーの言語学者ヤノス・ハルマッタは、
szabarsはサカ、スキタイ出身だとしている。

また、
サウロマタイSauromataをサヴィルSzabars と関連付け、その隣人であるMateroiをマジャル人と関連する部族とする説もあるが、

サヴィル人の一部がマジャル人(ハンガリー人)になったと考える研究者も多い。

マジャル七部族と
カヴァール(ハザールの分家)三部族によってハンガリーは建国され、

アルパード家はアッティラの子孫であり、阿史那氏と姻戚関係を結んでいたという。

また、現代のロシアのチュバシ族の名は、suvarに由来するとされ、サヴィル人の末裔とされる。

ハンガリーの言語学者ジュラ・メネスは
Säbir/Sabïr/Sabar/Säβir/Sävir/Savar/Sävär/Sawār/Säwēr のトルコ語の語源を語根 * sap- 「道に迷う」
=遊牧民だという。

アラブのヘロトドスと呼ばれる歴史家アル・マスディ(896~956)は、
ペルシア語のハザール
テュルク語のサヴィール
は同源だとする。

また、
サヴィールSavirsから
シベリアSiberiaの名前が発生した可能性を指摘する研究者もいる。

🤔

スビル、サビル、サウロマタイの名でコーカサス、黒海、ハザール海、草原に現れた民族は共通した集団であり、

現代も中東から東欧にかけて、その後裔が存在する。

19世紀以降、
シュメル、アッシリア、セイバー(サヴィル)、スキタイ、フン(=匈奴)の後裔として
ウラル・アルタイ語を話す遊牧民トゥーラーンの結集が提唱され、
第一次世界大戦、第二次世界大戦をハンガリー、ブルガリアはトゥーラニズムを掲げて戦い二度も敗戦国となった。

(๑•̀ㅁ•́ฅ✧


スキタイ、フン(匈奴)、突厥といった遊牧民は、

コーカソイドの印欧語族から
モンゴロイドのアルタイ語族まで多様な集団がいたが、

ユーラシアステップを駆け抜け、

黒海とカスピ海の間からコーカサス山脈を越え、シュメルの時代から存在が確認されていた。

シュメル語もアルタイ諸語同様の膠着語であり、

黒髪のシュメル人も、最初はステップを通って来た東方のモンゴロイド(縄文人🤣⁉️)だった可能性がある。

ウラル・アルタイ語族は(その危険性から)歴史上何度も否定されてきたが、

上述の通り、近年では
東欧のフンやアヴァールの遺跡から出た支配層の遺骨が、ゲノム解析により東アジア人の可能性が高まり、

フン=匈奴
アヴァール=柔然or鳥丸説も、ヨーロッパを中心に確実視されるようになっている。

考古学的に印欧語族も月氏やサカなど中国付近に進出していることが確かめられ、遊牧民の広域な活動、広範な交易ネットワークの存在が明らかになってきた。

新たにトランスユーラシア語族が提唱され、
その原郷が遼河付近
(遼河は東胡、庫莫奚の故地)
で、
日本語と弥生人の起源を遼河とする最新の学説は
トゥーラニアン(ウラル・アルタイ語族同源)学説の焼き直しに過ぎないが、
最新の遺伝子学、考古学に基づいた仮説である。

トゥーラニズムでは、
テュルク系民族の汎トルコ主義を
ウラル・アルタイ語を話す全ての民族(テュルク系に加え、フィン、マジャル、モンゴル、満州、朝鮮、日本人、シベリアの諸民族を含む)に拡大し、
「全てのトゥーラーニアンは兄弟であり、協力しなければならない」とした。

現代でも
ハンガリー、トルコ、キルギス、カザフなどで
「日本人と兄弟」
という発言が見られるが、
彼らが信じているトゥーラーンの歴史に起因する。

トゥーラニアンに
モンゴル、満州(東胡)
日本、朝鮮(東夷)
は含むが、

中国(漢)は含まない

この点は重要(๑•̀ㅁ•́ฅ✧

第一次世界大戦では、
オーストリア・ハンガリー帝国とオスマン・トルコ帝国は、
トルコ人とハンガリー人を団結させ、スラヴ人と汎スラヴ主義がもたらす危険に対抗する手段として、トゥーラニズムを奨励した。
トゥーラニズムは、重要なトルコ-オーストリア-ハンガリーおよびブルガリア-オーストリア-ハンガリーの軍事および戦略的同盟の創設に繋がる。
これらの同盟は、北ユーラシア全域にトゥーラーンの帝国を拡大する目的によって第一次世界大戦を戦い、敗北した。

ハンガリーでは、第一次世界大戦の敗北後、より強い民族意識の高まりが見られ、トゥーラニズムは更に勢いを得た。

ハンガリーは、 
1923 年にトルコ共和国と 、 
1937 年にエストニア共和国と、 
1937 年にフィンランド共和国と、 
1938 年に日本と 、ブルガリアと友好協力条約に調印した。

ハンガリー人(マジャル人)には
東と西を仲介し、統合する力があると信じられ、
トゥーラニズムは
日本とドイツの同盟にも影響を及ぼした。

オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊後に成立したハンガリー王国では、
ホルティ・ミクローシュが摂政となり、国王は空位のままであったため、
日本の皇族をハンガリー国王に迎えようとする動きさえあった。

日本にもツラン協会の支部が置かれ
ハンガリーの民俗学者バラートシ・バログ・ベネデクはアイヌ研究のために来日する一方、日本でのトゥーラニズムの普及を訴えている。

トゥーラニズムを掲げたハンガリー、ブルガリアが第一次世界大戦に続いて、第二次世界大戦でもドイツ、日本と共に敗戦国になったのは周知の通り。

二度の世界大戦と
トゥーラニズムが深く関係しているのは事実であり、

二度の対戦で激しく戦ったのは
ハザール可汗国の影響が及んだ地域の国々であったのは、
紛れもない事実である。

平和主義(❓)の研究者は
ウラル・アルタイ語族や
ハザール=アシュケナジム
を懸命に否定するが、

ウラル・アルタイ(トゥーラーン)、
ハザール
が歴史に与えた影響、

今もまた

ウクライナの戦況、
第三次世界大戦の行方に
トゥーラーン、ハザールの歴史が
大きく関係している事実は
否定しようがない。

(๑•̀ㅁ•́ฅ✧





ヘブライ語聖書のアシュケナズはノアの子ヤペテの孫、ゴメルの長男、リファトとトガルマの兄弟。

アシュケナズの名前は、ユーフラテス川上流地域のアルメニア高地からキンメリア人( Gimirrāi )を追放したスキタイ人のアッシリア人Aškūza ( Aškuzai 、Iškuzai )に関連しているとされる。

10世紀モロッコ出身カライ派の賢者デビッド・ビン・アブラハム・アル・ファシは、アシュケナズを ハザール の祖先と特定。

ハザール可汗ヨセフ・ビン・アーロンは960年の書簡でハザールはヤペテの孫 トガルマ (アシュケナズの兄弟)の子孫であると明言。

カインの末裔 トバルカイン や、ヤペテ、アシュケナズは スキタイ 、フン 、ヒッタイト との関連が古くから指摘されてきた。

アシュケナズ由来とも云われる北欧神話の
アース神Ás, Áss
複数形Æsirエーシル
(ゲルマン祖語ではansuz)、
女性形ásynja

ハザール可汗はAnsāの子孫に属すとされている。

アース神族の雷神がトールであり、
トゥーラーン(アルタイ諸語を話すスキタイ)の語源となった。

印欧語を話すスキタイはイーラーン(アーリア人)で、

イーラーンはトゥーラーン(中央アジア)より出づる、とされた。

Ansāはansuz、ásynjaとの関連から、

阿史那氏(突厥可汗家)=アシュケナズと同定する研究者が欧州に多い。

Ássは
アジアの語源とされるAssuwa(ヒッタイト語、アスワ州の連合はBC1400頃ヒッタイトに反乱したが失敗した)

アッシリアAssyria、
(アッシリアの都市)Aššur(アッシュル、神の名でもある)
にも通じる。

白鳥庫吉は
阿史那氏は烏孫âswin
の後裔であるとした。

最初のハザール可汗は西突厥の統葉護可汗、
続いて甥の步利設の後、
乙毗射匮可汗(西突厥)。

840年、カバール を率いてハザール可汗に反乱を起こしたトゥヴァン・カガンがスカンジナビアの貴族と結婚し 
ルーシ可汗 の父となったという。

ウクライナ出身の中世ウクライナ史学者オメリヤン・プリツァク(1919~2006)
は、

ハザール可汗国とキエフ大公国に関する詳細な研究で知られ、

Khan-Tuvan Dyggviという名前のハザール可汗が内戦に敗れ北欧に逃れ、スカンジナビアの貴族の娘と結婚し、
ルーシ可汗国の祖となったとしている。

ロシアの歴史科学博士であるアントン・アナトリエヴィチ・ゴルスキー(1959~)も、この説を支持している。



現代のウクライナの国章は、
ルーシ可汗国が歴史的に使用していたタムガであり、
ハザール可汗国起源であることが確定している。

つまり、
ウクライナの歴史家も
ロシアの歴史家も、
ウクライナとロシアのルーツが
ハザール可汗国にあると
明言しているのである(๑•̀ㅁ•́ฅ✧

※ルーシ可汗国は リューリク朝 キエフ・ルーシの前身で、のちのロシア、ウクライナ、ベラルーシに発展。
820年代、カバール三部族はハザールに反乱し失敗、一部はマジャル人七部族と合流してハンガリーに向い、
一部の Kabars が Rus とともにキエフに定住し、830年代にルーシ可汗国が成立。
その後、可汗号の使用は控えていたようだが、
キエフ公スヴャトスラフ一世は965年、ハザール可汗国を攻め、ハザールの弱体化に成功。
彼と、その子のウラジミール一世はハザールのトライデント🔱を使用し、この頃のキエフ大公も可汗の称号が使われていた記録が残っている。

ハザール分家のリューリク朝が本宗家のハザール可汗国を事実上崩壊させ(その後も小国に転落しながらハザールは11世紀まで細々と継続した)、ハザール後継を名乗ったと言える。

阿史那可汗家は分裂を繰り返し同族同士で争いを繰り広げながらも永らく繁栄を保ち、ヨーロッパの貴族カガン家、中国の史家など子孫は世界各地に残っているという。

🔱( °᷄▽°᷅ )🔱

まとめると、

トガルマの子孫とされのは、
ハザール、アヴァール、ブルガール、カバール、サビル、ウイグル、オノグル(ハンガリー)、ペェシネグ、オグズ、アラン、デュロ家(ブルガリア王家)など。

阿史那氏は
突厥、
ハザール、
カラハン朝、
ブルガリアのアセン朝
の王家であるとされ、

分家のカヴァールは
ルーシ可汗国、
ハンガリーの建国に関わった。

トガルマの父ゴメルの末裔(トゥーラーニアン)は中国からヨーロッパまで世界中に存在。

アシュケナズ=阿史那氏はステップ交易の覇者。

旧石器時代からヨーロッパと北海道を犬ぞりで疾走していた黒曜石&毛皮交易集団の末裔。


ステップロードは中東、欧州と韃靼、日本をずっと繋いできた。

東の草創期縄文文化と
西のナトゥーフ文化(コーカサスからレバント)
は、
ナトゥーフが土器を持たない以外は酷似した文化であり、
ナッツを採集し、石皿で粉に挽いたデンプンを主食とし、掘立柱の茅葺竪穴住居に住んだ。

やがてアルタイ祖語の膠着語を話すシュメル人がステップ~コーカサスを南下し、メソポタミアで最初の文明を築いた。



コーカサスに留まり黒曜石や金属の採集をしていたアルタイ語集団がスビルと呼ばれた(ここからアッシリアやヒッタイトが出た)。

のちにスビル(サヴィル、セイバー)は、スキタイと呼ばれ、アシュケナズと同一視されるようになった。

サヴィル(スキタイ)集団は
匈奴の支配層に率いられればフン、
柔然(鳥丸)の支配層に率いられればアヴァール、
突厥阿史那氏に率いられればハザール、カヴァールと呼ばれた。

ハザール可汗国の影響下で
ロシア
ウクライナ
ブルガリア
ハンガリー
に繋がる最初の国家が建設された。

この地域は、
第一次世界大戦
第二次世界大戦
そして、
第三次世界大戦の
発端となった。

(๑•̀ㅁ•́ฅ✧

また、
カザフ( Qazaqs、Kazakh)も、
ハザール(Qazar
Khazars)に由来するという。

カイラット・ザキリャノフは、日本人とカザフ人の 遺伝子プールは80%同一であると主張。

紀元前17世紀に中央アジアの遊牧民がアフリカ、小アジア、バビロンに侵入したとしている。

彼はまた、チンギス・ハーンとその子孫のおかげで、ヨーロッパは医学、占星術、代数などについて学んだ、と言い、

ヨーロッパに対するトゥーラニアンの優位性を主張する。

カザフ、キルギス、ハンガリー、トルコには、
現代もトゥーラー二ズムを主張する人々がおり、
西側に対し、
あくまで東側の立場に立っている。

ロシア対ウクライナは、
今のところ東側の内部の争いであり、
カザフ、キルギス、ハンガリー、トルコも、
侵略された側のウクライナに寄り添っているが、

ウクライナに西側諸国が介入し、

戦争が東側対西側の構図になってくれば、

話は別である。

ロシアによるウクライナへの侵攻は容認しないが、

西側によるトゥールの地への侵攻は、
トゥーラニアンの戦闘民族の血を呼び覚ますことになる。

メテハン(冒頓単于)の匈奴単于国
アッティラのフン
柔然可汗国とアヴァール可汗国
阿史那氏のギョクテュルク、ハザール可汗国、カラハン朝
耶律氏の遼、カラキタイ
チンギスハンのモンゴル

拠点を次々と移動しながら、瞬く間に世界帝国を作り上げたトゥーラニアンの祖先は、

コーカソイド、モンゴロイド、印欧語族、ウラル、テュルク、モンゴル、ツングースなど様々な諸族を短期間で纏め上げ、その圧倒的な武力と抜きん出た技術力、驚異的な結束によって世界を支配し強い影響を与えてきた。

今、その子孫であるトゥーラーンの人々は
現状に満足していないし、偉大な祖先に申し訳がないと考えている。

資本主義世界を支配しているとされるハザール・ユダヤ、
アシュケナジムは、
ハザールの身内から出た裏切り者でもある。

それが荒唐無稽な陰謀論であると言ったところで、
陰謀が彼らの身に迫っていると実感したなら、
流れる血はざわめくだろう。

我が国では、
中国やロシアが陰謀を企んでいると未だ信じられているが、

東側世界全体ではそうではないかもしれない。

石油・ガス分野のエコノミスト、ティラック・ドーシ氏は、フォーブスに寄せた自身の記事で、対ロシア制裁が発動されている状況の中で世界は制裁を支持する国と制裁に反対する2つのブロックに分割され、後者には一連の西側諸国とその同盟国を除く世界の大半の国が含まれているとの見方を示した。

“ウクライナ戦争は歴史の分岐点であり、世界は永遠に変わりました。

ユリウス・カエサルが紀元前 49 年にルビコン川を渡り「帰らぬ地点」を通過したとき、

彼は「賽は投げられた」(もう後戻りは出来ない)と言った。”
『續日本紀』卷第三十

寳龜元年
夏四月癸巳朔。

陸奥國黒川。賀美等一十郡俘囚三千九百廿人言曰。己等父祖。本是王民。而爲夷所略。遂成賎隷。今既殺敵歸降。子孫蕃息。伏願。除俘囚之名。輸調庸之貢。許之。

770年、高野天皇(寶字稱德孝謙皇帝重祚)の治世に、

黒川郡(現在の富谷市など仙台市北側郊外)、賀美郡(現・宮城県加美郡)など10郡の俘囚3920人が、父祖が王民であったとして、公民身分への編入を許された。

また、この前年(669)に

神護景雲三年七月己丑。

陸奥國牡鹿郡俘囚外少初位上勲七等大伴部押人言。傳聞。押人等本是紀伊國名草郡片岡里人也。昔者先祖大伴部直征夷之時。到於小田郡嶋田村而居焉。其後。子孫爲夷被虜。歴代爲俘。幸頼聖朝撫運神武威邊。拔彼虜庭久爲化民。望請。除俘囚名。爲調庸民。許之。

陸奥国牡鹿郡の俘囚大友部押人は、
先祖は紀伊国の大友部値で、
征夷のため小田郡嶋田村に移住したが、
子孫が蝦夷の捕虜となり、
その後、俘囚とされてしまったため、
俘囚の名を取り除いて公民に編入されることを希望し、許された。

(o🌾'▽')o🌾
公民には租庸調の納税義務がある一方、

俘囚は庸調が免除され、国司から食糧が支給されるなど、
保護政策的な優遇措置があった。

また、狩猟や蝦夷伝統の弓術や馬術を訓練することも認められ、文化も保護されていた。

俘囚の中から選ばれた夷俘長には刑罰権も与えられ、部分的には自治が認められている。

これは、近代的な少数民族保護政策の話ではなく、
奈良時代の日本の朝廷が行った人権や異文化に配慮した人道的な政策である(๑•̀ㅁ•́ฅ✧

左翼が利用するステレオタイプな、
渡来系弥生人であるヤマト朝廷が、
平和に暮らしていた縄文人を蹴散らし、
弾圧して同化させ、
一部は北海道に追われアイヌとなり、
現代まで迫害され続けているニダ٩(๑`ȏ´๑)۶

という妄想とは異なる歴史的事実である(๑•̀ㅂ•́)و✧

こうした本朝の政策の背景には、
漢魏における鳥丸、南匈奴のように体制内異民族として、
更なる北の鮮卑、北匈奴(まつろわぬ民)に対する藩屏として防衛線となることを期待した一面があったことは想像出来るが、

公民編入を願い出た俘囚に対しては納税を条件にこれを認めるといった柔軟な対応がなされていた。

俘囚側にとっては、北のまつろわぬ民に対する藩屏となるかわりに納税免除の恩恵を受けるか❓
納税して一定の安全を得るか❓
という選択にある程度の自由が認められていたということになる。

(゚∀゚)人(゚∀゚)ナカーマ

漢と匈奴の力関係は、西漢の前半期は匈奴が圧倒的に優勢で、

漢が下から徴税する農耕社会
匈奴は上から分配する交易社会であったため、

漢が市民から徴収した財源を使って絹製品などを匈奴に貢納し、
匈奴は西域に絹を転売した利益を部民に分配するという構図が成立した。

🤔政府が市民から集めた富で何故か米国民が潤うという現代日本とあまり変わらない🤣🤣🤣

匈奴では分配するものが無くなれば単于の地位が揺らぎ、有力な部族長に取って代わられる恐れがあるため、

時に長城を超え、漢辺境の村を襲い略奪を繰り返し、これを部民に分配することもあった。

辺境の漢人にとっては、(一部は匈奴に還流される)税金を納めた上に略奪までされるのでは、たまったものではない(๑•́ - •̀๑)

そこで、辺境の農民は(重税と略奪から逃れるために)長城を超え、匈奴の地に逃げ込む者が後を絶たなかった🤣

一般市民にとって 、民族とか文化といったアイデンティティより、まず安全に生きていける場所を選ぶことが生き残るための重要な戦略である。

辺境の庶民が、どちらに帰属するかという選択は、その時その時の情勢に応じたものであり、結果的に間違った選択をしなかった者が、より多くの子孫を残してきたとも言える。

西晋末期から中国に五胡が侵入してくるが、胡族の中には祖先が漢にルーツを持つ人々が大勢いたし、中国へ戻ってきた彼らの子孫はまた漢族と同化していった。

(〜🌾・ω・)〜🌾

奈良時代の日本朝が中国の北方政策や、その後の五胡の侵入などから学べる立場にあったのは間違いない。

まつろわぬ民への対応は、懐柔政策が基本で、

征夷の出兵も反乱鎮圧や(粛慎など)海外勢力の駆逐を目的とするものであり、

異民族への侵略や領土拡大を目的とするものではなかった。

阿倍比羅夫が北海道まで遠征したのは概ね事実と考えられているが、

その地に元からいた住民を排除したわけではなく、

ずっと南に後退した仙台平野~庄内平野辺りに境界を定めている。

この境界は稲作に適合する北限にも相当し、

それより北の住民は狩猟採集に依存せざるを得ない状況に充分配慮したものであっただろう。

尚、征夷の軍事行動の事後処理において、服属した蝦夷に徴税を課した時期もあったが、

それまで自由に狩猟採集していた人々にとって徴税に対する反発は強く反乱も相次いだ。

強引な公民編入が得策ではないという教訓も得た上での政策であったことも理由の一つであることに疑いはないが、

やはりこの時代に柔軟な対応がなされたことは日本という仕組みの形成に大きな影響を与えている。

🐗( '-' 🐗 )

公民に編入された東北の民にとって

北の狩猟民からもたらされる毛皮は、防寒対策の必需品であった。

北海道で狩猟された獣から得られた獣皮は、現地で一次加工されてから

船によって本州に運ばれ、

東北の農村内で二次加工され村民に販売された。

古墳時代の東北の農村に北海道の擦文人が雑居し、その場で皮なめしを行っていたと想定される考古学的証拠が得られている。

朝廷は一応の境界は定めたが、人々は完全に住み分かれていたわけではなく、同じ村の中で暮らしていた。

東北の村に出張してきた擦文人は、時に毛皮を現地調達する必要もあったかもしれない。

🤔そこにそのまま住み着き狩猟を生業とするマタギとなった者もいたのではないか❓

仮にその当時の北海道擦文人にアイヌ語話者がいたならば、マタギの言葉にアイヌ語の影響が残っていても不思議ではない
(近年は、東北蝦夷の夷語は日琉語に近いとする研究者が多い、また、『諏訪大明神絵詞』に登場する道南に住む渡党は日琉語を話していた)。

こうした北海道と東北の住民の共存共栄関係は、この時代だけではなく、縄文時代から近代まで連綿と続いていたものだ。

そうした共存共栄の文化の萌芽は岩宿時代の環状ブロック遺跡などから見られ、
遅くとも縄文時代には列島各地に黒曜石、ヒスイ、獣皮の加工流通を中心とする商工業と水運に基盤を置いた交易ネットワークが広がっていた。

日本列島の住民が何万年も前から共有してきた文化である。

縄文時代から昭和中期まで、

北海道から沖縄まで張り巡らされた交易ネットワークによる住民の交流、水運、行商の文化は継続し途切れることはなかった。

戦後、そうしたネットワークを担ってきた漂泊民、自由民と呼ばれた人々が戸籍に編入され消えていったが、

彼らこそ
真の意味での

“縄文文化の継承者”

と言えるのではないだろうか❓

(o🌾'▽')o🌾

そうした点を踏まえ、冒頭の続日本紀の黒川、賀美など3920人の俘囚の話に戻る。

彼らは元々、王民(皇民ではない)であった。

俘囚とされたからには、エミシと同じ文化集団であったのだろうが、

夷に調略され隷属していたのだという。

🤔

『日本書紀』神武天皇条

愛瀰詩烏 毗儾利 毛々那比苔 比苔破易陪廼毛 多牟伽毗毛勢儒

エミシヲ
ヒタリモモナヒト
ヒトハイヘドモ
タムカヒモセズ

エミシは一人で百人の敵を倒すというが(神武天皇の軍の前に)大した抵抗も出来なかった。

筑紫~安芸~吉備~奈良へと東征してきた神武天皇は、

エミシを倒してBC660年に橿原で即位。

考古学的には北九州に始まる弥生文化が瀬戸内を東進して奈良に到達するのがBC650年頃であり、

当時の橿原には、実際にカシの大木があったことが判明している。

また、弥生文化到達以前には、東北の「亀ケ岡文化」の影響を受けた土器が橿原から多数出土しており、遮光器土偶の欠片も発見されている。

日本書紀の年代観、記事内容は、弥生文化の到達時期と経緯を正しくとらえていたのではないかとする説が、近年有力になってきている。

『日本書紀』は弥生文化の視点から書かれていることは確かだろう。

🤔

書紀神武天皇条の終わりの方に、

天皇は橿原即位後、国を望見して言われた

昔、伊弉諾尊目此國曰「日本者浦安國、細戈千足國、磯輪上秀眞國。」復、大己貴大神目之曰「玉牆內國」

秀眞國、此云袍圖莽句爾(ホツマクニ)。

……🤔秀真国って何(๑•́ - •̀๑)❓

『ホツマツタヱ』梭の四

秀真国
東遥かに波高く
立ち昇る日の
日高見や

秀真国は東海・関東
日高見國は東北にあったとされ、
縄文文化が栄えた地域である。

『ホツマツタヱ』の成立年代は中世を遡るものではなさそうだが、

『古事記』『日本書紀』から省かれた“縄文時代”の歴史が伝えられているようだ。

『ホツマツタヱ』では、

クニトコタチは日高見國をタカミムスビに譲り、日高見は繁栄。

イサナギ、イサナミは筑波山で結ばれ、

アマテル神は富士山麓に生まれる(BC1285)

ニニキネはニハリ宮(茨城県新治郡新治村→2006年土浦市に編入)を治めた。
また、富士山麓のハラミ宮も治めた。

“ニハリの宮の 十八万に 
新民増えて 
名も高く
原見の宮に 
民を治し 
終に 
磯輪上秀真成る”

【茨城県稲敷市出土 注口土器
土浦市や稲敷市など霞ヶ浦周辺は縄文遺跡が多く、特に縄文晩期の逸品が集中する稲敷市は、当時の一大海洋交易拠点であったと推測されている。】

【富士宮市出土 注口土器
稲敷市出土の土器と似たS字の記号が使われている。
富士宮には縄文時代を通じて
多数の土器が出土。
山梨は縄文中期の土器、土偶の出土が極めて多く、『山梨長野縄文王国』と呼ばれている。】



ニニキネは灌漑農法を確立し、諸国に伝播。

BC1080、ホノアカリはヤマトアスカ王となる。

BC1065、筑紫で農地開拓

BC733、カンヤマトイワレヒコは淡海に生まれる。

BC661、カンヤマトイワレヒコ即位

🤔
『日本書紀』は秀真国や日高見國、新治宮の由来を削ってしまったために、

神武天皇条の秀真国の挿入が唐突になってしまった。

『日本書紀』景行天皇条

蝦夷既平、自日高見國還之、西南歷常陸、至甲斐國、居于酒折宮。時舉燭而進食、是夜、以歌之問侍者曰、

ヤマトタケルが蝦夷を平定し、
日高見國から帰り、
常陸を経て甲斐に至り、
酒折宮で食事をし、
歌を作って従者に問いかけた。

“珥比麼利 菟玖波塢須擬氐 異玖用伽禰菟流”
(ニヒバリ、ツクバヲスギテ、イクヨカネツル)
新治や筑波を過ぎて幾夜寝ただろうか❓

『ホツマツタヱ』では、

酒折の宮は昔の原の宮

とする。

日本武尊は、
祖先の建国の地である日高見國を攻め滅ぼし、

緣の筑波、新治を経て、
アマテル神が生まれ、
ニニキネが治めた
富士山麓ハラミ宮に至って
複雑な思いに駆られたのだろうが、
『日本書紀』では、何故、日高見、筑波、新治、酒折の地名がそこに出てくるのかを明らかにしていなかった。

『ホツマツタヱ』では、

“道奥曰く
今汝、
人の皇君として
仕える汝
衰えり
今来て国を奪わんや”

と、道奥(日高見の主)が武日(日本武尊)に問いかける。

“武日の曰く
神(景行天皇)の御子
汝を召せど
まつろわず
故に討つなり”

道奥は答えて云う

“それ我が国は
大御祖
タカミムスビの
この国を
開きて七代
これを継ぐ
日の神(アマテル神)ここに
道学ぶ
故日高見ぞ”

道奥は続けて、(元々、飛鳥宮はホノアカリが賜り、ニニキネは原見宮を賜った。
その時、日高見を賜ってから私の代まで十四代、他所の支配を受けたことがない)と説き、

更に続けて、

“それの君(神武天皇)
飛鳥を討ちて
国を取る
神に違えり
故馴れず(だから従うわけがない)
今また来たり
取らんとす
これも神かや
皇君よ”

と、(同族の)祖先の地を奪った神武天皇、
今また日高見を奪おうとする日本武尊を痛烈に非難した。

道奥はこの後も、祖先代々歩んできた日本の道を説き、

ついに日本武は道奥を赦し、
勿来より北は道奥に賜り国の守とした。
津軽蝦夷もこれに従った。

こうして日本武は矛を納め、日高見蝦夷と講和して、新治を経て酒折へと去って行く。

『ホツマツタヱ』は、
縄文晩期に日本の中心であった東北の亀ケ岡文化の視点から書かれており、

亀ケ岡文化が西へ南へ拡大し、飛鳥や九州にも影響を与えたという近年の考古学的成果と合致する事実を伝えている。

『ホツマツタヱ』は、『日本書紀』がバッサリ切り捨てたエピソードを収集して、
より確かな日本の歴史に近づかけたものと言える。

(o🌾'▽')o🌾

黒川、賀美の俘囚は、誰の王民だったのだろうか❓

この頃はまだ、日高見國が日本、天皇家の起源であり、本来カンヤマト朝は分家に過ぎなかったという『日本書紀』には書けない事実を知っている者が、日本朝にも多くいたのではないだろうか(๑•̀ㅁ•́ฅ✧