誇り高き海洋商人団アイヌ~全盛期の戦闘民族骨嵬と幻のカムチャツカクリル | 縄文家族|天竜楽市

縄文家族|天竜楽市

天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️



アイヌの起源はカムチャツカ

岩宿人、縄文人は古モンゴロイドに分類されるが、
最初に日本列島に到達したY-DE系統はオーストラロイドに近い人々であった。
出アフリカ直後の古人類はソマリ人(Y-E1)、アンダマン人(Y-D1a2b)に似ていたと想定される。


Y-DE(YAP)頻度の高い民族は総じて父権が強く排他的、好戦的で膠着系言語を話す。
ソマリ、アンダマンのオンゲ、センチネル、チベット、ビルマ、ヤマト族に共通する。

一方、岩宿時代(38000~15000BP)の日本には石刃技法を携えた古モンゴロイドY-F、K系統が到達し、
Y-DE系統との共存共栄、互恵関係が築かれた。

縄文時代前期まではY-D1a2aの比率が40%程度と低く、平和が保たれたが、Y-D1a2aの比率が70%まで高まる弥生時代には戦闘の痕跡が増えてくる。
フェニキア人、ベルベル人にも多いYAPは戦闘民族の血脈を示す。

現代アイヌのDNAはサンプル数が少なく決定的なものではないが、
岩宿時代に日琉共通祖先と分岐した非縄文系D1a2aのマーカが八割程度を占める。

アイヌ祖先は岩宿人・縄文人と共通する容貌や遺伝子を持っているものの、縄文時代開始以降に日琉共通祖先との交流は極めて少ない。

アイヌと琉球民族の分岐時期は37745年前と推定されており、
これは日本人(ヤマト・琉球・アイヌ)とアンダマン人(オンゲ・ジャラワ・センチネル)との推定分岐年代45000年と大差がない。

最終氷期最寒冷期(20000BP)に現代人的行動を伴って東南アジアに(環日本海・環東シナ平原地域から)南下した人々は古モンゴロイドが想定される。

文化水準から見れば、南方系古モンゴロイドは岩宿時代の本州島からの南下と考える方が自然である(それ以前の東南アジアに現代人的行動を伴わないオーストラロイド、アボリジニが住んでいたが、Y-C1b系統の彼らが、Y-C1a系統と共に中期旧石器時代、金取~竹佐中原段階に日本に到達し、アンダマン人と共に南下した可能性もある)。

同時期に、最初に北米大陸に進出したのは古モンゴロイドであると推定されるが、岩宿時代末期の日本と共通する大形尖頭器を使用している。



縄文人コネクション仮説(縄文人が太平洋地域に広まった)とする説があるが、
日本から北方への尖頭器、彫刻刀石器の拡散は岩宿時代末期、
北海道とシベリアの細石刃技法の共有は岩宿時代中期、
局部磨製石斧の南方への伝播は岩宿時代後期であり、

古モンゴロイドの岩宿人が
岩宿時代に
シベリア、東南アジア、北米に拡散したと考えられる。

そうした拡散する岩宿人集団の一枝に、
カムチャツカに進出し、
オーストラロイドと古モンゴロイドに共通する特徴を持ったY-D1a2a集団がいた。
彼らは長期間孤立し、祖先的形質を長期に保持していた可能性が高い。

北海道は後期旧石器時代後葉(25000~18000BP)にバイカル湖付近まで共通する細石刃文化圏(湧別技法)に属していた。
当時の北海道は樺太、シベリアと陸続きで古代北東アジア人と交流していたのは間違いない。
この時期の北海道には、アムールや後のニヴフとなる民族の共通祖先がいたと想定される。
ニヴフ語は膠着語で日本語との推定分岐年代は25000年前。

本州島(四国、九州や対馬、種子島は陸続きで一体化していた)は、この時期、大陸とは孤立したナイフ形石器文化を有していた。
この時代の本州岩宿人も膠着語を話していたと想定される。
18000年前に北海道と東アジア(東シナ平原)から細石刃技法が本州へ流入する。

中期旧石器時代のオーストラロイド的形質、岩宿時代の古モンゴロイド的形質を併せ持った原クリル人がカムチャツカに進出したのは、25000年前の北海道が北東アジア文化圏になる以前か、或いは18000年前に東アジアと本州の交流が再開される時期の何れかが想定される。

縄文時代の開始以降、北海道と本州は同じ文化圏に属し、土器や石器の伝播から本州と沿海州、中国沿海部と交流があったのは確かである。
その古代北東アジア人、古代東アジア人は新モンゴロイドである。
沿海州と黄河の8000年前の人骨から12%程度(つまり曾祖父母のうち一人)縄文祖先の遺伝子が検出されている。

アイヌ祖先がオーストラロイド及び古モンゴロイドの祖先的形質を保持出来ていたのは、縄文時代が始まる前に、列島外の孤立した地域にいた可能性が高い。

弥生時代が始まると、僅か数百年で本州の縄文人は新モンゴロイド的形質の強い弥生系縄文人へと移行する。

弥生文化の影響は、北海道の続縄文文化にも及ぶ。
縄文時代晩期、東北と北海道には共通の亀ケ岡文化圏に属していた。

研究者によっては、縄文文化の要素が残り、弥生土器にも縄文を施文する東北全域もまた、続縄文文化であるとする。

最新の研究では、エミシは東北の縄文系弥生人に加え、高句麗人の比率が高いと想定される。
彼らは騎馬文化や製鉄文化を有していた。
当然、彼らが話していたのは膠着語の日琉系言語であったろう。

弥生時代前期以降、渡来人の流入が増えたのは確かである。
然し、BC1000頃に北九州で灌漑水田が開始された頃、使用された土器は縄文土器であった。

学界は灌漑水田農耕の開始を伴う縄文晩期末葉を弥生早期と呼びかえたに過ぎない。
灌漑水田を開始したのは縄文人である。

東日本の灌漑水田開始期も縄文晩期の土器をそのまま継続使用しており、徐々に弥生文化の要素が増えていく。
ある日突然、弥生人が縄文人を駆逐して文化が入れ替わったわけではない。

灌漑水田の開始が弥生文化の開始と定義するなら、稲作の北限を超えた地域は、いつまで経っても弥生文化とは認定されない。

青森の亀ケ岡人はBC400年には水田稲作を開始したが、寒冷のため数世代で一旦放棄している。

北海道の続縄文~擦文文化は、本州の弥生~古墳~中世文化の影響が強い。彼らは農耕にも着手したが、青森で無理だった稲作にはチャレンジしなかっただけである。

3~13世紀のオホーツク文化も縄文文化と無関係ではない。
オホーツク人の縄文祖先要素は24%と推定されている。

擦文文化からアイヌ文化への移行は、縄文から弥生のようには、はっきりしない。
擦文文化からの継承もあるが、異質の要素も入り込んでくる。

縄文と弥生は連続性が認められるが、多くの渡来人が流入し、特に前期以降に新たな文化要素が加わったのは明らかだ。

擦文文化からアイヌ文化の移行には、北からの渡来人の流入を全く想定しないというのは不可解である。
擦文文化までの和人文化に比較的近い様相から、ある程度擦文要素は引き継ぐものの、和人とは全く様相の異なる文化に変容するからだ。

安藤氏が夷島に進出し、北海道住民と和人の交流が増えたにもかかわらず、文化は遠く離れていくのである。


続縄文文化とは異なるオホーツク文化は5~9世紀に北海道北部に広まった。

同時期に千島列島にもオホーツク文化が流入している。

オホーツク文化は9世紀に北海道からは姿を消し、樺太で13世紀まで継続する。担い手は一般的にニヴフが想定されているが、粛慎靺鞨の文化とも共通性が高い。

一方、擦文文化とオホーツク文化双方の影響を受けたトビニタイ文化(9~13世紀)が道東に出現する。



アイヌ文化成立後、トビニタイ文化の子孫はメナシクルと呼ばれる集団になる。

シュムクルは北海道先住集団で唯一、本州に起源があると主張する。
彼らは本州と交流していた続縄文~擦文文化や、鎌倉幕府から逃れた奥州藤原氏残党(義経伝説を持つ)、東北エミシや、和人と言葉が通じる(日琉系言語を話す)渡党と呼ばれる集団に近いかもしれない。

では、シュムクルと激しい抗争を繰り広げたメナシクル(トビニタイ文化人)は、どこからやって来たのか❓

17世紀にカムチャツカに進出したハザール人(当時のコサックとは、ウクライナ~南ロシアに住む遊牧民をルーツとするハザール可汗国民の末裔と称するテュルク系・ユダヤ系武装傭兵集団である)は、
カムチャツカ南端と北千島列島に住む民族をクリルと呼んでいる。

クリルの語源は(メナシクル、シュムクル、ルルトムンクルで明らかなように)アイヌ語で人を意味するクルに由来する。

アイヌ語といえば
カムチャツカの語源は
アイヌ語の
カムkam(広がる)
チャクcak(弾ける、飛び散る、爆発する)
カka(ところ)
に由来するという説がある。

この時代、千島列島のみならずカムチャツカ南端もまた、クリルという地域名(クリル人が住む場所)で呼ばれていた。

17~18世紀の探検家ステパン・ニコラエフらの記録にクリル民族について触れられている。

クリル人はイングル、またはインナフというくるくるとカールした削りかけの棒を拝礼の対象とし、狩りの獲物を捧げていた。
その記述は、アイヌのイナウの習俗と似ている。




また、彼らは色黒で目が大きく鼻が高く髭を生やしており、周辺の先住民(北方対応したのっぺり顔の新モンゴロイド)とは全く異なる外見であった。

新モンゴロイドの北方対応というのは寒冷対応のために、たまたま発現した遺伝子変化の一つで、
同じく寒冷地に住むスラヴ系ロシア人や北欧人は顔がのっぺりしておらず、髭もある。
白い肌や金髪碧眼など白夜対策として、また違った方向での北方対応が起きたと考えられる。
必ずしも北方寒冷地に住んでいるから同じような遺伝子変化が起きるとは限らない。

クリル人は北方寒冷地に暮らしながらもオーストラロイド的な出アフリカ直後の祖先的形質を残した異色のカムチャツカ先住民であった。

ロシア人にとって豊かな髭はステータスでもあり、
コサックは髭の薄いコリャークやイテリメンを下に見る一方、豊かな髭をたくわえるクリル人には一目置いていた。

但し、エスキモー・アレウトや極東のチュクチ・カムチャツカ住民はエヴェンキなどシベリアの典型的な新モンゴロイドに比べ、コーカソイドやオーストラロイド的形質もやや備わっているとされ、ロシア人との混血以前にクリル人からの遺伝子流入があった可能性もある。

クリル人の祖先の岩宿人は膠着語を話していた可能性が高いが、エスキモー・アレウト語族、チュクチ・カムチャツカ語族と同様の抱合語に言語置換したのは、彼ら新モンゴロイドとのカムチャツカでの交流を示す証左でもある。
興味深いことにチュクチ・カムチャツカ語族の中で、カムチャツカ語派でクリル人と隣合って暮らすイテリメン人だけが膠着語である。
イテリメンが初期のクリルから受けた影響、クリルがエスキモー・アレウト、チュクチから受けた影響などが言語形成に複雑な関与をしているようだ。

知里真志保博士は、アイヌ語を北方(水が固体の氷で存在する地域)言語であると断言し、アイヌは北方から北海道へ侵入した民族と唱えていた(のちに知里真志保博士は政治的配慮からかアイヌをエミシの子孫であると発言するようになる)。

カムチャツカへ進出したコサック(ハザール人)が、クリルに一目置いた理由は、髭や容貌だけではない。

クリルは、明らかに中国製の多彩な布や上衣、食器などを所有していた。彼らはそれをただでくれるという。

一方、コリャークはクロテンやキツネ、ラッコ、カワウソの毛皮と引き換えに瑠璃色のガラス玉やナイフを求めた。

コサックの目的はカムチャツカ先住民から徴収したヤサーク(税)
をロシア帝国に納め、
違法行為などやりたい放題の自分たちの行いを贖罪する意味もあった。

コリャークたちは僅かな西洋の利器を渡せば、喜んで毛皮を貢納したが、クリルはそうではなかった。

彼らは独自の交易ルートを持ち、中国から(コサックが提供する物より)遥かに高価で価値ある物を所有していたのである。

コサックの視点から見て、彼らクリルが、他のカムチャツカ先住民より高い発展段階にいることが明らかであり、その商人たちの背後にいる文明国家(つまり日本)との間でカムチャツカ地方の領有権を巡る争いが起きる事が懸念された。

コサックによるヤサークの取り立ても、クリルに対しては他のカムチャツカ先住民のようには上手くいかなかった。
クリルは中国や日本から、遥かに上等な製品を得ているのだから当然である。

コサックのウラジミール・アトラソフはカムチャツカ南端クリル地方のゴリギナ川周辺で、ヤサークの支払いを断られたためにクリルと戦ったが、結局、クリルからのヤサークは受け取れずカムチャツカを去った。

コサックによるシベリア、カムチャツカ進出は先住民にとって苛烈な支配となっていた。
ハザール人コサックは、当初ロシア帝国拡大に協力していたが、
のちにウクライナ・コサックはハザール再建を目指してロシアからのウクライナ独立運動を進めるようになる。

日本やアイヌがロシア(ソ連)から受けた酷い仕打ちは、全てウクライナコサック(ハザール)に起因する。
日露戦争の主力はウクライナコサックであり、
ロシア革命後は極東で緑ウクライナ運動を展開し日ソ分断を画策、
満州国にはウクライナ人傭兵集団がいたが、米国に要請されたソ連軍が満州へ攻め込むと、あっさり寝返り、
ソ連の対日ザバイカル作戦指揮官もウクライナ出身のハザールユダヤ人ロディオン・マリノフスキー、関東軍を撃破した第36軍司令官はキエフ出身のウクライナ人アレクサンダー・ルチンスキーであった。
北方領土侵攻の主力もウクライナコサックであり、今も北方領土はウクライナ系住民が多い。
日本とロシアが友好的になると、ウクライナ人が分断工作を行うのは、現在も変わっていない。

十八世紀後半になると、温厚なスラヴ系ロシア農民がカムチャツカへ移住するようになり、コサックの影響力は低下。
カムチャツカ先住民とロシア人は共存共栄の関係へと大きく変わっていった。

この頃になると、日本政府はアイヌが住んでいるところは日本の領土であるとロシアに主張するようになる。

ロシアはカムチャツカのクリルをアイヌとは認めないようになり、カムチャツカ先住民もロシア人との共存共栄の結果、同化が進んでいく。

現在、カムチャツカ南部住民のうち、純粋な先住民をイテリメン、ロシア人と混血した住民をカムチャダルと呼び、カムチャツカクリルは滅び、北千島から移住した100人と南千島(クナシル)から移住した一家族がアイヌの先住権を主張しているという。

然し、カムチャダル、イテリメンの大多数にアイヌ系祖先がいて、サハリンやアムールを含めれば10万人を超えるアイヌ系住民が存在するという米国研究者の推定がある。

日本だけではなく、中国ロシアの記録にも登場するアイヌは、環オホーツク海に跨る大帝国を築いた誇り高き海洋交易民族であった。

日本の記録は北海道、
中国の記録は樺太やアムール(黒龍江)
ロシアの記録はカムチャツカを中心に伝え、それぞれ全容の把握が容易ではないが、
中国やロシアの記録は、彼らを劣った未開の部族とは伝えていない。

それぞれクリル、骨嵬・苦夷【くい】、蝦夷【えぞ、かい】と伝えられる民族は、同一集団であり、岩宿時代にカムチャツカへ移住した集団を祖先とする。

カムチャツカからは日本列島、沿海州からシベリアに見られる荒屋型彫刻刀石器も出土しており、末期岩宿人の活動範囲は広範に広がっていた。

御子柴型尖頭器に似た石器が北米で発見されているところから、岩宿人が最初に北米に渡ったと推定する研究者もいる。

カムチャツカでクリルの祖先が一万年以上何をしていたかは、はっきりわかっていない。

アイヌは浜辺に打ち上げられた寄り鯨を利用していた。
外洋へ出て積極的に捕鯨を行うことはなかったとされるが、

トリカブト毒を銛、槍や矢、或いは吹き矢などにつけて鯨に打ち込み、弱った鯨が浜辺に打ち上がるのを待つという寄せ鯨漁を行っていた。

毒を用いる寄せ鯨漁は、アラスカのコディアック島や、カムチャツカのイテリメンと共通する漁法である。

知里真志保博士はアイヌは海洋民であると断言する。
アイヌがベーリング海の漁民と同じ文化を持ち、
同様の抱合語を話し、
北方の凍てつく海上生活に由来する語彙がアイヌ語の多数を占める事実に注目すべきである。

カムチャツカではイヴァシュカ式と呼ばれる、押圧縄文、刺突文、貝殻文を施した縄文土器に似た土器が出土しているが13世紀以降のものとされ、土器の年代は古くても11世紀頃とされる。

千島クリル(ルルトムンクル=海中の人)は竪穴式住居に住み、19世紀まで土器を作って暮らしていた。

オホーツク文化人は5世紀頃までに千島列島に進出。北樺太から北海道北部、北千島までオホーツク文化が広がった。
土器と竪穴式住居はオホーツク文化が縄文文化より受け継いだものである。

米国の研究者はオホーツク文化が樺太南部と北海道北西部の鈴谷文化から始まったと考えており、縄文~続縄文文化に起源があるという。

オホーツク文化は、
日本の縄文人24%、
古代古シベリア人(チュクチ・カムチャツカ)22%
によって始まり、
その後、アムール川流域の
古代北東アジア人(ANA)の遺伝子流入54%(mt-Y)によって樺太で成立した。

『日本書紀』に登場する粛慎【みしはせ】=靺鞨(唐朝成立の『晋書』は靺鞨を粛慎氏として記載)は日本海沿岸の本州や北海道に進出し、日本海で鯨漁をしていたと想定されるが、オホーツク文化は靺鞨文化の影響も強い。

青銅などの工芸品は満州、ロシア極東からの輸入であった(金属を独自に生産する技術はなかったと見られる)。
また、カムチャツカから黒曜石を大規模に調達していた。

オホーツク文化はオホーツク海を通じた海洋交易で成立していた。
オホーツク文化の拡大はカムチャツカクリルを刺激しただろうか。

オホーツク文化人の43.2%がmt-Yに属している。
現代アイヌのデータでは、20%がmt-Yに属し、縄文人や日琉人には見られないため、オホーツク文化人からアイヌへの遺伝子流入が指摘されている。

アイヌの熊崇拝は擦文文化にはなく、オホーツク文化起源であり、構造船もオホーツク文化の影響とされる。

粛慎(靺鞨)は、晋の時代になっても石鏃を使用し、『晋書』には、中国の鉄に勝る鋭さと記録される。
縄文時代の沿海州住民は日本から黒曜石を輸入していたことが判明しているが、日本が金属器時代を迎え(金石併用時代が長く続いたこともわかっているが)黒曜石の輸入が減ると、カムチャツカの黒曜石に目をつけたのだろうか❓

靺鞨は倭人に劣らぬ海洋航海技術を持っていた(とはいえ倭人のように外洋を知っているわけではないが)。
白村江の戦いで倭人を撃破したのは靺鞨水軍であるとされる。

オホーツク文化は海の文化であった。
それも冬には流氷で埋め尽くされる凍てつく海の文化である。
道東のオホーツク文化人の食事の80~90%は海洋生物由来となっていた。
また、(主に樹皮が得られない地域で)衣服には魚皮衣が用いられた。

ある研究者は
オホーツク文化こそアイヌ文化そのものだという。
ある研究者は
クリルがオホーツク文化を吸収しつつオホーツク人をカムチャツカや千島から駆逐していったという。

樺太に発生したオホーツク文化がカムチャツカへと広がる過程には靺鞨人の航海技術が貢献したと思われる。

オホーツク文化人の造船技術と海洋民カムチャツカクリルの邂逅は、孤高の海洋民にとって、より広い海原へと乗り出すきっかけとなった。

海洋民クリルはオホーツク文化圏の海上輸送に貢献するとともに、
新天地では、その場所にある既存の文化を吸収していった。

オホーツク文化にはニヴフ、靺鞨、アムールのツングース、北オホーツクのコリャーク、カムチャツカのイテリメン、そしてアイヌが複雑に絡み合っている。

オホーツク文化=ニヴフ、
擦文文化=アイヌという単純な図式ではない。
擦文文化には和人、東北エミシ、また粛慎(靺鞨)の影響も複雑に絡み合う。

最終的にはオホーツク文化、擦文文化に代わって日本文化とはかなり異質なアイヌ文化が13世紀以降に成立する。

オホーツク文化を受容したクリルは千島列島を南下、道東へ侵入し、オホーツク文化から擦文文化へと移行するトビニタイ文化を形成する。

或いは道北では、より早い段階で擦文文化への同化が進んでいったかもしれない。

オホーツク、トビニタイ、擦文文化から(それらの文化を統合しながら独自色を打ち出した)アイヌ文化への変貌期には、周辺でも大きな動きがあった。

奥州藤原氏の滅亡、東北エミシの和人への最終的な同化、奥州藤原氏残党による北海道への退転(義経伝説)、鎌倉幕府による蝦夷管領の設置。

オホーツク文化人は千島から完全に撤退し、擦文文化は道北から樺太南部へと広がる。
道東はメナシクルのトビニタイ文化が擦文文化への同化を強めていた。

突如、骨嵬と呼ばれる強力な戦闘集団が出現する。

1264年、アムール~樺太に居住する吉里迷【ギレミ】(ニヴフ、ギリヤークに比定)が
骨嵬【クイ】や亦里于【イリウ】が連年、侵攻してくるとフビライ・ハーン(可汗)に訴えた。

骨嵬はアイヌに比定されるが、
亦里于はウィルタとも別のアイヌ集団とも考えられる。

このため元朝は文永の役(1274)より10年早く骨嵬を攻撃している。

続いて1268年に津軽で蝦夷の蜂起があり蝦夷代官職の安藤氏が討たれている。
(『日蓮上人遺文』によれば1275年に安藤五郎がゑぞに頸をとられたという)

更に1284年から三年続けて元は骨嵬征伐を行う。

この遠征により骨嵬は樺太から一掃されたと考えられているが、
1297年には骨嵬が黒龍江流域を侵略し元軍に二度撃破されている。
この骨嵬による大陸侵攻を率いたのは安藤氏とする説がある。

この後、1320年に出羽の蝦夷が蜂起したことをきっかけに安藤氏に内紛が生じ、1326年から二年続けて幕府軍が追討軍を派遣するに至る(安藤氏の乱)。
結局、武力では制圧出来ず1328年に安藤氏の内紛は和談が成立するが、
相次ぐ蝦夷の反乱は、征夷大将軍を戴く鎌倉幕府の権威を失墜させ、1333年の幕府滅亡に繋がった。

それ以前から奥州藤原氏や安倍氏、清原氏は十三湊を拠点に蝦夷地(北海道)や北宋、沿海州(女真)と独自に北方交易を行っていたとされるが蝦夷地の詳細はよくわかっていない。

1356年に成立した『諏訪大明神絵詞』には、蝦夷ヶ島には渡党、日ノモト、唐子がいて、

渡党は日本語が通じ津軽と往来交易しているという。

東蝦夷地に住む日ノモトは、
千島~カムチャツカへ繋がる東方へ通じ
その姿は夜叉のようで
禽獣魚肉を常食とし
農耕を知らず九沢(通訳)をおいても言葉は通じない。

西蝦夷地に住む唐子は、唐太や中国に通じ
夜叉で禽獣魚肉食、農耕知らず言葉は通じない。

その後、勢力を盛り返した安藤氏は康季の代1436年に奥州十三湊日ノ本将軍を称し後花園天皇にも認められる。
然し康季は1443年(1432年の説もある)、南部氏に敗れ蝦夷地へ逃れる。
その後、津軽へ復帰するも1454年に安東政季が蝦夷地へ退転、1456年に政季は秋田へ移り能代の檜山城に拠点を移す。

翌1457年にコシャマインが蜂起。
道南十二館のうち十館を落としたが、武田信広によって平定された。

以降、アイヌと倭人の抗争は一世紀に亘って続く。

武田信広は上国守護蠣崎季繁の跡を継いで(婿入りし)蠣崎氏を名乗り渡島に地位を築き、蠣崎氏はのちに松前藩主となる。

1646年に松前藩史として新羅明神(甲斐源氏武田氏の祖先源新羅三郎義光に由来)に奉納された『新羅之記録』によれば、渡党は奥州藤原征伐から逃れた者や流人など和人の子孫であるという。

渡党には卑弥呼時代のようなシャマニズムも伝わっており、亀ケ岡~青苗~擦文文化以来の本州との関係も想起される。
シュムクルが主張する祖先は本州から移住してきたにも合致する。
北海道の縄文、続縄文、擦文人は東北の亀ケ岡人(エミシ)と同系であり、東北から断続的に移住者を受け入れるなど交流を保っていた人々と考えてよい。

東北エミシも常に反乱していたわけではなく、公の姓を賜ったり、朝廷に帰順する者も多く、やがて武士の源流に繋がっていく。

そして何より、亀ケ岡人は縄文時代から俎豆の礼を知った文明人であった。

渡党の多くは松前藩傘下に入り和人に同化したが、アイヌに同化した集団がシュムクルであったと考えられる。
松前藩はアイヌに日本語を禁じたが、渡党集団に和人を選ぶかアイヌ(基本的には自由民)を選ぶかの踏み絵であったのではないか。

中国の記録に戻る。

1305年、骨嵬はまたも大陸へ侵攻、元軍の追跡を逃げ切る。

一転して1308年には首長玉善奴(イウシャンヌ)と瓦英(ウァイン)らが、ニヴフの多伸奴・亦吉奴らを仲介として、毛皮の朝貢を条件に元朝への服属を申し入れる。

また、遼東の骨嵬が野人女真と海上(樺太)で沈黙交易を行っていたことが
『析津志』に記される。
骨嵬は銀鼠(オコジョ)の毛皮を出し中国の物を受け取っていた。

元は東征元帥府、
明は奴児干都司をハバロフスクのヌルガンに設置、ニヴフや野人女真、苦夷(アイヌ)と交易を行った。
ヌルガン城は金朝の時代から設置され、金もギレミ(ニヴフ)やウデヘと交易を行っている。

野人女真、金朝は粛慎、靺鞨の末裔である。
粛慎、挹婁、勿吉、靺鞨、渤海、女真、金朝、満州、清朝は概ね同一民族だが、金朝と清朝時代は中国王朝として詳細な記録があるものの、それ以外の時代は記録が残っておらず、アムール地域の動向は不明な点が多い。

明のヌルガン経営は元ほど上手く行かず(元と違い武力行使せず穏健に仏教に帰依させようとした)ニヴフの反乱を招く。
奴児干都司は1435年に廃止。

1449年、土木の変で明がオイラトに屈辱的な大敗(正統帝が捕虜となる)を喫すると明の北方民族に対する影響力は急激に悪化、北方交易は衰退する。

アイヌは北方交易で鉄製品が得られなくなり、
和人からの鉄製品購入に依存せざるを得なくなった結果、価格交渉の決裂からコシャマインの乱に繋がったとされる。

明の撤退から後金政権樹立(1616年)まで沿海州との交易の様相はよくわからない。
その期間にアイヌと和人の抗争が続く。

満州(女真)族による国家の再興、清朝による中国支配を背景に、アムール流域と樺太との山丹交易が盛んになってくる。

17世紀のコサックがカムチャツカで目にしたように、山丹交易で樺太アイヌが入手した中国の文物はカムチャツカまで運ばれている。

この時点でアイヌの交易ネットワークは、北海道、南樺太、千島列島全域、カムチャツカ南端の広大な範囲に及ぶ。

1669年のシャクシャイン蜂起、その鎮圧を契機に松前藩の支配が強まっていったと見られ、また北からはコサックの圧力も高まってくる。

然し、氷の海からやってきた海洋民がオホーツク文化、擦文文化を呑み込み、
骨嵬の登場から元との戦争、アムールへの侵攻、
そして元や明、清との通交から交易に特化したアイヌ文化が生み出され、

中国から得た絹や官服は蝦夷錦として日本に渡るだけでなく遠くカムチャツカまで行き渡るなど、
海洋交易民としてのアイヌ諸勢力の隆盛は、広大な領域に確かな一時代を構築したといえる。

日本では、アイヌが虐げられた弱小民族というイメージが広まり、
その武勇や全盛期の版図、
コサックに一目置かれた文化水準などが正しく伝わっていない。

本来ならばアイヌ自身が、その歴史に深く斬込み、誇り高き海洋商人団、戦闘民族としての輝かしい歴史を明らかにすべきだろう。