1971年10月25日。愛知県体育館で世界バンタム級王座を賭けて繰り広げられた死闘、ルーベン・オリバレス(メキシコ)vs金沢和良(アベ) 戦は、協栄プロモーションのマッチメイク。TV東京系列で放映された視聴率は18.8%を記録している。
ジョー・ルイチュ
さん提供。
札幌の高校生時代にボクシングキャリアをスタートさせた金沢選手は、アマ全日本王者にもなった。憧れの選手は、”カミソリパンチ”の元世界フライ級王者海老原博幸(協栄)選手。金沢選手は海老原選手を育てた協栄ジムスタッフを尊敬していた。
中華料理のコックを目指し上京した金沢選手は、プロで戦うつもりなどなかった。しかし、青山に住む実兄宅で東京生活を始めた金沢選手は、「なんとなく」代々木にある協栄ジムを覗きに来た。
窓の外から見学していると、中から選手が出て来て「何だお前」と声をかけてきた。だが、怖くなった金沢選手は、一気に逃げ去ってしまう。以来、協栄ジムの門は叩いていない。
元東洋バンタム級王者金沢和良(アベ)
世界タイトル挑戦の大一番を控えながら、思うような練習を消化出来なかった金沢選手だったが、それは王者オリバレスも同じ。ただしそれは、慢心が原因。クーヨ・エルナンデスマネジャーは、「いくら言ってもトレーニングをしない」と、ボヤクことしきり。
試合前ロサンゼルスからは、「オリバレスと、マネジャーが喧嘩ばかりしていて、なかなか写真がとれない」とニュースが入る。
日本で真面目に練習に打ち込んだのは、それ以前のサボった分を取り返すための苦肉の策でしかなかった。ウェイトを落とすためにも、トレーニングに精を出す他はなかったというのが、戦後わかった真相である。
『オリバレスの不調と、金沢選手の予想外の頑張りが試合を面白くさせた』
見ごたえ十分の熱戦は文句無く71年の年間最高試合に選ばれた。しかし、その戦いは互いに壊し会う結果となった。
「オリバレスは慢心しすぎだ」
「パンチだけを頼りに、防御もコンディションも考えずにリングに上がったオリバレスが、タイトル防衛のために高い代償を払ったのは当然だ」
米国から派遣された特派員たちは、こぞってオリバレスの不摂生を記事にした。
1972年。金沢選手は再起戦でリングキャリアの終焉を迎える。眼疾が原因だった。オリバレスは王座から転落。この年は年間3試合を消化したのみに終わる。
そして、世界バンタム級王座は群雄割拠の時代を迎えることになる。 = 続 く =
応援、深く感謝です! → 【TOP】