メキシコの片田舎でジョー・ベセラ(メキシコ)を発掘し、世界バンタム級王座を握らせたのはロスの大プロモーター、ジョージ・パーナサス氏。ベセラは来日し米倉健司(興伸)選手の挑戦こそ退けたが、王座を返上し引退。
ジョージ・パーナサス。
次の世界王者”黄金のバンタム”エデル・ジョフレ(ブラジル)にも渡りを付け、「ジョフレが負けるとするならば、原田のようなタイプしかいない」という自らの主眼を確かめる意味合いも含め、ファイティング原田(笹崎)選手を挑戦者に選んだ。
原田選手は世界をアッと驚かす大勝利で世界王座を獲得。伏兵ライオネル・ローズ(豪)が、チャンピオンの座をとってかわると、すぐにローズに接近。自らが育て上げてきたKOキング、ルーベン・オリバレス(メキシコ)の挑戦を纏め上げてしまう。
オリバレスから負傷KO勝ちで王座を奪った男チューチョ・カスティーヨ(メキシコ)もパーナサス氏の手駒で、世界バンタム級王座は完全にパーナサス氏の手中にあった。そして1971年4月、オリバレス 王座奪回KOキング復活!
ルーベン・オリバレス。
この時、毎朝6時半には事務所へ出るというパーナサス氏は76歳。24歳の時からボクシングビジネスに手を染めた大プロモーターは、途中様々なビジネスにも手を出す。しかし、それはことごとく失敗に終わる。
「中途半端なサイドビシネスは成り立たない」
こう悟ったパーナサス氏は、以来ボクシングビジネスに全力投球してきた人である。そして、協栄ジム先代会長・金平正紀氏が、もっとも尊敬するプロモーターであった。
ロサンゼルス地区のボクシングが泣かず飛ばずの時代。赤字を最小限に抑えるため、パーナサス氏は自ら切符切りをした。一人で、二役三役の奮闘。そんな苦労を重ねてロスのボクシングマーケットは、磐石なものになっていくのである。
1971年5月、パーナサス氏は世界王座カムバックしたオリバレスをはじめに、カスティーヨ、後オリバレスに勝つことになるラファエル・エレラ(メキシコ)らを擁し、まさに世界バンタム級を牛耳る親分といった感。そんな親分が日本人ボクサーに付いて語っている。
「日本人のファイティング・スピリットは必ず客の興味を引く。ワシはぜひとも日本人のスターファイターを作りたいと思っている」
「オリバレスやカスティーヨらと互角に戦えるボクサーが、きっと日本にいると思っとる。近いうちに太平洋を渡るよ。そのときにグッド・ファイターを見つけよう」
71年6月3日、パーナサス氏は約束通り東京へやって来た。WBC世界フェザー級王者柴田国明(ヨネクラ)選手が初防衛戦で、ラウル・クルス(メキシコ)と対戦した試合を観にである。「クルスは弱い選手じゃない。観に来るだけの価値はある」。
しかし、クルスは柴田選手の見事な連打から、最後は右アッパーをモロに喰らいKO負け。初回終了ゴングを聞くことが出来なかった。パーナサス氏はすぐに柴田選手側と交渉に入る。それは「ロスで、バンタム級王者オリバレスと戦わないか」というもの。
「条件さえ折り合えば、いつでも、誰とでもやりますよ」
しかし、柴田選手側にはオプション契約の消化という問題があり、オリバレス戦は実現しない。
オリバレスへ挑戦する日本人選手は世界3位岡田晃一(新日本木村)選手で内定とされたが、7月2日金沢和良(アベ)選手が東洋バンタム級王座を獲得し、世界入りが確実となると、その雲行きは怪しくなる。
結局、10月25日愛知県体育館でオリバレスに挑むのは、金沢選手に決まった。失意の岡田選手は、心の糸が切れたごとく、11月の東洋王座防衛戦でキャリア3度目の黒星を喫し引退への道を辿る。これも皮肉な運命である。
そして、いよいよオリバレスが日本へやって来る。 世界バンタム級王座の歴史 ( 17 )
応援、深く感謝です! → 【TOP】