4度の拳骨折から世界チャンピオンに上りつめた伝説のボクサー、元WBC世界Sライト級チャンピオン浜田剛史(帝拳)選手の軌跡に迫るドキュメンタリーが、文庫化され出版された。故・佐瀬 稔 氏、会心の作品である。
”伝説の作家、佐瀬稔の幻の作品が待望の文庫化!昭和の終わりに日本中を熱狂させた伝説のボクサー、浜田剛史が世界王座を奪取するまでの劇的な物語。”
挫折と栄光 価格:730円(税込、送料別) |
作品は日本中を熱狂させた昭和61年(1986年)7月24日両国国技館の控え室から始まる。王者レネ・アルレドンド(メキシコ)を初回で粉砕し、念願の世界王座を強奪したばかりの浜田選手に笑顔はなかった。うれしがらない新王者の胸中は?
豊富なボクシング取材歴を活かし、有名無名ボクサーのさまざまなエピソードも描かれたこの作品は、ボクシングファン必読。ぜひ、選手の皆さんにも読んでいただきたいと思います。
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私が東京に来て二月余り経った昭和51年(1976年)12月19日。木村孝仁選手は待ちに待ったデビュー戦を迎えている。所属ジムは、ジム経営には無頓着ながら職人気質で選手作りに一生をかけた高橋一男氏が主宰する高橋ジム。高橋会長は、日本ボクシング界の始祖渡辺勇次郎氏に連れられ米国遠征。大いに気をはいたブルファイターである。
メキシコオリンピック銅メダリスト森岡栄治選手のプロ入りを巡っては、契約金も絡み力のある有力ジム
入りが確実視されていた。しかし、関西出身の森岡選手が選んだのは、高橋ジム。その理由は、「高橋会長の人柄を見こんで」。
「森岡君が、他にもいろいろ好条件を提示されたジムがあったにもかかわらず、僕のところへ来てくれたということは、まったく望外の喜びで、心から感謝します」
森岡選手と高橋会長(右)。
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1969年。バロン熊沢選手を2回KOで降しデビューした森岡選手だったが、網膜はく離が災いし、プロで大成出来なかった事は残念というほかない。高校生の時からハワイへ遠征していた森岡氏からは、「スタンレー(イトウ先生)のためやったら、なんでもしまっせ」と言って頂いた事が記憶に残ります。
木村選手はようやく漕ぎ着けたデビュー戦でリング禍に遭遇してしまう。佐瀬氏は木村選手の背景にも鋭く迫っている。
『76歳になる所属ジムの老会長は、病室の床に頭をこすりつけて「許してください」とわびていた』
これは木村選手の死を報道した当時の朝日新聞記事の記述である。佐瀬氏は、自身のコラムの中でこう綴っている。「高橋一男を知る人なら、この数行の記述に鋭く胸をえぐられたことだろう。この人が、何でこんな悲運に見舞われなければならないのか」
ボクシングを始めたばかりの私に、強烈な印象を残した佐瀬氏の一文です。
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木村選手のリング禍からさかのぼること2ヶ月。森岡選手と同じく、バロン熊沢選手を降して(8回判定)プロ入りしていたロイヤル小林(国際)選手がWBC世界Sバンタム級のベルトを獲得した。その翌日、10月10日には具志堅用高(協栄)選手が沖縄出身初の世界チャンピオンの座に輝いている。
「デビューした頃は、いい試合が出来なかった」
「これは駄目かもしれない、と思った」
V13王者具志堅選手の言葉として紹介されているのは驚きだ。
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「この野郎、具志堅と同じ目をしてやがる」
これは具志堅選手と同学年、ボクシング選手だった浜田選手の兄雄二氏の言葉である。
作品は沖縄の歴史、浜田家のルーツへと進む。そして、35勝(33KO)2敗というとんでもないレコードの持ち主レネ・アルレドンドへの挑戦へと物語は進む。
”ジムに流れる音楽を「演歌に変えてみたらどうでしょうか」といったら、皆しみじみしちゃうから、さすがにそれはやめておこうと言われました。”
真面目顔でインタビューに答える浜田選手の素顔の描写も必読。
昭和の最後に日本中を熱狂させた男の物語。面白いです!
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