17歳世界王者W・ベニテスvs親父との格闘! | BOXING MASTER first 2006-2023

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輪島功一選手の試合に感動、16歳でプロボクサーを志し、ボクシング一筋45年。ボクシングマスター金元孝男が、最新情報から想い出の名勝負、名選手の軌跡、業界の歴史を伝える。

先のWBC総会でスレイマン会長は、WBC世界戦に於いて親子セコンド禁止論をブチまけた。しかし、「現実的には難しいでしょう」との意見が大勢を占める。親が子を指導し世界王者に導く。日本でも越本隆志(福間S)選手、亀田興毅(協栄→亀田)選手等の例がある。

ウィルフレッド・ベニテス(プエルトリコ)。17歳5ヶ月でWBA世界Sライト級王座を奪い、3階級制覇を果たした名選手も、4歳の時から親父の英才教育を受けて育った。

父ゴーヨに選手経験はない。女4人、男4人の8人兄弟を育てる為生活に忙しく、選手志望の夢は捨てざるを得なかった。4人の息子に教えるテクニックは、ニューヨークの街で行われる大試合へ、なけなしの金をはたいて観戦に行き覚えたものである。


ベニテス(右)vsカリー。  ★携帯ストラップにも使える→【ミニグローブ】!

ウィルフレッドが8歳の時に一家はプエルトリコへ移住し、ベニテス家の裏に特設されたジムで特訓を施される。この時、近所の子供も仲間に入ってくるが、その中の一人にエスデバン・デ・へススがいた。後のWBC世界ライト級王者もゴーヨの指導でプロ入り。72年マジソン・スクエア・ガーデンでロベルト・デュラン(パナマ)に初黒星を与えている。

アマで129戦123勝。73年11月22日16歳2ヶ月のウィルフレッドはプロデビュー戦を初回KOで飾る。16歳のプロデビューはルール違反である。本来なら、「未成年者へのライセンス発行は、法に触れるので刑務所行き」。しかし、幸い周囲にバレる事はなかった。

M・S・Gの著名マッチメイカーテディ・ブレナーは、「ウィルフレッドが洗礼証明書を見せたので、ボクサーのライセンスを取れる年齢(18歳)だというのを信じてしまった」。

父ゴーヨの命令には絶対服従のウィルフレッドは勝ち進む。が、勝利が積み重なるにしたがって、周囲の取り巻き達が、ウィルフレッド青年をチヤホヤしだす。この世界では万国共通であるが。

「俺は親父の従属物ではない」

若く、負け知らずのプロボクサーは勘違いをする。いや、勘違いで強くなっていくのだが、自信過剰、トレーニングをサボりだすと転落は早い。初戦勝ち。3連勝、4連勝あたりで、このパターン多いですね。

高校生ボクサーウィルフレッドに、世界王座挑戦の機会がやって来た。周囲の反対を押し切り、父ゴーヨが「絶対勝てるから」と、コミッションを説得してしまったのだ。


セルバンテスvs門田。  ★車のルームミラーに→【ミニグローブ】!

1976年3月6日プエルトリコ・サンファン。WBA世界Sライト級王者アントニオ・セルバンテス(コロンビア)は、難攻不落、10度の王座防衛記録を誇るチャンピオンを崩す事は不可能。ベニテス家の地元でも、「ミスマッチ」の声しきりであった。

「7500ドルのファイトマネーは全部親父にやるから、俺をチャンピオンにしてくれ!」

ウィルフレッドは父に頼み込み、トレーニングに没頭する。しかし、ウィルフレッドが、これほど長く、真面目に練習に励んだのは、これが最後となってしまうのである。

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試合後半、疲れの見える王者を攻め込んだ高校生は、2-1のスプリット・デシジョンをものにする。採点は147-145、148-144でベニテス。147-145でセルバンテス。17歳5ヶ月の高校生世界チャンピオン誕生。

だが、ここからウィルフレッドの造反が始まる。

「親父は俺の心まで支配しようとした。俺だってもうガキじゃない。自分の考えがあるんだ」

前出のブレナーは言う。「親子でボクサーとトレーナーの関係にあると、必ず息子の反乱が起きる。例外はない」。

2度の防衛に成功したウィルフレッドだったが、セルバンテスとのリマッチを前に交通事故を引き起こす。ガールフレンドとのドライブは、死の直前が行き先だった。試合はキャンセル。王座は剥奪された。

無冠となったウィルフレッドは、無敗記録を保持。77年11月、日本でもお馴染みのブルース・カリー(米)と対戦する。父の言う事に全く耳を傾けず、この試合に費やした練習時間は、なんと「賞味1時間しかなかった」。試合前日までディスコに入り浸りの毎日。


痛烈なダウンを喫するベニテス。  ★携帯ストラップにも使える→【ミニグローブ】!

4回。ウィルフレッドは2度キャンバスに落下する。5回にも再びダウン。KO負け寸前のピンチであった。その後は何とかごまかし試合終了。そして、ニューヨークのラウンド採点システムに助けられた形で幸運な勝利を得る。

この試合内容が大いに認められ、カリーは世界ランキング2位に抜擢された。決着戦。翌78年2月4日。場所は同じくニューヨーク・マジソン・スクエア・ガーデンで、カリーとのリマッチが組まれた。

自信を付けたカリーは、1月26日東京へやって来て7戦全KO勝ちの杉谷 実 (協栄)選手を軽く3回で料理。その強さを見せ付けた。強かったですねェ。


杉谷vsカリー戦パンフレット。  ★車のルームミラーに→【ミニグローブ】!

反省したウィルフレッドは、苦戦ながら再戦を2-0判定で勝利。だが、天才ボクサーは、続くランディ・シールズ(米)戦の試合直前姿をくらました。ニューヨーク中のプエルトリコ人探偵を使って捜索させたプロモーターのブレナー。

ウィルフレッドは、フロリダでガールフレンドと遊びまくっていた。連れ戻されシールズ戦のリングに上がったベニテスは、6回KOでシールズを降してしまう。遊んでても勝てる。練習嫌いはますます増長され、父との練習は一切避けるようになる。

手を焼いた父は、息子に他人の飯を食わせる。新しいトレーナーには、カス・ダマトが就いた。だが、「わがままが強すぎて、自分の手には負えない」と長くは続かない。

「彼のトレーニングは、俺の知っている事ばかりだ。それを一からやり直せといわれても、俺にはバカらしくてやる気が起きなかった」

一方でダマトは、「この道には彼の知らない事が多い事を、聞こうとしなかった」とある。出発点は基本。奥が深いことを教えたかったのであろう。

次のトレーナーは元名王者のエミール・グリフィス。そして、新コンビはWBC世界ウェルター級王者カルロス・パロミノ(メキシコ)を攻略し、二つ目のタイトルを獲得する事に成功する。

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70日後の79年3月25日、一度引き分けているハロルド・ウェストン(米)との初防衛戦が決まる。親父の手を借りずに世界王者になった。ウィルフレッドは有頂天。父への反発は強まるばかりで、ジムとはおさらばの日々が続く。

父ゴーヨも、息子への干渉をやめた。ウェストン戦のその最中、彼は競馬場にいた。友人が差し向けたラジオから聞こえたのは、ベニテスが一方的に攻め込まれ、このままでは敗戦必死と叫ぶアナウンサーの絶叫。

試合場へ乗り込んだゴーヨは、コーナーへ駆け上がり、いきなりビンタを喰らわせた。「何てザマだ。飛び込んで行って、ヤツを殺してしまえ!」と怒鳴りつける。9ラウンド終了時の事である。

後半猛反撃したウィルフレッドは、判定で勝利し、初防衛に成功する。ゴーヨは息子のチーフトレーナーに返り咲いた。そして、シュガー・レイ・レナード(米)戦を迎えるのであるが、反抗的態度を改めない息子は、父の言う事を聞かない。

「ウィルフレッドはレナードに負ける!」

この父の予言は当り、ウィルフレッドは15回KOでタイトルを失う。これが、プロ7年目の初黒星。

自信と才能。いくばくのトレーニングを積んだのかは定かでないが、ウィルフレッドは、81年5月モーリス・ホープ(英)を破りWBC世界Sウェルター級王座を獲得し3階級制覇に成功、世界を驚かせる。

だが、ロベルト・デュランに勝ち2度目の防衛に成功したのを頂点に、4階級制覇を期待された天才王者は、階段を転げ落ちるように転落していった。ラストファイトは90年。リングで稼いだ金は、何も残っていなかった。

親子の格闘。選手とトレーナーの格闘。気持ちの持続は難しいものですね。

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