ボクシング・地方から這い上がるという事! | BOXING MASTER first 2006-2023

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輪島功一選手の試合に感動、16歳でプロボクサーを志し、ボクシング一筋45年。ボクシングマスター金元孝男が、最新情報から想い出の名勝負、名選手の軌跡、業界の歴史を伝える。

「ボクシングは大変だよ。大変・・・」

言葉の主は昨日静岡市清水区で開催された興行のプロモーター、三津山ジム・三津山立直会長。その言葉には重みがありました。

「三津山さんは選手作るの上手だよ」

ウェルター級、ミドル級。日本タイトル2回級を制覇したダイナマイト松尾選手はじめ、数多くの選手を輩出している三津山ジム。飯田大介選手が新井田 豊 (横浜光)選手へ挑戦した試合も惜しかった。最終回終了ゴングと同時に飛び上がって喜んだ三津山会長でありました。

昭和39年(1964年)清水市(現静岡市清水区)の串田ジムからプロデビュー。75年まで戦い続けた三津山選手の歴史は、地方ファイターの鏡であります。

串田ジムは、日本初の世界チャンピオン白井義男選手のライバル、”無冠の帝王”といわれた実力者串田 昇 選手が、引退後設立した。ジムオープンには白井選手はじめ、カーン博士らがお祝いに駆けつけている。小学校に隣接する土地にあった小さなジムをよくのぞきにいったものです。

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昭和40年度のフェザー級東日本新人王戦にエントリーした三津山選手は、地方ジムのハンデをものともせず勝ち進む。決勝で対戦したのは、ジャガー柿沢(中村)選手。後の東洋王者に惜敗し、惜しくも新人王を逃したが、この時代にあっては快挙といえるだろう。同年度の新人王には柴田国明(ヨネクラ)選手、牛若丸原田(笹崎)選手らがいる。

場所、相手等選んでいられない。呼ばれればどこへでも出かけて行く。そして、白星に恵まれないながらも着実に実力をつけていく。韓国、タイ、フィリッピン、グァム。数度に渡る海外遠征も経験し、フラッシュ・エロルデ(比)、レネ・バリエントス(比)らの世界王者とも対戦した。

「海外遠征行くって聞いて、当時の市長が壮行会を開いてくれたよ」(~~)

ボクサーになって強くなったら海外旅行へいける。そんな動機でボクサーを志す若者も多かった時代です。

三津山選手は、そのタフネスぶりを買われ、強打の世界Sライト級チャンピオン 藤 猛 (リキ)選手のスパーリングパートナーにも抜擢された。Sライト級ランカーとして長く活躍する事になるが、地元での試合チャンスはなかなか恵まれない。

「23、4の頃には自分でプロモーターやってたよ」(~~)

「市民会館借りてさァ。だけど、こっちがバンテージ巻いてる時に席が違うとか、色々言って来るんだよ。もう勝手にしてくれって、試合やらなきゃいけないんだから」(~~)

興行をプロモートするだけでも大変な労力だが、自らメインを張るとは凄い事です。

   

1972年(昭和47年)4月1日。日本武道館で開催されたモハマッド・アリ(米)vsマック・フォスター(米)戦のリングにも登場。大きな舞台での試合経験も豊富である。

そんな三津山選手に、ようやく日本タイトル挑戦の機会が巡ってきたのは1974年(昭和49年)7月4日の事。1階級上げウェルター級3位にランクされた三山選手が挑む事になった王者は、世界王座に狙いを絞った辻本章次(ヨネクラ)選手。

これまで16勝(4KO)25敗8分。地方ボクサーの辛酸をなめながら、努力で築きあげた挑戦者の地位はただ立派の一言。頭が下がります。東京でやっていたら?とは、つい考えてしまいます。

若き王者に無類のタフネスで抵抗した挑戦者であったが、9回KO負けで積年の夢は破れた。日本王座挑戦をキャリアの最高峰として、グローブを置いた三津山選手はジムを創設する。

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地元で開催される”三津山ボクシングアワー”は、52回目を数える。三津山会長は協栄ジム先輩との付き合いも古く、世界チャンピオン具志堅用高選手、渡嘉敷勝男選手らをエキシビションに出場させている。

世界王者具志堅選手に、若き渡嘉敷選手が挑んだスパーも清水のリングで展開されました。観戦された方はラッキーでしたね。(~~)

あらゆる意味で現代は地方格差がなくなって来ました。昨日は、「アウェーへ行くのも勉強だよ」と言われ清水へ行って来ました。しかし、一昔前は大変な時代だったのです。その意味ではボクシング界は発展をとげているといえるのかもしれません。ボクシングが好きでたまらない会長さん達に支えられて。

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