ベトナムの英雄ホーチミンさんの偉大さとは
松永ポン太です。
(元松永武士です。アカウントは正常です笑)
歴史や偉人のメッセージ。
あなたがごっつええ人生を送るために
タブーなく、わかりやすく、
面白くお伝えします。
最近ベトナムに20日ほど行ってました。
ベトナムの偉人といえば
ホーチミンさん。
ベトナムのお札は全部ホーチミンさんの
デザインなんです。それだけで
偉人さがわかるでしょう。
とはいえ、彼はお札に描かれるのも
いやかもしれません。
フランスの植民地支配をうちやぶり、
当時世界最強だったアメリカをうちやぶる。
ベトナムはすごいことを成し遂げました。
その精神的支柱がホーチミンさん。
その原動力は、民族自決(国の独立)を
訴え続けた彼の気持ちにあったのです。
また、彼に私欲がなく、何処かの国の様に
世襲するようなこともありませんでした。
ホーチミンさんは、ホーおじさんと親しまれ、
偉そぶりませんでした。
偶像化もいやがりました。
偶像にしたのは、ホーチミンさん
死後の指導者です。お札にされた
ホーチミンさんは、天国では
不本意かもしれません。
雑用を喜んでやると「ツキ」が寄ってくる(石田三成)
会社の仕事で、若手は雑用に追われるものである。
例えばコピー取り、資料作り、チケット取り、、、等々の雑用。
わたしもおかえさまで、庶務業務をマストでやらないといけない場面は
以前よりは減ってきているのですが、まだまだ資料印刷やその他
雑用もたくさんこなさないといけないものです。
精神状態が悪いと雑用について、ついつい気持ちが乗らないのですが、
そんな時はツキが落ちてしまいます。
歴史上のエピソードで、雑用を大事にして「ツキ」を引き込んだ件として
私が特に感心するのが、石田三成のエピソードです。
「豊臣秀吉は、ある日、領内で鷹狩をしていた帰り道に、
喉が渇いたので寺に立ち寄ってお茶を頼んだ。
寺の小姓は、最初に大きな茶碗にぬるめのお茶を一杯に淹れて出した。
喉の乾いていた秀吉は、それを一気に飲み干した。
その後もう一杯たのんだ。次に小姓は、やや小さめの碗に、やや熱めにした茶をだした。
秀吉がもう一杯所望したところ、今度は小ぶりの碗に熱く点てた茶を出した。」
喉の乾いている相手に、まずは飲みやすい温めの茶をたっぷり出し、
渇きが癒えた後は熱い茶を味わってもらったということで、
この逸話は気配りの進めとして、広く語られていますが、
この小姓こそ、石田三成なのです。
石田三成は、関ヶ原の戦いで敗れ、徳川時代は悪く描かれたため、とかく
悪意ある解釈が満ちていますが、彼が少なくとも雑務を疎かにしなかったからこそ
秀吉という大臣に家臣にしてもらい、出世するという「ツキ」を招いたことがわかります。
ただし、石田三成も最後は敗れて、処刑されてしまいます。
彼の最後は、筋目を通した立派なものだったことは言い伝えられています。
人としても決して人間的魅力が低かったわけではないことは、
島左近や大谷吉継(武将として超大物)が石田三成に味方したことからも分かります。
しかしながら、彼は徳川家康に敗れてしましました。
それはなぜなのでしょうか?
それは彼は、ある意味このような「雑用」を大事にしなくなってしまったからではないかと
推測しています。徳川家康は、関ヶ原の勝者の側ですが、自分の陣営に多くの有能な
武将を引き込むため、とにかく書状を発行しまくったと言われています。
一方、石田三成は、どうだったのでしょうか?
もちろん石田側からの書状を、みなが保存しておくことはないため、ただ物証が
少なくて彼の書状発行が少なかったとは言い切れません。
しかし、本来豊臣家をともに盛り立てていくはずだった
加藤清正、福島正則ら武闘派との派閥争いは、本来彼が得意とする「雑用」の気持ちから
考えれば、最も避けるべきことです。
しかし彼は彼らを味方につけることができなかった。
それは、石田三成が正義とか名分とかそういうことにとらわれすぎ
例えば根回しとか事前説明とか、そういう雑用を軽んじてしまったからではないでしょうか。
もったいないことでした。
私も、雑用が苦痛な時があるのですが、初心を大事に、これからも雑用に
こだわっていきたいと思います。
心をこめて日々を過ごす、思いやりの表現が雑用だと思っております。
(反省も込めて・・・)
例えばコピー取り、資料作り、チケット取り、、、等々の雑用。
わたしもおかえさまで、庶務業務をマストでやらないといけない場面は
以前よりは減ってきているのですが、まだまだ資料印刷やその他
雑用もたくさんこなさないといけないものです。
精神状態が悪いと雑用について、ついつい気持ちが乗らないのですが、
そんな時はツキが落ちてしまいます。
歴史上のエピソードで、雑用を大事にして「ツキ」を引き込んだ件として
私が特に感心するのが、石田三成のエピソードです。
「豊臣秀吉は、ある日、領内で鷹狩をしていた帰り道に、
喉が渇いたので寺に立ち寄ってお茶を頼んだ。
寺の小姓は、最初に大きな茶碗にぬるめのお茶を一杯に淹れて出した。
喉の乾いていた秀吉は、それを一気に飲み干した。
その後もう一杯たのんだ。次に小姓は、やや小さめの碗に、やや熱めにした茶をだした。
秀吉がもう一杯所望したところ、今度は小ぶりの碗に熱く点てた茶を出した。」
喉の乾いている相手に、まずは飲みやすい温めの茶をたっぷり出し、
渇きが癒えた後は熱い茶を味わってもらったということで、
この逸話は気配りの進めとして、広く語られていますが、
この小姓こそ、石田三成なのです。
石田三成は、関ヶ原の戦いで敗れ、徳川時代は悪く描かれたため、とかく
悪意ある解釈が満ちていますが、彼が少なくとも雑務を疎かにしなかったからこそ
秀吉という大臣に家臣にしてもらい、出世するという「ツキ」を招いたことがわかります。
ただし、石田三成も最後は敗れて、処刑されてしまいます。
彼の最後は、筋目を通した立派なものだったことは言い伝えられています。
人としても決して人間的魅力が低かったわけではないことは、
島左近や大谷吉継(武将として超大物)が石田三成に味方したことからも分かります。
しかしながら、彼は徳川家康に敗れてしましました。
それはなぜなのでしょうか?
それは彼は、ある意味このような「雑用」を大事にしなくなってしまったからではないかと
推測しています。徳川家康は、関ヶ原の勝者の側ですが、自分の陣営に多くの有能な
武将を引き込むため、とにかく書状を発行しまくったと言われています。
一方、石田三成は、どうだったのでしょうか?
もちろん石田側からの書状を、みなが保存しておくことはないため、ただ物証が
少なくて彼の書状発行が少なかったとは言い切れません。
しかし、本来豊臣家をともに盛り立てていくはずだった
加藤清正、福島正則ら武闘派との派閥争いは、本来彼が得意とする「雑用」の気持ちから
考えれば、最も避けるべきことです。
しかし彼は彼らを味方につけることができなかった。
それは、石田三成が正義とか名分とかそういうことにとらわれすぎ
例えば根回しとか事前説明とか、そういう雑用を軽んじてしまったからではないでしょうか。
もったいないことでした。
私も、雑用が苦痛な時があるのですが、初心を大事に、これからも雑用に
こだわっていきたいと思います。
心をこめて日々を過ごす、思いやりの表現が雑用だと思っております。
(反省も込めて・・・)
