聖なるカギと聖性の器としてのディバインクリスタル=形あるものと自分。2/可能性を高めることの価値 | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★

前回の記事が限凸のエネルギーの3つめに当たるものだったんだろうけど、

(この記事は画像無しのものでした。)



話がとても飛躍したように思う。




それは、あたかも9年前からの私の取り組みであったものと、今と過去が繋がって1つの道にな ろうとしているかのような飛躍っぷりだったように思う🌠






しかしまぁ、話が深まり核心へと近付いていけば出てくるような表現や言葉ってのはだいたい同じものなんだと思う。


なぜなら私は聖性を(に?)取り戻された自己像こそを至福や祝福の前提条件としているから。

それを達成することが必要な状態ではまずは先にそれを目指し必ず経由する必要があるから。




そしておそらく9年前の夏から私が探し求め目指してきたものはその先にある。



例えば聖なる流れを生きる上に、

例えば実在性の光に照らされる中に、




私はそのようなリアリティーを生きるためには実在性の光であるものを自らの内側に維持し続けることが必要だと、

それはつまり聖性を見出だし獲得することが必要だと今では明確に理解している。




そのための細かな方法論や考え方や様式の1つとして自分という人間の持つ性質に応じた二元性の表れ方を正しく理解し扱うことができるようになるとかそんな感じのいくつもの学びが積み重なっていたとでも言えば説明としては比較的わかりやすくなるのかもしれない。



なんにせよ私は神聖への憧れという非常に漠然とした感覚からその道を進み始めて現在では少なく考えても既に9年の歳月が流れた上で理解された物が土台になっている。



まぁそういう意味で、一朝一夕で理解できるわけがないようにここに記される程度の言葉でそれを伝えられるとも思わないしその必要性も今の私は特に感じていない。



もちろん以前は違った。




しかし、

前提となるものがあまりに多すぎるし、

私は別に講義がしたいわけじゃない。




私はただ自分だけの“正解”を知るためにコレに取り組んでいると理解してる😌🌸




そしてその答えにまですごく近付いてきたという手応えもあるし、


私の認識が引っくり返る時も近いんじゃないかと感じてる。






私は“正解”を追い求めていて、

そして“正解”を辿っていて、


それゆえに必ずそこに行き着く。



きっと私はそれを確信していて、

だからこそコレはとても蓋然的な取り組みなんじゃないかと思っているんだよ★



それはとても面白いことだし、

少しだけ楽しく思える。




なぜならコレ自体は特に楽しいような物ではないのは代わらないから(笑)

何しろひたすらにわかりにくい。


原理的にすぐには理解できないようになっている物を少しずつ少しずつだましだまし続け繰り返すことによって異なる可能性や理解を獲得……それを知っていくというような非常に地道で時間のかかる取り組みだから。






私は“正解”を求めている。


それを知りたいと望んでいるし、

それを手に入れることを望んでいる。



だから正確になぞることが何より大切。




もし仮に私が何か難しいことをしているのだとしたら中でも一番ソレが難しいと思ってる。



なんでかって言うと、

色んな感覚や思いを順番通りに通りすぎて行くということが必要になってるから。



嫌なものは嫌だと、

良いものは良いと、


そう感じることや表現することをそのままに認め受け入れることで新たな可能性は表れてゆくものだと私は知っている。



この2つ前の記事のタイトルにあった

可能性を高める

という言葉はそういう意味のもの。




有名なものとしては、



人事を尽くして天命を待つ


みたいな意味の言葉だと私は認識してる。




ちなみに私は個人的には、



ヒト、コトを尽くし 天命を待つ



という言葉の方が好きなのでそっちを使いたいと思ってる👍️✨



ヒトである我々は、

コトの1つの表れとして存在する。

その中でできることは最善を尽くすことだけ。



その結果がどうなるかはわからないのだし、

わかった所で手が出せるとも限らない。


(ノンデュアリティの理解に照らし合わせるならそんなことは不可能である。そして私もそのように思っている。)






結局私が示すものは、



自分を含めすべては神からの預かりものなのだからやがてはすべて返さねばなるまい。



というようなことなんだと思う。





だってそれが異なる可能性が表れるための前提条件なんだもの。

それができてない段階では他の話なんてできるわけがないんだから。





だから私は基本的にそれだけ語るのだろうし、



それを満たした状態になった時に初めてまた別の何かしらを表現し始めるのだろう。



私が用があるのはソッチ↑である。

その過程である必須条件を満たすまでのシステマテイックな動きには興味は無い。


なぜならあまり楽しくないからである🙅




確かにそれは必要ではあるけれど、

それ以上でも以下でもない。

そしてどうにかできるようなものでもない。






だからソレはソレとしてソレで(ノ・∀・)ノ





私は聖なるリアリティーのある状態を強く求めながらもその条件の厳しさ難しさ困難さ時間の中での自身の未熟さによってソッチの状態で居られることはほとんど無かった。


実際難しいし?

まぁ仕方ないと言えばそうなんだけど。

努力でどうにかなるようなもんじゃないと知りながらも努力的な取り組みを続けること自体は必要だってんだからすごく嫌になっちゃいやすいようなもんだし┐(´∀`)┌







今回の修練では答えには至らないし大した成果と思えるものも得られないのだろうと私は既に知っている。

しかしコレ自体には大した価値を見出だせないからといってソレ無くしては続くはずの物が成り立たず表れることができないのである。




……それならソレは価値あるものだろうか、

やはり価値なんて無いものなのだろうか?






みたいなことを延々とひたすらに何度も何度も繰り返してきたわけです。


望まぬ結果としての未来が見通せるなんてのは苦痛でしかない

のです。



それは“失敗”を確信しているとも言える。






ここしばらく私が刺さった言葉として使っている



(自分の)不幸や弱さとは

誇るべきものではない




というのと同じくらい、

私という人間にとっては非常に認識しづらい

”だったのでしょう。



それは“見えない”とか見ることができない

というような意味の言葉。





私は薄々勘づいていたけれど、

でもどうしてもそれを明確に認識することが長らくできなかったのです。



それは、

ネガティブな期待を止める



というものでした。





……私みたいに大なり小なり勘の働く人間てのは精神世界スピリチュアル界隈にはよくあることで、



(なぜか)

望まない結果を

確信している





ということは、

たぶんすごぉ~~~~~くよくあることだと私は思っているのですよ┐(´∀`)┌





これは、


なぜか望んでいないはずの意識や選択を止めることができない状態




と言えばわかりやすいものかと。




実際に正しく自分が望んでいるものだけを見ることができる人間なんてのは既に自らの神性や聖性を取り戻していると言っても嘘じゃないと思うのですよ。



だってそうじゃなければ絶対にできるわけがないんだから。





実際コレは、


無意識ではない意識状態

を意味するもので、



そうならなければ自分が本当に望んでいるものだけを選ぶ=見ることは不可能ということ。



つまりそれは、

自らの“心”であるマインドが訓練されていて、


無意識の条件反射みたいな思考や感覚に飛び付かないでしかも自らの本質や実像を正しく捉え確信している状態



ということ。






ソレは原理的に非常~~~に信じられないくらいに難しいのですね👻


実際それができたらマスターです。

だって自分が何者で何を望んでいて何を望んでいないのかを知ってるんだから、

そりゃそうよ。






そんな感じで私は悪夢な闇に魅入られていたのだとようやく気付いたのです。


……もちろんそんなもの何年も前から普通に認識くらいはしていたし対処しようとあらゆる手を尽くしてきたのですが、

それに魅入られている自分である必要が無くなったのはやっぱりここ最近になってからのことだとわかるのです。






ネガティブな期待を止めるってのは、

やってみればわかるけど信じられないくらいに難しいのですね。


実際に完全性や聖性だけを見る=望むってのはそういうことなのですから。




今の私がそうなっているか?と言えば、

実はそうは思っていないのですが(笑)💥




でも私はノンデュアリティの恩恵を得たことでおよそ半分の意識は常に目覚めたような状態になってるというのは嘘じゃないと思うのです。

忘れなくなったのですね、不思議なことに。



だから私は思うのですよ。



およそ私の半分は聖性や真の自己像が宿り写し出されるための器なのだろうし、

残りの半分くらいはフツーに人間って認識なのだろうと😁




実際そう感じてるのですよ。


私とは

永遠不滅な神聖性とかのアレが半分で、

残りの全部が自分なのだと。





……馬鹿馬鹿しい話だなって思います?


私は結構そう思うときありますよ(笑)

特に例の条件反射な無意識の思考とかでは!!






でも実際にそう思うのですよ。



確かに馬鹿馬鹿しいとも思うけど、

非実在の影や霧であるものをすべて取り払って神聖性だとか実在な自己意識とかに自分の認識するすべて意識ごと返すのは相応しいと。



そのやり方や捉え方や在り方にはとても価値があると私はわかるから全然嫌なことには思わないというのは間違いない事実なのです。



それは私を幸せにするものだし、

本当の自分に相応しい意識や在り方だから。



だから、

私がそれを嫌がるわけがない



と感じているのです。

それが私が聖性の信奉者みたいになってる理由なのですね❇️






そんなこの上なく素晴らしいものを私が嫌がったり求めないわけがない!!



そう思っているのです。

だから私は自分がそれを理解できてる限りは喜んで手放しに求め受け入れるのです。


そうしないわけがないから。





 





そうしていつしか聖性を喜んで受け入れるようになって、自分が見るものすべてに聖性が映し出されることで自分を含むあらゆる者にも祝福が与えられたとしても別に何も困ったことはないのではないかと思い始めた頃……


そのような理由によって今の私は聖性を拒まずに受け入れ続けることができる=聖なる流れを生きることができるようになりつつある

可能性が高い!!






そういうことなのです(笑)




そうである可能性が高い



ということなんですねぇ~。






それが私の努力の成果なのです。


疑う理由も無くなって、

喜んで手放しでそれを受け入れたくなってきたような気もしてて、

そのような意思を持っているように思えるような言葉も表れてきてる。



それなら、


本当にそうである可能性が高いのです!





……絶対にそうなのかは知りません。

私は別に無理矢理にそうしたいとは思っていないのだし変化は自然と起こるものだとそれでよいのだと思っているから。



私はある1つの幻想を良さげな別の幻想にすり替えたいとは全く思っていないけれど自らの心の求めとしてそのような想いがあるならそれを否定したり禁止する気もないのです。



だからその際に矛盾して見えるようなことがあったとしてもそれを断罪もしません。なぜなら赦しの光と無条件の愛を知ってるから今の私にはそんな必要はもう無いのです。



そうしたければすればいいけど、

絶対にそうである必要は無いから。




それが望まないものを見ることを止める

自分が真に望むものだけを見る

正しく選択できる

ということだから。






だから私は絶対を必要としない。

(むしろノンデュアリティとしては必然で絶対以外は有り得ないのだし、その上で可能性を体験できることは喜ぶことはあっても嫌がることなんてあるわけないんだから。)






絶対に完全と知っておきながら、

あたかもそうではない可能性を体感できる




きっとそれが私の求めた聖なる幻想を体感するための理解であり方法論なのだと思える。




なに、

違ったらまた別の可能性を試せばいい👌✨



決して上手くいかないと知りながらも必要のためにそれを実行しなくてはならない絶望的な状態より死ぬほどマシだから“違う”ことがあっても別に全然嫌じゃないんだからさ?







コレらは理論であり内容であり質の側面。


だからコレだけだとあんまり楽しくない😪

面白いし使い道はあるし素晴らしいアイディアだと思うけれど、


具体性が無いから面白みに欠ける。




だから私はコレらのアイディアや理論を何かしらそれらしい形に落とし込むということをする。



その結果として生み出されるのが私がマジックアイテムだと思ってるもの。



なんかすごそうなアイディア

それを相応しい器に入れることができたら元が元だけに神器になりそうじゃん?



だから私は手作りの神器を作る。

そのためのアイディアや能力や動機が自分のものとして内側にあったから。



イメージの世界だけじゃ物足りないし、

私とは聖なるリアリティーが欠けた世界には喜びも楽しみも感じられない者らしい。



だから私はその2つが融合した物を作る。

その目的や要素さえ満たせていれば何でもいいのだし、コントロールが無いからこそ真に現れるべきものが表れるに違いないから。





最も純粋な私の意思はそれだけ。


真に現れるべきものが表れる。

そのために消え去るべきものは消え去る。

この2つによってそれは成されるに違いない。






だから私はそれらを表したり現せられる可能性が高いと思っているんだよ(笑)


ホントにそうだったら面白いし楽しいし、

違うならその先にあるはずの本当の答えってのを知りたいと思ってる。



そういう意味で本当の私は何も恐れてないし失敗という概念も無いんだろうなぁって思う。







本当にそうなのかはわからない。

でもそうだったら素晴らしいと思う。

だから私はそれを確かめてみる。


それが私の意思。



私は表れ現れるべきものを否定しない。

だから私は表れ現れ得るはずのものなら実際に現せられる可能性が高いと思ってる。



結果をコントロールしようとは特に思わない。

でも望むならそういうこともするし、

その揺らぎを含めて現れるべきすべては表れるべきだと私は思っているから。





自分の感じてるソレが本当だったらいいなぁって思うし、


違うならもっと素晴らしい可能性を知ることができたらいいなぁって思ってる。




結局どう転んでもそれが私にとっての至高の計画で本来有り得ないはずの感動や体験がそこにあると知るのなら不満もあるはずがないのである。



そんな理解こそが私が求めた可能性を開くためのカギたる自分に相応しいよなぁ~って。




ようやく本命っぽい話になってきたよなぁ~って




内容が内容だけにわかりにくいのは仕様。

もしかしたら具現化のカギみたいな話かもしれないから難しいのも当然ってことで。




……難しいものを難しいと認められる幸せ。

それもあるがままの1つの表れ方なんだろうなぁって私は思うんだよ。



正確には難しいというより手順や前提知識がすごく多いということであり、

つまりコレは専門知識なのである。




……専門知識の本なんて読んで楽しいか?



という問いかけが私の書くこのような記事が面白いかどうかの基準なんだな~って理解した。


興味なきゃつまらんだろうし、

コレ自体では楽しくないかもね(笑)


でもコレは設計図………………どちらかと言うとプログラムみたいなものだと思う。

読めなきゃ意味すらわかんないだろうし読めたからって使えなきゃ意味しかわかんないだろうから😆



意味しかわからなければただの呪文である。

でもそういうのじゃないんだよコレ。



そもそも私は可能性を見てるだけだからこの時点ではただの可能性でしかないであるから可能性でしてあぁ可能性可能性。




コレをスピリチュアルと呼ぶもんなのかは私にはわからねぇ。そして素晴らしいこれぞという名前も思い付かねぇ。

わかってゆくことに対してわからないこと増えすぎ問題/(^o^)\




いやまぁ順調なんだけどね、進捗としては。