前回の“限凸のエネルギー”
+全然回収しきれてない話
記事の中でも書いたけど、
ここに記されてる物は私の有能さの側面の1つなんだろうけれど、
だからといって、
他者に見せたいものではない
のです。
なんでって?
超ごちゃごちゃしてるからだよ、
見たまんま┐(´∀`)┌
見(せ)苦しいから、
私の気分の良いものじゃないんだよ。
すっごい嫌ってわけじゃないけど、
喜んで見せたいとも思えない。
だって個人的な研究資料だもの。
本来は部外秘みたいな感じの話だし?
だから“伏せられる”なら伏せます。
今回は無理みたいなんで諦めて開示で。
アレは日記というよりも個人的な研究資料と考えた方がわかりやすい。しかも走り書きの(笑)
あのタイミングではあまり可否を重視しないでとにかくなるべく多くのインスピレーションや可能性を拾っておく(アウトプット)という作業をしておいて後々にその実現の必然性……
(おそらく)蓋然性について検証するための布石みたいな物だと言える。
つまり私の言う“いつものやつ”の中の1つ、
パターン布石 である。
蓋然性……がいぜんせい、
たまたま知ったこの言葉は私が見ている世界観の極めて中心に近い概念に感じたのです。
(正しい言葉の使い方ができてるのかわからないけれど使いこなせたら言葉の密度や練度が爆上がりすること間違いなし!だと思ってます👍️✨)
。。。
そうよねぇ、
前回の話、
アレも何回かごちゃごちゃと波動的な調整期間的な理由ですっきりしてない意識で書き記されたような何回かの非公開記事が極めてまともな状態にまで整ったものなのです🙆
だから
他者に見せられる程度の内容なのですね。
原文はもっとごちゃごちゃしてるとかそんな感じのニュアンスかと。あれでも相当に共通語に翻訳されているのです。
私は気付きつつあるのです。
現代スピリチュアル思想が示す成功像や成功ルートみたいなものって自分には使えないのだと。
そしてその理由の半分以上が、
私が女性ではなくて男性だから
という物だということもわかります。
だからって自分が女性になりたいとかそういうことでは全くないのです。
ただ私は自分が、
スピリチュアル系(女) じゃなくて
スピリチュアル系(男) だと知ったから
スピリチュアル系(女)の成功パターンや王道みたいな感じで示されてる模範解答みたいな物に
自分が当てはまらないのは当然だと理解が追い付いてきたという感じ💡
です だいたいのイメージとしては(笑)
実際そもそも私は“スピリチュアル系”ですらない可能性もあるわけで。
前回の記事でも記されてるように、
実際には私にはスピリチュアル精神世界的なセンスや能力があるわけではなくて、
それと同じようなリアリティーを
再現する資質があるだけなのかもしれないと感じることの方が圧倒的に多いのですね。
それは私自身の想いや言葉としてこの場で記されてゆく表現※を見ていてもそうだし、
(※自由意思レスが土台の考え。
このブログ上での私は書き手というより読み手の視点が基本になっている→一番の目的が自分のためのストーリーを取りこぼすことなく辿り体験することだから
“既にある可能性を実際になぞっている”というような感覚になっているため。)
だからそう、
たぶん私は精神世界スピリチュアル=
イメージの世界のリアリティー
に対する評価が高くない
のだと感じるのです。
たぶんコレが正確な表現で、
私の言う、
あらゆる形こそがイメージであり、
それゆえに形あるすべては精神世界そのもの
→形あるものとして認識されえるすべては、
程度やレベルを問わず
主観的な精神世界である という考え方
と一致したものなのです。
だから私は精神世界的な物質次元にまでわかりやすくダイレクトに影響を与えない程度の力やリアリティーはすべて“幻術の一種”として見ている
→あまりすごい物だとは思ってない。
=スピリチュアル精神世界的なリアリティーそれ自体への評価が高くない
というような構図なのだろうなと👁️
だから私は精神世界スピリチュアルそれ自体を職業にするということは無いのでしょう。
だって幻術だもの。
それはリアルじゃない。
……なんだっけ?
前回の記事で書かれてたやつ……
たぶんココらへんのやつ、
っていう感じのやつ👍️✨
↑の言葉が なぜなら……
で止まってるのは私にとっては自然なこと。
そもそもリアルでの私は基本的に曖昧なことは絶対に断定しない主義みたいな者なのでそれらしい言葉の途中で止める(あるいはその先なんて無い)というようなことが多々あるから(笑)
いいか?
物事には程度や限度ってもんがある。
過ぎたるは なお~
ってやつだよな?
とかいう言葉を好んで使う。
そう、
過ぎたるはなお及ばざるが如し
とは言ってない のである。
私自身はそういうつもりで言ってるけど、
必ずしもそうではないかもしれないだろう?
私はその揺らぎや余白……可能性みたいな物を残しておくことを好んでいるように思える。
そして自己の言動(思考含む)を注意深く観察する習慣ができてくると自分や他者で独特な言い回しや何か意味ありげな言葉が使われている時なんかには気付くようになるし、
後になってそんな思わせぶりな表現を使っていた相応の理由がわかったり納得するような体験をすることが多い。
私はそういうストーリー性のような物を非常に強く好んでいたり求めているのだし、
まだよく理解してない蓋然性という言葉は極めてそれに近い概念だと感じられて非常な親近感みたいな物が湧いている
ような気がしてるように思ってる😁
ような気がしている
ように 思っている なんだよ★
どこまで行っても曖昧なんだね(笑)
でもそれが“正しい表現”なんだよ、
少なくとも私という人間にとってはね?
可能性や揺らぎや“あそびがある”
みたいな言葉で表されるやつですね。
余裕とか余力とか余白とか
そんなイメージの言葉。
ヒトによっちゃぁ、
そんな曖昧で不確かであやふやな言葉を使う人間は信用ならないって感じるかもしれんけど、
ホラ、
今の私は未知を楽しむというより
(蓋然性を?)
確認することを何より求めている者だから★
それを言い換えたのが、
アレ↑↓
……スマホゲーム的に言うなら、
持ち物検査みたいなクエストがあったら、
自分が持ってる(特にガチャなんかで引けた強キャラとかを指しての意味の)手持ちのキャラクターで最善を尽くして攻略を目指す
みたいなやつですね(笑)
スマホゲーム(ソシャゲ?)は残酷ですから、
どれだけストーリーが進んでシナリオ的には仲間になったり共闘することがあってもガチャ限定キャラだったら引き当てることができるまで仲間になることは(基本的に)無いのですね⚡
でもそれらも体験するすべて=表れと現れとは運命であり宿命であり天命みたいな全部ひとまとめの物だと知ってるから、
それ自体に不満は無いのです。
……正確には、
たとえ超不満があると感じられることがあったとしてもだからといって本気でそれを変えたいと望むことは無いと知っている
みたいな意味ですね😌
諦めの境地に至るために
過程としては散々抵抗する
みたいなことです。
私の言う“いつものやつ”の1つ、
名前を付けるなら“手放しのための執着行”みたいな感じのやつですね。
やればわかることです。
どんな何であれ納得さえできればそれでよかったりするのだし、それが必然だと納得できたなら不必要な苦しみは無くなるもんです。
有りもしない幻想を追い求めることは確かに苦しみの選択ではあるけれど、
有りもしない幻想が本当に存在しなかった!
と知ることは苦しみからの解放でもあるということも事実だからですね★
だから手放すための執着ならむしろ済ませるべき物なのだし、それなくして人間は成長……卒業することはできないのですから。
あるかもしれない可能性
を無理矢理に捨て去ることはできないのです。
だからできることは、
それが本当に有ったのか?
それが本当は無かったのか?
それを知ることが必要なのですよ。
だって誰だって本当に無いと理解した可能性をいつまでも求めようなんて思えないんだから。
人間(マインドでエゴ)は一応なりとも超合理的な思考回路してるから無意味と知ったら選ばなくなるくらいの賢さは持ってるんだよ(笑)
存在しないものを求めるなんて
不可能じゃん?
そんなの誰だってわかるでしょ???
だから私は知りたいから、
確認してるんだよ。
どれが本当で、
どれが実在し得た可能性で、
どれがまやかしで見せかけで、
どれが本当は存在してなかった可能性か。
私はそれを正しく知りたいんだよ。
自分という存在には何が有って何が無かったのかを知ってゆくこととは、
自分とは何者だったのか
=どんな意思や宿命や体験を持つものなのか?
ってのがわかるようになるから。
勘違いしてるから苦しいわけで、
勘違いしてなかったら苦しくないんだよ。
最初から無いと知ってる物には期待なんてできるわけがないから失望もしないんだよ。
そんなの最初からどこにも無いんだから😆
コレが今の私の基本的な意思……在り方とか存在感ってことになるんだと思うんだよたぶん😃
(確認する方法も無いし現時点では断定もできないからまた超曖昧☆)
それを1つの言葉で表されたものが
蓋然性なんじゃないかなって!
→どちらかと言えば、
私が見てるそれらの概念やリアリティーを束ねるに相応しい用語=力ある言葉として蓋然性という言葉が使えるんじゃないかな~って、
そう感じてるんだよ😃✨
それは聖なる流れや聖なる計画という言葉に近いものだと感じてる。
“神聖さ”なんていかにも現代スピリチュアル寄りな気がしてしまう言葉を使わなくても同じ概念をもっとフラットに表せるんじゃないかなって!
そう感じるんだよ。
私は超然として淡々とした人間でありたいと望んでいたりそっちが本来的な自分らしさだと気付いてる気がするから、
自分の世界観を構築する言葉や思考もそれに相応しい物へと整えてゆくことになるのは必然に近い可能性の捉え方……つまり、
蓋然的なんじゃないかなって★
だとしたら
私ってのは非常に蓋然的な人間
なんだろうな~って思うんだよ。
本当は必然と知りながら、
必ずしもそうはならないかもしれないと思える自由意思的な捉え方や可能性の広がりである
“揺らぎ”を楽しむという在り方をしてる
みたいなニュアンスの。
そしてそれがマジックの原理なんだよ。
あたかも予想外や未知に思える
体験を純粋に楽しむ
みたいな感じかな?
だって、
マインド的には“全部決まってる”っていう認識はやっぱり窮屈なんだよ(笑)
たとえそれが“見せかけ”だったとしても、
(仮)としてでもそのように捉えることが自分を解放して楽に幸せにするってんならそっちの方が
価値ある選択だと私も思うもん。
どうせ見せかけだけの違い
だってわかってるならさ、
どんな見え方してもいいじゃん?
どんな表れ方をしても許されるよね☆
って感覚がわかるようになる。
だからそれが、
あらゆる制限という幻を超えていく
=制限を消し去ることになる意思
=限凸のエネルギーや概念
ってことになる。
だからヒントというかカギ……
あるいはソレ自体を指す言葉が蓋然性なんだろうな~って私は確信してるんだと思うんだよ😃
現時点ではどこまでいっても
そう思う、
そう感じられる
確信がある気がする
なんだけどね(笑)
だから確率的に相殺されて蓋然的になる
おそらくきっと確かにそうなるだろうけれど
必ずしもそうなるとは限らないという事実は
否定できないはずである
みたいなイメージ?😃✨
英語で言われる
perhapsとprobablyとcertainlyの違いみたいな感じかな~って思うよ。
たぶんcertainlyくらい(?)
……私は実用英語なんて興味なくて用語の使い回しやイディオムが独特で個人的に面白いと感じられたから英語は興味あるとこだけ学んだ程度の人間だからテキトーなんだけどね?
でも母国語じゃない第2言語的な言葉ってのは概念を束ねる際にも便利だと思うの★
私が“神聖さ”に類する概念を表す言葉の1つとして特に“ディバイン”て言葉を好んで多用するけどそれと同じくらいに“ホーリー”という言葉を使うことは無いみたいな感じで使い分けられるのが便利だなって思うんだよ👌✨
そこに被せられる意味が全く違うんだよね。
その意味的に“ホーリー”は私が見てる世界観においてはほとんど存在しないものなんだよ。
“私には必要ない”と言っていい感じ。
でも“ホーリースピリット”とか用語としては普通に使う。だって私が構築した概念じゃないから何でもいいし?
そのうち私の言う所のホーリーとディバインとセイクレッドの違いについて理解することも必要になるだろうからそういう話も近々出てくるかと😃💡
。。。
なんでもすぐに明らかにすればいいってもんじゃないのは聖なる道を自らの意思として辿ることを望むようになる程度の経験を得た者にとっては当然の理解であり必須技能。
忍耐とは美徳であり
それは確信による安らぎをもたらす
という飛躍的(?)な修練の成果❇️
というわけでこの記事は前回からの続きということだったのでしょう。
限凸のエネルギー、
そのカギは蓋然性!!
みたいな話だったかなって思うよ😃☀️
そしてこの話や前回の記事が書かれるタネみたいな物として、
読んでも書いてもあんまり楽しいわけじゃないけれど種まきとして必要なプロセスであり
新しい話の導入部
な記事ってのがやっぱりいくつかあるんよ。
コレ↓とかそれの典型的なやつ(笑)
書いてて楽しいわけじゃないし、
自分で(書かれてゆくのを)読んでても楽しめるわけじゃない。
でも必要なんだよ。
その一見したら蛇足で無駄足で骨折り損に思えるような布石ってのが一番重要なんよ。
だって楽しくないもん。
やらなくていいなら私だってやらないよ。
って思うからさ?😁
その手間とか面倒とか地味な取り組みとかが一番重要って話が神は細部に宿るって言葉なのかもしれないなって。
ホントそうなんだよね。
評判が良くなくて話自体としてはあんまり面白くなかったりもっと他に面白くて盛り上がって評価されるような部分の方が良さそうだけど、
でも物語の導入部や新展開のための解説パートを抜きにしたら全体像は理解できなくなるし作品としての完成度や練度もガタ落ちして意図した仕上がりにならなくなってしまう……
そこが読み手の反応や楽しさ面白さに対しての作り手のみが知る完成度とのジレンマってやつだよな~って。
だから実際に私も導入部はあまり面白くないって聞いてるから今も手が出せない(?)でいる作品とかあったりするわけで┐(´∀`)┌
だからわかるんよね。
……まぁ結局は完成度を選ぶんだろーけどさ?
テキトーに妥協したものを誰かに認められたって素直に喜べないわけよ。
それってつまりニセモノじゃん?
だから私は気付くんだよ。
たとえ他の誰かが喜んだとしても実際には私自身の想いを無視して誰かのためだけに
それだけで続けることはできないのだと。
困ったことだけど、
私は実際試したらそういう人間だったんだよ。
だから実は自分は完成度を高めるための細部=ディテールにまでこだわることができる人間だったと今さら理解しつつあるわけだ。
私はずっと細部にまでこだわれないいつまでたっても素人の人間くらいに思ってたから。
そういう意味ではそのやり方にはほとんど意味がないと知るのは避けられないわけで結局は途中で止めちまうor最初からやらないんだね★
無いものは無いってのはそういうこと。
実際に試してみればわかる。
とりあえず一時的には上手くいくやり方でいいならそれでいいんだけど、
それでは良くない、
持続するやり方が必要ってことになったら、
実際にそれが可能なやり方
ってのが必要になるから。
どれだけ“良さそう”に見えても
どれだけ“理想的”に思えても
実際には機能しない可能性だってんなら、
それは有りもしない幻に過ぎない。
そんなの、選べないじゃん。
良いとか悪いとかじゃなくて、
実際にできてないじゃん?
論より証拠。
事実は事実でしかなくてそれ以上でも以下でも無いけれど、
実際に
有るか無いか
を見極める視点ではこの上なく明確である。
疑う余地もない。
望む表れ方を得るには、
相応に正解であるやり方が必要になるのだし、
そういう意味での正解ってのは確かに有る。
それが実在性の表れだから。
……それで???
それで、どういうことなんですか???
それで、何ができるんですか???
それで、あなたは何か変化するんですか?
ってことをマインドでは常に思うわけで。
そしてその中身が今辿ってるこの話と流れの内容だってことはわかってるわけだよ。
だいたい感覚的に予め知さられるものってのは1ヶ月もすれば状況的な外側の変化としてもわかるようになる。
……それを予め(必要な分に限定して)知ろうって試みがコレだから毎日少しずつだけ進む話になるのもまた必然。
……いやだって実際、
白猫の新たなメインストーリーで見かけたこの話とかにまだこのブログ上の流れや順序としては全然行き着いてないんだもん(*ノ・∀・`)
そういうことなんよ。
私の場合は物事の表れや内面的な変化の外側への反映ってのはだいたい1ヶ月かかるらしいんよ。
わかるはずなのにわからない
そ常につきまとう不自然さの感覚が私を正解へと向かわせる原動力になってるし、それはある意味では引き寄せの原理を正しく機能しているってことでもあるんだけど、
だからって好きなように使えるもんでもない。
自分に能力があるからってそれを自分の思うようにその時々の気分で振るえるわけじゃない。
なぜならそれは神聖性に由来する力だから。
ディバインてそーゆーこと。
だいたい具象化の方のやつだと思ってる。
私こそがディバインである
みたいな使い方が正しいかと。
じゃあ、
私こそがセイクレッドである
って使い方はどうなんだろうか???
実際、以前までの私はディバインという言葉しか見えてなかったので当然のようにその言葉を使ってたわけで。
他の選択肢があるなら使い分けることになるのが必然だと思うの。だって上に書いたように
certainlyとかパーハップスとかメイビーとかそれぞれに与えられてる言葉の意味が違うんだからそれらを正しく使い分けるのは当然だろうから。
何もわからず示されるままにやる
↓
なんでそれが必要か掴めてくる
↓
必然を理解した上で選ばせてもらえる
この構図としては人間社会に仕えてようが天に仕えてようが中身は大して変わらないと私は気付いたらしい。
そもそも人間である限り形ある世界に属しているから全体性としてのその制約や支配=必然性からは逃れられないのである。全部一体だから。
そ、
だから一部分が一時的に気に入らなかったり間違ってるように思えてるからって捨て去るわけにはいかないんだよ。
だって全体の一部である上に一体なんだもの。
一部分だけ改編できるわけないんだから。
そんなほどほどに都合の良い幻想なんてものは最初から存在しないんだよ。
あるのは徹底的に完全な幻想だけ。
有りもしないふざけた幻想は消え去るのみ。
それを知ったからこそ得られる可能性ってのを喜んで求め受け取ればいいだけ。
それなら不幸を誇ったり他者に同じだけの不幸を求めなくても違うやり方ができるはずだから。
ホントこの言葉効いたと思うの。
……内心では薄々勘づいてはいたけどさ?
そうじゃない誰か
あ~!!
そんなに強い言葉を使っちゃいけないんだ~!!
とか私は思いました😂
だってコレが言えるのは、
同じモノを知りながら同じモノを選ばない自分とは似て非なるものだけなんだから。
自分とは全然違う似ても似つかない誰かが言っても少しも響くことは無いんだよ。
私も知らず知らずに絶望を誇りそれを糧として生きてきた自分を作り上げていたんだよ。
だってそうするしかないじゃん?
誰だってそうなるだろ?
まぁマイナスの出力を得意とする私も二元的な見方から抜け出せばどっちでもいいんだろうけど、
だからこそ絶望した自分をそこまで連れていってやることが一番大変なわけで。
そしてそれができたなら絶望感のペナルティ無しで絶望を糧として得た神聖さの力を苦もなく扱えるようになるわけです。
それは珍しいものだから役立つんだろーね。
誰だって選べるならそんなの選ぶわけない
そんな道で得られるものだから、
珍しいんだね。
まぁ絶望や喪失を誇りたければそうすればいいんだろうけど、たぶんそんなことしなくなっていくのが必然なんだろうよ。
だからやりたければやればいい。
そんなことしなくなるのが自然なんだから
無理矢理止める必要もないんだろうから。
ただしそれを選ぶ限りは苦しみを味わうことになると知った上で選ばなければならない。
……そんなの選ぶわけないじゃん。
……そんなの信じるわけないじゃん。
……そんなの有るわけないじゃん。
その意思が自分のものになった時に、
あらゆる制限(認識)は消え去る
のか。
それはどうだろうか?
制限(精神)は消え去っても、
制限(物理)は無くならないかもしれないし、
そもそも制限という認識が消え去るのなら……
どうなるんだろうか???
。。。
今回も答えを出す気がないのです。
いやだって着地予定時間は1ヶ月先の話よ?
それなのに今答えが出るわけないでしょ😆
そうと知ってるからこそやるんだよ。
必然と知って苦もなく受け入れられるようになりたいんだよ私は。
だってそれが聖なる流れの中を生きられてる状態ってことだから。
どこかの誰かに特別なヒントをもらわなくたってそのための訓練は積める。
でも退屈だからやりたいとは思えない。
その錯覚な感覚を活用して辿っていく。
これぞまさにマスターワークである
とか私は言いたいと思いました😃✨
(そう言ったつもりは無いのである)
いやだって今はその時じゃないんだもん。
相応しい言葉ってのは相応しいタイミングで使われるから真価を発揮するわけで。
それ以外の時はひたすら仕込みよ。
そうしてこの記事も素晴らしい素材や題材となっていくのであろう~~~
自分が求める神器やそのための素材が無いんだから自分で作るしかないじゃない!!
↕️
そのために最初から用意されてないんだから!
そう、
私は具現者なのである。
必然であるすべてを現す者。
自分にあるすべてだけで満足することで与えられ得るすべてを得られるという理解。
だから私はマイナスの表れなんだよ。
聖性にすべてを譲ることで自身を完全に表す
強いて言うなら私はそれを望んでるし実際にそうしているというわけです。だって私の持ってるものがそれだけだったんだもん🌠✨
なら仕方ないよね~😌
だからそれを究められる可能性は高い。
私は自分が予め知ってるものと実際に体験することになるズレや揺らぎが織り成すマジックを楽しみたいという感じなんだよ。
だから期待と違っても別にいいんだよ。
それも織り込み済みだと知ってるから👌✨
私は変えたいんじゃなくて知りたい。
だから私は既にある可能性を明らかにするという資質があるのは当然のことなんだよ。
そうじゃないわけがないからね?
そうやって内側の世界と外側の世界を1つの物として楽しんでるわけで、だからどっちかとかあんまり気にしてないんだね。
自分の意識にあるものは内側
↕️
認識できないものは外側(存在しない)
だから私が認識するすべては内側ってことになるし私が認識するすべては私の精神世界ということになる。
そうじゃない表れ方をしてもいいし、
私は自らの意思を試し確認してくだけ。
だってそれが聖なる流れに乗る術だから。
だからその可能性を確信することさえできたら私は既に常にその流れの中にあると知ることができるに違いないんだよ。
っていう感じで5月だったかまでの話や取り組みと繋がったということなのです。
じゃあ聖なる流れの中にあったらその自分には何ができるんだろうね~?
っていうことを今は知っていく時期である可能性が高いと私は理解したのでした。
可能性を高めていって、
そして確定させる。
確定枠以外は信用しない
ということですね!!😆
私は思うんだよ、
可能なことは可能性を高めることだけだと。
それが人間として可能な唯一の努力だと。