夏至も過ぎて今日は25日。
気付けばそろそろ今年の上半期も終わって下半期に突入するのだとたった今私は気付いたらしい。
夏至らへんの記録であり前回の記事であった物がこちら
この記事はかなり色々散らかってるけど💥
でも夏至らへんからの1ヶ月くらいの私の意識の変化だとか心に示された道を表す物としては上等と呼べる記録👌✨
よってそれ以外の見方をした場合は
(いつものように)雑多な記録でしかない物でもあるのですね┐(´∀`)┌
まぁでも確かに夏至のエネルギーだとか変化の波だとかそういった物を私も既に受けた後で、
今現在意識だとか内側の感覚だとかが変化していってる最中だとわかる。
そして肉体的には非常にだるくて重い。
おそらく私は、
前回の記事の中で示された内容らへんについてこの一月の間に学んでいく……正確には内面的な感覚の変化を自身の行動や出来事的な体験を通して知ってゆくという感じだけど。
そして今の私は、
仮に21日夏至の夕方頃から超エネルギーみたいな物を受けてエネルギー感覚波動的に変化し始めているのだとしたら今日はその流れに突入してから4日目くらいで、
ようやくほんの少しばかり“何かしらの感覚”でしかなかった物が掴めるようになってきたような気分だったり意識だったりする、
なお身体はとてもだるくて重いし波動的な感覚のズレによって常に目が回っているような極めて不快な状態にあるのだけれど😵
まぁそれも“いつものこと”だといい加減に理解できるようになってきた時期でもある🙆
実際に私はそういう性質のものなのだろう。
放っておいても心の中で揺らぎや波が起こってそれに呼応するかのように感覚だとか波動的なものも変化して道ができる。
私は何者かになろうとしなくても、
どこかに辿り着こうとしなくても、
既に今ある場所で自分として生きている。
そういう意味では私は非常に安定した状態にあるのだと感じられる。
(白猫の件しかり、)
そうして私はひたすらに内面に意識を向けて過ごす中で少しずつ確かに外側に意識が向くようになってきたことにも気付いてる。
(仮にそれを)夏至のエネルギーのような物があって私がその影響を受けたのだとしたら、
そのような内側と外側の感覚や意識の変化が一番大きくてわかりやすい先月と次月(?)の私の違いなのだと感じている。
(まだまだ内面的な小さな変化の波だからそれを原動力として外側へのエネルギーとするにも足りないくらいの物なんだけれどね)
だいたい今はそんな感じなんだと思う。
確かにここ1月の間のそれよりは外側に意識が向くようになって内面に意識を向けているだけでは足りないような気もしてきてる。
でも多分それは芽吹きのような物で、
だからといって私が何かしら外側の世界に働きかけたいと望んでいるとは感じられない。
だからたぶん動きとしては前月とほとんど変わらないんだろうなって予感してる。
実際、私が外側に向かう……自らの意思を心の外側の世界に働かせる動機は無いのだと思う。
理由は、そのまんま。
その動機が無いから。
もし仮にあったとしても
まだ明確じゃないし、
まだその時じゃないから。
だから私はたぶんほとんど動かない。
まだ内面的に取り組むべき物はまだまだ残っているように感じられるし、
たぶん本当に、
今の私は外側の世界に自らの意思や存在感をぶつけていくほどの動機が無いのだと感じる。
言い換えるなら、
“それをしてはいけない”のだし、
“それをしないことが必要”なのだろうから。
だからきっと今の私は、
外側の世界に向けて動かない。
その必要も必然も無いから。
そしてこのブログは私の精神世界の表れでもあるから次の流れに入ってから4日目=現時点での使い道としては、
“何かしらの感覚”を探ること。
おそらく今はこれ以上の使い方はできない。
なぜならその“何かしらの感覚”こそが今の私がまだ理解していないながらも既に変化させられ辿ることになっている聖なるお導きそのものだと言えるから。
だから遅かれ早かれそれを知ることになるし、
ソレがどのような何であるのかを知ることなしにどの方向にも動くことはできないのだと私は知っているから外側に向けて自分からは動かない。
ということもわかる。
原理的にそれが正解であり、
必然だとわかるという意味。
実際、
今の私はほとんど
自分が今現在どこにいて
何をしているのかも
わからなくなってしまっている
=一時的に思い出せなくなってる状態
だと理解してる。
だってまだ4日目だもん(笑)
一月単位で動いてく新しい流れなんてのは、
その全体的な方向性が掴めるようになるのは半分くらい進んでからのことなんだし、
仮に一月30日のうちの4日しか経ってないならまだほとんど理解できてないのも無理ないってもんだから💡
この人生はもう急ぎの旅じゃないし、
速さよりも正確さこそが求められるべき物だし正しさよりも味わい深さこそが望まれているのだということも私は気付いてる。
あ~、
まぁそういう意味で実はこのようなブログの形での表現みたいなのは極めてやりにくいとも言える気がしてる┐(´∀`)┌
だってコレは時間の中で記されてゆく物だし基本的に未来に当たるものごとは扱えなかったり持て余すことになってしまう。
対して私が辿る心の道というのは感覚的波動的な極めて内面的で時間とはほとんど関係のないようなものが本質だろうから、
なんかこうズレとかタイムラグとか順番とかそういうのに制限されるから非常にやりにくい!!
それが前回の記事だとかも今日まで公開しなかった理由なんだろうなって感じてる。
……そもそも私のブログは自分以外の誰かに読ませるために書いてるような物じゃないって側面も強いんだろうけど、
それは置いとくにしても(ノ・∀・)ノ
心の波だとか感覚的なカタチじゃないものと、
時間の中にあるものとカタチあるもの、
たぶん私はそれらを上手く扱うことがまだできていないから混乱してるんだと感じる。
(時間の上を生きてる自分としてはそんなの誰だって混乱する方が自然なことなんだろうけどさ?)
でもアレ?
半永遠存在として
生きようじゃないか!!
みたいなことを思ったりしたのも手伝ってか?
たぶんその件に関しての学びになる体験だとか波動的感覚的な変化の流れってのも終わってないのに夏至のエネルギーみたいなのもどんどん重なっちゃってるわけで!!
……私は思うことがあるんだよ。
もし本当に私が感じ取ったりこの場でも表現してきた概念だとか言葉の中身に相応しい感覚的波動的なものが本当に私に獲得されてきているのだとしたら、
もし本当にそうなら既に私の波動的感覚的なエネルギー出力みたいなのは極めて強く膨大な物になっているはずなんじゃないかと。
そして私は確かにそのような方向性を目指していたのだと思う。
スピリチュアル精神世界それ自体を愛好しているわけではないけれどその様式を活用することで
楽しんでいたのは確かなのだと。
そう、それなんだよ。
それが私が密かにアレの件に対して感じ取っていたものなんだよ。
この記事の中でわずかに示されていたような気がする話ですね👁️✨
私は自らがスピリチュアル精神世界領域の人間ではない(?)ということに気付いているし、
実際その枠組み自体を自分はあまり必要としていないということにも気付いてる。
しかし、
私が望み、そして導かれる方向性には不思議なことに確かにスピリチュアル精神世界の要素があるというのもまた事実。
私はその意味や意図を正確に理解していないのだけれど実際にそれは私の人生上に存在していたし今も残っているとわかるから。
……不思議な物だと思わないか???
私自身はそれ自体を追い求めているわけではないけれど
それは確かに私の人生上にあって、
しかもそれなりに重要な意味や意図や方向性さえ示しているように感じられるのだから。
だから私は、
そこら辺の感覚を探っているんだと思う。
必要や使命感に突き動かされてそれを望み掴んだのは事実だし、
どんな理由であれ私はそれを自ら望み求めたというのもあるがままの事実だから。
そういう意味で確かに私の人生上にはスピリチュアル精神世界は存在していた。
……しかしそれ自体を私自身が必要としているのではないということも感じられる。
……じゃあそれはどういうことなのか???
それがあの話ってやつ。
究極的には、真実、自分はそれ自体を全く必要としてはいないのだけれど、
でも間接的には自らがそれを必要としているのかもしれない。
……ならそれは、
私が必要としているのか?
私に必要とされているのか?
きっと今の私は強いて言うならそんなことを疑問に感じているのだろう。
そして“この件”に関してここしばらくの記事内容は一貫していると言える。
そしてそれは私がこの数年間追い求めていたものと同質だったりより本質に近付くために必要なカギとなる理解だということにも気付いてる。
それは強いて言うなら、
私の在り方に対しての
表れ方とでも呼ぶべきものだと、
そう感じてる。
そしてその支配者は、
運命であり宿命である天命そのもの。
きっとコレはノンデュアリティの恩恵やスピリットの威光である聖性をより深く自らに認め知ってゆくためのプロセスであり、
(このタイミングの)私という人間にとっては白猫のあれこれなストーリーがわかりやすい題材として非常に役立っているということなのだろう😃💡
そうして私は再び問い直すに違いない。
私はなんのためにソレを求めたのか???
ーもしも求めたソレを既に自分が持っているのだとしたら私はどうするだろうか???
もうソレを探し求める必要のなくなった私は
手に入れられたそれをどう扱うのか?
“失っていない者としての私”は、
どのように自らを扱うのだろうか?
たぶんそんな感じのことを今の私はわかっていなくてそれゆえに知ってゆく段階なのだろう。
時間を無視するなら、
思い出してゆくというだけのこと。
そしてそれにはまだ時間がかかる。
そして今すぐのことじゃない。
……その答えを得られるのはおよそ一月後ということになってるんだろうね(笑)
まぁソレが予めわかったからって今すぐに答えが得られるわけじゃないしそんなの望んでるわけないってのは理解できるから残念に思う気持ちや感覚こそがニセモノなんだろうけどさ?😁
何も間違ってなくて、
何もズレてなくて、
何も迷ってなくて、
でもそれがわかるのはまだ先の話。
それを今すぐに知ることはできない。
なぜなら全くその必要が無いから。
……そんなことを感じててさ、
きっと私は気付いたんだね。
これアレだよ、
(仮に)1月の一回しか実際には動きや変化なんて起こらなくて、それ以外の全てのタイミングはその間にある長いプロセスだからその中での選択や行動はその流れ自体には影響を与えないんだって私は理解したんだと思うの。
だからそう、
月に一回だけ動けばいいんだよ。
そのタイミング以外では変化を望むことは不自然さやズレの証明になるから。
たぶんそういうことだったんだよ~🌠
。
この記事の精度はどうであれ、
コレが付けば前回の記事も実像を成す。
時間の=二元性の表れの中で見えるアレコレな心の揺らぎを整えて生きるってのはそういうものなのかもしれない。
この話はまだまだ続くし深化するはずだけど今はここまで。
時間=分離の幻想に剋されない超越的な生き方在り方の話なんだろうねぇ。
時間が遅いわけじゃなくてその間の流れに意味も意図も価値もあるのはわかったけど
それ以外の何かがあるはずだけどわからない……
そう、
私はまた“何かしらの感覚”を受けていた~~~
🌠