必要と祝福の間にあるもの~/聖なるカギと聖性の器としてのディバインクリスタル=形あるものと自分。 | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★

そうして私はまたフラフラの状態になっていた









現在このブログは“限凸のエネルギー”


↑今回の夏至に受けた変化への強制力のような感覚の実感=夏至のエネルギーについて探られているような状態にある~~~






。。。






私は、思っている。



あれから……

“マスター”として生きるとかそんな感じで人生の転換期を迎えた9年前のこのくらいの時期からスピリチアル的な能力や霊的な資質的には大きく進歩したように思えるけれど、


しかしそれ以外にはほとんど何も変わっていないような気がしている。




もしかしたらつい最近になってようやく本筋であった道の方向へ進むことができるようになったばかりだからアレから大して進んでいないという認識は間違いではないのかもしれないけれど。





今の私は感じている。


今までの私はなるべく“面白いこと”を求めて生きてきたように思う。なぜなら必要と使命に縛られて生きる意識の段階では純粋に楽しむということはほとんど不可能に近いから。


だから目の前にあって私に必然として与えられるあらゆる体験を善きものとして受け取ることができるように創意工夫をこらしてきたとでも理解するのが正しいように思える。




そして私は、

面白い”から“楽しい”へと、


基本となる意識の置き方を変化させようとしていたり例の夏至の限凸のエネルギーによってそのような変化が後押しされているように感じている。






実際に私が9年前の夏に求めたのはソレで、

そのための直接的な方法論でもあった聖なる流れに乗って(祝福を)生きるというような在り方や状態を実現するという方向性への進み具合は、


年月的な見方を除くなら、

非常に順調だと言える。






実際に、こうして私はようやく



面白い=興味深い

の認識のレベルから、


楽しいだから好き

の意識にシフトしようとしている



私はそれを実感している。






振り返ってみると、

私がこの9年間で体験し学び終える=越えてきたアレコレな物事とは、


面白い興味深いの意識から楽しいし好きという意識の置き方や自己の在り方を許可するために妨げとなるあらゆる抵抗や恐れを解き放つためにあったということがわかるのだし、


言うなればそれが純粋性としての聖性だったということもわかる。






必要に突き動かされ生きるだけの者が、

自らの心のままに存在することができるようになるためには、


その間にはどれだけの隔たりがあるだろうか?






私はそんな命題に取り組んでいたと言ってもいいように感じている。


実際に私は使命感と必要に生きてきたのだし、

それから解放されたのはつい1月ほど前のことだとわかるから。






まぁそんなこんなで、


私はようやくその具体的な術たり答えでもある聖なる流れに乗って生きる=あるがまま完全に存在する?という可能性を自らに対して開き差し出すことができるようになったから、


今はそのための色々な調整段階にあるのだと認識しているし、その具体的な表現や表れ方の1つが例の夏至の限凸のエネルギーということになる。







だから私は思う。


私が求めた救いの先にあったのは

祝福だったのだろうと。



救いとはマイナスをゼロにして悪夢を帳消しにするための物だから、


その用を果たせば消え去る

→それ自体にあまり意味は残らない。






実際に今までの私は自らに救いこそを与えるために生きていたのだし、


そのような認識ゆえに私が他者に差し出せる何か一番価値があるもの=自分にとって一番価値あるものとは救いだった。



だから実際に私は少なからずそれを表現し示すというようなことをしていたのだろう。






しかし、

救いとはそれ自体ではあまり意味を成さないものであり究極的には……その目的を果たした後では求めることも必要性も無くなる

救いの幻想とでも呼ぶべきものでしかない。






……だからきっと私は、


自分にとっては一時的ながらもこの上なく価値あるものと知りながらも、

他者に対してはあまり意味や用を成さない文字通り素晴らしい幻想くらいにしか思っていなかった


という理解が真実かもしれないと思う。






それは同じ幻想を見るものだけに価値があるものだからそれ以外の者にとっては意味を成さず存在していない幻と同じだから。


だから私は救いというものをひたすら自分にのみ求め続けたのだとわかる。






だって、

そんな意味も成さなくなる幻想を価値あるものとして扱うのには無理があるでしょう???




だからそれが可能なのは、

特別なタイミングでのみ。




そこに聖なるリアリティーが加わることによって初めて本来は意味を成さない幻想が価値ある幻想になるのだから。


きっと私はそれをディバインマジックと呼んでその鍵を探し求めた。



自らが求めた幻想をただのくだらない幻じゃなくて何かしら価値があると信じられる聖なる幻想とする術を得るために。







それだけが、

やがて意味を成さなくなる幻想を必要と追い求めながらも無駄じゃない何かにするための唯一の術だと感じていたから。



実際に私にできることはそれだけだった。



非実在を追い求めながらに実在性を見ることはできないけれど、


実在性を見ることができるようになるためには先に非実在を見えなくさせることが必要だと知っていたから。



だから私は懸命にそれに取り組み続けた。



究極的には意味を成さない幻想にそれでも、

何かしらの意味や価値を見出だすことができる

奇跡のような術を求めて。






それが必要と祝福の間にあったもの。



無意味さ無価値さという無意味で無価値な幻想を文字通り幻として消し去る術。




だから私は知っている。

有りもしない幻想を取り除くことだけで完全性は取り戻されそこには聖なるリアリティーが宿るということを。



それを知っている私が“マイナス”の表れ方を選ぶのは必然。



私は1つの幻想をもう1つの幻想に取り替えることを望んでいるわけではない。


私の目的は、

真に有って在ったはずのソレを現すこと。



だから私は聖性の具現者であり、

その術がマイナスの力ということになる。




私とはそのような者だった。

与えられた個人の本質なんて物は同意してもしなくても変わることは無いのだし、あらゆる反論や予定変更さえ織り込み済みなのだと私は語るよ。






そんな感じで私はマイナスの表れ方で聖性を表すことを得意とする=好む=本質とするらしいからそれが正解ってことになる。


そういう意味では私にはプラスの表れ方で聖性を表すなんてことが可能なのかそれは一体どういうことなのかはきっと全然わからない(ヾノ・∀・`)


それが二元的な制限だから。

私は自分を私とする限りはその制約から外れることは無いのだし特に抵抗する気もない(笑)



一見(一聴?)するとマイナスって聞くとイメージが悪いような気もするけど、



そもそもの私の意思ってのが、



聖性(あるいは私の神や本体)のために

器として空けておく。


それによって現れる。





というような方向性だから、

マイナスの表れじゃないのはむしろ不自然でさえあるのかもしれない😌




それが私の在り方の基本てことになる。




一見したらそれとは違う考え方を持っていることを証明するような動きや選択をすることがあったとしてもそれは在り方の話だから何の違いにならないということ。


それが私の神聖さであり聖性の証であり

だからこそ私はマイナスの表れとしての自己の在り方や使い方に喜びや完全性を見出だすことができるに違いない。








きっとそんなことは一度完全に理解してしまえばそんなことに思い悩んだり惑うことは有り得ないと一笑されるくらいのつまらない幻想でしかないのだと思うし、


それを明らかにするのが限凸のエネルギーって感じなんだろうな~って



私は思ったらしかった。






だから私という人間が必要を超えて祝福を生きられるようになるためにはコレらの理解が必要だったということになるんだろうね?


きっとそれは聖性の獲得であり体得のプロセスと言っていいものなんだろうよ。




コレらが私が求め見出だした聖なるカギでありそれらを象徴した形ある器こそが私がディバインクリスタルと呼んだ作品群だったんだろうよ。



これらの表現は少なくとも今の私がそこまで理解できるようになった(可能)ということなんだね😃💡







……しかし私はコレら自体を誰かに理解させようとは思っていないんだと思う。


いやだってそれ“面白い”としても

“楽しい”かどうかは全く別だからさ★



面白いだと研究でしかなくて、

祝福にはならないからだね🙅