神聖性って本当に神聖なんだとわかり始める時期なら恐れずに喜んでディバインスピリットしたいですか? | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくブログ~

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14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★

前回の記事、

アレどうなんですかね?


アレ↓





私、何て書いてましたっけ?

私、何て言ってましたっけ??




例えばココらへん、




まぁたぶん赦しの理解ってことよね。


まぁたぶん赦しの理解ってことよね。




…………………………………………………………。
それは、どうだろうか???




私はつい先日くらいから奇跡のコースなワークブックの取り組みを数年ぶりに再開したのですが。
ユーチューブに動画が存在するので💡
レッスン51から学習の簡易的な振り返りみたいなパートが始まったのですが、

今日の分の動画の最後の(祈りのような)
言葉が、



神よりも偶像を優先させるつもりは
私にはありません。

困ったことです。改善していただきたい。



神よりも偶像を優先させるつもりは私にはありません。




…………………………

……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

……………………………………





私は、どうだろうか???

そう思わずには居られないのですね。



あまりにも突き刺さってしまったので、
あの動画をそのあとに2回、
3回連続で聞きました。




……私は迂闊なことをしてしまったのか?

私は、間違えてしまったのか???
私は何か取り返しのつかない過ちを犯してしまったのだろうか?



そんな思いで頭の中がいっぱいになってしまった……という感じでしょうか。


特にレッスン13の、

意味のない世界が
恐れを引き起こしています


だとか!!


……ソレはきっと、
私がずっと探していて、

ソレは何年も前に見知っていたけれど、
私には全く理解できなかったから
初めて知った答えだとわかったのです。




実際に私は、

“恐れる”ことなく生きる術

のようなものを探し求めていたのです。



私はその原理の解説を聞いたり読んだりしても上手く理解できなかったけれど、
でも実際に自分が体験している悪夢的なリアリティーであるソレがそのような理由で説明可能ということだけはわかっていたのです。

何しろ体験しているのですから、
まだ理解できなくても わかるのです。




私は様々な物を求め望み、
ソレらを得ることによって心の平安や穏やかさを取り戻したり喜びを得ようとしていることに既にそれとなく気付いているのですが、


しかし私は完全に決断をするには至っていなかったのです。


私は積極的に偶像を優先していたし、
その結果として不可避の恐れや混乱を体験してきていたのだとわかります。




その1つ前のレッスン12の言葉、

私が動揺しているのは意味のない世界を見ているからです


というものなのですが、
確かレッスン2だったか3だったかに同じような意味の言葉があったのです。


……調べてきました、
レッスン5でした(*ノ・∀・`)


私は自分が考えているような理由で動揺しているのではありません


というものなのですが、
この中の“動揺”という言葉が“恐れている”ということと全く同じ意味で使われていたのだと今回私は初めて明確に理解できたのです。


確か、私がこのレッスンに取り組んでいたのは2020年の冬頃だったと思うのですが、
当時の私はその言葉の意味を理解していると感じながらもなぜか実際には理解できないように感じていたことを覚えています。


……私の心の準備がまだ完全ではなかったということなのでしょうし、たぶん今でも完全ではないように思うのです。


これはレッスン51の中で振り返られていたのですが、その中の最後のやはり祈りのような言葉が私には突き刺さったように感じられたのです。。。


自分を傷つけてきた、
今はもう望んではいない
思考体系を守るためでした

という言葉が、
深く深く突き刺さった気がしたのです。

なぜなら私自身がそのように感じられるように4年ほど前とは意識が変化していたからです。


その解説として、

自らの怒りを正当化するためにあらゆるものを敵にしている

という説明がされているのですが。

今回私はその言葉が理解できるようになっていたのです!!




以前の私にはそれはわからなかったし、
少し前の私……1ヶ月前の私でもそれは認められず受け入れられなかったとわかります。


でも今の私は、
その事実を喜んで受け入れると共に、
そんな何の役にも立たない無駄に仮想敵を作り上げては混乱と否定に満ちた世界を生み出すような考え自ら手放したいと感じるようになっていたのです。




私はその不毛さ、無意味さを実感できたのかもしれません。

少なくとも自らが正気であるなら、
全くそんな考えを自分にしていたいとは全く思えないということだけはわかります。


それは私が何より抜け出したいと願い望んでいるはずの恐れと混乱に満ちたリアリティーを自ら作り出すという意味で明確に間違った選択だとわかるから。


そんなものを、
自分が全く望んでいない結果を自ら生み出すような意思を選択するはずがないのです。

もしそんな選択をするとしたら、
間違いなく私は正気ではないのでしょう。

今はそれが理解できます。



私がそのようにしてきたのは
自分を傷つけてきた、
今はもう望んではいない
思考体系を守るためでした。


……私はその言葉の意味がわかるので、
ひどく虚しい想いや感覚と同時に、

もうそんなものを自ら選択しなくてよくなったという安らぎを感じているのです。

強いて言うのなら、
私がその密やかな感覚に気付き始めたのがこのカードがシンボル=サムネとして使ったあの記事らへんの頃のことだったのでしょう。

このカードはこのようなことが書かれているのです。




はどちらかと言えば確実に“神様”というような言葉や概念を好ましく思っていなかったり否定的な考えを持つ人間だと自覚しているのですが、


しかし、

自分を傷つけてきた、
今はもう望んではいない
思考体系を守るため


という言葉が示すものの、
あまりにも不毛で無意味で無価値極まりない救いも報いもあり得ない思いというものが理解できるようになったのなら、


“神様”を、
“GOD”を喜んで自らに受け入れることはあまりにも当然のことだと思うのです。


今までは馬鹿げていて非現実的だとさえ思えていたそのような意思こそが真に正気で当然なのだとわかるようになるのです。




だから私はきっと、
自らを恐れさせ苦しめているのだとわかるようになった考え方や自己イメージとなっている狂気の思考体系を喜んで手放していくことでしょう。


あの言葉が示すように。

これ以上の説得はもう必要ないのです。




前回の記事の、

最初の方に貼ったここら辺




これは強いて言うのなら、


赦しという幻想

を成立させるための幻想


みたいなものなのでしょう(笑)



紛らわしいというか、

なかなかギリギリな概念だけど、

神聖性として理解可能です🙆✨





そして私はこのタイミングで、
前日夜くらいにアレらのアイテムを完成させることができたと感じたのでメルカリで販売することにしたのですね😃


コレを

“スピリチュアルレス”というコンセプトで変化させ仕上げたアイテムであるコレとか。



私はこのようなアイテムこそが
聖なる幻想性

という概念を象徴するに相応しいものだと感じています。


神に由来しないあらゆる偶像を優先することによって“マジックパワー”を信仰することによって喪失を得ることは避けられないのは変えようのない事実かもしれないけれど、

そもそも赦しという悪夢を取り消す幻想さえ求める必要性が無くなったその時には、

きっと何一つ形それ自体を選ばず求めずにただ純粋に神性の片鱗みたいな物だけを見ることで純粋に愛し祝福することは可能だと、
私はそう感じているのです。


だから私はそれを知りたい!!



それがあのアイテムの意味です。



そんな感じで……
今の私は意味のない世界を見て恐れることがないように注意=集中しているので、

販売する前にセイクレッドクリエイターオラクルも引いてみたのですね💡


すん~ごい正確な結果が出た気がします。


1枚目の“ブレイブリーのカード”しかり、
2枚目のやつは初めて見ました。
特に密かながら良い仕事してると思われるのがアドバイスカード。後に拾っていきます。


私は販売活動を“上手く”やるためでなく、
そのような行動を相応しい物だと感じていたり気が熟したと確信しているような感覚があることの理由を問うたのです。


2枚目のやつはこんなカードです






この、
自分独自の聖なる流れ

というのが、
私にとってはあのような表現や自己の感覚を頼りに導かれ歩んでゆく感覚なのです。



タイトルを見ればわかるように、
中身が理解できれば更にわかるように、

そこには一連の流れがあるのです。


これは最初からは理解できないものです。
こうやって今扱ってるこのテーマ、

想いの循環……
やがて愛となり祝福となるもの

というテーマが内側から出てきたばかりの一月前のタイミングではその意味はほとんど理解できないような代物だったのです。


ここら辺のことですね😃


ちなみに私自身は4月の半ばくらいになってようやくそのテーマの名前とかが間違っていたり的外れな物ではなかったのだと理解可能になりました(*ノ・∀・`)


前回の記事のこの部分ですね!!



だから、

私は今すぐに理解させようなんて
全く思ってないんだよ。


真に見ること”を
望む者だけに可能なことだから。


時間を省く”って、
“ミラクル”を選択するって、
そういうことでしょう?


そもそもこんな話、
敬虔なスピリチュアリティの実践者以外にわかるわけないんだから。


ちょうどそのくらいの温度感なんだよ(笑)


私も例外じゃない。
今の私はまだまだそれを望んだり望まなかったりという“不誠実”な状態にある。



でもそれは、
時間の中での制約の話。


時間を省いて見るのなら、
そんなものは何も関係ない。




……というこの1ヶ月の私自身の(ブログに書かれていないプライベートな領域での)取り組みを総括する言葉が

自分独自の聖なる流れを見つける


というような体験であり学びだったのだとわかる=理解可能になったわけです。



何度でも繰り返したいけど!!


コレは一ヶ月前の状態ではほとんど意味を成さないものなのです。

この期間に記されたブログの記事が既に存在した状態が現在になったからこそ

説得力を持ち
現実感を高めてくれる!
のです。




それら“舞台”が整うまでは

なんのことか
わからないのが無理なく当然なのですよ、

時間の中の世界では。




ただ私はその時間の中の制約に縛られずに存在し自らをあらゆる幻想性な制約から解放することを望む者なので、

その制約に自ら挑むわけです。


私と同じような意識や同じような“見る目”を持つような者以外にはしばらくの間はそのことはわからないのでしょう。



だから、
説明は不要であり意味を成さない
です。


そもそもこんな話は敬虔なスピリチュアリティの実践者以外にわかるわけないし
必要ないんだから。




世界中のすべての人間が無意味で無価値な混乱した幻想の中にあって恐れを見ているように見えたり実際にそうだからといって、
自分もそれを選択する必要はないのです。




私が言葉や概念に割り振っているこれらの色とは、
それが見える者のリアリティーや世界観を示しているのでしょう。


見える=実感できる者には当然のようにわかることだし、
見えない=実感できない者には理解できないようなものなのでしょう。


私が割り振る赤に類する文字や言葉だけしか理解できない人間も有るかもしれません。



私は幸いにして非常に多くのリアリティーを実感できるセンスを持つ人間だったこともあって言葉や概念の質や温度感に合わせてアプリで選択可能な色を割り振ることはいつからか趣味みたいになっているのですが、


きっとそれは一応なりとも説明する気があるからなのでしょう。


それを見た者が私の意図を理解するかどうかやどのように何を理解するかは私の知るべきことではありません。

それは私の仕事ではないからです🙅


強いて言うならそれこそが、

私が世界と調和して生きていると実感する

そのための取り組みなのです。


私自身が聖なる幻想を実感しながら不可避の喪失や悪夢を見ずに目の前の体験を純粋に愛し楽しんでいる状態である
ための、

聖なる術(すべ)たる取り組み
なのです。




想いを循環させることで
やがて愛となり祝福となるもの
聖なる術とは、


私にとってはこのような物だったのです。



これが私が見つけ出した自分独自の聖なる流れに乗るための方法論、

“黄金のガラクタ”を神の王国の宝みたいな物に変えるための聖なる術=取り組み。




実際に私はコレらすべて……ここに表され得ている私の存在感のすべてを聖なる術たる取り組みとして使っている。


私はもう中途半端にはしないし、
もうそうはならないんだと感じてる。


それが信頼の感覚なのかもしれない。


自分があるべき状態であるべき自己として確かに存在しているという確信による強さと安らぎ。




……私のその意思は本物だから、

一見したら何もわかってない典型的間違いにしか見えないような行動も真に必要とするのなら過ちや無意味な幻想を見ずに例外なく聖なる術として取り組むことができる可能性があるのだとわかる。


それが唯一可能な選択。

見るか 見ないか。


私はその言葉が理解できる可能性がある段階にまで進歩していたらしい。


それがあらゆる恐れへの対処法でもある。
それこそが私が探し求めた聖なる術だったに違いない。




どうかその聖なる意思を受けて輝いて。

そう考えるとむしろ聖なる意思の結晶体……
→ディバインスピリットクリスタルである。


その正しい理解があって初めて私の作品は私が望んだ神聖性の結晶体であり器となるディバインクリスタルとして完成する。

私はようやくこの仕事を完成させることができたのかもしれない。




(直接的な理由はどうであれ)
確かに私はホーリースピリットと神に心から感謝したに違いない(笑)

実際には“そういう所”で心から感謝し信頼を学ぶ瞬間が訪れるってんだから聖なる導きや聖なる流れってのはやめられないものだと私は思っているよ。


おぉ神よ、ホーリースピリットよ!!
私に最高の贈り物と報いを与えてくださりありがとうございます!!

そんな想いで心が満たされる瞬間てのがあるんだとしたらそれもたぶん例外なく聖なる瞬間なんだろうなぁ……アレなやつでも。


まったく、
人間たる自分のしょーもなさ下らなさと神聖性が同居して1つになる瞬間てのはまさにミラクルと呼ぶしかない物だと本当に思える。

それなら十分に自分の負けを認めたって得る物はあるし、むしろ喜んで自分のやり方を捨て去ることが自然になっていくんだろう。


っていうかそれ以上のやり方があるとは全く思えないレベル。自らの意思と競わせる意味も現実味も全く無い。



神聖性って本当に神聖なんだなぁって。



そんなことを私は思ったんだ。



何がすごいって、
私が願い望んだすべてである唯一無二にして至高の一角となり自分だけの最高のストーリーのすべて最初からそこにあるということだよ!!


まさに奇跡の上を生きる感覚とはそのようなものなのかもしれない。


これは満場一致で喜んでついていきます。



神聖性ってすごい!!
だからもっと知りたい!!


そんな私が幸せな学習者となるのは文字通りに時間の問題だったのだ🌠