続きの話、ですかね。
あの本、また少し読めました。
(これはもう私の意志で読んだとか読まないとかいうよりも幸運なことに読むことができたと表現した方が正解だと思うのですよ)
読んで納得。
確かに、癒しのマスター・キーっぽい。
“マスターキー”じゃなくて、
“マスター・キー”なのかもしれないなと。
……どう違うのかって???
どうだろう、
今の私がそれを語った所で嘘臭いというよりも的外れだったり勘違いな解釈だらけになってそうだし……そういう意味で後々に訂正しなきゃならなくなると感じる間違いを必要もなく自ら犯すというのは
可能な限り全力で避けたい
ものですね………………切実に。
なのでそんな時は沈黙するか、
“答えない”という選択をするのもやむ無しだと思ってます。
……どうしても今すぐに無理矢理でもいいから答えろというのなら答えてやろう。
しかし今の私が思っていることはどうせ勘違いだからあてにならないし、
後になって今の私の言ってた話と違うとか文句言っても絶対に相手にしないからな?
……みたいなことは避けたいのですよ。
どうせ正解じゃないし。
どうせ間違いだし。
どうせ勘違いなんだし。
ということを知っていながらそれを答えるというのは非常に苦痛である。
しかし断ったり沈黙することは
状況が許さない!!
……って時は、致し方なし。
まだ“そういう時期”なのだと、
腹をくくるしかない。
……今までの私は、そんな感じの意識や感覚だったことの方がはるかに多く思う。
そんな状態では外側の現実は敵ではなくても近い罪業なリアリティーを突き付けてくるもんだし実際にそれから完全に逃れる術もないのだから……………………。
…………っていうような、
“そういう時期”ってのも私の人生の中では終わったように思う。
そして現在私はそのような記憶やリアリティーを持つ自己意識をどのように振り払ったりなるべく穏やかに消滅させ救うことができるか?
みたいなことを求めてるんだと感じる。
別の表現で言うなら、
ようやく私の意識の中に優しさだとか穏やかさのような感覚が芽生えつつある。
それら訳あって否定され無きものにされていたリアリティーが蘇りつつあるように感じている。
それは別の表現で言うのなら、
ようやく自らの意思として癒しの道を選択できるようになった。
ということでもあるわけで。。。
ようやく、ようやく優しさとか穏やかさとか神の平和のようなものを否定しなくてよくなったのです!!
実際に、この意識段階(?)になって初めて私は癒しという目的意識で自らの存在感を扱うことができるようになる。
今の私はまだ完全にその中身を理解できてはいないけれど確かに“癒し”という方向性や目的意識を否定し拒む理由があったのです。
それは決して曖昧なものじゃない。
とても明確な物なのです。
例のあの本、
この本を読んでいて感じることや思うことはいっぱいあった(何回か読み直しても役に立つなって思うくらい)んだけど、
感情を味わうことを許してやる
みたいな部分が印象的だったり今の私の意識に残ったっぽいのですよ。
それがなぜなのかと言えば、
そういう意識を持った時に自らや他者に対してなるべく優しく穏やかであることの真の価値や意味……
神の平和を自ら選択することが意味を成すようになるというか必要だと理解できるようになるというか。
なんかそんな感じなのですよ🌸
“ここ”では役に立つのですね、
自分や他者に対して常に優しく穏やかであろうという意思が。
そしてそれこそが、
私が真に求めたものの一つである、
自己成長による優しさの獲得
なのだとわかります👌✨
私は強く願い望みながらも、
しかし同時に信じられなかった。
真の優しさとは自他の境界を持たず無条件であり完全ゆえに神聖なものだから当然自分にもあるはずだと。
それはやっぱり、
“この世界”の言う優しさ
とは違う。
それは今まで自分が人生の中で出会ってきた人間の誰一人として教えてくれないような本物だったんだと思う。
……ただ私が気付けなかったというのも間違いのない話なんだろうけれどそれも無理のないこと。
そうして私は理解するのです。
今までの私がどれほど自分に優しくなかったり思いやりや穏やかさ平和を与えてこなかったのかと。
……なるほど、
これでは“癒し”という物も無条件に拒み否定しなければならないわけだよ。
若い頃って、大変なんだねぇ(*´ Δ`)🍵
そうして現在、そんな私の記憶に蘇ってくるものの一つとして
平和(だったか)愛に
チャンスを与える
というような言葉があって。
……なんのやつだったか少し心当たりがあったので今調べてきたらありました。
たぶんコレのことだと思う😃
懐かしのラブアンドライトディバインガイダンスカードですね!
(少し前にもブログ上で出てきた気もするけど私の認識では主に2019年に活躍した物なので。)
……たぶん今までの私は、
偽りの自己像である自分を消滅させることに躍起になっていたんだと思うのですよ。
……そんな私が優しさや平和なんて物を自分に向けるわけがないのですね。
それは死すべき自分
だから。
そこに情けや容赦は不要なのです。
だって消滅すべき自己なんだから★
否定されるのは当然だし、
消えることを望まれるのも当然のこと。
そういう意味では私は無条件に自分を否定していたということになります。
まぁ、気持ちはわかるし、
そうなるのも、無理ない話だし?
そういう意味では同意の上なんだし。
ただやり方が上手くないのでしょうね💥
もっと穏やかに意識をシフトさせることができれば良かったのかもしれない。しかし私の性質的にそれは無理な相談というやつで。
結果的に私は、
過去の自己意識のすべてをバラバラに切り刻んでそれを焼却処分することで浄化と成し転生するかのごとく復活させる
みたいな方法を選んでいたのです。
……それを強いられる意識の私にとっては
死の+地獄の苦しみですよね★
このブログ上でも断末魔の叫びみたいな物はそれなりに記されていたように思うし✝️
┐(´∀`)┌
まぁしかしそういう時期も終わったのです。だから私がかつてほどに鮮烈な苦しみを味わうことはきっと生涯無いでしょう。
そんなこんなで、
私は今までよりもはるかにジタバタしないで自らの感覚や感情をそのまま受け入れ受け止めることができるようになったように感じているのです。
その時に大切なのが優しさであり思いやりなのです。
だって断罪することも闘うことも目的ではないのですから。だから自分にも他者にも優しくあること……常に神の平和を選択しようとすることは当然の判断だから。
だから、
“それよりも前の話”みたいなもの……
とは、今の私が見ている物は大きく異なる物になることでしょう。
今までの私では自他に優しくあること……神の平和を無条件に望み選択することの真の価値がどうしてもわからなかったように。
しかし、
実際ソコが一番苛烈な気がする。
自ら天国の門をくぐる瞬間?
みたいな感じなのかな???
ある意味で自分が穏やかに死ぬことによって真に蘇る選択みたいな。
それを自ら無理矢理選ぼう自らに選ばせようと闘ってた時とは全く違う。
そしてそれは明確に、
ただの時期段階タイミングの違いでしかない
とも思うんだよ私は。
今の私はそうやって強く自己像を時間の上に結んでいるように思うけれど、例のあのマスター・キーの本は、そういう意識を越えていく可能性も当然のように示してくる。。。
そりゃ読めないわけだよ。
例えば私の言っていた、
聖三位一体的な認識や概念とか、
アレは外側から持ってきたものじゃなくて私の内側……自分の中にあった物として理解したからこそ外側や誰かの示した情報で同質の物があった時にもその本質がわかるように。
私はそういう内側での体験……
先に自らの内側からそのような叡知を得ることができていたという現実感にすごく感謝してるし大満足してるんだなって。
なんかそんなことを思ってるらしい。
そう思った時に初めて、、、
先人や賢人から学ぶよりも自らに求め気が済むまで試行錯誤し続けるというやり方……賢者ではなく愚者そのものにしか見えなくて悔しい思いばかりを繰り返してきたような果てしない体験の記憶だった物が初めて、
とてつもなく得難くて価値ある宝物だったと気付けるようになったというか。
ほんの少し前まではゴミでクズで何の役にも立たないばかりかマイナスでしかないと思えていたような物がある一瞬を境にして信じられないほどの宝とか黄金に変わるような……
なんかそんな内なる=聖なるマジックを目撃したような気分だったりする。
きっとコレこそが、私が個人的に自らに示したい与えたい=分かち合いたいと望んでいる物だったんだって感じてる。
それがどんな風に他者に伝わるのかそもそも伝わるものなのかどうかも私にはわかんないんだけど(笑)
でも私が自らゴミクズやガラクタや厄介事みたいに思えるものを自ら望み持ちきれず押し潰されてしまうくらいに無理してでも大切に抱え込んで守ってきた理由ってのがわかるようになったんだ。
これは私の待ち望んだ報いであり救いの瞬間と言ってもいいものかもしれない。
あ~うん、そうそう!
ちょうどアレがそんな感じ!!
……きっと今の私は、自らの現実的な生産的な活動……もっと具体的には
ああいう作品↑を作ったり表現したり販売することに関してそこに純粋な意図があるのだろうかと疑問に感じているように思う。
たとえばそれは、
私は“富や名声”のような社会的な成功や自己の人間的な力の証明を望む必要が無くなったとしてもそれでもあのような作品を形にしたり表現したり販売するということを望むのだろうか???
“欠乏”の意識を持たなくなった私は聖なる仕事や自己の表現としてそのような活動を喜んで行うのだろうか?
というようなことが気になっている。
そして多分、私が積極的に作品を販売するというようなことを自らが望んでいるように思えても実際には滅多に行わないのはそのような理由からなのだと確信している。
だから私は、知りたい。
どのようにすれば“欠乏”や不足感を持たないままにこの世界を生きる一人の人間として調和し自立し幸福に完全性を保ち生きて行くことが可能なのか?
私はそれが知りたい。
そしてアレ↑はそのヒントとなり道しるべとなる物だと感じているけど
(実際……完成時にはそのような聖なる祈りを生きるリアリティーを象徴するアイテムに仕上がるのだろうと感じるけどそれはまだ先の話であり)
今はまだ未完成である。
だから私は知らなくてはならない。
時間の中でしか完成しない私の作品、
時間の中で育ち完成してゆく私の作品……
それを私はどのように扱えばいいのか?
私が知りたいのはそれ。
どうやったらアレらを上手く販売して資金を得てもっと研究開発を進められるようになるのか?
というのは、
強いて言うなら“ダミーの意思”ということになるんだろうね👻
ダミーなんだよね、
フェイクじゃないし、
ダウトでもないんだよ(笑)
しかも
真実ではないけど
間違いでもない。
みたいな厄介な扱いでもあるらしく。
………………あれ、
それなんていうディバインマジック?
今の私にはそういうある種の手品みたいなマジックに思えるリアリティーの仕組みや原理がわからないのでした🌠
おいおい、本来仕掛ける側の者であるはずの自分がそのトリックの種を忘れてしまうなんて困ったことだなぁ?
っていう状態なんだよコレは。
私が理解してなくても
それは機能してる。
それが今の私の作品ということなんだよ。
……それをあたかも完成品として扱って販売するっていうのは単純に
気に入らないから嫌。
くらいの理由なのかもしれないけどね😁
まぁそれも“ダミー”なんだろうけどさ?
しかしそのダミーってのにも上手い使い道ってのがあるんだよ。
そしてそのその上手い使い道ってのがあらゆるネガテイビティでマイナスに思えるような意識な体験に真の意図や意味を望むことで知ることができる隠された聖なる意図みたいな物なんだろうなって感じてる。
それを教えてくれるのが聖霊でありホーリースピリットというわけ。
この流れで言うなら、
私が忘れてしまった本当の私の記憶や究極にして完全無比な栄光的な力の使い方も知ってるし教えてくれる存在ってことになる。
それがミラクルなんだね~。
そのやり方なら時間の壁(幻)も貫いて?思い出させてもらえるというわけ。
何をどう考えてもそんなホーリースピリットの助けや介入を拒む理由なんて1つも無いんだよね(笑)
それでも拒むってんなら必ず相応の価値があるはずなんだよ、それは“コース”的には堂々とは語られない物なんだろうけど。
ってくらいのことを今の私は思い出したり理解しているらしいよ。
計らずもこれもディバインマジック。
もはやディバインマジックのお導きという感じである❇️
しかしこのディバインマジックという概念はその名が示す通りかなりすごく相当に鍛えられそうな気がする。
だって“ディバイン”だし。
セイクレッドじゃなくてディバイン……そこにも意図はあるだろうから。