春になりました。
この地も春になったようです。
春は秋の終わりくらいに様々なことを思い出す感傷的だったり味わい深い季節だと私は思っているのです。
私はなかなか気付かなかったけれど、
空気感に限って言えば冬が終わって春が始まりはじめたくらいの季節が一番好きだったのかもしれません。
自身が思う限りでは、
やっぱり桜の咲く季節のうっすらとした華やいだ匂いや空気感ほど満たされるものは無いと思っているのだけれど、
それでも空気感として一番多く私の人生の中で記憶に焼き付いているのはちょうど今くらい……桜が咲くよりも前の寒さが薄れてきた頃合いなのかもなと。
こんなのはもはやポエミーですらない、
ただの冗長的でダラダラとした文章でしかないかもしれないけれど(笑)
でも春はそんな感じでもいいかなと思わせるような空気感があるのです。厳しい冬の終わりに感じる、再生と復活の気配。
まぁ実際の外側の人生状況的には新学期や新年度の始まりなので色々と難しさを感じていたりした記憶の方が強いんだけど、
それでも春になれば内側に強い芽吹きや可能性を感じることができたからたぶんそういう感覚ってのが好きだったんだろうなって思うのですよ🌸
言うなれば、
そういうフィーリングや空気感てのはすごく私らしいと感じられるから。
私はそういう存在なんだろうって外側の世界と違和感なくそう感じられる気がするから。
そしてこのブログ、
現在の私は女性性のなんたるかを急激に理解しつつあるような気がしていて、
行動を起こす前に、
まずは今のあなたの頭や意識を占めているそれらの記憶や感覚が無くなるまで待ってもらうわ。
というようなことを告げられているような気がするのですね。
そして恐らくそれは間違いではない。
今までの私は自らを器として使うのではなくて炉として使ってきた。
薪を焚べるように、
燃料を投下し続けるように。
しかし、たぶん、
今の私は能力は不足していない。
だから自らを炉として錬成を成すために負荷を強いることは必要ないし、
私が望む方向性のためには妨げになる。
私は女性性を鍛え育てる必要性を強いられることによって成長させることはできていたのだと思う。
しかしそれは眠ったままだった。
私が求めたのは力だから。
しかしそれは何のための力だったのか。
もしかしたら私はそんなことはほとんど思い出せなくなっていたのかもしれないし、いわゆる大人として生きて行ける自分を目指す中でそんな物は何の役にも立たないと半分諦めていたのかもしれない。
天の女神性、
それを可能とするのが天の男性性というものなのだとしたら、きっと私はそれを呼び覚まし蘇らせることができたのだと思う。
おかげで私は男性(性)に対する苦手意識が激減したように思う。
それはいつしか書いたような、
(スピリチュアル界隈)男性性欠如問題みたいなものに通じてるものかもしれない。
私は男性性の価値を、その素晴らしさを、
美しさを知った。
それを知ることができるのは女性性の意識が眠りから覚めたからなんじゃないかと思っているし、
それを可能とするだけの何かがその前にあったんだろうと感じている。
男性性と闘わなくていい世界
強いて言うなら、
今の私はそっちに馴染みつつある。
男性性とは頼りになるもの。
正しく頼ることさえできたなら、
文字通り願いを叶える力となる。
ただしそれを可能とするのは天の女神性とも呼べるもので、それを呼び覚ますことはとても難しいように思う。
なぜ望まずとも男性性を否定し現実と闘わなければならないのか?
女性性がそれを望んでいるから???
どうしてそれを望んでいることになってしまうのか???
っていうか天の女神性って、何?
それを知るために、
女性性の提案に乗っている感じ。
それがあの言葉……
行動を起こす前に、
まずは今のあなたの頭や意識を占めているそれらの記憶や感覚が無くなるまで待ってもらうわ。
受容モード、
反応モード、
受け取りモード、
そんな言葉で表されるそれ。
必要なのは意図的に動かないこと。
外側に影響力を発揮しようとする前にひたすらに自分自身を満たすという行動。
そして満たされることで自分の中から溢れた何かがあったのなら、それを聖なる力として扱えばいいという考え方。
これだけが無理のない超自然で調和的な在り方と現実感を可能にするものだというのは嘘じゃないんだと思う。
でもそれはとても恐れを感じさせやすいという意味で信じられないくらい難しい物でもあったように思う。
でも、内側から生み出す、
自分が生きる現実を産み出して形にするってのはたぶんそういうこと。
それが現れるまで待って、
それが産み出されるまで待って、
それが現れ産み出された後に
翻訳不可。
私はとても単純なのかもしれない。
何かしら心が動き満たされるような内外の体験を重ねて行く中で育ち鍛えられてゆく内なる力に導かれて歩くという人生観……
私はただそれだけを夢見た人間だったのかもしれない。
だからそれさえ叶っていれば他のことは大して重要ではないのかもしれない。
そんな意識や在り方もこの季節だけは異質な物ではなくなる、すべての始まりの季節。
そういう意味でこの時期は私にとってすごく楽で幸せなのかもしれない。
まだ花が咲いて行くよりも前の、
まだ生命の気配に満ちるより前の、
少しだけ冬の透明さの残った季節。
私はきっと女性性を信頼してみたくなったんだと思う。
そしてそれはたぶん、
男性性を激しく否定し闘わなければならないような状態から逃れられたから。
すべての男性性が敵ではなく頼もしい味方となり得るのだと気付けたから。
まだはっきりとはわからないけど、
きっとそれが私の感じる天の女神性というものによるものだとそう感じている。
それは炎のような力で満ちているのではなくて水のような包み込む力で満ちていると感じられるようななにか。
男性性は
必要なことをする
という意識でできているように思うし、
女性性は
必要ないことはしない
という意識でできているように思う。
この2つは矛盾しないし似ているように思えるものだけど、
それは自らを聖炎の炉として使うか聖杯の器として使うかくらい違う。
今語れるのはそのくらい。