現在ゆるゆるとした速さややる気で取り組まれているこのブログ。
一応これの前に当たる記事ってのはあるように思うけど、
まだそれは意味を成さない。
よって公開されず下書きのままに保留されているいくつかの記事の一つとなったわけで。
私は、
また少し思い出した。
というわけでだいたい2年前に書かれていたこの記事、
今の私はちょうどコレと同じようなことを考えたり感じたりしているように思う。
だから、少し思う。
私の中身ってのは2年前と全く変わっていないのだなと。
それは安堵感みたいな物かもしれない。
そしてその感覚には何度も心当たり(?)のような物がある。
ここ数日は、
葬送のフリーレンのアニメを延々と見たりしていた。
“ヒンメル”というどこかで一度くらい聞いたことがありそうな言葉がドイツ語で空や天国という意味なのだと全く関係ないような所で知ってみたり。
モンストコラボ効果である。
モンストコラボさまざまである。
今回ガチャはダメそうだけど(´ Δ`)
見ると生涯記憶に残るような心に染みるすごく素晴らしい作品なんだけど、自分から見ることはほぼ有り得ないからその素晴らしさを生涯知ることもなさそうな名作……
みたいな感じだったように思う。
想うことや感じることは想像の何倍にもある作品だったけど、たぶん今回の記事の話ではそれはあまり関係ない。
↑のリンクした記事はちょうど2年ほど前に書かれた物だけど、
私は初めてあの記事の内容とか本質であったであろう物を理解できるようになった気がしている。
それは“手に取るようにわかる”ような感覚だとも言えるし“ようやく完成した”というような感じでもある。
つまり今の私が感じたり考えたりしてることの一つとして、
時間差で仕上がり完成するなにか
みたいな物があるわけで。
これはすごく説明しにくいけど、
しかし簡単に説明できる物でもある(笑)
たぶん私は気付いてる。
私が扱ったり人生上に登場してくる物事の中には当然のように初登場から時間をかけてやがて意味を成すようになってゆくもの
みたいなリアリティーがあるのだと。
そしてそれはだいたい2年かかる、
というより2年ほど経つ頃に私は十分に理解できるような状態に変化している
というような物に感じられる。
あの記事↑しかり、
私はその性質やルール性のような物が作用しているのは自分の作品だけではないのだと気付くことによってそれは私の人生(とか宇宙)における法則性の一つなんじゃないかと感じるようになった、
というような話なんだと思う。
だから何なのか?
さぁ?
ここに記されてる私の理解に従うなら、
今こうして2024年春の時期に私が感じたり考えたりしてることはおよそ2年後の2026年春くらいになれば手に取るようにわかるような状態になっているだろうし、
つまり今の私にわかるわけがないというようなことでもあるように思える(笑)
きっと私は、
計らずも内なる心の道のような物に沿ってこの20年ほど生きてきた人間だから、
それが上手くなったんだと思う。
そして、だからこそ私は疑問に感じてる。
多くの人間は選ぶことのない内なる心の道を進み内なる力を求め育て続けて行く道の中で得られたであろう内なる力とは、
それはどのくらいに外側に意味を成し影響力を持ち得るものなのだろうか?
私は内なる力を得た確信や手応えがある。
しかしそれは内なる力であり外なる力とは異なる性質やリアリティーの物でもある。
わたしはそれをどうするのか?
わたしはそれをなんのために求めたのか?
わたしはそれを何に使いたいと望むのか?
今の私にはこれがわからない。
2年前の私が内なる力を具現化するということがどのような物か理解できなかった時と同じように、
今の私にはコレがわからない。
私は既に得られたらしい内なる力という物に次は何を望むのか???
というようなことがわかっていないように感じている。何しろ今まではそれを持たない前提だったのだから。
内なる力を持たないのであればそれを獲得することを目指すのが最優先で、それを得たらどうするのかということは得てから考えるべきことだから。
そういう意味で私は果てしなく思えるけれど全く迷うことはない一本道を突き進んできただけだともいえる。
しかしそれが既にあるなら話は別!!
……くらいに思っているのかもしれない(笑)
これは、少し不思議なことでもある。
やがて時間が経てば自然と理解できそうなことなのに今の自分にはわからない。既にわかっているような感覚もあるのに今の自分にはなぜか理解できず未だ存在し得ない可能性だったりただの幻のようにも思える。
きっと、
もしかしたらそんな感覚やそんなことを考えたりするのは多くの人間には意味を成さず存在し得ない可能性や道なのかもしれない。
しかし私は違う。
少なくとも私の人生(あるいは宇宙)においては確かに力ある法則性にさえ思える。
きっと今の私が悩む……もし悩まなかったとしてもそれが理解できず困惑するのは必然で不可避のことなんだと感じる。
なぜならそれは時間の流れの中で変化し仕上がっていく物だから。
相応しい時が訪れるまで全く意味を成さず存在することさえ忘れてしまっていたような、むしろそうやって有ったことさえ忘れてしまっているのが正解と呼べるような何かが人生の中にはある………………
きっとそういう感覚や理解というもの自体を否定したいと思う人間てのは私が思う以上にとても少ないんじゃないかと思う。
なぜならそのような感覚や理解を実際に人生の中で体感することはきっと何も珍しいことではないだろうから。
きっとこういうのが私が無意識ながらに強く目指していたり導かれている方向性の一つでもある“一般化”というものなんだと思う。
不思議なことに?
例のあの記事↑を書いた2年前の時点でも私は確かに一般化や普遍化の重要性みたいな物に勘づいているように思えるし、
とても(抵抗感を含めて)言葉には表しにくい物ではあるけれど、感覚的には十分に理解も実感もできている状態だった
ということはあの時期のこととして確かに覚えてる。
あの記事の中にあった参考資料みたいな話を参考にするのなら、
抽象的な物の反対側にある物が
具体的な物であり
それを可能とするためのプロセス(?)が
一般化や普遍化なのだという。
実際に私もそのように感じていたし、
今はそれを確信してる。
もっとも2年前の私は自らの目的のために一般化というよりも具現化の概念や方法論を強く求めていたように思うけど。
強いて言うのなら、
内なる力みたいな抽象的だったり感覚的な内なるリアリティーってのはそのような一般化や普遍化のプロセスを通す(?)ことによって具現化することができるということ。
それを私はこの2年の間によく理解するようになった。
それは私の思う、
証明されない理論なんてただのオカルトだし、
証明されてしまったオカルトは科学になってしまう。
というようなものの仲間だと思う、
うん。
そして一般化や普遍化の方法論の一つ(?)として“概念化”というものがある。
私が思う概念化ってのは、
まだこの世界……現代において既にそのような物だと一定レベルで当然のように認識されているわけではないものを
それはそのようなもの。
だと既存の概念として認識されていくプロセスのような物であり、そのようにしていくための施策や行動だと考えている。
例えばそれは私の使うエリミエール語録のような物だったり、
より具体的には
私のエリシアンワールドプロジェクトのような
私の楽園創造系プロジェクト
のような物だったりする。
そもそも今の私も2年前の私もわからないのだけれど、
私の楽園創造系プロジェクト
というような概念やそのような物が一定レベルで存在し得ているというような認識が有るのか無いのかもわからない(ヾノ・∀・`)
しかし少なくとも私は、思う。
特にスピリチュアル界隈に、
でもきっとそれ以外の領域でも、
一定割合の人々は私がエリシアンワールドプロジェクトなんていう内なるビジョンに導かれそれを具現化しようと試みたりそのように動かされ生きているというようなリアリティーは確かに存在してるように思える。
それは何て言うか、
同業者なら当然のように気付くであろう視点や共感
みたいな物だと思うんだ。
同業者ってのは同じような役割を持つ人間
と言い換えられる。
自らが持つ内なるビジョンに従ってそれをこの世界で具現化し実現しようと動く
というような性質を持つ人間、
それが“同業者”ってことになる。
だってそうじゃない人間はそういう生き方の素振りも見せないだろうから。
だから、すぐわかる。
まぁそれにもピンからキリまである……
色々な層の色々な領域のレベルでそういうことはあるんだろうけれど、、、
私はそれを内なるビジョンを持つ人間
として認識してる。
内なるビジョンを持つ人間てのはとてもわかりやすいように思う。
本人にその気があっても自覚がなくても関係なく、何かしらの強制力や時には強迫観念のような強烈な使命感に突き動かされて何かを求め目指し生きることになるだろうから🌠
そして私自身内なるビジョンを強く持っている人間だからその強制力に引きずられたり従ったり導かれたりして生きてるわけだし、
そうじゃない人間てのはすごく違う存在感のように感じられるなら。
それは良いとか悪いとか言うより、
私という人間の認識可能なレベルでは
究極的にはそういう内なるビジョンを持たない人たちを理解できないんだろうな
と感じているから。
それは空気感でわかるのかもしれない。
オーラが、波動が、
違うのかもしれない(笑)
しかし内なるビジョンてのは、
それはすなわち生きるべき道が見えているというような意味にも思える。
見えるものは仕方ない。
既に見えているものを見えていないことにすることは不可能に近いし、それに必然性さえ感じるのならもはや無視はできない。
と、今の私は思っているけれど、
そういう
内なるビジョンを持つ人間
vs.
内なるビジョンを持たない人間(?)
みたいな認識や感覚ってのも、
一般化のプロセスを辿ってゆく中で瓦解したり霧散したりしてゆく一時的な信念に過ぎないのかもしれないと感じてる。
そこには違いは無いのかもしれないし、
違いが有ったとしても何も気にならくなるかもしれない。
私はその可能性に気付いてる。
それはかつて私が闘わせていた(?)
スピリチュアルvs.スピリチュアリティ
と全く同じようなものなんだろうし。
きっと今の私にはとても重要で必要なことなんだと思う。仮にそれが理想的で究極的で超越的な意識に相応しいものじゃないと内心では気付いていたとしても、ね。
そ、
だから生き急ぐことはできないんだよ。
どれだけ生き急いだとしてもそれが完成するのは2年後なのだとわかっていたら???
どれだけ急いでも必ず2年かかるし、
それは放っておけば勝手にそうなるというわけじゃなくて実際に自らが懸命に努力し最善を尽くした果てにようやく2年かけて完成するようなものなのだと
やる前から知っていたら?
その越えられない壁に直面し続けながら、
自らの限界を既に知りながら、
それでも懸命に努力し全霊を尽くすことはできるのだろうか???
そうする価値とはどれほどの物なのだろうか?
基本的に私が見てきた世界観や意識ってのはそういう物さ。
他の人間がどうかはわからない。
もしかしたら多少はそうなのかもしれないし逆に全然そんなことないのかもしれない(笑)
でも私は……その2年ほどのズレであり越えられない時間の壁を何とか越えようと挑み続けているように思えるし、
きっとそのくらいやって始めて2年くらいの歳月で追い付けるんだろうなって。
たぶんそのくらい頑張らないととてもじゃないけど2年という短い時間では追い付けないんだろうなって、
そんなことに気付いてもいるんだろう。
それこそが私が自らを調和的で完全性を呼び起こすための聖杯とせずに練磨錬成のための聖なる炎を呼び起こす炉としての使い方を選ばせる理由。
まさに業ってやつだね。
そして宿命の灯ってのはそういう物なのかもしれない。
なるほどねぇ。
なるほどねぇ。。。
やっぱり春なんだねぇ🌠
望んだもの、
望まれなかったもの、
それら実際に私の人生上にあったすべて。
そのすべてが私を示し明らかにする。
まぁ、
それも何も特別なことじゃなくて、
ただ時間が経てばわかるようになる程度の物でもある。
でもそれは同時に、
自らが完成を夢見て全身全霊を込めて作り上げることで初めて完成するものでもある。
あ、うん、
そんな私は葬送のフリーレンを見ても思った気がするんだよ。
(?)
やがて長い長い時間の中で成され変化し解決してゆくのだとしたら、
私がこうやって必死に自らに成せる挑戦の中で時間を過ごすことは、
果たしてそれは時間を短縮していることなのだろうか?
それとも自ら時間を引き伸ばしているようなものだろうか?
それとも………………。
いや、
結論から言ってコレは圧縮なんだと私は思っているんだけど(笑)
一度引き伸ばした物を凝縮する
そんな試みだと思ってる。
私は魔法使いじゃないけど、
ある種の術士であるようには思う。
だから思うんだよ。
確かに私も思う。
術士ってのはそうあるべき
だと。
もし本当に内なる力なんて物を得られてそれを自らの研鑽によって育て強め高めてゆくことができるというのなら、
その見せ場が欲しいじゃないか!!
なんかこんな延々と自分の中で理論をこれくり回してるような無限回廊をさまようような取り組みばっかりじゃなくてさ!!
もっと華々しい活躍の場とか私の素晴らしい研究成果や力の見せ所ってのが有って欲しいじゃないか!!
そもそも力を得ることそれ自体は目的であるわけがないんだよ。
あまりにも渇望するあまりに(?)
その過程に没頭するあまりにそんなことさえ忘れてしまうこともある気もするけど、
……あるけど???
私は思うのだよ。
そうやって限られた時間の中でも一度展開して増大させたものを再び圧縮することによって凝縮し密度と練度を情報量を高めることによって内なる力のリアリティーも高めることができるんじゃないかと。
……それが何かって?
さぁ?
魔法使いごっこ
なんじゃないの???(笑)
そういう世界ならそうだったんだろうし、
今の世界ならそうなるんだろうよ。
あ、うん、
そうそう、
2年前の私はシャイニングスターも好んですごくよく聴いていたよ。
そういうことなんだよ。
私は内なる力で神聖術士みたいな魔法使いごっこができればそれで満足な人間
なんだな~って、
それに気付いちゃったんだね!!
2年前に(笑)
私がそんなことを延々と語り示すよりもシャイニングスター聴いた方がよほど幸せだと思うの。
っていうかなんでも言葉で語ろうとするのは超野暮ってもんだし術士としてもナンセンスというもの。
……そう強く思いながらも、
その超野暮で超ナンセンスに思えるような取り組みを私はこうして今も続けているわけだよ(笑)
まぁ2年後の私は、
今の私が2年前の自分をとても懐かしく面白く感じているように今の私を見るに違いないからね。
そうやってある意味で時間を超えて自己の整合性が取れるようになったのは救いと呼べるのかもしれない。
私はそんな離れ業みたいな物ばかり身に付けてゆくような者だから飽くまでも現代では正統派を名乗ることはないんだと思う。
すべての取り組みも挑戦も“ごっこ”でしかないと私は語り示すだろうから。
すべての形あるものとは想いを宿し具現化するための器に過ぎないのだと私は明言するだろうから。
それはある種の人々には不必要や種明かしやネタバレのような聖なる魔法な物語を台無しにしてしまう禁じ手に思えるかもしれないけれど、
しかしこの世界の体験な物事ってのは実はとても奥深いもので、
聖なる無限の一本道みたいなやり方でそれは可能になる(笑)
そして私もそれら自体を言葉のレベルでは誰にでもわかるような平易なものにするつもりは全くないのかもしれない。
いやだってそれは野暮ってもんだろ?
シャイニングスターの歌詞がどれだけ素晴らしいのかを私が語り示す必要もないくらいにアレは洗練され完成されてるだろう?
なんで私が既に完成してる物をいじらなきゃならないんだ???
それこそ傲慢てもんだろう。
そしてアレを作詞作曲したのは魔王の人であるという。
ちょうどあれから2年経った私が男性性の美しさ素晴らしさ煌めきという物を理解するタイミングとそれが重なるってんなら、
もはや男性性を私がわざわざ否定する理由は一つもない。男性性とはこの上なく素晴らしいものだよ。
それがあればこそあのような素晴らしい作品がこの世界に生み出されるのだから。
それが素晴らしくないわけがない。
そうそう、
あれだけ素晴らしいと思ったシャイニングスターを一度もこのブログで語る機会が無かったことを私はとても奇妙に感じていたし心残りだったんだよ。
私は、そう、
生まれ変わったら最高にセンスのいいアニメゲーム界隈の作曲ができる人間になりたいと思ってる
(実際にその必要があるかどうかは全く別の話。)
だからたぶん私がこの世界で一番尊敬……もしくは感謝し愛するのはそこら辺のクリエイターなんだと思う。
そしてそれらの感性を持つのはやはり男性である可能性が高いとも感じてる。
そんなこんなで私の中での“男性”のイメージは凄まじい勢いで劇的に変化変容し物凄く良くなったのである。
それが私が自分の具現化の力を望むように扱えるようになる必須条件だった、
きっとそうなんだろうな~って。
もう“男”と闘う必要はない。
なぜなら男性性とはとても美しく神々しく煌めくものだとわかったから。
そうして男性性は私の味方になった
のかどうかはまだ不明。
だって私がそれを本当の意味で理解するのは2年後くらいのことかもしれないでしょ?(笑)
時間の中で育ってゆく物はある。
内側であたためて育ててゆくものもある。
それが完全に計算し尽くされているかのように交わる一瞬があるってんなら、大人しくそれを待つのが懸命だろうし、
……“大人しく待つ”と言っておきながら見た目には忙しなく時間の中を疾走するような取り組みが必要になることもある。
まぁ別にそういうのはいいんだよ、
知るべき人間だけ知ればいい。
そうじゃない人間は知らなくても何も困らないんだから★
“こっちの話”ってやつさ。
もちろん私はリアルでそんな話する気もないし必要もまず起こらない。
まぁ、アレだよね、
コレらが可能になるのも2年前の私が全霊を込めてあの記事↑を書き上げてくれたからなんだよ。
だから私はそんな自分にとても感謝しているし愛しているし誇りに思っている。
そしてそんなことは2年前の私には絶対に実感できないことでもある。
聖なる魔法の物語……
あるいは聖なる無限の一本道の先にある最果ての可能性を望むならそういうやり方も必要になるってことなんだね☆
私の実相が真に神聖性を示すのならそれをわざわざ言葉で語るまでもないし、そんな野暮でカッコ悪いやり方をしなくてもよくなる。
惜しむらくはそんなリアリティーに共感してくれるような人間がどのくらい存在するのか今の私には全くわからないことかな?
器なら今の私でも作れる。
しかしそれが完成するのはだいたい2年くらい先のことになるんじゃないかな?
そう、
それを逆手にとって予め2年後に完成するはずの物として扱えば実質ズレは無くなるということなんだよ。
じゃあ見えざる2年後に像を結んでおけば擬似的に今の私とのズレって感じられなくなるんじゃないの???
そう思うわけで。
そして思う、
え?
そんなことホントにできるもんなの???
そう思った時から既にその2年の逆流は始まっているということなんだよ、うん、
きっと、たぶん。
うん、
言ってることはわかったけど、
それをどうしろと???
そうやって純粋に疑問に思えた瞬間に答えってのは存在してるんだぜ。
だから後は生み出された答えに向かって逆走していくだけなんだよ。
だから私はあるべき元となる未来に向かって逆走していく人間だと自らを語るよ。
そういう意味では未来の方が過去みたいなものなんだよね~。そしてそういう意識でいた方が私はよっぽど楽に存在しやすい(*´ Δ`* )
そうじゃない私は不調和を強いている状態になってしまうから。
よく時間なんて無くて未来も過去も同時にあるとか言うけど少なくとも今の私に限って言えば、
全部過去ってことなんだろうよ。
その中で過去を本物にする魔法の力(仮)ってのがあるんだとしたら、私はそれを想いと答えるに違いない。
だから想いの循環てのがすべてのカギなんだよ。
……ってことらしい。
私はこの時になって初めて今扱ってるらしいテーマ分類が間違っていたわけではないと確信したのだった。
めっちゃ脱線してると思ってた!!😆💥
そして私はこの男性性とか女性性とか実相性とか虚偽性?みたいな2元的なアレコレがごちゃごちゃに混ざり合っていつしか奇跡的な一つの答えを出すプロセスをとても美しい物だと感じるようになっていた。
そしてつまりそれは、
私という人間の奇妙に思えていた性質や在り方というものがとても美しい物だったと理解可能になったということでもある。
何て言うんだろう、
男性性と自らの在り方を否定しなくなった私にはもはや何の障害も問題も無くなったようなそんな気がしている。
だってもう闘う必要がない。
もうわざわざ否定する必要もない。
だからもう私が否定される必要もすごく少なくなったように思えるんだよ。
もしかしたらそれが聖なる無限の一本道の実感てやつなのかもしれない。
無限性を開いて寄り道をしたくなったらそうすればいいんだし、それを閉じて聖なる一本道を見たくなったらそうすればいいだけなんだし。
あれ?
これってただオンオフを切り替えればいいだけなんじゃね???
できるようになったら超簡単なんじゃね?
もしかしてコレが2元性の境界面?にあるかもしれない完全な1点なのでは???
あれ?
私、探してたもの見つけたのでは???