というわけで私は
今年はこれまでの闘いの傷跡を癒してゆくことを目的として過ごそうと思った。
『癒し』とかヒーリングという物を受け入れず排除する理由が無くなって感じたのはやっぱり『癒し』を受け入れなかったのは潜在能力を引き出し開花させる修行のためだったのだということだったのですね(*´ Δ`* )
そもそも私はいつからか『救い』を求めて生きてきた者なのでその必要性……強迫観念に似た想いが絶対的な物でなくなった今いろいろとわかるものがあると感じるのです😌
1つ理解したのは、
世の中の多くの人間(地球規模ではない)は圧倒的に救いよりも癒しを求めているのだろうということ。
何しろ『救い』なんて物は、
『解放』であり『救済』に他ならない代物と言えるようなものだから。
なんでもいいから!!
今すぐに私の苦しみを消し去ってくれ!
……ってお願いする人間てのは、まぁそんなに居るわけないのですね(笑)
そんなに切羽詰まってるそれしか考えられなくなってるような人間って、考え直してみると明らかに普通ではなくむしろ精神疾患を発症してる異常な状態なのだろうなと私は思ったのですね/(^o^)\
たぶん『普通』の人間なら、
もっと特定の願い事をするのでしょう。
だから『救い』なんて物を真っ先に求めるような人間てのはよっぽどの事情があるというより相当に追い詰められてるのは間違いないのでしょう。
いやね?
本当に、たぶん苦しい状況に立たされていたとしても『救い』を求める人間なんてそんなに居ないと思うんだよ。
だってさ、
『救い』なんて求めたら救われたとしてもそのまま消えちゃいそうじゃん?(笑)
それに似たものとしては消えたいとか死にたいとかいう表現があるんだろうけど、
なんでもいいからこの苦しみを消し去ってくれなんて考え方ってのは、控え目に言っても破滅的でその『救い』とは再びやり直したり再スタートするための物ではなく終わらせるための救いに思えるから。
で、こうやってスピリチュアリティ(仮)な方向性だったり霊的な法則を学んでゆくための取り組みと同時にスピリチュアルで宇宙の法則的な物を学習してゆくための取り組みを行ってゆく必要を私は理解したわけで、
このよくわからないことの方が圧倒的に多かったブログを書くという行為も一連の流れの内の1つだということがわかったのです。
もし私が今この時点で書いている話が理解できない物だとしたら、それらは後々に浮上してきたりこの話を思い出したりした時に必要となり理解できるようになる物なのでしょう。
確かに、
私の見ている世界観やリアリティーというのはわかりにくいし凄まじい偏りだとか自我に絶大な苦痛を強いるような物が多いのは間違いないけれど、
だからっていつまでも理解できないような物ではないのです。わかるようになればわかる話だし、だからこそ事前準備が必要になるからこその結果でもあるのです。
別に私や他の誰かがその時点で私が語っているらしいことを理解できなくても良いではないですか。
絶対にいつになっても理解できないとは限らないのだし、時が流れ状況が変わったのなら当然のように、むしろ最初からそうであったかのように理解されることだって起こり得るのですから。
それなら、
その時になって過去の出来事……私の発言や直感であった物は理解されず受け入れられないばかりか断罪され激しく避難された……
だから私はその体験を忘れないし、
今さら掌を返して私の考えやアイディアであった物をあたかも最初から自分の物であったかのように表現する物を私は絶対に許さない。
……という思いこそが『時効』を迎えた時に妨げになり無駄な苦しみを自ら抱え込むという望まぬ体験を守り、生み出してしまう。
……その時には既に自らを苦しめている原因とは過去の出来事ではなく恨み憎しみを抱えたままの自分自身になってしまっている……
…………………………まぁそれも癒しだとかヒーリングをブロックする信念なわけで。
許すことを選択するのは他者のためではなくて自分自身のためだという話があるけれど、
……………………もし私が本当に癒しとかヒーリングを自分のものとして受け入れ扱えるようになるためには許しは必要不可欠であり避けては通れない道だと言える。
そしてそのような理由があるからこそ、
完全で自然な状態を妨げるあらゆる概念に気付くことができるスピリチュアリティのセンスや訓練で身に付いてゆく一貫性のような物は癒しやヒーリングの領域に関しても非常に役立つと言える。
……そう考えてゆくと、
スピリチュアルとスピリチュアリティのどちらが正当で価値ある物かという論争(?)とは右手と左手のどちらが正しいのかという考え方くらいに滑稽だと思えるようになる……。
もし本当にそんなにくだらない考えだったのだとしたら、私は有りもしない苦悩を自ら抱え込んでいると信じ込んでいただけ……と言うこともできる。
……そしてそのような理解こそが私がスピリチュアリティの光として救いのカギとなる物として求めてきた『完全な理解』と呼べる物だったのだ。
それは『完全な理解』という物であるからこそ癒しやヒーリングに抵抗しそれらを受け入れられないだけの信念が残ったままの状態でも前提が覆ることによって有り得ない可能性であることを確信した結果として癒しと同じ結果を得るという方法論だと言える。
方法として癒しやヒーリングは許されていないけれど、そもそも逃れるべき苦しみの前提から完全にひっくり返ることによって異なる可能性こそが現実であったとしか考えられなく
……
まぁそんな感じなんだよ(笑)
だから私はそれを使ってきた。
世界は思考によって作られているのだからその中身が変われば体験だって同じくらい別物に変わる……というロジカルなスピリチュアルとでも言えばいいだろうかというもの。
これなら自我的な領域でも可能だし、
ハートの感覚がブロックされていたとしても延々と考え直し続けることによって『矛盾や綻び』である物を見つけ出すだけで結果的に癒しと同じような『救い』を得ることが可能になる。
私が男性だからそのような方法を選んだのかどうかはわからないけれど、1つだけ言えるのはこのやり方であれば信頼や愛ではなく疑念や呪いのような想いからでも最終的には癒しを達成することが可能だということ👍️✨
……つまりそれは、癒しだとかヒーリングという方法論が何かしらの理由で受け入れられない者にとっての抜け道というか救済措置みたいな物だと言えると私は思うのです😁
むしろ最後の手段な気もするけど(*ノ・∀・`)
だからスピリチュアリティなんて物に目覚める人間てのは例外なく最後の手段を頼らざるを得ないような状況にまで自我レベルで追い込まれてたことがあるんじゃないの?
ってのが私の考え(  ̄ー ̄)
だからスピリチュアリティなんてのは『そこまで自我が追い込まれる』ことがなければ知ることもない世界なんじゃないかなーって、
だから初めてその感覚に目覚める時ってのは自我な自分が死んだような時なんじゃないかなーって思うし、
一番最初は通過儀礼として自我持つ人間である限りはそーゆーリアリティーを誰しも体験することになるんじゃないかなって、
私は思ってる。
だから何も信じられないしすべてを否定したいし消し去りたいという想いもサポート対象である所がスピリチュアリティ(?)の素晴らしい所だと思うのですね。
で、
そんな『なんでもいいからとにかく救われたいほど耐え難い苦しみ』みたいな物から逃れられた人間であるならきっと
もっと幸福に生きることを望むはず
なんですね(笑)
私がスピリチュアルとか宇宙の法則だとかエネルギー波動ヒーリング癒しだとかの領域に集中することができなかったのは何度解放されたと思ってもそのような救いを求めて止まない強迫観念みたいな物がすぐに戻ってくるからです💥/(^o^)\💥
まぁ、そんな強迫観念を抱えた人間であるならばその切実な衝動みたいな想いが告げるであろう自らの使命と存在意義を果たすために死力を尽くすことでしょう。。。
きっとそんな人間は、並の人間では考えられない集中力や熱意(強迫観念)によって自らを突き動かす信念のために人生を捧げることになるのです。
それはある意味でとても効率的だと言えるのかもしれません。
もちろん本人は
そんな物はどうでもいいから自らの目的と存在意義を果たすために動き続けなくては!
くらいのことしか認識できないのでしょうけれど。
で、
私の場合は『私は何がわからないのかを知らなければならない』だったのです。
基本的に『なにかがわからない』と感じるのだから仕方ないのですね。それが耐え難い感覚なのです。
自分にはわからないものがあるとわかるし私はそれを知らなければならない。
私は完全な世界を知っているのかもしれないし思い出してしまったのかもしれないし逆に忘れてしまったのかもしれません。
そしてそのどちらかの状態であることがわかるのです。
……それは決して忘れてはいけない物だったのかもしれないし、忘れてなんていないのかもしれない。それでも私は思い出せない……何かが思い出せないという感覚さえ無くなるくらいに完全に忘れ去ってしまっていればそんなことはなかったかもしれないけれど……。
でもだからこそ私はそれを忘れたままにしておくことはできない。
ってのが強迫観念ですか、使命感ですか。
まぁその強迫観念という資質によって私はスピリチュアリティを学びスピリチュアルの領域への封印も解放することができるようになったのですから、
後になってみれば結果オーライだし、
更に後になってみればすべて計画通りなのでしょう。
癒しやヒーリングの力や完全な理解を光とするのなら有りもしない苦しみである闇を抱え込むことは妨げにしかならない
ということなのですね。
そしてそーゆー理由でスピリチュアリティなんて知らんよって人間もスピリチュアルを深めてゆくほどに必ず自らの霊性や聖性に触れることになるのです。
『力』を追い求めても『癒し』を追い求めたとしてもそれを追い求め続けるほどに核心に近付いてゆくことになるのですから。それを避ける術は存在しないのです。
だからそれを避ける者はその場に留まるしかないのですね実質一本道だから( *´艸`)
そして本当の自分であり真価である物はスピリットの領域にある霊性なのですから。
だからどんなやり方を選んでも終わりまで突き進むなら必ず行き着くはずなのです。
そう考えると『時間を省く』って考え方ってのは本当に賢いなぁって思うのです😆💖
だってそれなら癒しは必然でしょう?
遅かれ早かれそれは起こる、
人間はいつか死ぬと理解できるなら
癒しはいつか必ず起こる
って理解することはそんなにも難しくないでしょう?
そうやって理解が変わるだけで体験の質ってのも大きく変わってくるスピリチュアルはとってもファンタジー。
って感じのマインドのクリアリング?みたいなのと自己ヒーリング(仮)を私は全力で行っていけばいいということみたいです🍀
どちらもをバラバラに独立した物として無意識に取り組むのではなく意識的に連続して一貫した学習として取り組むことによって私はこれまでより効率的に学び解放し熟達してゆけるようになるのです。
たぶん『ここまで来た私』はとても有能なんだと思う(*´ Δ`* )
……そこで邪魔になる真価を発揮することをブロックする物が
やっぱり私の感じていたビジョンは間違っていなかったのに無駄に無意味に否定され酷く傷つけられた!
私はそれを絶対に許さない!
なぜならそんなことは絶対に理解できないし受け入れられないのだから。
って思いであり信念であり潜在意識に刻み込まれた思考パターン。
……しかしスピリチュアリティとかマインドのクリアリングに親しんできた私にはわかる。
無駄に無意味に否定され
酷く傷つけられた!
……のなら、
そんなことは起こり得るわけがなかったのだから私が避難されることも有り得ない。
と理解できればそれで片付くのである。
そんな考え方はどうやっても成立しないのだから、間違った錯覚でしかない前提の上に成り立つ理不尽さも成立しない
はずなのだ。
錯覚でしかない出来事をただの思い込みが見せた幻想と知ることでゆるす
っていう、赦しみたいな『ゆるし』の概念と知識が役立つのです。
ただしこれ、
順番に思考回路として成り立つロジックを辿っていって、
『それは有り得ない!!』って感じで1つ1つ指摘して理解しなきゃならない(笑)
いわゆる潜在意識書き換えのワークみたいなもんだわね。理論上それができればヒーリングの手法としてそれを使えると思うの。
そしてそーゆー領域においては男性の方が合理的な思考として考えをまとめ理解できやすいんじゃないかと思うんだよー。
そして私は『そーゆーヒーリング』の方が圧倒的に好みなのです。
自分が男性だからなのかは不明。
ただ『頭でも理解できる』という感覚と体験はスンバラシーと思ってる!👍️✨
たぶんその『感動』ってのがヒーリングだとかスピリチュアルを初めて実感して知った時に味わえる物でそれがあるからこそ理解したり信頼して受け入れられるようになるんだと思うんだよ。
それに関しては女性も男性も全く変わらないと思うのです。
ほら、やっぱり認識できない物よりは認識できる物の方がいいし、当然のように理解できる物って胡散臭くなれないでしょう?(笑)
私は右脳で超感覚的に理解して左脳で合理的に表現するタイプ。
だから理解までに独自の超合理的な方程式みたいな物が出来上がるまですっごい時間かかるから上達が非常に遅い。
だからこそ波動みたいな言語化したり表現しにくい物を落とし込んだり変換したりを認識したり一般化して説明するセンスがあるとわかってきた。
スピリチュアルとスピリチュアリティとか
宇宙の法則と霊的な法則とか
男性性と女性性とか
単純に考えたとしてもそれらを別々の物として捉えてる限りはどうやっても半分以上にはならない。
そしてその極性を超えて不完全ではない完全な理解を得るためにはどうやっても自我的な物の見方や認識に挑まなきゃならない。
たぶん私は順番が逆だったからわかられにくかっただけ。それを逆にした瞬間に物凄く理解されるようになる可能性すら予感します😁
論理的に理解してそれを感覚的に表現するのってすごく簡単だと思うの。だってそれは一度理解できた物を自分の思うままに表せばいいだけだもん。
その逆が難しい。
思考では理解できなさそうな領域を思考で理解してゆくというのは、理解させる気とか寄り添う気が全くないんじゃないかと思わせるような他人のやり方やルールに自分を合わせて理解できるように努力してゆくプロセスにとてもよく似ている……
ボクはそう思うんだ。
でもその絶対に理解できなさそうな物を理解できるように努めていると、それとは直接的には全く関係なさそうだけどむしろその謎の対象であるものの本質みたいな物が見えてくるということがある。
私がやってるのはソレなのです。
なんだろう?
それはチャネリングに似てる……って言ったらさすがに違うのかな?
『それ』が何かを突き止めるためには波動を重ねるとか共鳴する必要があるわけで。逆に言えば共鳴さえできれば法則によって同質の状態になるわけで。
…………え、あの『嫌な感じ』にわざわざ合わせるんですか?
そうです。本質を捉えるためにはそうではない歪みを生じさせる波動を先に取り除かなければならないからです。
そして一番手っ取り早いのがその歪みである物に自身を重ねてその正体を我が身をもって突き止めることなのです☆
みたいなのがスピリチュアリティの実践なんだよね~😁
真価を知るためには深化が必要です。
そしてそのどちらもが二元性の合わさった渾沌とした場所(仮)にあるのです。
って考えてくと、
最初から本質や核心や真価に触れることは原理的に不可能であるため初めは表面的で輪郭をなぞるような所から初めて少しずつ順番に進んで核心へと踏み込んでゆくことになるのは必然。
なんでって、
それが『思考』のロジックだからです。
『なんで?』って感じてるのが既に思考の一部だからです。
『なんとかしたい』ってのが既に思考の一部だからです。
だからその実際に『なんとかしたいと思っている自分』こと思考であるものをなんとかするためには、
最初から本質や核心や真価に触れることは原理的に不可能であるため初めは表面的で輪郭をなぞるような所から初めて少しずつ順番に進んで核心へと踏み込んでゆくことになる
のです。
やればわかります、
思考回路ってそうなってます。
『癒されたい!』という思いも思考である以上そのルールに縛られてます法則です。
『救われたい!』という想いも思考である以上そのルールに縛られてます法則です。
そう考えてくと世界は思考で創造されているとかいう表現をするスピリチュアルの方が私には圧倒的にわかりやすいのです。
だって感情も思考がトリガーなんだし。
そう考えてくとやっぱり
『いやなもの』を見つけた時に一体いつになったらそれに直面してその正体を突き止めることができるか?ってことが重要になる。
だってそうしないと幻想を幻想と知った上で楽しみ愛することは不可能だから。
幻想である物を支え構築するルールや仕組みという物を理解しないと思い通りに楽しむということはできないから。
苦しみの幻想ではなく楽しい幻想として思う存分に遊びたいと思うなら必要なこと。
まぁそれらは私の個人的な感覚としても
理解できないものじゃないし、
スピリチュアルが解放された私はそこら辺についてもヒーリングの知識やテクニックとして知ってゆくことができることでしょう。
書くだけ書いた!