心を偽れば嘘になるけど、意図的に演じるのであればそれは喜びであり純粋な自己表現なのだよ。 | 取り戻すべき本当の自分と真の世界の可能性を求めて→最果ての聖なるストーリーを生きるために~

取り戻すべき本当の自分と真の世界の可能性を求めて→最果ての聖なるストーリーを生きるために~

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられ顕現者となり聖性までをも呼び覚ましあるべき未来へ逆走してゆく形而上学的な内なる闘いであり聖なるストーリーの記録だったもの。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティあり★

もし、現状に明確な不満がないのだとしたら、それは一体どういうことなのだろうか?

最近はそんなことを感じている。






それはきっと、私がかつて望んだり、何もないと感じていたような穏やかな日々なのだろう。それなりにやることがあって、問題ばかりじゃなくて穏やかな時間や人間関係があって、自分がここに居ていいと思えるような、そんな人生状況。

それは何も特別なんかじゃない。
でも私は、それを自分が持っておらず、また決して手に入れることもできない……本当は持っていたはずの当たり前の幸せで穏やかな自分と人生を見失ってしまったと感じて、それゆえにどこかに探しに行って、どこかで何かを手に入れて、取り戻して来なくてはならないと感じていた。


そして私は今、それらを探しに行く前と大して変わらないような自分に戻ってきているとわかる。



それなら、
今この状況に、特に不満も抵抗もないのだとしたら、もしかしたら私はその状況にあっても幸せなのかもしれないし、実は本当に相応しい人生状況とは、そんな特に何も持たない、ただ自分として生きて日々を過ごすことなのかもしれないと思えてくるんだ。

私は本当の自分を取り戻すために家を出て心の旅をしてきたこの10年ほどの間に、相応に色々なことを知った。それは単純に時間の経過によって得られた物ではなく、私が自分の意志として選択し挑んだ結果として、時に勝利し時には大敗することによって知ったこと。
だから私は、家を出る前の17歳の頃の自分と同じような人生状況にあったとしても、それに対して全く違った視点や捉え方や心の反応があることに気付いている。



それなら、
何も持たず、どこでどのように生きればいいのかわからないと感じない今の私であれば、どのように生きることが望まれるのだろうか???

自分が生まれた場所や家庭が当然のように生きてゆける場所になるのなら、私は、どのように生きることを望むのだろうか?



これは私の人生の中で今までは決して現れなかった可能性。私は本来自分が持っているはずの何か輝きであるものを手に入れるために心の旅をしてきた。
そしてその道の果てに、それらを自分の物にすることができたのだとしたら、それなら私は、どんな人間としてどうやって生きてゆくことを望むのだろうか?


それを純粋に知りたいと感じているんだ。



……そしてきっとそれこそがあるがまま生きるって
ことなんだと思える。自分をイメージから逆算して作り上げるんじゃなくて、気が付いたらそうなっていたってくらいの、何一つ無理も不自然さもないそんな在り方。



私はようやくその言葉の意味を理解して、それを自分に相応しい物として受け入れようとしているのだと思うんだよ。

というのも、


その先にこそ、真価を発揮するには至らなかった私という人間が持って生まれた資質や個人的な趣味嗜好やセンスの本当の使い道が自然とわかるようになる、そんな人生が現れてくるだろうから。




そう……私は自分がマスターだとかスピリチュアルだとかそんな表現にはこだわらなくなり、必要なだけ必要な表現と知識を当然のように扱える者にならなくてはならなかったんだ。
だって、そうしないと本当の自分として生きたり振る舞うための土台となるものが安定しないままなんだから!


……とは言え、それらは必ず経験して習得しなければならないもの。それまではたとえ本当の自分として資質が眠ったままなのだとしても、それを扱えないのなら持ってないのと同じことなんだ。


だからそこまではひったすらに下積みをし続けるような人生になるわけだよ、うん。
そんな話をこのブログでは何年も何年も前から数える気にもならないほど繰り返し書いてきた。そしてそれらは終わったんだ。

それらは私が私であるために必要なことだから、私が私であるためにそれを必要としなくなった時が終わりでクリアしてマスターしたってことになるんだよ。自分の世界を持つ者にとっては人生もあらゆる経験も超主観的なものだから(笑)

確信があるなら証明は必要ない……ってことだね☆


そういう理由で私は何者かになろうとしなくてよくなったのだし、望むのなら聖レタスを名乗ることもできる。
まぁそれはひとつの世界みたいな物で、私のリアルであり目の前の現実とはまた違った物として扱うくらいがちょうどいいってわかってきてるみたいなんだよ。





うん、だから私は別に何者かと名乗らなくてもいいのだし、必要なときだけ必要な感じの者として振る舞えばいいだけだとわかるんだよ。
幸いなことに今より若い頃に繰り返した挑戦と失敗によってそれらを可能にするだけの知識も知恵もあるから。


私が自分に課した学びを完了させて理解できるようになったことは、自分も誰かも何かも、自分の方から無理矢理に解釈したり意味を与えたりしなくても、元々それらには相応しい意味や理由が既にあって、そっちを選んだ方が完全な調和を経験できるようになるし、きっと物事の真の意味だとか、自分や他人の個性や異なる資質の真価を知ることができるようになるんだろうなってことなんだよ。


……そうだなぁ、その真逆の意識にあった私はそれを知ることができたから、別の在り方で、きっと本来の自分として生きることができるようになったんだと思う。
そして本質ってのは善性だったり無条件な愛だったりととにかく肯定的で完全無欠な性質を持っているものだから、わざわざ自分と世界を否定しないで生きられたなら、それはきっと新しい世界なのだろうし、私が見失い取り戻そうとした自分ってやつなんだと思えるんだよ。


このブログは文脈……はあるかもしれないけれど必ずしも意味が通るようには書かれていない。それは時間の流れと認識のポイントが一致してるとは限らないとか直線的な見方だとか頭じゃなく心で見ろよって感じだとか、ただの趣味として書きたいだけだとか色々な理由があるんだけれど(笑)
一番の理由は自分にとって一番相応しい表現や言葉を選んでるからなんだよ。


上にも書いたように、あるがままの自分ってのは自分で決めるようなものじゃないし、むしろそれらの決めつけをすべて取り除いた後に残るような類のものなんだ。
たくさんの自己イメージや理想像が剥ぎ取られ砕かれた私に残った物が今の私であり、今ある人生状況ってことなんだよ。もはやそれを否定するのもバカバカしいとしか思えないんだぜ(* ̄ー ̄)





でもさー、よくよく考えられるようになってくると、これは振り出しに戻ってるんじゃなくって、ようやく初めて進めるようになったとも言えるんだよ、一つの視点ではね?


だって私は自分がどんな人間でどんな運命や宿命があってどんなセンスや感覚や才能があるのか、何が好きで何が嫌いなのかがわからなかったからそれを探しに行ったんだ。
で、それがわかった今の自分なら、少なくともそれを探しに行かなくてもいいんだよ。自分がどんな人間でどんな人生なのかってのは過去から現在までの事実を見れば明らかになってるからね☆






……ってことはさぁ、どうやって生きようか?
って問いは、あんまり正しくない気がしてくるんだね。





このブログは明らかにする物だし、自分の内側にある形になってない何かを顕現する物だし、そのようにして私が知るための器みたいなもの。






引き寄せの法則と願望実現を意識的に選ぶことによってそれがどういう物なのかがわかるようにはなってきたんだけれど、
たぶん私は、無理矢理に願いを叶えるために無理矢理に欠乏を作り出そうとする癖がある。それらは結局は嘘だし偽りの願望だから実現されても困るような物だし、だからあんまり意味ないんだけれど、

それなら、そういう偽りと欠乏で回ってきた人生の記憶を、どんな物に変えていけばいいのかを見つけ出さなきゃいけないんだ。


……で、それを見つけるために無理矢理に欠乏だとか間違いを見たとしても、もう意味ないんだよねー(ヾノ・∀・`)




で、今の私が何に気付いたのかと言えば、

……最初から引き寄せの法則を使って願望実現したとしてもさ、結局は本当の願いである物を選んだりそっちに軌道修正された現実を経験するだけだからさ、もしかして私の人生は、この道しかなかったんじゃないかと。


もしかしたら私はこの道しか選ばなかったんじゃないかと感じ始めてるみたいなんだ。



……これは実感があるかないかで全っ然違った言葉になります。結局自分はどれほどの選択肢や可能性があったとしても、最終的に自分が辿ってきた道や経験を選ぶのだと確信するということは、究極的に自分の人生は一本道で、それゆえに自分が経験してきた出来事のすべては間違いには成り得ない、むしろ完全な選択だったのかもしれないと意識の反転や転換が起きるのです。


……そう、確か私はそれを望まぬ形で悟った過去においてはそのような自分の宿命を心の底から呪ったのです。私は叫んだのです。

そもそもこの人生こそが最初から間違いだったのだ!!


ってね(* ̄ー ̄)







まぁ、そんなこともあったのです。
それもまた過去の話で、もう時効です。





私はこれを書きたい気がするから書いてます。
もうどんな意味があるとか誰向けに書いているだとかそんな物は考えなくて良いのです。それらはすべて心が知っているからです。
だから私はそれらを知っている心に導かれて書いていけば、私が私であるための表現と証明になっている、ということなのです。


だから私はそれを思い悩まなくていいのです。
そのようにして空いた時間を楽しく幸せな物として捉え直して、自分の人生が豊かで幸福なものになっていくように活用するのです。


ブログはブログ、リアルはリアルですから(笑)



……昨日から雪も吹雪くようになり、いつもの白い世界が戻ってきました。冬は良いものです……他の季節とは違い、乱れや汚れのような物が極限まで薄められるから。


………………という表現も必ずしもネガティヴな物として捉えなくていいのです。事実私はそのような感覚を持っているし、それを言葉で表現することも、その感覚を映して形を与えることも好きだからです☆


そうやって否定と後回しの幸福のために時間を使うことを止めたのだとしたら、それらの時間とエネルギーは何に使えるのでしょうか???


たぶん、今の私はそこら辺ですね( *´艸`)





あるものはあるんだし、
それが気に入る物なら、それを喜んで置いておけばいい。
無い物を作り出そうとするよりだから。

それなら、嫌じゃない目の前の現実を少しずつ喜んで受け入れて歓迎していっても悪いことにはならないんじゃないかと思えるんだよ。

少しずつ、ね。




相手の本気と意思確認のために釘を刺すのも好きですよ。
三回くらいね( *´艸`)



それ、本気で言ってる?
本当にそれでいいの?
どうしてもそれがいいの?

そうじゃないなら違うんだよ。止めときな。



そうやって相手の本心が明らかになった瞬間というのは最高に気分がいいのですよ!!(゚∀゚)
(それもヴォルテックスかと)

後悔しないように何度でも釘を刺してやるぜ!
(その結果として本当に納得できる答えに気付けるならそっちの方がいいでしょう?)



自分で自分を評価(ジャッジ)することを止めるとネガティヴに思えていたような表現の真の意図もわかってくるのです。

そうやって人間は丸くなってゆくのですね(笑)






……こうやって遊んだ中でエネルギーを生み出し回収していくのです。楽ってのは楽しいことなんだよたぶん。

楽を望んでるかはわからないけど、苦痛や苦労を望んでるわけがないのはわかる。



何も否定しないで生きられたなら……
否定に見える表現だって表面的な物に囚われずに本質を見てそれを喜んで表現することができたなら、すべてはバリエーションの一つとしてその根底にある無限の豊かさという宝物に気付くきっかけになる。

きっと私はそんな賢明さが欲しい。
そして、そのような表現をする自分こそが自分であったなら嬉しいと心から思えるよ。そしてそれこそが本当の自分に相応しいって感覚なんだ。




そう、だからこのブログの終着点は徐々にボルテージを上げていって、一番相応しいと思える意識にたどり着いた時。
だからこれは手段であり目的でもある。


……そしてそれらの言葉の裏には、このブログで綴られてきた膨大な思考プロセスと理解が折り重なって圧縮されているのです。
そんな苦労も感じさせないで颯爽とさわやかにスンバラシーことだけを表現するってのもまた楽しいと思うんだよね( *´艸`)



心を偽れば嘘になるけど、
意図的に演じるのであればそれは喜びであり純粋な表現なのだよ。




って言葉も本物にするために何でも書くべきと思ったことをひたすら書いてきたのですね、わかります。

……そう、誰が聴くでもなくとも、
私はそういうことを語りたい!!!





だから紆余曲折して長くなるんだね!!





……あぁそう、
そのようなやり方によって、あるがままの自分が望ましくないとされる表現を好む人間であった場合に対応することができます。
大事なのは本質なんだ。誰かがそこに与える意味や解釈が重要なんじゃない。ただ自分が最も相応しいと確信できる表現と受け取り方になる言葉を一つ一つ知っていけばいいだけなんだよ。そうやって自分の世界と自分をつくる言葉のすべてを最も相応しい物に置き換えていけばいいだけなんだよ。



私は現代の減塩社会と不自然なポジティヴシンキングみたいなものが嫌いです。
それは私には相応しくない概念だからです。
塩分も糖分(特にブドウ糖)も大切です。



引き寄せの法則を使って波動を見るなら表面じゃなく本質を見ることが必要になったのです。だから私はそうするのです。



自分の好きな物を見つけ出して認められると、生きる力が湧いてきますね。それを分かち合いたいなら具体的に表現すればいいし、その本質だけを分かち合いたいならその想いや感覚だけを表現すればいいのです。
それを嘘偽りなく達成するために自分に正直であればそれでいいのです。


前回の記事もそう(笑)


明らかにしたい部分は表現する、
隠したい部分は隠す、

それを抵抗感からじゃなく、自分の感覚に沿って自然と行えたなら隠すことも演じることもまた、あるがままの自分で居られるのですよ。




私はそういうことを知る必要があったんだなぁ。