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二つの苦しみ(苦と苦悩): 感覚 [体] の 苦 と 感情 [心] としての 苦悩
どうも、「苦」という言葉には 二つの 異なった意味がある ように思える。
ひとつは、 三相のなかにある 「苦」 であり、 (* 三相とは、「無常・苦・無我」 のこと)
五蘊の感受としての リアルな 「苦」 と同じものである。
世の中に 「嫌なこと」 は 必ず存在している。 その 「嫌なこと」 は、 たしかに 「苦」 である。
もうひとつは、
そのリアルな苦から逃れようとして、 そのために 逆説的に 苦しんでしまうことである。
たんに 苦しい(不快な・嫌な)だけなのに、
その苦しさを嫌い、逃れたいと思って 苦しい・嫌だと言っていると、
その苦が どんどん増幅されてしまう。
嫌だ・嫌だと思えば思うほど、どんどん苦しくなってしまう。
それを 放っておくことができず、だから いつまでもなくならない。
ふたつめの 増幅された「苦しみ」は「苦悩」と表現すべきであり、
四聖諦(苦・集・滅・道)における 「苦」 とは この非リアルな「苦悩」のことである。
「苦しみを 完全になくす」というのは「この苦悩を なくす」ことであり、
この 非リアルな「増幅された部分を なくす」ことである。
「苦悩」は 発生させないことが 可能であり、
発生させなければ 「完全に なくす」ことができるだろう。
それに対して、元からある リアルな「苦そのもの」の発生は
どうやっても防ぐことができないので「完全に なくす」ことは できない。
が、その「苦」は 時の経過とともに 自然に消えて「なくなっていく」
一方 苦しみが 苦でなく 苦悩である限り(つまり 嫌がって 逃げて 増幅している間は)
苦しみは いつまでも 「なくならない」
「苦」 は 無常の原理で 時の経過とともに「なくなる」 が、
「苦悩」 は 無常の原理から 逸脱してしまい、 「なくならない」
だから、 「苦」 を 「苦悩」 に変えてはいけない。
「なくなる」 ものを「なくならない」 ものに変えてしまえば「なくならない」 だろう。
そうやって いつまでも、「苦しみ」 続けてはいけない。
「感受としての苦」 は リアルな自然の法(ダルマ:真理)であり「完全にはなくせない」 が、
「苦悩」 は 非リアルな 人間が創りだした幻想であり「完全になくす」 ことができる。
「苦」 は 「なくせない」 が いずれ 「なくなる」
「苦悩」 は 抱え込めば 「なくならない」 が、手放せば 完全に 「なくせる」
だから、三相における 「完全には なくせない苦」 と、
四聖諦における 「完全に なくせる苦」 を 混同してはいけない。
同じ「苦」という文字を使ったことが、混乱のもとになったのだろう。
このふたつの違いは それほど微妙であるが、これを
きちんと区別して理解すること【名色分離智】が 最終的な【般若という智慧】につながる。
[結論]:「苦悩」 は 非リアルな虚構なのだから、
自分で創った虚構:フィクションは「なくす」 ことができる。
「苦」は 座の上の五蘊にあるリアルな要素であり 「苦悩」は 五蘊にある非リアルな要素である。
「苦」は リアルな体の苦しさであり、「苦悩」は 非リアルな心の苦しさである。
体の「苦」 を 心の 「苦悩」 に 変えてはいけない。
「イヤな感じ」 がするとき この 「感じ」 は 「感覚」 であり、これは 体の苦しさの反映である。
一方「ツライ感じ」 というときの 「感じ」 は、「感覚」 ではなく 「感情」 である。
*このネガディブな感情を、 瞋ジン と呼ぶ
「感覚」 は 体の症状であるが、「感情」 は 心の症状である。
「感覚」 は 五蘊の受のことであり、「感情」 は 五蘊の行に付随するものだ。
( 五蘊 : 色 → 受 → 想 → 行 → 識 )
そして、五蘊の受と行の 真ん中にあって 受(苦)を 行(苦悩)に 変換しているのが、
想という 思考(ものの見方・考え方)なのである。
「感覚」 と 「感情」 の 微妙な違い、 さらに
「苦」 と 「苦悩」 の この「微妙な違い」 が理解できれば、苦悩からの解放まで あと一歩だ。
そして、 結論として (逆説的に聞こえるが) 苦を受け入れてしまえば 苦悩は発生しない。
苦を受け入れるとは、
1. その苦に対して 「いま」 何か すべきことがあるなら「する」
2. その苦に対して 「いま」 どうすることもできないのなら
① 状況が変わるのを「待つ」 ② 状況が変わらないなら「受け入れる」(受け入れながら 待つ)
こうすれば、苦悩は発生しない。 マインドフルであれば、受け入れられる。