2020年8月21日、「五蘊」の 改訂版 を書いた。
少し詳しくなっている。
人の心の中は、
「意識の座」の上に
「感覚」 または 「思考」 という要素が載っている
(感覚 or 思考が、何ものかによって 認識されている)
という構造をしている。
【心の構造を参照】
座の上にある それらの要素を
五つに分類したものが「五蘊」である。
五蘊の
1番目と2番目が「感覚」であり、
3番目が「思考」である。そして
4番目と5番目は、
思考から自我わたしが生まれる過程を
表している。
1・2番目の 感覚は「リアル」であるが、
3番目の 思考以降は すべて「非リアル」
なものである。
【名色分離智を参照】
五蘊
五蘊ごうんという言葉があります。
五蘊とは、
色・受・想・行・識という 五つの概念を
まとめたものです。
識とは 「わたしという感覚」 のことであり、
「わたしという意識」 「自我:エゴ」 であり、
五蘊は
自我発生のメカニズムを説明するために、
色から識が生まれる様さまを、
順番に並べています。
「色」とは 体のこと。
そして、 体の感覚器官のこと。
その体(の感覚器官)が何らかの刺激を受けると、
視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚という
五種類のリアルな一次感覚が生まれ、
同時に 気持ちいい感覚(快・楽・好き)か、
または 不愉快な感覚(不快・苦・嫌い)が
即座に・分かち難く発生します。
もしくは、
快も不快も発生しないこともあります。
(不苦不楽)
この快(楽)・不快(苦)・不苦不楽の
三種類の二次感覚のことを 「感受」 と呼びます。
「受」が発生すると、思考は
この 「受」 または 「受を生じさせた状況・出来事」 を
判断・評価ジャッジして、
それに「善・悪」 「優・劣」などという
対になる非リアルな概念を与えます。
このはたらきや 生まれた概念が 「想」 です。
一般的には「快」の状況は生存に有利で、
「不快」の状況は生存に不利であるため、
このはたらきは
個人が社会の中で生きていく(サバイバルの)
ための戦略の基本になるものです。
この善悪の判断を 複雑に組み合わせて
価値観・世界観・思想体系を創りあげ、
人は それをもとに自分の意見・見解を表明し、
そして それを自らの指針として生きていく
ことになります。
社会的な人間は、サバイバルのために
「善」 を追求し 「悪」 を否定しようとします。
この追求 または 否定の意志が 「行」です。
この「行(サンカーラ) 」は、
なにか(追求/否定)を行う際の
強力な動機づけとなり、 努力の根拠となります。
それをもとに、 みんな一生懸命頑張るわけです。
そのような価値観と
努力する意志を備えた個人のことを
「識」と呼びます。
とすれば、 この 「識:わたしという意識」が
「我」ということになります。
そのような価値観と意志を持つ 「主体」 として
定義されたものが「自我」であり、それは
自分で
「自分とは このよう(特別な何ものか)である」
と思い込んでいる
(特別な何ものかである)自己イメージのことです。
サンカーラは
世俗世間でのパフォーマンスを高め、
「世俗的な幸せ」 をもたらしてくれます。
それ自体が悪いわけではありませんが、
それに囚われ、 それが 「識」 全体を支配して
自我が肥大してしまうと
(想行識複合体が形成され、 自我が 「わたし」になってしまうと)
苦悩を引き起こしてしまいます。
しばしば 世俗的に成功した人が、
「幸せそう」 な様子の陰に
苦悩を抱えているように見えるのは、
そのせいです。
努力し過ぎて
疲れ果ててしまうこともあるでしょう。
サンカーラを生みだすものは、
価値判断を伴う 「想:認知思考」 という機能です。
ですから、認知機能を強化することは
様々な「問題解決」に役立つ一方、
気をつけないと トレードオフ的に
「本当の幸せ」を邪魔してしまいます。
したがって「本当の幸せ」のためには、
認知機能の過剰な肥大化を防いで、
座の上の要素のバランスを
適正にする必要があります。
意識(心)の座の上には、ある瞬間に、
5種類の一次感覚のうちの一つか 思考か、
つまり 六つの要素(六境)のうちの
たった一つしか載りません【触】
したがって
認知機能の肥大化を防ぐために
思考から離れるためには、
座の上の要素を「思考ではないどれかの感覚」
にすればいいワケです。
そうするためのトレーニングが、瞑想なのです。
【瞑想を参照】
瞑想のトレーニングによって
過剰な認知機能を抑えて、
思考と感覚のバランスを
適正なものに戻すことができます。
参考ブログ記事1
参考ブログ記事2
(最終改訂:2022年1月2日)