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カンポンさんは頸髄損傷のために手足をほとんど動かせず、 動くのは肘から先の一部分だけ
(【 】内は、やすみやすみのコメント)
:それは 体の苦しみなのか? それとも 心の苦しみなのか?
今回のテーマは、「生じた苦しみを、観み分けられているか?」 としました。
今日も シンプルでわかりやすい言葉で、カンポンさんが 法を伝えてくれています。
これ、本当〜に 大切です!
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実際のところはね、 体の苦しみ【苦 :体の症状】は そんなに重要ではないんですよ。
本当の苦しみ【苦悩:心の症状】は そこではないんです。
本当に苦しんでしまうのは、 心の方なんですね。
心が「この体は 私のものだ」 と 執着【一体化】してしまうから 苦しむのです。
執着によって、 苦しみになってしまいます。
【体の症状を取り除こうと( 「苦」 から逃れようと それに)執着して、
心の症状(苦悩)と体の症状(苦)が一体化してしまい、 その違いが観分けられていない状態】
すべての物事は 変化します。
もし執着を手放していけば、 たとえそれは 体がどのようになろうとも 心は楽でいられますよ。
【執着しなければ「苦」 は いずれ変化して 消えていくのが普通だが、
カンポンさんの場合は 頚髄損傷という「永続的な」体の障害が残ってしまった。
このために 普通ならいずれ消えてしまう「苦」が 永続的なものになってしまった。
その「永続的な苦」 を、カンポンさんは どのように克服したのか?】
体に ひどく苦しみが生じていても、心に 苦しみなく、心を 穏やかに保つ人がいます。
【これは、カンポンさん自身のことだろう。
体と 心を 分けて観て(名色分離智があり)
「苦(体の症状)」 と 「苦悩(心の症状)」 を分けて観ることができれば、
「苦」 は たしかに存在する(現実である)が 「苦悩」 は
その苦を気にする:執着することで 自分が創りだしている 「心の症状:幻想」 であることが分かり、
幻想であることが分かれば 「苦悩」 を消し去って、心は 穏やかでいられるだろう。
カンポンさんはそのことを身をもって体現しているので、 カンポンさんの話には説得力がある】
ということは、 本当の苦しみ【苦悩】というのは 体の苦しみ【苦】ではないのです。
心が 体の苦しみ【苦】に執着しているから、 この体は この私のものだと執着しているから
【体と心を 分けて観ることができないから】苦しんでしまう【苦悩してしまう】のです。
【手動瞑想に出会うまでのカンポンさんは、そうだったのだろう】
もし 私たちの心が その点を手放せられれば、体の苦しみは ただ体の苦しみだけとなり、
【苦は 「苦」 のままで、 「苦悩」 にはならないので】心にまで 影響を与えることはありません。
体と心、あるいは
形あるもの(ルーパ)と形なきもの(ナーム)は 役割がね、 それぞれ違うんです。
体には、苦しみという役割【 「アラームとしての苦」 を発生させる】が、
心には、知るという役割【 「その苦」 を認識する機能】がありますよ。
【その苦に 対処するために認識しているのに、 対処が難しいので 「苦悩」 に変えてしまう】
形あるもの(体:ルーパ)には、歩くという役割【動き・動作という身体活動】があり、
形なきもの(心:ナーム)には、 知るという役割【認識するという精神活動】 があります。
(ルーパと ナームは)役割が違うんです。
【カンポンさんの体は、歩くという動作が できなくなり、
カンポンさんの心は それを認識し、始めの頃は その苦が気になって
心と体が 一体化して 苦悩を創りだしていたが、
手動瞑想の修行をすることで「苦と苦悩の違い」 を理解できるようになり、
ただ 観ることができるようになって、不自由な体に適切に対処できるようになった】
ですから まず 修行の際に理解しなければならないことは、この点です。
体【の苦】と 心【の苦悩】を、しっかり観分けること【名色分離智】ができるか。
本当の苦しみは、どこにあるのか?
【 体の 「苦」 でなく 心の 「苦悩」 が 本当の苦しみであり、本当の苦しみは 「心」 に存在する 】
それを 観分けられるか、なのです。
【本当の苦しみ(苦悩)は、自分の外側の状況や出来事ではなく、
自分の内側の「体の症状」でもなく、自分の内側の「心」に存在している】
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浦崎感想
タイで気づきの瞑想実践を修行し始めた頃、
共に修行するタイ人によく聞かれたフレーズがあります。
「ルーパ・ナームは 観えたかい?」と。
ルーパ(形あるもの:体)と ナーム(形なきもの:心)を観分ける。 私は 正直 最初、
「なんで こんなことを聞くのだろう? そんなに重要なことなのかのな? そんなの簡単でしょ!」
と、思っていました(笑)
教科書的に覚えるのは簡単ですけれど、
いざ 自分が苦しみに 「なっちゃっている」 時*に それが観分けられるかどうかは、
まったく次元の違う別の話であることに気づいたのは、修行を始めて何年も後だったと思います。
* 例えば
あー、 頭が痛い【頭が痛いという 体の苦の症状】→ やばい、 仕事どうしよう → あー、 さっきより痛い
→ やばい、何か大きな病になっちゃったかも?【不安】→ あー、もっと痛くなってきた
→ やばい、明日まで続いたら耐えられないかも【もっと大きな 不安・恐怖:苦悩】
苦しみが生じている まさに そのときに、
これは 体の苦しみ【頭痛という苦】か、心の苦しみ【不安という苦悩】かを
パッと洞察できるようになると、その正体が現れてきますね。
はっきりと観分ける力がついていないと、
自分でも 何が何だか よくわからずに、 こんがらがってしまいます。
がんじがらめの糸を解くように、一つ一つ 体と心を見分けていく。
さあ、ここ【名色分離】からが【智慧の】スタート!
カンポンさんは ある意味、その不自由な体によって、
はっきりと 「体と心」 を観分けるチャンスを得られたのだと思います。
これ以上わかりやすい教材はないですね。
その学びを 自分のものだけにせず、惜しみなくシェアしてくれたカンポンさん。
ありがたく エッセンスをいただきたいと思います。
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やすみやすみの感想
「苦」 は 体の症状である。
そう聞くと「苦」 は痛みのようなもの、 と イメージするかも知れない。
もちろん 痛みも 苦であるし、 体が動かないことも 苦である。
しかし それに留まらず、
「なんか嫌だなー」とか 「ストレスだ」とか「不愉快・感じ悪い・辛い」 などと感じる
「出来事」 や 「状況」 も 「苦」 であるし、
嫌な人に出会ったとき(嫌な・ダメな人だと ジャッジしたとき)も 「苦」 である。
というより、こっちの方が 普段の日常生活の中で 一般的によく起こることだろう。
体が じかに 「嫌だなー」と感じる状況を「苦」 と捉え、それ(苦)に どう関わるのか、
と 考えていくと分かりやすいのではないか?
「苦」 に出会ったときに、反射的に反応したり、
「苦」 が嫌だからといって そこから 逃げる(否定 / 抑圧する)と、
そして、 気づかずに 反射的に反応したり 逃げてばかりいると、
体の症状に過ぎなかった 「苦」 が 心の症状である 「苦悩」 に変わってしまう。
そうではなく、困難(苦)に出会ったとき、
まず それが 「苦」 であると 素早く認識して(反応しないで、観て)
「苦」 の状況を 「問題」 と捉えるのでなく、ただ 対処すべき状況と捉え、
そして 全体(状況)との関係を考慮しつつ、
今できること・すべきと思われることを、 結果は心配しないで 行う。
(結果は 自分の課題ではなく、 課題は 今すべきこと)
「苦」 の状況を 避けるのでなく、逆に 積極的に その状況の懐に 飛び込んで行く。
避けるのか 飛び込むのか、その差が「苦悩」 の発生を規定する。
生きることは「苦」 に満ちているだろう。しかし それは「苦悩」 ではない。
苦に満ちた人生」 や 苦という 「抵抗」 のある人生、 その抵抗:ストレスを感じながら生きること
抵抗に適切に対処しつつ 生きることこそ、実は「生きる」 ことの醍醐味 なのではないのか?
そのような人生こそが、 生きる喜びに満ちた充実した人生ではないのか?
そう考えると「苦」 の意味は、ガラリと変わってくるだろう。
人生を修行に例えるのは、そのような意味合いなのではないか?
修行とは、 「苦しいとき」のためのもの。 「苦しい」ときこそ、 試されているのだ!