神よ、 願わくば私に、
変えることのできるものを 変える 勇気と、
変えることのできないものを 受け入れる 平静さと、
その違いを 見分ける 智慧を、
授けたまえ。
「変えることのできるもの」 や 「変えることのできないもの」 とは、
自分の内側にある暗闇のことである。
苦悩を超えるために 「変えるもの」 は、自分の外側にあるものではない。
人はみな、自分のなかの ダメなところ・嫌なところ(悪)を 変えようと努力するが、
どうにもならないことがある。
そのとき、努力を続けるフリをするか、その事実を否定してしまう。
どうにもならない ダメなところや 嫌なところを「受け入れる」 ことは、 なかなかできない。
「受け入れる」 ためには、「変える」 以上の勇気が必要だ。
だが 勇気をいくら振りしぼっても、やはり ムリなものはムリだ。
「勇気」 ではなく、「平静さ(マインドフルネス)」 が必要になる。
不思議なことに、ダメなところや嫌なところを 受け入れることができると、
それが だんだんと気にならなくなっていく。
それが なくなるわけではないが、ダメでも 嫌でもなくなっていく。
いままでは それに 抵抗していたので、それは 固定されていて 変われなかった。
だが 抵抗をやめて 受け入れてみると、
「変えることができない」 と思われていたことが 変わっていく。
「事実」 を変えることはできないが 「意味づけ」 が変わる。
すると 不思議なこと、「人生のパラドックス」が起こる。
はじめに起こることは 「意味づけ」の変化だけなのだが、
そのうちに ダメなこと・嫌なこと(悪)自体が 減っていく。そして ついに、悪がなくなる。
結果を期待しないで(取引きしないで)受け入れる。
「変わる」 ことを期待して受け入れても、変わらない。「無条件に」 受け入れること。
そうやって 完全に 悪を「受け入れる」 と、悪が なくなる。
変えることのできないものを そのまま「受け入れた」 ときに、それは「変わる」
これが パラドックスだ。 なぜ そんなパラドックスが起こるのか?
それは、勇気でも 理性でもなく マインドフルネス(平静さ)によって
暗闇の中を観つめながら、ジッと耐えて 過ごすことで、
いつの間にか 此岸と彼岸の間にある川を 飛び越えてしまったからだ。
そして、
変えようとしていた「悪という判断」が、実は 思い込みに過ぎなかった ことに気づいたから。
闘ってはいけない。 ただ 観ている(受け入れる)のだ。
でも 変えられないのなら、嫌な自分を「そのまま受け入れれば」 いい。
一生懸命にやってみて できなかったんだから、仕方ないだろう。
それが「わたし」なんだから、しょうがないだろう。
仕方ないと 積極的に諦あきらめて そして 受け入れることは、ワルイことじゃない。
それが もっとも大切なことだ。
・・・と、 心の底から そう思えますか?
「イヤイヤでなく 積極的に諦める」 って、どんな感じか 分かりますか?
「仕方ない」と言うのは、「リアルな ありのままの現実を認めて 受け入れる態度のこと」 です。
人は 善だけを見て、善だけを目指している。二元の世界で、完璧な善を求めようとしている。
だから、 「善」 の対立概念である「悪」 を 受け入れることができない。
リアルな現実の中で 善を見ようとすれば、そこにはかならず 悪が伴ともなっている。
その 「悪」 を受け入れたとき、善とともに「善/悪」 という 二元の世界が崩れていく。
二元性の幻想・虚構に気づくことによって、そのとき 初めて、
二元以前の もとの 非二元・空という もう一つの次元が現れる。【色即是空】
そこは 悪のない世界だが、 同時に 善もない。
この善/悪を超えた世界(次元)に触れ、その確かさに支えられ、 もう一度
今度は、適切な・新しい善を 生きることができるようになる。【空即是色】
それでもなお 変えたいと思うなら、
新たな意識のもとで 何度でも 気のすむまで やってみればいい。
どこまで 頑張るのか、どこで 止めるのか、もう分かっているハズだ。
わたしたちの生きている世界全体の「ありのまま」には、
善/悪などという 意味や価値の極を持った軸が存在しない。 (非二元)
何が良くて 何が悪い などという 基準はない。
何が優れていて 何が劣っているのか、 そんなものは 本来 分かりようがない。 (非二元)
なのに 何故 そんなものに拘っているのか?
一方、二元性という対極(反対)の価値を持つ 閉じた世界は、
全体(非二元)を平面にたとえたときの、 平面の断面としての線分のようなものである。
本当は 平面という 広がりを持った 非二元の世界に生きているのに、
二元という 限定された世界に生きているように感じるのは、
前後左右方向に広がる面を 意味や価値という架空の軸で バラバラに切り裂いてしまい、
その断面の たった一本の窮屈な線(基準)の中だけで 生きているからである。
だから そんなものに拘っているのだろう。
価値軸を持ちだすことで、
自分自身を(全体という面から)線という 広がりのない世界に閉じ込めてしまったのだ。
価値軸を増やせば増やすほど 線は面に近づくが、けっして 面そのものになることはない。
意味や価値に 面方向に広がる 別の視点を持ち込まないかぎり
線は線(部分)のままで、一瞬交わったとしても すぐに離ればなれになり、
豊かな面の広がり(全体)が現れることはない。
状況が変わり 視点や立場が変われば、 善と悪という 二つの極は 逆転する。
しかし、 それは もともと逆転可能なものであり 仮のものだと知っていれば、
慌てることはないだろう。
「ありのまま」 を知れば 悪がなくなる、とは そういうことでもある。
全体とは 非二元のことであり、 その中には 二元性も含まれている。
「非二元」 と 「二元性」 は 対立する概念ではなく、
二元性は 非二元の現れ(現象面)という 一つの側面(部分)である。
全体という本質のなかに、現象という部分が含まれている。
わたしたちは、 現象である とともに本質でもあり、全体であり 部分でもある。
わたしたちは いま、善/悪を超えた 次元(非二元:空)を理解しつつ【色即是空】
善/悪のある 次元(二元性:色)で 善を生きようとしている【空即是色】
そのときの善は、完璧なものでも 普遍的なものでもない。
その善は 「わたし」 が そう在りたい と願うものだ。
それは 「わたしの」 善であり、 「わたしの」 課題だ。
そして、 「他者には 他者の」 善があることを知っている。
だから、過剰に 善を守ったり、過剰に 悪を攻撃したりはしない。
善きことだけを得ることはできないこと、 悪しきことも受け入れて 初めて
善きことが手に入ることを 知っている。
この二元の世界で 平穏:幸せに生きるとは、そういうことだ。
変えられないものは変えられないと 心底 理解し
平静さ(マインドフルネス)をもって
変えることのできないものを 受け入れたとき
変えられないと思っていたものが 変わる
パラドックスが 起こる
もっとも暗いときに 光は現れる
参考:
① ジェフ・フォスター著「もっとも深いところで、すでに受け入れられている」 p276〜277
私は、クリシュナムルティの言った言葉が とても気に入っている。
「誰かの後についていかないと、 とても孤独を感じる。
ならば、 そのときは孤独でいるがいい。 一人でいることが なぜ怖いのか?
それは、ありのままの自分自身に 向き合わされて、
自分が いかに空っぽでつまらなく、愚かで醜く 罪深く、 しかも 不安を抱えている、
ちっぽけで見掛け倒しの、受け売りの存在であるかが 分かるからだ。【悪人正機】
その事実に向き合うがいい、そこから逃げることなく。 逃げ出した瞬間に 恐怖が生まれる」
人は、他人についていく。 自分を完全にするために 他人を頼りにする。
それは、自分の不完全さに向き合うことができないからだ。
人は、他のもの(愛する人、グル、あるいは ウォッカといったもの)が
自分の不完全さを取り払ってくれる と期待する。
グルを手放すことは、
グルが約束してくれた逃避への望みを諦めて、ありのままの自分と向き合うことを意味する。
そして それは、自分の中にある 拒絶している すべての悩み、
自分が 暗闇だとか悪だとか 致命的だとみなしている 波(要素)に向き合うことを意味する。
そんな可能性を考えれば、大きな恐怖が 湧き上がってくることもある。
自分を完全にすることなど、 できやしない。
② アジャシャンティ著「自由への道」サマリーより
スピリチュアルな人生の ある時点で、 様々な形で 強烈なエネルギーを 体験することがある。
そんなとき、そのエネルギーに取り込まれてしまったり、
それを 抑圧しようとしたり、コントロールしようと してはならない。
そんなことをすれば もっと激しくなるか、もしくは そのエネルギーは 再び影に隠れてしまう。
そうではなく、ただただ 気づき(マインドフルネス)を保つ。 真の瞑想状態を 保ち続ける。
熱いお湯に浸かったように ジッと耐える。
そして、目の前のすべきことを 淡々とこなしながら、普通に日常を過ごす。
そうすれば、いつかそれを 自分の中に統合することができる。
このエネルギーを統合するには 時間がかかる。辛抱強く やらなくてはならない。
【脳の神経回路を書き換えるためには】 何か月、または 何年もかかる。
そのようにして 完全に統合したとき、前の自分が死んで 新しい自分が生まれている。
そのとき そのエネルギーは、 跡形もなく消滅している。
そうは言うものの、もちろん「変えることのできないもの」 は存在する。
しかし ニーバーの言う「その違いを見分ける智慧」 とは、 ここまで
「変えよう」 としてみても 「変わらない」 もの を見極める 突き詰めた智慧のことであろう。