解釈はどうにでもなる
本質において、人は 言葉(思考)で 世界と自分自身を理解することはできない【無明】
しかし 日常生活においては、常に 言葉で判断し 解釈しながら暮らさざるを得ない。
そうやって 本来できない「無理なこと」 をしながら、 暮らしている。
それが、われわれ ホモ・サピエンスの「生存戦略」である。
だが 多くの場合 その解釈は 「適切」 で、円滑な日常生活のためには必要なことだ、
と 信じられている。
しかし ときに(もしくはしばしば)その解釈は「間違って」いて、
自分で 勝手に 問題を 引き起こしている。
いったい どっちなんだ? どう思う?
実は 何が適切で 何が間違っているのか、それも
文脈や 状況や 立場によって わたしや あなたや あの人にとって
時代や 国によって 様々に 異なり、「正解」 は 分からない。いや ない!
解釈とは リアルな「現実」 を 非リアルな「意味(概念)」 に置き換えることであり、
それは 妄想のようなものであり、 実は どうとでもなるいいかげんなものだ。
多くの場合、善きにつけ悪しきにつけ 自分が望むように解釈しようとしている。
よく調べて 吟味すればいいものを、
それを面倒がって ついうっかり「思い込んでしまう」ことも多い。
だから そこら中、誤解・勘違い・思い込み だらけだ。
出来事や状況や他者について、 わたしたちは「分からない」 ことが 嫌でたまらないので、
勝手に解釈して「分かったつもり」になっている。
わたしたちは、「分からない」ことを放置しておけない。
調べて 分かったらそれでいいが、調べても 分からなかったなら、
そのままにしておけばいいのに…
実は 調べても「分かったつもり」だけであり、
調べても 「分からない」 のが リアルな現実(真理)だ。
それを踏まえて 日常を過ごすべきだろう。
日々の暮らしは しっかりと、 空や非二元という真理に 裏づけられていなくてはならない。
空や非二元という真理とは、
思考(言葉)では 世界を正しく理解することはできず、 その理解は「仮のもの」である
ということである。
解釈とは仮のものであり、単なるツール(だが 大切なツール)であると心得て、
使いこなそう。
解釈とは、どうにでもなるものであった。
どんなときでも「幸せ」を感じる解釈は可能だし、
解釈次第で 同じ状況・出来事が「不幸」にもなる。
「わたし」の解釈が、
世間を生きるときの 対になる価値の一方である「幸/不幸」を決めている。
解釈次第で 幸にも不幸にもなり、一喜一憂している。
でも実は、解釈される以前の ありのままの姿【空】は、
対になる「幸/不幸」 を超える 対極を持たない「絶対的な大丈夫」 だ。
「絶対的な大丈夫」 は、「そのままでOK」 という 「愛」 のことであり、
それが「幸/不幸」を超える「絶対的な幸せ」だ。
解釈する(意味づける)ということが どういうことなのかを理解すれば、
「解釈はどうにでもなる」 ことが分かるし、「解釈しない」 選択肢もあることが分かる。
解釈が「仮のもの」であることを知れば「解釈を外す」こともできて、
心は平静(絶対的な幸せ)になるだろう。
そして、自分自身。
人は 他人だけでなく 自分のことも勝手に解釈して
「幸/不幸」 を感じているのだが、そのことに気づいていない。
自分自身に対する評価は 常に恣意的であり、
自分を ちゃんと(適切に)調べるのは 難しい。
マインドフルネスだけが それを可能にする。
実は「わたし」も
勝手に解釈されたものであり 固定した実体のないことを知れば、
「自分も絶対的に大丈夫」 だったと マインドフルネスが気づくだろう。
思考では分からないのだから、 直感を大切にして 感じながら生きよう。
わたしとは「何もの」なのか?
わたしは「何も知らない」 し 「何ものでもない」と、
言葉(思考)でなく 智慧(直感)で 「分かった(感じた)」 ときから、
適切な「本当の暮らし」が始まる。
わたしが「何ものでもない」ことが分かると、
他者も やはり「何ものでもない」 ことが分かる。
「何ものでもない」ものとは、
立派でもないし でもダメでもない どれほどの 特別な者でもない、
善いところも 悪いところもある、どこにでもいる 「普通の人」のことだ。
解釈を外して わたしが 「何ものでもない」 ことが分かると、
「何ものでもない」 もの同士が 一緒に生きていることが分かるハズだ。
本当の暮らしとは、
普通の「何ものでもない」もの同士が 互いに愛しあっている暮らしのことだ。
(最終改訂:2023年1月7日)