なにも知らない
十二縁起(無明 → 行 → ・・・)の
始まりとなる無明とは、
「善・悪」などのように
対になる概念を生成する思考(言葉)が、
世界を二分・二元化し、分離・限定する
はたらきのことであり、
それは五蘊の「想」と同じものである。
言葉・思考・想・無明は、
すべて 同じことの別の表現であり、
それらが 空くうを意味づけることによって、
「ありのままの現実である空」を
「意味づけられた色」に変えている。
色しきとは 概念化されたものであり、
意味を持ったストーリーのことであり、
私たちの日常生活(世間)を
成り立たせているものであるが、
それは 実は 無明(想)による
「思い込み」に過ぎないものなのだ。
私たちは、
世界と自分を 「意味を持ったもの」 として、
「物語り」のような形でしか
理解することができず、
日常生活は そのような
「思い込み」から成り立っている。
五蘊(色受想行識)の中の 受・想・行は、
苦/楽(快/不快)を感受し【受】→
それをジャッジして
善/悪と価値判断する【想】→
さらに それを追求/否定しようとする
意志・願望・欲求【行】が
発生する、という過程を表している。
思考が「快を善・不快を悪」と
意味づけ(想)
それに執着することで生まれる
行動のエネルギー源となる
意志の力が行(サンカーラ)
その行が 感情を引き起こす。
この行が素早く 「貪や瞋」 という感情になり、
反射的な行動(カルマ)を引き起こし、
循環を形成して
想・行・感情が一体化する。
「貪」 はポジティブに肯定し 追いかけたい
「瞋」 はネガティブに否定し 遠ざかりたい
感情である。
この行によってなされる行動・行為が
業(カルマ)
行(サンカーラ)の反対語は 「あるがまま」
サンカーラの力で
無理に何かをする(カルマ)のが 有為うい
無理せず 信頼して 縁起ネットワークの流れ
に任せるのが 無為むい
想(思い込み)・行(欲求 願い 期待)
・感情(貪瞋)
・カルマ(有為:無理な 行い)
・無為(無理のない行い)
私たちの日常生活は、
このようなワードで営いとなまれている。
二分・分離・分割(分析)したのち、
細切こまぎれにされた要素を
様々な方法で再構成し、
意味のある結論(ストーリー)を導き出すのが
思考のやっていること。
そこで得られた結論は
「仮のもの」に過ぎないのに、
「分かったつもり」になってしまう。
限定された断片的な状況(部分)での傾向を、
普遍的な真理(全体)であると
思い違えてしまう。
だから この結論は「取り敢えずのもの」
でしかないのに、それが
固定されて「思い込み」となってしまう。
脳は「洗脳」されることで
機能を発揮する臓器であり、
人間は このような形(物語り)でしか
「理解」できない。
(一部の人間は、物語りでなく
数式で 世界を理解できるようだが…)
あるがままの現実は「空」であり、
因縁関係に基づく柔らかな 多対多の
複雑な「縁起ネットワーク」
という形をしているが、
「想」はこれを 因果関係に基づく固い
一対一の「論理」の再構成によって
単純な幻想世界(虚構)に変換している。
この虚構は、ときに
とても複雑に見えることもあるが、
そうは言っても現実の複雑さの比ではない。
このやり方(分別という思考)では、
けっして全体としての
普遍的な真理に到達することはできない。
つまり 本当の意味で、
世界と自分を「知る」ことはできない。
わたしたちは
仮に知ったつもりになっているだけで、
実は なにも分かっていない。
「無明」とは、
なにも「知らない」ということを
知らないことである。
とかくエゴは知りたがり
解釈・断定して思い込み、
両極端の一方だけを
追求せずにはいられない。
「確実には知り得ない」ということを
知っていて、
知らないということに寛いでいられれば、
物事を断定することがなくなり、
いつでも可能性(希望)が残されている
ことが分かるのに、
決めつけ(思い込み)が希望を奪っている。
わたしたちは 学校教育のせいで、
「いつか・どこか」に
正しい答え(正解)があると
思ってしまうが、
そんなものは どこにもない。
いつまで経っても 現れない。
と言ってもいいし、
どれもこれも ぜんぶ正解であるとも言える。
言葉では、なんとでも言えるのだ。
そんなもの(言葉)に拘る必要は ないだろう。
思考(分別)では ありのままの全体を
「知る」ことができず、
ダイレクトに感じること(直感)でしか
知り得ない。
マインドフルネスとは
ダイレクトに感じる練習である。
「ダイレクトに感じている」ことだけが、
「いまここ」の生きている現実である。
犬や猫たち・人間の赤ん坊は、
ダイレクトに感じて生きている。
「知ってるつもり(無明)」が
苦しみの大元おおもとだ。
「思い込み」が、 苦しみの大元だったのだ。
ダイレクトに感じていないと
知ってるつもりになってしまう。
(最終改訂:2022年9月6日)