「受→想→行」を断ち切るもの
苦悩を生みだす「受想行複合体」 とは、
受と想と行が 一体化していることであり、
何らかの刺激(出来事・状況)に対して
想の解釈が 一瞬のうちに反射的に起こり、
続いて 行という欲求も反射的に発生する
という 「反応の連鎖」 を表現する言葉である。
これは ほとんど 「自動的な反応」 である。
この 「反射的な反応」 が
起きないようにするには
どうすればいいのだろう?
感覚とジャッジの間にスペースをつくって
快/不快(の感覚)に
是/非という言葉(概念・意味)を
付与しない、
つまり
快/不快を感じながらも
あるがままの状況をただ意識していて
「受→想」を断ち切る(思い込まない)か、
その思考を 絶対視しないで
「仮のもの」と留めておき
「想→行」を断ち切れ(執着しなけれ)ば、
苦悩は 存在し得ない。
しかし そのことを
いくら考え(思考し)てみたところで、
この 連続して一体となる反応こそが
人類が採用した
生存のための戦略の在り方なのだから、
「受→想→行」の流れを切り離すことは
できない。
マインドフルネスの実践だけが
それを可能にする。
「いま・ここ」に
留まり続け【正念:止】れば、
ジャッジ(想)しないでいられる。
それに囚われ
絶対視(行)しない【正定:観】で、
「こうあるべき」と思わずにすむ。
意識的に
「いま・ここ」に留まり続けようとすれば、
思考(想)は思い浮かばない。
もし発生したとしても すぐに気づき
「いま・ここ」に戻ることができる。
それがマインドフルネスのトレーニングだ。
それを 日々の暮らしの中で 暮らしとともに、
毎日毎日 可能なかぎり
練習しなくてはならない。
座らなくてもできる。
そのうちに 暮らしが マインドフルネスになり、
マインドフルネスが 暮らしになる。
五蘊の「色→受」の反応 と「行→識」の反応は、
切り離すことができない。
切り離すことによって 苦悩から逃れることのできる反応は、
この「受→想→行」の過程の2か所だけである。
「苦」を 否定し・抑圧し・逃避し、
無意識に押し込むのでなく、
ただ 感じながら観ること(マインドフルネス)
ができるか否か、
追求することに囚われ(一体化し)
ていること【苦悩】に
自ら気づくことができるか否か、
そこが肝心である。
マインドフルネスとは 正念正定のことであり、
止観瞑想とも呼ばれる。
動き回る心(モンキーマインド)を止めて、
いつかどこかの
在らぬところを彷徨さまよっている意識を
「いまここ」に戻し【念:サティ】
その「いまここ」の状態に評価を加えず
ただ観ている・観続けていること
【定:サマーディ:三昧】である。
三昧とは、思考と一体となるのではなく、
いま在る ありのままの世界や
行為と一体になること、
意味や目的を考えずに
心を込めて為すことである。
この「為す」は、
結果を求めて・価値観に引きずられて・
無理に行うカルマとは 反対の在り方である。
嫌だとか 心地よいという
快/不快を伴う 「経験」に、
悪いとか 良いという「判断」を加え、
悪いと判断したことを否定し、
良いと判断したことを追求する、
その否定または追求(執着)したい気持ちが
「欲望」の意味するところである。
すなわち、
欲望とは「行(サンカーラ)」のことである。
貪と瞋も、サンカーラ(執着)のことである。
サンカーラ は絶えず結果を求めていて、
それは 限られたものに過ぎないのだが、
その結果が 思うようなものでないとき、
失望する。
結果を求めるから、苦しむのである。
だから、結果を求める
サンカーラとしての意志の力が
苦悩を自分で創りだしている。
どちらか一方(の結果)を
否定も追求もしない(し過ぎない)生き方、
サンカーラと反対の生き方が 「中道」 であり、
中道とは、
全体を意識しながら バランスをとることだ。
ただし、
不快(苦)を経験しないために
快(欲)の経験も回避してしまうのは、
大きな誤ちだ。
それは
現実否定であり 人生からの逃避である。
「いま・ここ」 を生きていることにならない。
それは 瞬間瞬間の経験(人生)から
自分を切り離してしまうことであり、
まったくもって 間違っている。
苦から逃げるのではなく、
苦を ただ観る(マインドフルネス)
苦を受け入れる。
そうすれば 苦は変化し、いずれ なくなる。
【無常】
しかし、「なくなる」 という結果を期待して
受け入れてはいけない。
それは「受け入れる」ことではない。
それは、受容ではなく 拒絶である。
結果を期待しないで、
ただ 受け入れる(マインドフルネス)
そうしているうちに、
「欲」 と 「欲望」 の違いが 分かってくる。
「不快な経験」は
やって来て、そして去っていく。
「快の経験」 も 来て、去る【無常】
嫌なこともあるし、いいこともある。
それが 人生の全体性である。
『人生なんて そんなもんだ、
なるようにしか ならない。
まっとうに こつこつやっていれば、
なんとかなるんだ』と、
気軽に構かまえて あるがままにしておこう。
全体性に至るためには、
マインドフルネス(のトレーニング)が必要だ。
「受→想→行」を断ち切るものは、
マインドフルネスであり、
それは 「型のない瞑想」 とも
「正念正定」 とも 「止観瞑想」 とも呼ばれる。
その内容は、
飛び回る思考を止めて(つまり 気づき)
それを ただ観ている(つまり 受け入れる)
ことである。
「気づき」 とは 「思い込まないこと」 であり、
もしくは、思い込みであることに気づき、
そこから 空くうへ脱することであり、
「受容」とは「執着しないこと」である。
気づきのことを「正念(サティ)」 と言い、
受容のことを「正定(サマーディ)」と言う。
サマーディとは「集中」のことではない。
参考ブログ:
(最終改訂:2022年9月7日)