空即是色 (1)空から ふたたび色へ(空即是色)PC版 | やすみやすみの「色即是空即是色」

やすみやすみの「色即是空即是色」

「仏教の空と 非二元と 岸見アドラー学の現実世界の生き方」の三つを なんとか統合して、真理に近づきたい・語りたいと思って記事を書き始めた。
「色即是空即是色」という造語に、「非二元(空)の視点を持って 二元(色)の現実世界を生きていく」という意味を込めた。

   空即是色とは


  空くうから ふたたび色しき


  わたしたちは、  「という 異なる 二つの次元を 同時に 生きている


空」の次元では すべてが ありのままで           「どーでもいい」が、
色」の次元では ありのまま とはいかず「どーでもいい わけでない


  わたしたちは 思考(言葉・想・無明)によって
ありのままの現実である意味づけられた
何ものでもないもの」何ものかであるもの」に 変えた世界を生きながら
                                                          さらに もっと 変えようとして生きている

  だから、「もともとは 意味を持たない」 であった色即是空
  このこと色即是空を知ることが「目覚めである

「色」とは「五蘊としての わたし」が生きている 日常生活の「在り方」であり、
  普段わたしたちは「空である ありのままの リアルな現実」 を
                        そのままでなく 「非リアルなもの」 として意味づけて生きている。

  そして   それ(色)が すべてだと思っていて   切羽詰まっていて余裕がない
  
  しかし この「色即是空という在り方」に気づいたなら、
  思考で変換する意味づけることなしに 
                                                ダイレクトに  「 を知ることができるようになる。

  すると、意味づけられた世界を 余裕を持って眺めることができるようになり、
                                                             「空を生きる」 ことができるようになる。

空を生きるとは  空に留まることではなく、再び 
  色という日常生活に舞い戻って:帰還して 空に裏打ちされた より豊かな色を生きること

  色の視点だけでなく 新たな 空の視点も備えて
                                                             余裕を持って 再び 色の世界の日々を生きること
  それが「空即是色」 という 「在り方 である。

「空」を知る前の「色」 は、「どうしても ねばならなかった」が、
「空」を経た後の「色」 は、「どーでもいいわけでない」に変わる。

「どうしても ねばならない」 と「どーでもいい わけでない」 は、
                                                                根本的に違っていて まったく別のものだ。

「〜ねばならない方は深刻だが、「どーでもいいわけでない方には 余裕がある
  前者には 結果が必要だが、後者には 不要なのだから。

  これが、
深刻でなく真剣に一生懸命淡々」 と 暮らしていくための 「心持ちよう」 である。


は 概念ではない
                 わたしたちがマインドフルであれば、それ(空)を たしかに 体験できる

 故郷ふるさとだ。  一瞬で帰ることができるいまここという我が家だ
  いつでもすぐに そこへ帰ることできれば、 どこへでも旅することができるだろう。

  ずーっと家にだけいるのは  「引きこもり」 だ。
   外出し、 ときには 遠く旅にでることも必要ではないのか。
                                         いまここ」 に引きこもり人生から逃避してはならない

  一度 世間から脱出して「色即是空」 を知ったとしても、
「悟った」 と言って「空」 に留まるのでなく、
                                            もう一度 世間に帰還して「色」生きなくてはならない。

  それが  「空即是色」 の意味するところだ。

  隠者とは、その名の通りの たんなる「引きこもり」 ではないのか? 
                                       けっして 隠者のような者たちに、自らを託してはならない。

本当きる という経験、 この色即是空という構造仕組みに気づいて【目覚め】
  いまここに在る(being)「自分と世界」 の 「あるがまま」
        思考するのでなく ただ感じるfeelingこと
  ダイレクトに意識して 座の上をリアルに保つこと:マインドフルネスから始まる

  すると、「わたし」  影の部分:シャドー観えてくる

  その「影」を観切って    「影」を統合したときに
「偽のわたし」が消えて 本当のわたし」が現れ
                                               「本当に生きる」 という  古くて新しい経験が始まる

  それが「空」を経た後の「」 の 新しい在り方」であり、
  そのときは 思考に使われるのでなく、
                                         思考を ただのツール(機能)として使うことができている。

  思考に使われていたときは思考わたし」 になっていたのだが、
                                   「新しい在り方」 では   「思考=わたしの機能」 になっている。

  そうやって 思考:想に邪魔されることが  なくなれば、
   心の根源ある  いのちのエネルギー が 阻害されることなく溢れでてくるようになり、
                 「色」 には 「意味」 の代わりにく、イキイキとした いのちの躍動 が芽生える

「色即是空」を知らずに 夢の中にいたときのしき
                                                                                             苦悩の色いろ一色いっしょくだった
  しかし 「」 を経て回帰した後の」 は、   鮮やかな色彩に彩られている

  世界(世間)の色が、くすんだモノトーンから フルカラーに変わっていた


本当のわたし」 、「わたし」 として独立した 独自の縁起ネットワークとして存在しつつ、
                              同時に より大きな縁起ネットワーク大いなるものの一員でもある。

  独自であり、 大いなるものでもある  「梵我一如という言葉は、 このことを表現している。

  そこでは わたしがすべてだ。
  世界はわたしであり、わたししかいない世界を
                                                       マインドフルネスを使って わたしは どう生きるのか

  悟り空即是色とは
         真理」 、つまり「空に裏づけられた色」 どう生きるのかというプロセスである。

真理とは「無常・苦・無我」 のことであり、
            「色即是空」 のことであり、 「空 / 非二元」 のことであり、 「梵我一如」 のことである。


空即是色」 とは、
          「空に裏づけられた色どう生きるのかという 自分への問いかけのことでもある


  次回以降に、その詳細を記す。  
  

  参考記事:色即是空 クリック可



(最終改訂:2023年1月1日)