本当に生きる という経験は、
「いま・ここ」に在る「自分と世界」の
「何ものでもない あるがまま」を、
認知という 思考のフィルターを通さずに、
つまり
価値判断しないで ストーリーも創らずに、
そして
「わたし」という感覚を介して
限定することなしに、
ただ 感じること【色即是空】から始まる。
⒈ 色即是空[理解] (前編)
1)空としての 世界の理解
[思考が 意味を創りだしている]
[意味に対する執着が 苦悩を創りあげている]
[意味への執着とは 受想行複合体を形成すること]
[無明を理解すれば 複合体はバラバラになる]
[マインドフルネスで無常を知り 執着を捨てる]
[欲求を否定せず、欲求に執着もしない]
[生きていくコツは 苦から逃げないこと]
2)無我である 自分の理解
[自我とは なにか]
[自我は どのように創られるのか]
[自我の防衛と強化が苦悩のもとになる]
[なぜ 自我が苦悩のもとになるのか]
[自我を脅かす「影」との対決]
[自我の中に「影」を再統合する]
[真理に到達するためには]
3)空と 無我の 理解がもたらすもの
[自我の想い・願い・欲求:サンカーラ行]
[空くうとは なにか 色しきとは なにか]
[絶対的な意味とは なにか]
⒉ 空即是色[実践] (後編)
1)日々の暮らしの生き方
[具体的な生きるコツ]
[生きるコツの心構え]
[生きることの意味]
2)愛とはなにか
[愛とはなにか]
[愛があれば どうなるのか]
[愛するためには どうすればいいのか]
3)苦悩と自我 そして 目覚めと悟り
[苦しみが恩寵に変わる]
[自我をなくしてはいけない]
[目覚めと悟り]
[悟りの人生]
⒊ あるがまま
⒈ 色即是空[理解:目覚め]
世界と人生に意味などない
1)「空」としての 世界の理解
[思考が 意味を創りだしている]
出来事や対象に出会ったときに、
気持ちいいとか 嬉しい・楽しい・好き
といったリアルな「快」感覚、または
嫌な感じとか 悲しい・辛い・嫌い
といったリアルな「不快」感覚が
瞬時に生まれる。
思考は、この 「快」 の感覚を ただちに
「善い・正しい」という
非リアルで ポジティブな価値判断に
変換して(意味づけて)しまい、
それを追い求め 執着し続ける。
また、
「不快」な感覚を「悪い・間違い」と
非リアルな ネガティブに評価し、
遠ざけ抑圧し、そこから逃れようとする。
もしくは、
「悪い」ものを「善い」ものに
変えようと 必死になる。
実は、
善いとか悪いという意味・価値は、
思考がでっち上げた 妄想(非リアルな概念)
に過ぎない。
ありのままの現実(リアル)には、
善いも 悪いもない。
善いとか悪いという判断(ジャッジ)は、
この現実世界を
より有利に生き延びるために
人間が創りだした
実体のない 非リアルな概念であり、
思考が 言葉というツールで
意味(概念)を 創りだしているに過ぎない。
この リアルな 現実を
非リアルな 概念(意味)に変換して
「あれはこうだ」と 判断することを、
思考の中の「認知機能」と呼ぶ。
[意味に対する執着が 苦悩を創りあげている]
仮の判断(妄想)なのに
それを絶対視(執着)してしまうと、
そこから 追求 または否定の循環が始まり、
苦悩が創りだされる。
善いという妄想に変換された 「快:好き」 を
どこまでも追求し続ける態度【貪】と、
悪いという妄想に変換された「不快:嫌い」 を
どこまでも否定し続ける態度【瞋】が、
苦悩を生みだしている。
(好き・嫌いを変換したものに過ぎない)
善と悪(という意味)に対する執着が、
苦悩を生みだしている。
[意味への執着とは 受想行複合体を形成すること]
五蘊(色受想行識)の中の受・想・行は、
苦/楽(不快/快)を感受し :受→
それをジャッジし、価値判断する:想→行
さらに追求/否定しようとする意志・願望・欲求
である 行 が発生する過程を示している。
そして、
この受想行の三つが複合体を形成して
がっちり固まってしまうことにより、
苦悩が生まれる。
「善と悪」のように
対になる概念で 世界を二分し、
「快と不快」の感覚【受】に
その二分された概念【想】を
すぐ 結びつけてしまうことが、
そもそもの 苦しみの始まりである。
五蘊の「想」とは、
「認知機能としての思考」のことである。
[無明を理解すれば 複合体はバラバラになる]
二分したのち、
細切れにされた要素を 様々な方法で再構成し、
意味のある結論(ストーリー)を導きだす
のが思考(想)のやっていること。
そこで得られた結論は「仮のもの」に
過ぎないのに、
「分かったつもり」になってしまう。
わたしたちは
仮に分かったつもりになっているだけで、
実は なにも分かっていない。
ストーリーとは、
分かったつもりになるための 「仕組み」
に過ぎない。
「無明」とは、
なにも「分からない」ということを
分からない(知らない)ことである。
確実には知り得ない ということを知っていて、
知らないということに 寛いでいられれば、
物事を「断定する」ことがなくなり、
執着(サンカーラ)から離れて、いつでも
「可能性という希望」が残されている
ことが分かる。
そうやって
感覚:受 と思考:想 の間にスペースを創って
快/不快の感覚に
是/非という判断を付与しないか、
思考と行の間に スペース(余裕)を創って
その思考を 絶対視しなければ、
苦悩は 存在し得ない。
「完全には知り得ない」ことを知って
無明を打ち破り、
受想行複合体をバラバラにすれば、
苦悩はなくなる。
[マインドフルネスで無常を知り 執着を捨てる]
マインドフルネスだけが、スペースを創る
ことを可能にする。
このスペースとは「余裕」 のことでもある。
「いま・ここ」に留まり続ければ
ジャッジ(想)しないでいられるし、
それに囚われ(行)ずに
「こうあるべき」と思わずにすむ。
追求したり 否定・逃避するのでなく、
ただ 感じながら観ていること
(マインドフルネス)ができるか否か、
「執着」していることに 自ら気づくこと
(マインドフルネス)ができるか否か、
そこが肝心である。
苦を、 なくすのでなく 逃げるのでもなく、
苦を ただ観て 受け入れる(マインドフルネス)
そうしていれば リアルな苦は変化し、
いずれなくなる。
「不快な経験」 は やって来て、
そして 去っていく。
「快の経験」 も 来て、 去る。
「無常」とは、そういうことである。
マインドフルネスによって スペースを創り、
「無常」を理解すれば、苦悩はなくなる。
[欲求を否定せず、欲求に執着もしない]
不快(苦)を経験しない(なくす)ために
快(欲)の経験も回避してしまうのは、
大きな誤ちだ。
それは
現実否定であり、 人生からの逃避である。
苦と苦悩、欲と欲望は違う。
苦(不快)と欲(快)は
リアルなあるがままのもので、
ともに同じように味わうもの。一方
欲望と苦悩は、人間が自分で創りだした
非リアルなものである。
非リアルな欲望が 非リアルな苦悩を創るのであり、
リアルな欲 が 苦悩を創るわけではない。
仏教では
「欲が苦をつくるので、
苦をなくすためには 欲をなくすべきだ」
と教えられている、
と思われているようだが、 そうではないのだ。
苦と苦悩、欲と欲望の違いを理解すること
【名色分離智:非リアルとリアルを観分ける智慧】
が、決定的に重要だ。
「不快」 を避けても 「快」 を求めても構わない。
きわめて自然なことだ。
だが もし 避けられないなら、
求めても 得られないのなら、
イヤイヤでなく諦めて ただ 味わう。
当たり前の諦あきらかなことだ、 と受け入れる。
それに執着しないことが重要なのだ。
「執着」すると、
苦が苦悩に、欲が欲望に変化してしまう。
執着が、
リアルを非リアルに変化させてしまう。
リアルな快と不快を 執着することなく
同じように味わう(中道)のが、
本来の 生きるという経験である。
リアルな 一時的な 苦しみも あり、
リアルな 一時的な 喜びも ある
のが人生であるが、
非リアルな苦悩は なくすことができる。
苦しみを避け、喜びに向うのは自然であるが、
それに価値判断を加えて 囚われ、
否定と追求を循環(執着)させてはいけない。
[生きていくコツは 苦から逃げないこと]
悟った生き方とは (リアルな)
不快/快な経験が なくなることではなく、
不快/快な経験を しながらも
ただ それを感じ、
「否定/追求の循環」という
(非リアルな)反応につなげない
生き方である。
非リアルなものの否定/追求の循環(瞋/貪)
こそが苦悩を生みだし、それを永続させ、
無常の原理から逸脱させてしまう。
直面しなくてはならない
不快な事実(苦)から逃げ続けないこと。
リアルな苦を、
当たり前のことだと 受け入れること。
妄想に過ぎない意味に、 執着しないこと。
それを理解して、
避けることのできない苦に適切に対処していれば、
生きていくコツが 分かってくる。
当たり前のことではあるが、
苦に適切に対処することが 生きるコツだ。
2)「無我」である 自分の理解
[自我とは なにか]
:自我は 考えて 欲求する主体
出来事の是非のジャッジを行い
意味と価値を与える思考と、
それを追求する行が、
自分自身に対しても同様に作用して
自我を創りだす。
自我とは、
他人とは違い 自分だけが特別であるという
自己中心的な感覚、
分離・限定され 孤立した、
自己イメージのことである。
では その「自我」は、
どんな理由で創りだされるのか?
思考【想】は 経験を意味づけるため、
誰にとって 「善い」 のかと判断するために、
「わたし【識】」という主体を
後づけで生みだした。
思考から派生するサンカーラ【行】にも、
努力する主体【識】が必要だ。
わたしたちは、
主語なしで考えることができないので
「〜する」 「〜である」という
述語だけでは落ち着かず、
「誰々が」という主語が必要だ。 それが、
人類が採用した思考:言語システムである。
出来事や対象に出会ったときに
色→受→想→行→識という 五蘊の流れが発生し、
ただちに 自我を形成してしまう。
五蘊の 「識」 とは この自我のことであり、
自我とは 価値(意味)を持った
「わたし」 のことである。
人はみな 自分のことを
「価値のある存在」である
と思いたがっている。
[自我は どのように創られるのか]
:自我は たまたまの偶然によって創られる
成長の過程で「たまたま」出会った
特定の状況下の出来事から、
これは 善い / これは 悪い、
これをしてもいい / これはしてはいけない、
と教えられ・みずから学び 一般化し、
それを 「わたし」 の見解・信念・願望とする
「条件づけ」が起こる。
その中の 「善い」 に結びつく要素をまとめて
「わたし」 とし、
「悪い」を呼び起こすものを除外していく。
そのようにして、 「わたし」 を構成する要素
(役割・立場・価値観など)をセット化し、
条件づけされた「わたし」 を創りあげる。
だから、
「わたし」 は 善い存在である。
であらねばならない。
そうやって、
時代や家族・社会・国家・文化・言語などにより
様々に条件づけされ、鎧をまとった
善なる価値や意味の塊としての 「表のわたし」
を創りあげ、世界を善と悪に二分し、
自分を善の側に置こうとする。
それをもとに、
わたしは正しい・あの人は間違っている、
と判断する。
そうやって「正しさ」に囚われ、
自分の人生から
嫌な経験(苦)を追い出そうとして
苦しむ(苦悩する)ことになる。
それをもとに、わたしはこう思う、
だから 他の人もそう思うべきだし、
世界はこうあるべきだ、
などと考えるようになる。
とすれば、「わたし」とは「たまたま」
そうやって出来上がった 偶然の産物であり、
「あるべき世界像」 というものも、
「たまたまの偶然の産物」 であることが分かる。
[自我の防衛と強化が苦悩のもとになる]
この 善なる自己イメージが脅かされるとき、
防衛/攻撃体制が発動され、循環が始まり
苦しむ(苦悩)ことになる。
この思考やサンカーラ(行)は、
自我に対して もう「十分」という評価
を与えることはなく、
常に もっと・完璧な「善い」に向けて
自我を駆り立てる。
いつも 自分自身に対してダメ出しをし続けて、
頑張れ・向上し続けろと 叱咤して止まない。
「あるがまま」では永久に満足しない。
【自己否定】
そして、
自分の 自分自身に対する評価だけでなく、
他者の 自分に対する 「善い」 評価を求め続ける。
【承認欲求】
その結果、
この 想行識という自我のシステムが
個人を社会に適応させ、
その生存を保証することになる。
それは個人がこの世界で生きて行くための
必須の機能(必要条件)であるが、
適度を知らず、終わりを知らず、
「完璧」 に向かって 何ものかになろうと、
どこまでも暴走し続ける。
そして、
この暴走:執着が 「苦悩」 を生みだすことになる。
[なぜ 自我が苦悩のもとになるのか]
:自我は 欲求を見定めることができないから
人間は 非常に未熟な状態で生まれるため、
親の愛なしでは生きていけない。
だから 子どもたちは、親に愛されようと
(承認されようと)必死だ。
次いで 生計をたてるための必要条件として、
経済的に自立するために
社会から認められる(承認される)必要があり、
そのとき 他者との比較・競争が発生する。
そのため、自我は個体の生存のために
常に 他者より優位に立とうとし、
競争に勝とうとしてしまう。
その欲求は 留まるところを知らず、
果てしなく続く。
自己否定と承認欲求に駆り立てられ
努力し続ける自我は、
この地球上で ホモ・サピエンスという種が
大躍進する原動力となった大発明であり、
鳥の翼・象の長い鼻のようなものである。
しかし、それに囚われ 暴走し続け 常に
他者を 自分とは違う敵として認識しているため、
いつも 安心することができず、
「苦悩」という代償・副作用を
抱え込むことになってしまった。
いつも 他人と比べ、
絶えず 優越感か同等感か劣等感を感じ、
優越感(傲慢)のときは 心地よく、
同等のときは まあいいかと思い、
劣等感のときは 慘め ときに怒りやうつ になる。
【縦の関係】
だから、
一時いっときとして、 心休まること:平穏がない。
[自我を脅かす「影」との対決]
思考により悪しきものと判定された
自分自身の「負の側面」は、
否定・抑圧されて
無意識の奧底に閉じこめられ、
大きなエネルギーに成長する。
それは
「影」となって「表のわたし」を脅かし、
苦悩として体現されることになる。
苦悩から自由になるためには、
その影を意識の光の下に照らしだし、
「本当のわたし」として
再統合しなくてはならない。
マインドフルネスの光のもとで、
自らの無意識の領域にいる影を
意識化できれば、
制限・分離されていない自分(全体)に
なることができる。
「ダメな・嫌な・酷いわたし」を
受け入れて生きなくてはならない。
状況によって「善い人」 のこともあるが、
また 「悪い人」 にもなるのが 当たり前だ。
いつも「善い人」 なんてあり得ない。
【無常】
不快な感覚(苦)から逃げようとすれば、
かえって
それが 苦悩を形成するのと同じように、
「負のわたし」を 抑圧・否定することが
苦悩を生みだしていたのだ。
ダメなわたしという苦 から逃げないこと。
そうすれば 統合という目覚め によって、
自分が 自分自身だと信じ込んでいた
自己イメージが解体され、 消滅してしまう。
「正しさ・善さ」は 限定されている
仮のものであった と知り、
「正義・善きもの」の呪縛から解放される。
[自我の中に「影」を再統合する]
善なる自己イメージは
自分が勝手に創りあげたものであり、
それは 本質ではなく、
ストーリーに過ぎなかった。
そこに気づけば、
自分は空っぽ【空】であり、実体がない・
何ものでもないこと【無我】が分かる。
本質でないものを取り除いたあとには
空っぽ(広く開かれた空間)が残るだけだが、
空っぽ(という本質)は
実は 無限の可能性を秘めている。
それは 「全体」 であり、 「存在の基盤」 である。
統合の過程で、
「影」を意識下に置こうとすると
劣等感が刺激されて
プライドが傷つくことになり、
この感情エネルギーは ときに
怒り・非難・不安・恐怖・うつなどの形をとって、
統合に対して激しく抵抗する。
その抵抗にジッと耐えて それを
観続けること(マインドフルネス)ができれば、
その感情を正当化し 支えている
思考・信念・思い込みが明らかになり、
分離の感覚(居場所のない孤立感)は解消される。
そのとき このエネルギーは力を失い、
「わたし」は平穏の地平に至る。
自分が何ものでもないことを知り、 安堵する。
[真理に到達するためには]
:負けること
学び 考えることは、
真理:彼岸に到達するための重要な手段である。
しかし これだけで到達することはできず、
真理に至るためには 逆に、
その直前で これを手放さなくてはならない。
此岸から彼岸には、
泳いで(考えるだけで)渡ることはできない。
彼岸に至るには、
ジャンプする(考えるのをやめる)必要がある。
やるだけのことをやったなら、
あとは思い切って勇気を出し、
暗闇の中に飛び込まなくてはならない。
すべての努力・意志の力:サンカーラを
放棄して諦め、
それとまったく正反対のものに
任せなくてはならない。
それは、
完全に負けて 武装解除すること。
自我の鎧を脱ぎ捨てること。
挫折して、
自分の弱さ・愚かさを思い知ること。
自分の力では もうどうすることもできない
と降参すること。
逃げることなく、闘い自体を やめること。
そうすると
思考では パラドックスとしか
言えないようなことが起こり、
「無我」の理解とともに 自己受容が成立し、
「わたしのストーリー」から解放される。
【解脱】
「負けるが勝ち(というパラドックス)」とは、
このことであった。
「負ける」ことによって 初めて、
何のために闘っていたのかが分かる。
闘いに勝ち続けている限り、
このパラドックスは起こらない。
パラドックスとは
「価値」の転倒のことであるが、
それは ある日 突然、
価値観が 逆立ちして歩きはじめるように
プラスとマイナスが入れ替わる
「逆転」のことではない。
それは「価値」 自体が なくなること、
「価値」 が 相対化され、
「価値」 や 「意味」 から自由になることである。
3)空と無我の理解がもたらすもの
[自我の想い・願い・欲求:サンカーラ]
誰もが、自分と世界は
「善い人・善きもの」であって欲しい
と願っている。
自分と世界の中に
悪しきものがあってはいけない、
あったとしたら なくなって欲しい・
善きものに変えたい、と欲している。
それにトライするのは 構わない。
でも無理なら 諦めよう。
そして もう一度よく考えてみよう。
「善い」と考えていたものは、
本当の本当に「善い」のか?
それは「仮のもの」ではなかったのか?
あなたが勝手に創りだした
「意味」に過ぎなかったのではないか?
思い出そう。
「あるがまま」に意味などなかったのだ。
[空くうとは なにか 色しきとは なにか]
思考のフィルターが外れた
ありのままの世界とは、
対象・現象・状況に
「善いとか悪い」といった「意味や価値」が
思考によって付与される以前の世界【空】
存在している世界そのものには、
もともと そんな属性はなかった。
それは、人間が勝手に創りあげ、
くっつけただけのものだ。
思考によって意味づけられた世界が「色」
その意味を取り除いた、元の世界が「空」
無明とは、思考以前の
本来の「世界と自分」の本質が
「空」であり、何ものでもない ことを
知らないこと。
ここでいう「意味」とは、
二分された 対になる概念の 一方の要素のこと。
一方だけが 単独で成立することはなく、
かならず 他方の対照を必要とし、
それゆえ 相対的であり、
否定/追求や比較・競争が発生する。
【意味=要素:部分】
「本当の・絶対的な意味とは なにか]
:絶対的な意味とは「愛」 である
それは 常に 全体の一部でしかあり得ず、
実は「全体として存在している」 という
そのことだけにしか本当の意味はない。
ここでいう「本当の意味」とは、
対になる概念を持たない
絶対的な「意味そのもの」である。
「全体としての存在」は
「絶対的な意味・無条件の価値」
を持っている。
だから、
存在するものは すべてOKである。
世界も わたしたちも、
そのままで、ありのままでよかったのだ。
なーんだ、そうだったのか・・・
「ありのままでよい」 ことを「愛」 と呼び、
「存在する」 ということは
「愛されている」 ということであり、
「全体として存在している」 ことの
絶対的な意味とは「愛」 である。
[後編に続く]
(初稿 :2020年9月20日)
(最終稿:2022年1月20日)