私の般若心経(後編)スマホ版 | やすみやすみの「色即是空即是色」

やすみやすみの「色即是空即是色」

「仏教の空と 非二元と 岸見アドラー学の現実世界の生き方」の三つを なんとか統合して、真理に近づきたい・語りたいと思って記事を書き始めた。
「色即是空即是色」という造語に、「非二元(空)の視点を持って 二元(色)の現実世界を生きていく」という意味を込めた。

  ⒉  空即是色:わたししかいない〔実践

 

  この世界には 

  問題となる困ったこと(苦悩)

                        本来なにひとつなく

  問題があるのではなく、「わたし」 が

  否定の「循環」によって

               問題を創りあげているだけ。


  ただ 対処の必要な状況出来事だけ

                                    が存在する

  それに対して 否定するのではなく、

  今 なすべきことする方がいいと思われること

  今 できることを 行うだけである。


  状況を避けることなしに、

  自分自身から逃げ出すことなしに、逆に 

  状況の懐に飛び込むような気持ちで臨む。


  そして、状況を支配したり

  コントロールしようとさえしなければ

(コントロールできないことを知れば) 

  因縁の流れが見えてくる。

  その流れに身を任せれば、

  今すべきことが 直感的即興的に分かる。


  状況がわたしを動かし、 その経験の中から

「わたし」が立ち上がってくる。

(因縁によって生まれる:縁起)  

  わたしは 世界の一部であり同時に 

            世界そのものである ことが分かる


  結果を気にしないで、他者がどうであれ 

  自分が適切だと思う自分の課題を 

  深刻ではなく真剣に、淡々と行えばいい。

  結果に対しては 誰も責任持ち得ないのだし、

  どんな結果であろうと受け入れる覚悟を

                                  持っていればいい。


(結果を求める)取引きはしない

                        サティとともに生きる。


  無為とは 

  無理に なにかをするのでなく、

  流れのなかで 自分の行動を決めること。

  反対に、サンカーラの力で

  無理に なにかをするのが 有為


  サンカーラは 結果を求める

  結果を求めるから、

  結果に不安があるとき、

                  それが「問題」だと感じる。

  そして カルマが新たな問題を創りだし、

                           問題が「循環」する。

  だから 結果を気にしなければ

                           問題はなくなる


  サンカーラが存在しないとき、

  コミニュケーションも容易になる。

  結果を求めて状況をコントロールしよう

              とするコミニュケーションでは、

 (無意識であっても)作戦を立て戦略を練り、

  ときには 他者や自分に嘘をついたりしながら

  反応を見ては それを練り直すといった

                             複雑な対応をしている。

  サンカーラがなければ、

  今の自分の正直な気持ちや考え(真実)を

                                      話すだけでいい。

  自分の視点だけでなく 他者の視点にも配慮し、

  人間関係正直であれば、 状況自然流れ

(あなたの望んだものではない かも知れないが)

  適切な結果が あとからついてくる。


  単に 何を行なったかではなく、

  誰が どんな状況で経験して、

  それをどう感じどう味わったのか

(サンカーラを発生させたのか 否か) 

  そして 

  どう関わったのか (無為か 有為か)  

  それが人生のすべてであり、

                 それ以外の人生など存在しない。


  それに対する意味づけは、 なんでもアリだ。

  どうとでも できる。 囚われることは ない。


  ただダンスを踊るように

             ピクニックを楽しむように

                             生きることを経験する

  踊っているときは  踊ることそれ自体を味わい、

  ピクニックでは 

  用意すること・歩くこと・食事すること

                                   それ自体を楽しむ。


  それ以外目的も 意味も求めない いらない

「未来」に 目的を設定し、

「いま・ここ」   を 手段と化してはいけない。


  楽しいことも、  そして ときには 辛いことも、

  それが いのちの神秘そのものである

                                      ことが分かれば、

  それ自体を味わい面白がることができる。


  楽しいことだけを楽しむのでなく、

  楽しいことも辛いことも同じように楽しむ

(味わい・面白がる)  

  それが 生きるという経験、

          すなわち「人生」である【空即是色】


  とすれば、 生きるという経験(存在)

  誰に対しても平等であることが分かる。

  与えられたもの(才能・能力)が何であろうと、

  それを使ってどのように生きるのか 

                   ということの方が大切である。


   何が与えられているかではなく

                      それをどのように使うのか

  何を成し遂げたか・業績・結果doing

  ではなく、どのように関わったのか・

        生きる態度・生き方・過程being

                           の方が大事だと言える。


  存在(関係性)の在り方として

         人生への参加の仕方が問われている。


  誰もが 

  その人なりに 最善を尽くして生きている

  健常者と呼ばれる人たちにとって、

  コンビニで買い物をすることは 

         取るに足りないことかも知れないが、

   あるハンディキャップ持った人たちにとって、

  お金を払って何かを手に入れるという経験は、

  生きている奇跡そのものかも知れない。


  平凡で退屈そうに見えることの中に、

  いのちの驚異を感じることができるか? 

  特別なイベントだけが大事で、

  普段の何気ない日常は 

              ただの背景に過ぎなく、

                             つまらないものか?

 

  一般的には 

  芸術的創造や仕事の達成の過程での経験

           意味があると思われているようだが、

  それよりも深く重要なのは、

  すべての人に平等に与えられる

  人間関係における経験と言えないだろうか。

  つまりは 人生という旅の中で、

  どのように自分他者愛する(慈悲を生きる)のか 

             ということの方が大切ではないか?


慈悲思いやりとは

  自分と他者の

  存在そのもの(being)に関心を持ち

  神秘なる存在そのものを受け入れること


  存在の在り方としての 

  自他のストーリーに関心を向け、

  その違いを認めた上で、

  そのまま(いまの自分のありのまま)でいいんだよ、

  大丈夫だよ  OKだよ、  もう十分なんだよ

                                 心の底から納得し、

  自分と他者に向かって

  いまの自我(エゴ)のままでいいんだ 

                       と言ってあげることである。

【自己受容・他者信頼 → 他者貢献】


  そうやって  :ダメな・嫌な部分ごと受け入れて、

  互いの幸せを願う【

  その時は そうしかできなかった、

  その時も 最善をつくしてそうしたハズだと、

  過去も受け入れる。


  愛とは受容のことであり、

  関心を持ちつつも 否定も追求もせず

  あるがままを  ただ認める態度 :サティである。

  自我のそのまま全部を 愛して受け入れ、

  はじめて自我を超えることができる。


  では 自我が確立されていない場合も、

                  大丈夫だと言ってよいものか?  

  それもOK。今はまだ 自我が不十分でも、

  かならず 自我は成長し、

  みずから そこに至る可能性を秘めている。

  それを信じて[サッダー]手を貸す。


  その上で 可能なら物語」 の中に一緒に入り

「物語」をサポートするのではなく

(ときにはそれも必要だが) 

  その中で 真実を生きることに

                         目覚めるように手を貸す。

苦しみがなくなりますように:他者貢献】  

  誰もが目覚め・悟れることを信じる。


  自分サポートしつつ 同時に他者支援する。

  自分と他者を 等価に思いやる

  自分以外のみんなを愛していても、

  自分自身をそこから排除しているなら

          (それが 自己犠牲であるのなら) 

  それは 自己中心性の現われであり、

                       承認欲求に他ならない。


  愛と自己犠牲(承認欲求)は違う。

  自己犠牲では、

  他者の幸せを 

  心から喜ぶ【】ことができない。


  他者が私に対してどうであったか

            (という他者の課題)に関わりなく

  自分自身のために(自分の課題として)

                             他者に善きことをする。

  取引きはしない。   Give & take ではない。

  結果も求めない。他人の視線も気にしない。


  サティを実践することで 

                  自分の中にスペースができると、

  それらが すべて可能になる。

  いつも「慈・悲・喜・捨」を忘れず、

       それをまた サティのもとにおいておく。

 

  その上で、一緒にダンスする

  自分が好ましいと感じる

           特別な誰かだけを愛するのではなく

 (条件つきではなく) すべての人とダンスする

  ただ あるがままに、

                 わたしと世界のすべてを愛する。


  そのとき 人間関係は喜びに満たされ、

     そして 人間関係だけに留まらず 

  世界との関係が調和の中に統一される

  人生の主語が

               「わたし」 から 「わたしたち」 に、

      そして「すべて」に変わる。

  人生とは 関係(つながり:interbeing)のことである


  あなたもわたしも、

  生きとし生けるものはすべて、

  生老病死の苦しみをともにする仲間である。

  同じエゴを持つ仲間である。そして同時に、

  わたしたち分離され 区別されたものではなく 

  同じ一つの輝かしい本質を

        皆が持っているのだと気づけば、

                         愛することは容易である。


  特別な人など、どこにもいない。

  わたしたちは 皆すべて等しく、

                                  普通の人である

  他者の中に

              自分自身を見ることができるか? 

  他者が考えることは、わたしも考えられる。

  他者が感じることを、わたしも感じられる。

  わたしは 他者を理解できる。それは、

  もともと  他者とわたしが 同じだからだ。

  わたしたちには 共通の基盤がある。


  では、誰かの嫌なところを見たとき

  それと同じ(不快な)ものが 

                 自分の中にもあることを

           素直に認めることができるか?  


  他者とわたしが 同じであることが 

                          心底から理解できれば

  他者とわたしの分離(の感覚)は消失し、

  比較競争もなくなる

  ならば、  「他者(世界)はわたしであり、

  すべてはひとつである」  と言い切っても

                                いいのではないか?


  世界とは「わたし」の投影である。

  したがって、

  わたしの中の 分離(の感覚)が 消失すれば、

  世界の中の分離も消え失せ、

                        すべてはひとつになる。


  思いやることは、 自我の鎧を脱ぎ捨てること、

  そして「わたしの物語ストーリー」を

                        手放すことにつながる。

  鎧を着たままでは

  真の人間関係を築くことは

                              できないのだから。


  人間関係も また  自分自身の投影であり、

  そこでこそ 目覚めと悟りの真価が問われる。

  もはや、傷つくことを恐れて 

           人間関係を避けることはできない。


  わたしたちは みな 本質において 同じで

(色即是空:普遍性) 

  現象においては さまざまに異なっている

(空即是色:多様性)  

  現象(要素)としては異なっているが

                    本質(座)は同じである


      与えられたものや 経験・状況は

      それぞれに すべて特異であるが、

      同じ本質を持ったもの同士が

            多様性を携えて 

            一緒にダンスするのである。


  わたしたちは、

      違ってはいるが 対等である。

  それは 比較による 同等ではなく、

            比較のない 対等である【横の関係】  

  横の関係であれば、

「愛慈悲思いやり」を実践することは

                                        容易だろう。

 

  苦悩(の経験)のみが

  真実(存在の価値そのもの)を教えてくれる。

  何気ない普通の日々を 

            輝かしい いのちの驚異に変え

  いのちの奇跡に 気づかせてくれる。

  そのおかげで

  生き生きとした世界を

               再び 取り戻すことができる


「生きているという実感」を持ちながら

      生きていくことができるようになる。

  そのとき、苦しみは恩寵に変わる。


  ただし、恩寵という結果を求めて 

  苦しみを意図的に選択してはならない。

  それは、ただの「苦行」に過ぎない。


  そして 感謝の言葉の意味を、

  深く味わうことができるようになる。

「ありがとう(在り難う)」とは、

  存在の在り難さ・ 「奇跡」への

                    深い想いの表明である。

  存在している(在る)というそのこと自体が

  どんなに素晴らしく 

                         カケガイのないものか


  苦しんだからこそ、

                    ここまで来れたのである。

  でも、もう苦しまなくていいことに、

                 頑張らなくてもいいことに、

                                         気づいた。


        だから、

        苦しみ(苦悩)を手放そう。

            苦しみよ、  ありがとう。

            自我よ、     ありがとう。

         本当に よくやってくれた。

                  ご苦労さまでした。


  自我(エゴ:価値判断)が

                 いつも悪いわけではないし、

  自我には 自我の役割がある。

  わたしたちは 目覚めたとしても、

              自我なしでは やっていけない

  だから、エゴを否定し、

              消滅させようとしてはいけない。


  エゴは仮なるものであり

  機能に過ぎない ということを理解した上で、

  エゴと仲良くやっていく。ただ、

  エゴにしがみつくことができないことを知る。


  エゴの中だけに生きるのではなく、

  エゴをなくすのでもなく、 エゴを抱えたまま 

        エゴを超える「全体」の中に生きる。


           自我を確立した上で、

  しかも自我に囚われず

     その自我を超えて 生きていくのである。

【戒→定→慧】

  戒は

「健全な・真の自我」 を確立するためのもの。



  思考によって 「善い」 と判定されて

  受け入れられた 「表のわたし」の 

  影に隠れてしまった、

「悪い」 と判定され 否定/抑圧された

「負のわたし」に 光をあてる

無視しないで 関心をもつ)ことによって、

  その二つの対立を 解消できれば、

分離した自我が統合され

  完全な(善/悪の要素をすべて認めた)自我になる。

真の自我の確立】


  ところで、

  本当のわたしを構成する要素は

  自我()だけでなく 身体、そして 

  わたしと関係のある 外部の存在のすべて

(社会や自然環境:それは生存に必須の条件であり、

                 「わたし」と常に相互依存し

  因縁の絆で強固に結ばれている)である。


  それらすべての要素に

  公平に関心(social interest)を寄せ

  それらと それが存在する

広く開かれた空間としての本質基盤

                をさらに統合することによって、

分離したわたしが統合され

  真の実在【自我を超えた存在:大いなるもの】となる。


真の実在本当のわたし」とは、

  本質だけのことではなく、

要素(色)」 と 「本質(空)」の

                         両方を備えたものである。

 

  思考のフィルターが外れた

                         「ありのままの真実」は、

  もしも言葉で表現するなら 

  喜びと安らぎに包まれた平和な世界であるが、

  同時に 悲しくて虚しく切ない世界でもある。

  言葉の世界は相対的であり

                対になる概念で常に相殺される


  したがって、

  ありのままの真実である「空の世界」 を 

  「至福」という言葉だけで表現するなら、

  それは誤解を招くことになる。

「目覚めの一瞥」 のような体験で直接感得した

         「空の世界」 を 「至福」と感じるのは、

  単に 

  それを経験する直前の 

  ネガティブな状態とのギャップの大きさと、

             変化の急激さによるものであろう。


本来 中道・ニュートラルで、

  ポジ/ネガ・是非などの

                       対になる意味を持たない

  裏表のない・対立しない・二分されない

     相対的でない(非二元の)世界である。


  もちろん「

苦悩」 を内包した 」 というシステムが

                       崩れ去った世界であるから

  苦悩が存在しないという意味で 

           たしかに「至福」であるとも言える。


  分離の消失【空】を一瞬体感する

  一瞥(一時的)体験は、

  真理を目撃したという意味で、

              大変貴重な体験であろう。


  それは、進むべき方向を しっかりと

  指し示してくれる 導きの星となりうる。

  しかし、真理【空】の認識が

               人生のすみずみにまで浸透し、

        日常生活【色】に 

            十分反映されていないのならば、

     決して その歩みを止めてはならない。


  目覚めの日常化真理の浸透は

             生きている限り永遠に続く 

                       内なる変革の過程である。

「目覚めた、 ここがゴール、 これで終わり」

  と思った瞬間に、

  その人の人生は 本当に終わってしまう。

  終わりのない 変化し続ける歩みという、

  一瞬一瞬の中に生き続けることが、

「本当に生きる」 ということだ無常を生きる】  


  真理とはなにかを理解することを

「目覚め」と呼ぶなら【色即是空】 

  目覚めは

  人生のゴールではなくスタートである。

  目覚めたのちどう生きる(実践する)のか

【空即是色に裏づけられたを どう生きるのか】  

  それが「悟り」の意味するところであろう。


  目覚めにより、「あるがままの受容

(理解として)可能になる。

                           すべてがOKと知る。

  しかし、目覚めは悟りではない。

  実際の人生(日常生活)とどう関わるのか

        (実践として)どう受容していくのか

「悟り」とは そのプロセスのことである。


  目覚めたのちの生き方は

「遊び」のようなものだと言われる。

  それは、まるで

  遊ぶがごとく・気負わず肩肘はらず

  結果を気にしないで淡々と、しかし 

  なおかつ 真剣に 「いまここ」 を生きる、

  というような在り方【リーラ】であろう。

  やりたいように やればいい。

 

「悟り」を生涯の主目標として修行し

  目覚め・そして それを深めた人、

  または 突然に・強烈で・

  不可逆的な目覚めを経験した人は、

「スピリチュアル・ティーチャー」

  となる道を選ぶことが多いようである。


「悟りを伝える」ことが

           彼らの「悟った生き方」となり、

  その「伝え方」は様々である。


  一方、

  悟りなど 必要としない人々もいる。

  目覚めや 悟りという言葉を使わず、

  特別な修行をしなくとも、

  人生にとって もっとも大切なものは何かと

  誠実に追求し、それを理解し、

  普通に暮らしている人たちが 大勢いる。


  凡夫などと 一括りにしてはいけない。

  平凡な日常の中に悟りがある。

  自分が 悟ると、

  周りが すでに悟っていたことに気づく。


悟り」 

  なにか 特別なものとすべきではないし、

  それは 声高に叫ぶものでもない。

  難しいことは何もなく、

                        本当はシンプルなこと。

  理屈でわかっている 当たり前のことを 

  骨身にしみて ただ当たり前だと認め

         それを実践するだけのことである。


「悟り」を、けっして

      承認欲求の手段と化してはならない。

 

  たかが人生されど人生


『しょせん、すべては小さなこと。

  小さなことにくよくよするな』

                                      〈カールソン〉

  しかし その小さなことの中に、

  どれだけの幸せを感じることができるか?


  世界と人生に意味などないが、

       人間は 意味なしでは生きていけない。

 
  メメントモリ


⒊    あるがまま


  本当のところ、悟った人は いないし、

  悟っていない人も いない。

  わたしだけが 悟っていて、

  他の人が 悟っていない

                 ということ もあり得ない。


  特別な誰かなど どこにもいないし、

  すべての人が 特別である。


  存在している(存在を許されている)ということは、

  すでに 愛されている

            受容されているということ。

  だから、

  愛する愛せない、 受容する受容できない

                           というのは可笑しなこと。

「わたし」が 受容する前に、

          すべてが すでにもう 受容されている。


  気づいていようが いまいが、

  すでに もう受け入れられている。

  それに 気づくか、気づかないか。


  気づくと、

  世界がシンプルであることがわかる。

「あるがまま」 で、 そのままでよかった。

  逃げも隠れもせず、 

             初めから ずーっとそうだった。


        真理の立場から言えば、

        悟っていようがいまいが 

               どちらでも構わない。

        苦悩する人生もアリだろう。

        究極のところ、すべてOK

                 L e t  I t  B e !


  ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい

  はらそう ぎゃてい ぼじそわか




(最終改訂:2022年1月1日)