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アジャシャンティ著
「自由への道」 やすみやすみ風サマリー
(後編)
第3章 核となる実践法
ー 瞑想・探求・黙考 ー
真理は 存在する唯一のもの。
それは 隠れていなくて、
よく見えるところにあり、
豊かに存在している。
真理は 信念・宗教・哲学ではなく、
一時的な スピリチュアルな
神秘体験でもない。
止まっているわけでもなく、
動いているわけでもない。
善でもなく、悪でもない。
善や悪という
「価値・意味」 を超えるものであり、
そういった すべてのもの 以外であり、
想像しうる 以上のものである。
真理は 想像ではなく実感するものである。
マインドでは理解できず、
安定して 寛いだ状態のハートの中にだけ
見いだされる。
自分自身を誠実に見つめ、 その中にある
もっとも深い「存在:座」 を 呼び起こす
(本当の自分自身を思い出す)ことでのみ、
アクセス可能となる。
核となる実践法は感触をつかむ練習であり、
自転車の乗り方を練習するとき
のようなものである。
実践法が功を奏するためには、
日常の中に それを落とし込む必要がある。
そのためには 各個人のスタイルに合った
その人なりのやり方を、
試行錯誤して見つけるしかない。
誰かに 教えてもらうわけにはいかない。
その活用の仕方は、
実感レベルが深化するにつれて進化していく。
実践においては、 教条的にならないこと、
過度な努力をしないこと。
祈るがごとく、
マインドとハートをオープンにすること。
夜明け前がもっとも暗い、
ということはよくある。
最大のブレークスルーは
予期せぬときに やってくる。
突然 恩寵として与えられる。
瞑想
瞑想が 重視され過ぎているときと、
十分に重視されていない ときの、
両方がよく見られる。
悟りへの唯一の手段として
瞑想が 重要視されている場合、
ある特定の瞑想状態に到達しようと
集中し過ぎている。
どれほどすばらしく、
至福を感じるものであっても、
究極のリアリティは
ある特定の意識状態ではない。
神秘体験と呼ばれるような意識の変容状態は
真の瞑想の意図するところではなく、
リアリティとは何の関係もない。
一方、
リアリティは いつでもどこでも
そこに 絶えず存在しているので、
あえて 瞑想などする必要がない
という意見もある。
努力して瞑想することは、
絶えず何かをしなくてはならないという
「夢の状態」を強化してしまう、
というのがその根拠であるが、
それもまた
「真理の知的理解」 に基づく間違いである。
これをこうすれば それで大丈夫 などという、
直接目覚めに導く実践法はないものの、
「バランスのとれた 無理のない瞑想」
の実践は 極めて重要である。
「自由への道」における瞑想は、
できる限り深く すべてのものを
ただありのままに認める
(受け入れる)技術 である。
そのためには、
自分の体験をコントロールして操ろう
とする欲求(サンカーラ:〜しようとする気持ち)と
それに基づく行為(カルマ)を
手放す必要がある。
「ありのままに認める態度」とは、
瞑想の間だけ
(欲求に基づく)意志の力でエゴを抑圧し、
(見せかけの)平穏を体験すること ではない。
瞑想とは 智慧を引き出すためのツールであり、
「智慧が生じて ナンボ」 というものである。
智慧に結びつかない瞑想には何の意味もない。
ただ ひたすら
壁に向かって瞑想さえしていればいい
という態度は 明らかに間違いである。
瞑想を行う態度は、
委ね・無理することなく・オープンでいること。
マスターすべきテクニック というよりも、
沈黙の祈りのようなもの。
意識を向ける対象を固定せず、
20分から40分くらい 無理しないで
心地よく寛いで座っていられるなら、
それは 正しい瞑想である可能性がある。
瞑想中は、
解明したり 分析したり 説明したりしない。
でも、
無理やり思考(と欲求)を止めようともしない。
空を流れる雲を眺めるかのように、
ただ 思考と欲求を眺める。
起きてくることを 操作しない。
そして もっと大切なことは、
座ってするような
「型のある瞑想」だけが瞑想ではない、
ということ。
型のある瞑想は「練習」に過ぎない。
瞑想とは存在の姿勢であり、
存在の中で 存在として静止していること。
その感触がつかめたら、日常生活の中で
どんどんその状態に入れるようになる。
やがて 瞑想は とても 自然な状態になり、
暮らしの中で瞑想しているのか
瞑想の中で暮らしているのか、
観分みわけがつかなくなるだろう。
真の瞑想
真の瞑想は、 無理なく 静寂でいること、
根源的な存在:座として 居続けることであり、
方向性も目標もない。
体験(とそれに伴う感覚・思考・感情など)を
操作しようとせず、 自然な流れに任せておく。
一方
夢の状態では、 体験を判断して意味づけし、
自らの意図:サンカーラのもとに
状況(と自分の内面)を コントロール・
操作・抑圧/追求しようとする。
真の瞑想においては、
体験していることを
変えようとするのではなく、
体験の受けとり方と
それとの関わり方を変える
のである。
気づきの中へと ゆったりと寛いでいくにつれ、
マインドが 衝動的かつ反射的に
対象物をつかみ取ることが なくなってくる。
無理することなく
静寂の中へと深く寛いでいくと、
識別し・つかみ取り・コントロールするという
マインドの衝動的な習性から 解き放たれてくる。
瞑想についての質問の答え
① 思考にのめり込まないための手法・
役に立つ助け・船の錨/杖/補助輪の
ようなものとして、
以下の方法が利用できる。
自分の呼吸・動作・姿勢を意識したり、
意図的に 動きを少しだけゆっくりにしたり、
視覚・聴覚・触覚などの身体感覚を
意識的にオープンにしたり、
マントラや念仏を唱えたり、
祈ったり、
「気」の感覚を呼び起こしたり、
「ナーダ音」を聞くようにしたり、
体の緊張を感じて リラックスしたり、
お風呂にでも浸かって 体を緩めたり、
頭の中で数を数えてみたり、
お腹の膨らみ・縮みを意識したり、
する。
身体はいつも「いまここ」にある。
「いまここ」 でない どこかを彷徨さまようのは、
いつも思考である。
だから「いまここ」に居るためには、
身体を意識すればいい。
もしくは、
思考に発展しようのない単純な言葉や、
意味をなさない音の連なりだけの言葉で
意識の場を埋めつくすことで、
思考から逃れ 「いまここ」 に居ることができる。
または、自分の身体の中ではなく、
身体から離れた外の場所に視座をおいて、
自分の動作や経験を
外から眺めているようにしてみる。
存在(ただ在るという感覚)や
静止(何かを求めて動き回らない)や
沈黙(思考していない状態)そのものを
意識するのも助けになる。
やりやすい自分に合った方法を使えばいい。
しかし、そのような 手法は
徐々に減らしていくように心がける。
そうすれば だんだんと 意識しなくとも、
ただ沈黙した
静寂の気づきの状態でいられる
ようになっていく。
② 瞑想中に、
過去の辛い記憶・苦痛・恐れ・怒り・恨み
などが 湧き上がってくることがある。
これらは、
以前に抑圧していたものの浮上である。
そのときは 分析も 否定も 抵抗もせずに、
ただ湧き上がるに任せる。
巻き込まれる(感情と一体化する)ことなく、
ジッと耐えて、ただひたすら 傍観する。
それができれば
やがて それらは受け入れられ、
気づきの光の中で浄化されて 消えてしまい、
あなたは解放される。
もう心の奥底に留まって存続し、
あなたを脅かし続けることは
二度となくなる。
③ 瞑想中に、
恐怖などの感情が湧き上がってくると、
瞑想状態を維持するのが難しくなる。
このとき
感情と闘って一体化するのでなく、
① の手法を意識的に利用する。
十分にリラックスしながら、
自分のやりやすい「助け」 を使う。
決して
それを浮上させた瞑想から逃げない。
④ 瞑想中に
本質が洞察・理解されることがある。
これらは ただ与えられたものだと
感謝して受けとる。
ただし、特別なことだと思い込んで
それにしがみつかないこと。
⑤ ほとんど白昼夢のように
衝動的にイメージが出てきます。
好ましいものも、不快なものも、です。
どうすれば良いですか?
① の手法、
特に 腹式呼吸に注意を集中してください。
そして そのまま、ひたすら耐えて下さい。
⑥ 瞑想とともにある
スピリチュアルな人生のある時点で、
様々な形で
強烈なエネルギーを体験することがある。
そんなとき、
そのエネルギーに取り込まれてしまったり、
それを抑圧しようとしたり、
コントロールしよう としてはならない。
そんなことをすれば もっと激しくなるか、
もしくは
そのエネルギーは 再び影に隠れてしまう。
そうではなく、ただただ気づきを保つ。
① の手法を駆使して、
真の瞑想状態を保ち続ける。
熱いお湯に浸かったように ジッと耐える。
そして、
目の前のすべきことを 淡々とこなしながら、
普通に日常を過ごす。
そうすれば、いつか それを
自分の中に統合:受容することができる。
このエネルギーを統合するには
時間がかかる。
辛抱強くやらなくてはならない。
【脳の神経回路を書き換えるためには】
何か月、または何年もかかる。
そのようにして
完全に統合し 受け入れたとき、
前の自分が死んで
新しい自分が生まれている。
そのとき そのエネルギーは、
跡形もなく消滅している。
⑦ 瞑想で
静寂と シンプルな状態の深みに達したとき、
もっとも かすかな意思や手法も
おのずと 自然に消えていくことがある。
すべての意思や手法を手放すことができ、
マインドに没頭したり、ぼーっとしたり、
ぼんやりした 鈍い気づきの状態に
陥ることがないときに、
「真の瞑想」が自然に起こる。
瞑想の究極の形では、
瞑想している自分が完全に消えている。
探求
価値判断し、その価値に執着し、
感情と一体化してしまう思考(評価する認知)が
苦悩の元凶であるが、
すべての思考(認知)が
苦悩に結びついている わけではない。
価値判断を行うことなしに、
理に基づいて正しく考える思考を使って、
真理に近づくことが可能である。
ただし、リンゴを食べることなしに
リンゴの味を知ることができないように、
思考のみで真理を知ることはできない。
真理は体験するものであり、
思考は 真理の一歩手前まで連れて行き、
目覚めの準備を整えてくれるだけである。
思考による探求とは、
実在を問いかけることによってなされる。
わたしとは 一体誰で、何なのか?
人生とは 何なのか?
わたしが 持っている
考え・信念・見解・解釈・判断は、
本当に 正しいと言えるのか?
思考によって、
本当のわたし:座でないものを取り除く。
わたしの四肢や内臓は わたしか?
わたしの職業や役割は わたしか?
わたしの歴史や記憶は わたしか?
わたしの意見や信念は わたしか?
わたしがつけている
すべての仮面を剥ぎ取ったら 何が残るのか?
何か あるか? 何も ないのか?
それに気づいているのは 何か?
気づいている 何かが あるのか? ないのか?
誰かが いるのか? いないのか?
わたしが 想像してきた、
しがみついてきた または 逃れてきたもの
すべて、 わたしのアイデンティティすべて、
を疑ってみる。
拒絶しているすべてに目を向ける。
わたしが しがみついているもの、
あるがままと対立して
信じている すべてのもの、
固執していることで
自分や他人に 苦悩を与えている
すべてのもの を探し出す。
正義という わたしが 善であると信じ込み
大切にしてきたもの、 「〜に違いない」
「〜ねばならない」 「〜であってはいけない」
と信じ込んでいた すべてを疑ってみる。
あとは 疑問だけを抱えて、
静かにジッとしている。
ジッとして ただ観ている。
すると 見えてくる。そして、
自分の中で見出し 曝け出される
幻想(思い込み)の深さに
ショックを受けるだろう。
それを 何度も繰り返すだろう。
だが、 その度に 落ち込んではいけない。
受け入れ、許し、気持ちを切り替える。
そうすれば いつか わたしの真の存在:座は
無限で絶対的なものである ことに気づき、
あらゆる分離が放棄され、
わたしは 全体そのものにたどり着く。
もう一度 繰り返し、わたしの思考と
わたしのストーリーに 疑問を投げかける。
わたしの見解・
わたしの出した結論の すべてに、
「それは 思い込みではないのか?」と
疑問を投げかけてみる。
探求についての質問の答え
価値判断する思考は、
より良い価値を求めて
いつも次の瞬間を考え、
前に向かって踏み出そうとしているが、
探求のための思考では、
価値から離れて
後ろに向かって踏み出すようにする。
探求するということは、
これまでの 前に向かって踏み出すために
条件づけされた考え方を取り除くか、
一歩離れて それを見ることだからである。
新たな(思考による)回答を探すのでなく、
これまでに条件づけされた
思考・観念・信念を曝け出し、 取り除いて、
より納得できる実感を得るための 道をつくる。
より深い理解が湧いてくるための 空間をつくる。
偽りの観念(思い込み)を追い払えば、
いつでも 存在の静寂の中に
静かに止まっている ことができる。
そうすると あるとき突然、
「ああそうか!」という 腑に落ちる理解・
贈り物がやってくる。
探求とは、
直感的な叡智が湧き上がってくるための
空間をつくるための手段であり、
そのために、あらゆる信念・解釈に
疑問を投げかけるのである。
空間が開け 広げられたら、その疑問は
存在の静寂の中に そのまま留めておく。
すると、
ブレークスルーの瞬間が
予期せぬときにやってくる。
つねに 探求している必要はない。
極めて重大だという認識・関心を
持ったときに 探求すればいい。
探求は 好奇心の姿勢であり、
真理を知りたいという 強い願望を反映する。
「探求」は、人生の基盤を揺るがし、
目を背けている課題に
向き合うことを要求する。
そのときには、 大きな勇気が必要とされる。
黙考
黙考とは、(以下のような)
真理を示す言葉やフレーズの意味が
啓示のごとく閃くまで、
その言葉やフレーズを
気づきの沈黙と静寂の中で
忍耐強く抱き続けることである。
分析したり 哲学的思索にふけらない。
想像にも浸らない。
ただ 気づきの中に抱いて、留まって、
「そうかっー、そういうことだったのかー」
という意味が 自ずと芽生えるのに任せる。
「思考と苦悩」からの解放
① 絶対的な真理である思考は存在しない。
これは、
ある考えが 他の考えよりも真実である
ということではなく、
ただ 絶対的な真理である考えはない、
つまり「真理とは考え方のことではない」
ということを意味している。
② あるがままとは、それについて
考えを持つ前に起こっていること。
あなたのマインドが
この瞬間について考えることと、
それについて 一切考える前の
ありのままのこの瞬間との違いに気づく。
③ 苦痛が生じるのは、
現在のあるがまま、 過去のあるがまま、
そして 可能性としての あるがまま と
対立する考えを信じるとき。
この瞬間を、
マインドで解釈することなく体験する。
④ あなたは、
あなたのストーリーと 同一ではない。
他の人々は、その人たちについて
あなたが持っているストーリーと
同一ではない。
世界は、世界について
あなたが持っているストーリーと
同一ではない。
⑤ 苦悩とは、
現実と真実に あなたが抵抗していること、
または 誤解していることを、
生命いのちが教えてくれている形である。
それは、あなたが
あるがままと調和していないことを
生命が示唆しているということ。
⑥ より深い理解と洞察は、
静まったマインド:マインドフルネスから流れ出す。
⑦ 幸せでいるとは、
知らない ということを知りながら
生きること。
⑧ 真に知るとは、
知らない ということを知っている
ことである。
真に知るとは、信じていたことが
「思い込み」であったと 知ることである。
存在(心の座)の本質
① 内面を見つめて
自我エゴとしての自分を見つけないことが、
存在としての自分を見つける始まりである。
② 存在:座・スピリットは 不変であり、
あらゆる条件・あらゆる見方・あらゆる意識の対象・
あらゆる主体が生まれる前に存在している。
③ 存在は、すべてのものの本質である。
④ すべてのものの本質でいると、
存在の他には何もない。
⑤ 存在は 自己認識し、気づいている。
今この瞬間に!
⑥ 存在は すべてを説明しない、
存在は すべての本質なのだ。
⑦ 存在を実感するのは唯一、
存在そのものである。
⑧ あなたを通して、あなたとして、
そして 存在するすべてのものとして、
存在のみが それ自身を経験している。
⑨ 存在は
生まれる前、創造される前のものであり、
すべての源であり 実体である。
⑩ 存在は 私たちの原状であり、
あらゆるエゴの行為に 先立ち、
あらゆる思考に 先立ち、
あらゆる描写に 先立ち、
過去と未来に 先立つものである。
⑪ 存在であることとは、
時空の世界に先立って 今ここにあり、
常に あること。
それは 雨の一滴、木から落ちる一葉、
心臓の一鼓動である。
それは
世界のない世界、空くうの実体である。
⑫ 「私はある(I AM )」とは、
純粋な存在(座)であること。
それは 永遠不滅の真理全体にこだまする、
リアリティの究極の告白である。
無限なるもの(心の座を超える 大いなるもの)
① エゴを超越したものが 普遍の存在であり、
存在を超越したものが 無限なるものである。
普遍の存在とは 心の座のことであり、
無限なるものとは 大いなるもののことである。
② 無限なるものは
形を持たない 純粋な可能性であり、
存在と非存在、生と死、
形あるものと 形ないものに 先立って存在する。
③ 無限なるものは
一つでもなく 多でもなく、
二元性でもなく 非二元性でもなく、
世俗的でもなく スピリチュアルでもなく、
自己でもなく 他でもない。
④ 無限なるものは、
独自に持つ純然たる直感的な見地から、
それ自身の隅々において
それ自身を知っている。
そして 無限なるものは、
それ自身が全く不可知であり、
完全にそこにあることを知っている。
⑤ 無限なるものを実感するとは、
あなたの内的な世界を失うこと。
⑥ あなたの内的な世界が消えることは
すなわち、永遠の沈黙ということ。
それは 光り輝く存在になるということ。
⑦ 万事良好。
想像しうる以上に すべてはうまくいっている。
初めからずーっと、
ありのまま・そのままで よかったんだ!
結び
本質:座を発見することは 目覚めであるが、
悟りではない。 それは 始まりであり、
内なる変革への入り口に過ぎない。
内なる(自己)変革こそが 悟りである。
本質の実感(目覚め:色即是空)が
変革(悟り :空即是色)を
保証するわけではないが、
本質の実感なくして
変革することはできない。
内なる変革
この変革とは、
エゴは 「思い込み」 であったことに気づき、
今まで繰り返してきた(思い込みに基づく)
反射的・無意識的な 認識と行動から 脱し、
自分自身と世界に対する
(思い込みからの脱却という)
本質的目覚めを 日常生活に生かしていく
ことであり、
それは 生涯続くプロセスである。
目覚めたからといって、
人生に対する認識方法・反応の仕方・行動パターンが
継続的に変革していくわけではない。
この変革・深化が保証されるわけではない。
真理を求め、
本当の人生を生きたいという強固な意志
だけが、これを可能にする。
内なる変革が起きなければ、
条件づけされたもの(思い込み)が
繰り返されるだけで、
新しいもの・新鮮なものは開花しない。
無限の可能性が目を覚ますことはない。
「リアリティ」は、私たちが持つ あらゆる
「リアリティの観念」を超越している。
草の葉の中・ティーカップの中・秋風の中・歯磨きの中・
一喜一憂する すべての一瞬一瞬の中に、
それを 見いだせる。
人生のあらゆる表現の中に
神聖なるものが 見いだせる。
すでに知っていること、過去のこと、
あるいは
いかなる「条件づけ」 も参照することなく、
未知の領域に進んで、
一人で 立たなくてはならない。
まったく無防備で、無心に、謙虚に
立たなくてはならない。
根拠もなく、 受け入れなくてはならない。
一瞬だけでなく、 終わることなく永遠に。
そのとき、
聖なるもの、 分離していない完全なものが
意識の中で生まれ、 自己表現を始める。
終章
ある朝目を覚ますと、 すべてが違っている。
これまで感じたことのない気分だが、
夢ではない。
今までが夢で、今こそが本当なのだ。
どうして 今まで 気づかなかったんだろう。
内側を見てみると、そこには誰もいない。
今まで自分だと思っていた自分がいない。
外側を見てみると、 いたるところ自分だらけだ。
今までの自分ではない 自分だらけだ。
他のすべてと同一の自分とは
いったい何なのだ。奇妙だ。
他のみんなの話していることが
本当でないことに気づく。
全部が でっち上げたものでありながら、
真実だと見なされている。
なぜ みんなは分からないのか。
彼らにとっては、それが現実である。
何と不思議なことだろう。
立ち止まって 公園のベンチに座る。
そこに座ると すべてが止まり、
突然 落ちていく。
下に地面はなく、頭上に空はなく、
圧倒的な沈黙だけがある。
自分が
バラバラになりそうなのを実感する。
逃げ道はない。委ねるしかない。
すると、
あらゆるものが 空っぽになる。
生死以前に 消えてしまう。
不死なるものが 生命に目覚め、
あなたの目を開く。
あなたという存在は、
まだ 公園のベンチに座っている。
周りの景色は変わらないが、
どこも空っぽだ。
完全にありのままで、 完璧であり、
無限が 広がっている。
その他には 何もない。
今までの人生は、
無限なるものの 無限の可能性が
実在へと行き来している
つかの間の表れで、
実に
ささいな出来事であったこと、
そして
今も そうであることを実感する。
この公園のベンチの上で、
異なる 二つの世界が 交差している。
「どうかした?」 って、 誰かが尋ねる。
「別に、なにも」 と、 あなたは答える。
教えの要約
静寂であること。
それは「思い込み」 ではないのか? と、
すべての考えに 疑問を投げかけること。
リアリティの源を黙考すること。
そして、いつも目を見開いていること。
まったく たいしたことがないように見えるものが、
いつ あなたの世界全体を 永遠の歓喜へと
大きく開くのか 分からない。
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(最終改訂:2022年10月11日)