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アジャシャンティ著 「自由への道」 やすみやすみ風サマリー(前編)
はじめに
「目覚め」 や 「悟り」を 直接指し示すことはできない。
目覚めや 悟りとは何か ということを、推測したり イメージすることはできない。
何が真理か を推測するのではなく、真理でないものを 一つひとつ確認し、
これではない、あれでもない、これらは すべて 幻想である、
すべて「思い込み」に過ぎない、 と 一つずつ潰していくのである。
そうやって すべてを潰した後に残るものが 真理だ。
自分自身を真摯に見つめ、自分の中にあるエゴ(の全体)をしっかりと摑まえて、
自我(エゴ)とはなにか
エゴは思い込むものであり、 そのエゴ自身も思い込みであることが はっきりと分かれば、
エゴではないものが分かり、エゴを超えていくことができる。
エゴを理解した後に 自分のなかにあるエゴでないものが 本当に大切なものだ。
スピリチュアルな教えとは、 これが真理だと言って 答えを差し出すことではなく、
「それは本当か、それは真実か」と疑問を投げかけること である。
自分の信じていることは 本当か、それは「幻想(主観)」 であり
単なる「思い込み」 ではないのか、 という質問を繰り返す。
そうやって、 自分自身で考えるように 要求する。すべてを疑うことを 要求する。
答えは 自分自身の中にしかない。他人が代わって答えることは できない。
「真理」 を教えてもらうことは できない。自分が見つける以外の真理は 存在しない。
真理への道・自由への道は 信念(思い込み)体系ではなく、実践すべきものである。
それを通して、 元々そうだった 自分自身を思い出すのである。
気楽に無難に、 真理に目覚める(変容する)ことなどできない。
前途は 予測不可能、積極的な関与は 必須、結果の保証は ない。
とにかく、幻想(思い込み)に執着すること、 あるがままに抵抗すること を手放す。
何もせずに 甘えているわけには行かない。
ファストフードのような安易な真理の言葉は、 なんの役にも立たない。
目覚めとは 苦しみの消失ではない。人生の試練から逃避してはいけない。
深い平和や愛・幸せな気持ちは目覚めの副産物ではあるが、 それが目標なのではない。
目覚めと悟りに導くものは、
(正しい意味だとしても)幸福の追求 または苦しみの縮小・消失 ではなく、
リアリティに対する 癒しがたい渇望と、
本来の人生を完全に生き切っていないことに対する 激しい不満である。
第1章 五つの基盤
志(動機)を明確にする
あなたの人生で あなた自身が もっとも「欲して」いるものは何か。
もっとも「価値をおいて」 いるものは何か。あなたの行動を「規定して」 いるものは何か。
それ(動機)は、幸せになることではなく 真理への飽くなき渇望であると、
心から そう断言できるか。
ちなみに、エゴの「動機」は、生存し続けること であり、
そのために
快を求めて気持ちよくなること【渇愛】と、正しい(と 思い込んだ)ことの追求【取】
に明け暮れる。
無条件に貫く
志が明確になったなら、 それを貫き通す。 貫くためには、 何をして 何を手放すのか。
唯一の真実である 「いまここ」 に専念して、
幻想に過ぎない「過去・未来・概念・正義」を手放す。
つまり、24時間 365日のマインドフルネスを目指す。
自分の権限を決して放棄しない
自らを島とし、 自らを灯明とし、 自らを信じる。 自分自身の中にだけ 真実を求める。
他者(師・言葉)を 参考にしつつも、他者に 依存しない。
自分の人生に責任を持つ。 真理は、日常生活と自分自身の中で検証する。
完全に誠実でいることを実践する
今この瞬間のありのままに対して 誠実でいる。 自分自身の真実に対して 誠実でいる。
状況がどんなであれ 逃げ出さず、自分自身から隠れない。鎧よろいを脱ぐ。
他人に対してだけでなく、 自分自身に対して 正直でいる。 ごまかさない。
自分の人生の面倒をしっかりみる
スピリチュアリティを利用して、
人生の辛い面・うまくいかないところから 逃げようとしない。
目覚めても、嫌なこと・辛いことは起こり続ける。
ただ それらに対する見方・受け止め方が変わり、次第に気にならなくなるだけである。
いつも 完全に、自分自身と自分の人生に向き合う。
心地よいことも 不快なことも 同じように 受け入れ、
(自分の我を押し通すのでなく)その瞬間にふさわしく(因縁の流れの中で)振る舞う。
人生が 自分に見せてくれようとしているものに、素直に従う。
第2章 三つの方向づけの理念
この教えの支えであり、 基本となるもの。 教えのもっとも基礎的な概念的な枠組み。
存在という問題
わたし(と世界)の 本質とはなにか。
それは 「存在そのもの(座)」 であり、
現象的要素を すべて剥ぎ取ったあとに残るものである。
人の外見・性格・性別・歴史・職業・夢や希望や信念・行動などの要素の下にあり、
それを 支えているもの。 変わらずに あり続けるもの。
ずっと自分とともにあり続ける、
変わらない・子どもの頃から歳を取らない・もっとも深いところにある「自分自身」
変化する要素の塊でなく、 それを認識し 受け入れている いつも変わらない基盤(心の座)
多くの人は、その「全体」としての「存在」を意識しないで生きている。
「存在」の無限の可能性に気づかないまま、
分離され・限定された有限の「個人」 と 「世界」の中に生きている。
分離され・限定されている ということは、
二分された対立の中にいて比較され 常に恐怖を抱え、防衛しているということ。
それを 正当化しながら、苦しんでいる。つまり、
対立の構造の中の比較を 正しいと信じ、 それ故に恐怖を抱え 防衛しているのに、
そのことに まったく気づいていない。
何かおかしい と薄々感じながらも、それに気づくまいと 必死になっている。
日常生活のすぐ下に 存在というリアリティがあるのに、どうしても気づくまいとしている。
赤ん坊のころは 無意識のうちに 知っていたことを、
大人になって 自我を確立したときに 忘れている。
「存在:座」という問題がすべてであり、それよりも重要なものはない。
スピリチュアルに目覚めることは、 それを もう一度取り戻すことだ。
わたしという存在も、あなたという存在も、同じ存在だ。
存在としての わたしと、存在としての あなたは、存在(心の座)として 同じだ。
すべての存在が 存在として同じものであり、
「わたし」だけが 特別な存在:座である ということは あり得ない。
偽りの自己(特別なわたし)
「わたしという感覚」には、二通りある。
一つは、もっとも深いところにある存在(座)そのものである「自分自身という感覚」
「全体としての わたし」 「みんなと同じ わたし」
もう一つは、 その基盤の上の構成要素としての 偽りの自己である 「我という感覚:自我:エゴ」
「わたしが、 という感覚」 「部分としての わたし」 「みんなとは違う、 特別な わたし」
思考は 感覚(器官)を通して入力された情報を意味づけし、
勝手にまとめて 一まとまりの理解とする。
その理解は、それが形成された 異なる人生の状況に応じて 条件づけされ
様々に限定された形となり、「我われという感覚」 の構成要素となる。
その構成要素は 様々に違っていて、
自分の中で または自分と他者の間で、 ときに整合的であり、 ときに対立している。
「自分そのものである と誤認された構成要素」 の対立・違いが、
自我の葛藤 と人々の争いを引き起こす。
構成要素は、
性格・歴史・職業・役割・立場・見解・願望・信念・宗教・習慣・文化などなど、
様々に異なっている。
異なっているということは、 それぞれが分離・限定された 「部分」 に過ぎないということだ。
それは 感情エネルギーと結びついて強固に一体化し、
説得力のある「我という感覚」 「わたしと他者は 違う という感覚」 になっている。
それ(要素の塊である我)は、
すべての人の中に まったく等しくある
「全体」としての「存在そのもの:座」の上に 成立している。
その下にある「存在そのもの」 の方と直接結びついた自己感覚が、
「本当の自分自身 という感覚」である。
個々人で差のない 同じものの上に、個々人で異なる 違うものが載っている。
それ故に わたしたちは 本質的に「同じ」 ものなのに、 「違う」 と思い込んでいる。
その違いは、要素的なものに過ぎない。
もともと「我という感覚」は、分業化された社会で生きるにあたって
個別化し自立するために発達させられた特性に基づくものであるが、
自立が 他者との競争という 誤った観点から捉えられたために、
「偽りの自己」として 歪められてしまったのである。
自分と 他者は「違う」と思い込み、
他者との比較でしか 自分を見れなくなることが 自分を限定し、
「存在そのもの」から 自らを切り離してしまった。
機能である自我として自立するためには、
他者とは異なる要素を発達させて 分業し、「棲み分ける」必要があったために、
「違い」 を際立たせなくてはならなかった。
だが(慈愛によって)比較と競争を超えた 「真の自立」 がなされたとき 偽りの自己は消滅し、
「自分自身という感覚」もしくは「わたしは在る(I AM)という感覚」
「自分:我が どこにもいないような感覚:無我」にとって代わられ、 存在そのものと出会う。
その結果、「違う」ことよりも「同じ」であることに 目が向かうことになる。
偽りの自己は 他者より(と同じだけ)優れていたいと欲し、
他者や 昨日より(と同じだけ)幸せであるためには いつもなにか足りない と思っている。
それは、 「部分」として限定されたために 取り残されてしまった、
全体の中の 他のすべての部分に対する渇望である。
無意識に それを埋め合わせようとして なにかを自分につけ足していくが、
いつも 見当はずれなものしか得られない。
そうではなく、自己の空虚を 意識的に・誠実に追求していくことで
「存在そのもの」と再び 出会い、癒され 安定することができる。
「存在そのもの」 は 無限であり、究極のリアリティであり、
概念化されたすべてのもの 体験するすべてのものの域を超えている。
夢の状態
空虚さを埋め 特別であるために、 夢(思い込み)の中で 人々はとても慌ただしい。
こっちからあっちへ行き、そして また元に戻って というように、
走り回ることを止められない。
常にもっと沢山のもの、何か違うもの、もっと良いもの を探していて、
まったくどこにもたどり着いていない。
存在そのものの中で くつろいでいることができない。
本当に大切なものが何か、分かっていない。
夢の状態(思い込み)の中では、
わたしたちは 限定され、対立する領域の中に閉じ込められていて、
それゆえに 比較し 敵対して、 苦悩する。
「あるがまま」 が 本当の現実:リアリティで、
「こうあるべき」といった信念や見解は、
「部分としてのわたし」 が勝手に創りだした 非リアルな仮想現実(虚構)に過ぎない。
リアルな現実に逆らい 抵抗すれば(あるがままと対立するならば)苦しむしかない。
世界には 何十億という人々が暮らしている。
そして それぞれの人が、
真実であると信じる 無数の観念・信念・見解(という思い込み)を持っている。
人々は 外にある 同じ世界を見て歩き回っているが、
その内面では まったく異なる(夢の)世界を見ているわけである。
そんな人々がうまく付き合っていくのは、 どんなに大変なことだろう。
それに加えて、 特定の集団の人々が見ている集合的な夢の状態もある。
みんなで 同じ夢を見て(思い込んで)いるとき、
一人だけ そこから抜け出すのは どんなに難しいことだろう。
みんなが「そうだ」というとき、自分だけが「そうではない」 と言えるか?
「夢の状態」とは、「偽りの自己に見えている世界」のことだ。
[後編に続く]
(最終改訂:2022年11月10日)