幸せですか?(スマホ版) | やすみやすみの「色即是空即是色」

やすみやすみの「色即是空即是色」

「仏教の空と 非二元と 岸見アドラー学の現実世界の生き方」の三つを なんとか統合して、真理に近づきたい・語りたいと思って記事を書き始めた。
「色即是空即是色」という造語に、「非二元(空)の視点を持って 二元(色)の現実世界を生きていく」という意味を込めた。

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幸せですか?」って訊かれたら、
                       あなたは 何と答えますか?


  自信を持って    心の底から

  いつもどこでも 幸せです 

           だから  今 幸せです と言えますか?

           それとも、

  幸せなときも 不幸せなときもありますか?



  ところで、

     みんな幸せになりたいハズですが、
     その「幸せって どんなものですか

  幸せとは何なのかを知らずに、
           幸せを感じることができますか

     あなたの幸せ条件はありますか
                 それは、どんな条件ですか?
  それとも、

             幸せとは 無条件のものですか?

  幸せ、いつか「なる」   ものですか
  幸せ、自分で「つくるものですか

              違いますよ。

  幸せ、すでに「あるものです
           そして「気づく」ものなのです。

              ただ「感じる」だけです。
              問題は いま ここで
      気づくか 気づかないか だけです。

      感じるか 感じないか だけなのです。


     それを 気づかせてくれるものは、

                           マインドフルネスです。

     マインドフルネスとは 意識の対象を 

            思考から感覚にシフトすることで

     思考の罠から逃れる テクニックです。


  本当の幸せ、  

      「思考」 で 判断するのではなく

      「感覚」 で「いまここ」 で 

                           感じとるものなのです

「〜したい、〜になりたい」 という

               条件を達成することで得られる

         「相対的な幸せとは違うものです。



    結論から言いますね。

    わたしたちは、

        生きている」 だけで 幸せなのです。

     つまり、 幸せ無条件」 なのですよ。

     本当は 誰でも 無条件に 幸せなのです。


  必要なのは 「生きている」という条件であり、

        みんな 「生きている」 のだから

  それは 「無条件」と言ってもよいでしょう。


「生きている」 いまここ」 で 

             幸せを 「感じる」 ことができます。

  幸せとは   「いまここ」  感じるものです

  いまここでしか 感じることができません


  ですから  いまここでない

  死んだあとのことは どうでもいいのです。

  そんな 

「いまここでない いつかどこか」のことなど

  (幸せに関しては) 考慮する必要はありません。


  これがいつでも・どこでも 

                    どんなときも 成立している

                      絶対的な幸せ です。

  これは、不幸という 対極を持つ

                      相対的な幸せ とは違う

                         本当の幸せ なんです。


  いつでもどこでも 「いま ここ」 で

今のままの自分で 大丈夫なんだ  幸せだ」

      と思えることが「絶対的な幸せ」 です。


「条件」 によって感じているのではない

                  のですから「無条件であり

「無条件」 であるから  「絶対的なのです


「生きている」という

                「あるがままで 大丈夫です

  問題や困ったことは、  何一つないのです。

  あるのは 対処すべき状況だけ なのです。


    そして 上手く対処できなくでも

                   それは 問題ではないのです。

    対処すべきことから逃げずに

                   最善を尽くせば いいのです。

  「それだけ」です。

             「それ以上」は 必要ありません。


  「生きている」という

                ありのままで 大丈夫です


  対処すべきことをするのは  「条件」 でなく

     生きていくための  「前提」 なのですから、

  これも また 

「無条件であること」 否定にはなりません。


  生きていくための前提は、

  エサ探して食べることと敵から逃れることの

                                         二つだけです。



    あなたは  いまここの 「ありのまま」 

               受け入れることができますか?

    受け入れることが  「幸せ」なのですよ。


「生きている」という「あるがまま

       そのままで まったく大丈夫なんだ

  心の底から納得できることが幸せなんです。


  もしも「大丈夫でない」 と 思うのなら、

            対処すべき状況だと思うなら

                        あなたは 頑張りますよね?

  それで いいのです。

                そして、結果は 関係ありません。

  結果が 上手くいかなくても、

              それを受け入れればいいだけです。

  頑張った結果そうなら 

                      そうするしかないですよね?

  それで いいのです。

  受け入れること さえ出来るなら

                        すべて大丈夫」 なのです。


  そうするしかない当たり前のことですから、

  受け入れることは 

    それ以外に選択肢のない 当然のことです。

  人間以外の生き物は

      そうやって すべてを 受け入れています


  無条件に「あるがままで 大丈夫」 であり、

  無条件であるから 「絶対的」 なんですよ。

  条件を取り払ってみたら どうなるのか

                                感じてみましょう。

  条件にしがみついているウチは

                         けっして 分かりません

  条件へ執着することやめて、

                             手放してみましょう


  あなたは  すでに 無条件に

  何ものでもない 「大いなるもの」 よって 

                  完璧に受け入れられています

  それに気づかせてくれるものは、やはり 

  マインドフルネス(気づき 受容)です。

  あとはあなた自身が

                  あなたを受け入れるだけです。


  生きていることは在り難いことであり、

                        奇跡のような出来事です

  したがって 「生きている」 ということは

  神様に 愛さ受け入れらていること 

                                    に他なりません。


  わたしたちは 

  この 大いなるものによって愛されること

    なしには  この世に存在し得ないのです。


  わたしたち生きていることが奇跡であり

      自分が奇跡の存在だと気づいたときに、

  自分と世界の全部を 受け入れるでしょう。


受け入れるとは、「愛することです。

  あなたが  あなたを 愛すればいい のです。

  それは もちろん

             偏狭な 「自己愛」 ではありません。

  それは   自己受容」と呼ばれるものです。


  この自己受容という 絶対的な幸せ 

                                    の存在を知れば

  対極を持つ相対的幸せ なんて

        どうでもいい と思うようになります。

 



  では何故 あなたは、

  自分受け入れることが できないのですか?

  それは、あなたが 自分の中にある

悪しきもの 受け入れられないからです。


  なら、 悪あししきものを 良きものに

              「変えれば」 いいだけでしょうか?

  でも「変えられる」ものなら

                       とっくに変えていますよね?


  そして あなたは、 変えられない

  その 「悪しきもの」 を見たくないハズです。

         「悪しきもの」 をずっーと見ていたら、

                                不幸せ ですよね?

  だから あなたは、   それを 隠してしまう


  他者からだけでなく、

        自分自身からも 隠して 逃げてしまう

なかったものにしてしまう

                         でも「なくなっていない

  相変わらず そこに在り続けて、

  :シャドーとなって  あなたを脅かし続ける


  だから、あなたは

              自分を  受け入れられないのです。



  では 受け入れるためには

                  どうすればいいのでしょうか?


  そのためには、 を 消すことです。

                        を 当てればいいのです。

  光を当てれば、 影は   消えてしまいます。

  :シャドーを   意識化 すればいいのです。

  自分の中の「悪しきものの存在を

            否定しないで「認める」ことです。


  でも   それは とてもとても辛い作業です。

           だから 多くの人は否定し続けます。

           だから 幸せになれない

  だから  いまここにある 絶対的な幸せ を 

            感じることができないのです。


  まず、 「認める」ことです。

  まず  自分の中の  「苦」 を 認めることです。

        そこから「四聖諦 スタートします

  その開始を告げる鐘の種類は 

                    ひと様々ですが、けっして

         その鐘の音を聴き逃してはなりません。


  そして ついに、  苦苦悩を生みだしていた

              そのあしきものの存在突き止め、

  それを 受け入れることによって

         四聖諦ししょうたいの過程   終了します


  悪きものは  わたしたち一部なのですから、

  その一部を受け入れることなくして

  全体としての自分を受け入れられないのです。


  いつも

  一部にこだわらず  善と悪の 両方を含んだ

  もしくは 善悪を超えた  全体でいましょう

  そして  わたしの中の全体だけ でなく

             わたしの外の全体とも つながり、

             一つ(ワンネス)に なりましょう。

  

四聖諦とは 

     仏教の内容を簡単にまとめたものであり、

四聖諦が始まるとは 

                    仏教の修行を始めることです

  なぜなら、   仏教とは  

        絶対的な幸せを見つける方法論の体系

  として、ブッダが確立したものだからです

  もちろん 

幸せを見つける方法は 仏教に限らず

         他にも たくさんのやり方があります



  大事なのは「悪しきものとは何なのか

                                      ということです。


「悪しきもの」とは 何ですか?

          「というのは 概念に過ぎません。

  概念とは、

       人間である 自分が創りあげた虚構です。

  つまり「ウソ」です。


「悪」 や 「善」 とは、  絶対的なものですか?  

  それは、

    地域や時代により 様々に異なるものです

  絶対的でないなら、それは 

           本質でも真理でもないものでしょう。


  それは 

  外の世界に実体として存在するものでなく、

  わたしたち(人間)の 頭の中に 

  言葉意味概念として存在する

                          考えるためのツールです。


  善であるとも 悪であるとも 言えないことは、

                         いくらでもありますよね?


  だから、 そんなものは (幸せのためには

                                どうでもいいのです。

  それは、とりあえず

  人類が 「生きる」 ために 自分についたウソです。

               自分で 自分を 騙していたのです。


  だから「生きて行ければ」 

 サバイバルできれば それで いいのです。

条件、「生きているという 

                                  ただ その一点です

  つまり、

  最低限の衣食住が足りていればいいのです。


  だから  生き延びるために

最低限の衣食住が 足りなくなると思って

  自分の中の一部分が 悪になってしまった

  としても それは 仕方のないことなのです

  悪を 許す受け入れるためには

             このような視点が 不可欠でしよう

  そう思えれば自分の悪を認めることが

                         少しは楽になりませんか?


  それが足りていれば、

        あとは「ウソ」を捨ててもいいのです。

  幸せになるためには

  その「ウソを捨てなければならないのです。


  悪とは 

  ダメところであり  ネガティブことです。

  それは    実体として存在するものではなく、

  人間が 

  恣意的に勝手に 判断して決めたことです。



  人は みんな、

生き延びる ために 必死で、  非リアルな

       「ウソ」 に頼らざるを得なかったため、

  その「ウソ」 が 

     まるで 真実:リアルであるかのように 

               「思い込んでしまったのです。


  そのウソ:虚構について、 

  智慧を働かせ  よくよく 「考えて」 下さい。

        よく 考えれば   「ウソ」 を見抜けます。

「智慧という 大きな限定されない思考 

「小さな思考の虚構性」 を見抜く

                                    ことができます。


            どっちが先でしょうか?

            自分の悪を認めること?

                      それとも

            「ウソ」を見抜くこと?


            どちらでも いいのです。


  とにかく 「ウソを見抜いて

                  「悪」を 受け入れることです。

「悪」を 認めて それが 「ウソ」 だったと知り、

  その「だったもの 

                               受け入れることです。


  そうすれは、自己受容が可能になります。

「否定」すべき「悪」が

        「ウソ」だったのですから、もう

        「受容」しか残っていないですよね?

  そうやって 「自己受容」 が成立するのです。


自己受容が成立すれば

                       「他者受容」 も成立します

  だって 

  自分の悪をウソだ と見抜いたのですから、

  他者の悪もウソであることは当然ですよね?


                  「自己受容とは

      無条件に自分を 受け入れることです。

         そして「他者受容とは

      無条件に   他者を 信頼することです。

   信頼できれば、 愛することもできます


                   「信頼する」とは、

   ウソをつかない・悪いことはしない と

             信じ込むことではありませんよ。

 「無条件信頼する とは

 「嫌なところ)」 も含めて

                      受け入れることですから…


   受け入れることができれば、

 「悪い と断じる:ジャッジする代わりに

       悲しいと 感じるようになります。

   それが、  慈悲」 というものなのですよ。


  悪いからダメだ(という怒りの感情と

  生きていることに伴う 「悲しい という感情は

  感情は感情でも まったくものなのです。


  そうやって、

  すべてを受け入れることが可能になります。

  つまり、

  すべてを 愛することが 可能になる のです


  それが 本当の幸せです

  つまり の虚構性を見抜けば

                                 すべてを受け入れて

愛する  ことができるようになり

              それが  「絶対的な幸せなのです


  それを 本当に理解することが、

  いまここにある  幸せ」 に気づくことです。

そして  それを本当に理解するとは

  善の虚構性」 を見抜くことでもあります


  世界のすべてを愛することができれば、

     「幸せ」 になれるに決まっていますよね。




         あなたや わたし という人間の

             受容を阻んでいたものは

         人類の大繁栄を導いてきた

       概念化して 思考する」 という

       生存のために人類が採用した

         意味づける(/悪と判断する

                        脳機能だったのです


  それが 不幸」  をもたらす

  マインド:小さく 限定された 合理的な思考

                                        の正体であり、

  わたしたちを 苦しめていた or いるものは

  マインドによる 

という二元性の呪縛なのです

「よい」 も 「わるい」 も 「ウソ」 であり、

     そんなものは   もともと 「ない」 のです。


     もしも  あなたが幸せでないなら、 

  あなたは

意味価値 という 概念 の檻オリの中に 

                             閉じ込められています。

  /悪の 二元性の罠 に捕えられている限り、

  あなたは 

  絶対的な幸せを 感じることができないのです。

二元を超える絶対とは 非二元のことです


  意識が  いつも 思考に浸りきっていたので、

  「幸せを感じる」 ことできなかったのです。

  思考することと 感じること 別ものなので、

  思考が

     幸せを感じることを邪魔していたのです。


  思考は   いつも 「いつか どこか」 を彷徨い、

  感覚はいまここに根づいているからです。

幸せは いまここで感じるものでしたよね


「いま ここ」 が        リアルな現実であり、

「いつかどこか」 非リアルな虚構なのです。

  だから、

    いつかどこかを彷徨さまよ思考リアル

          いまここの感覚非リアル 引き戻す

  マインドフルネスの技術が

  生まれたときから 元々 持って感じていた

     絶対的な幸せを 呼び戻してくれるのです。


  わたしたちは  非二元くうワンネスを

  言葉無理やり分割概念化することで

      それぞれの片方に 対極の意味を付与し、

  そうやって世界認識 働きかけることで

                            生き抜いてきたのです。


  そして、   それで上手く 生き抜いたものの、

  同時に 空の特性である 「絶対的な幸せ

                            忘れてしまったのです。

  この絶対的な幸せは、

  人間以外のすべての生き物感じています。


自由になる解脱とは二元性の この

概念:観念 の檻 から脱けだすことです。


絶対的な幸せ を感じる ようになるとは

相対的な幸せ という対極を持つ

相対的な苦しみ がなくなることではなく

  それは  

  苦しみ と 幸せ という 二項対立 を超える

新たな視点」  手に入れて

新しい世界」  足を踏み入れることです


  自分の中の悪きもの 真に受け入れたとき

  善と同時悪は消滅して 元の非二元に戻り

  優劣比較競争という枠組みに支配された

  二元の世間を超越することができるのです。




  わたしたちの「生存:サバイバル」  

     もっとも深いところで支えているものは

      「思考」ではなく、「関係性」なのです。

  その「関係性 全体がワンネス です。


  物質的な豊かさは 

           この関係性を見失わせる傾向があり、

  さらに、相対的な幸せを強化することで

  絶対的な幸せに気づき難くしてしまいます。


  ブッダは、この関係性のことを

 因果でなく 因縁に基づく縁起と呼びました。

  曼荼羅は、この縁起をイメージしたもの 

                                         と思われます。


  関係性(

  善/:二項対立を超えて成立するものであり、

  そのような関係性こそが (つまり 愛が

    概念の檻を 粉々に打ち壊すものなのです。


「ワンネス」とは、  

        大いなるもの」のことでもあります。

「ワンネス」を見いだすためには、

        横の関係  世界と関わりましょう


「大いなるもの」 とは、

  一神教のGodでない   日本ののことです。

一神教のGodとは虚構の最たるものであり

    God かみは 実は 対極の存在なのです




                                と書いてみましたが、

  こんな風に言われても 

               多くの人は 納得できませんよね?


  なぜなら、ここで「ウソ」と決めつけた

  正義理想 だとか 生きる意味 というのは

  人間以外の存在にとって 

              何の価値もないものであるものの、

自我としての人間にとっては 

        かけがえのない価値を持っているもの

                                            だからです。

だから 一神教が世界中で受け入れられた


  理想の自分という非リアルな虚構

  現実の自分というリアルな現実のギャップが

ダメなところ存在という形なって

              苦悩を生みだしていたワケですが、

  その理想の自分に向かって頑張ることで

    自分を高めてきたということも 確かです。


  そして  それが 行き詰まり、

  苦悩という不幸を 経験することで  初めて

  幸せを 自分のものにすることができる

                                         ということも、

  決して 否定することのできない

     世間の真実であることに違いありません。


  これは  苦悩を通り抜けることによって 

  初めて 虚構だった自己イメージを

        現実の自分に合致させることができた

                                         からでしょう。


  正義生きる意味ウソだ と言われちゃ

             たまったもんじゃありませんよね?

  わたしたちは、「考える」 ことなしに

   生きていく」 ことができないのですから


  わたしたちは、  実際には二元性の中で

                 生きて(暮らしているのです。

  それも忘れてはならない厳然たる事実です。


  理想に向かって「頑張り」

  頑張り過ぎて苦しんだ過去があるからこそ、

      いま 自分を受け入れることができる

                                ようになったのです。

  ですから、最初から「頑張らない」のは  

                              やはり ダメですよね?



  したがって、 「幸せ」 になるためには

他者によって強制された虚構を捨て去って

  正義や生きる意味というものが

                          虚構であると知った上で

  自分にとって もっとも大切な

  (自分らしい虚構を見つけだすことです。

一神教の教義価値観依存するのでなく


  絶対的でないことを知った上で、 

  自分にとってだけかけがえのないもの

              (生きる意味を見いだすのです。

人生を受け入れるために

  自分が納得できる考え方を構築するのです。

そして それは

   自分が 納得できるなら 何でも良いのです

   ここに書かれたこともまた 一つの虚構です


  それが  虚構幻想)であることを

                                      理解していれば、

  それ 個々に違っているものであり

             かつ 永続的である必要もないので

  それ故に それに従いつつも 

        それに囚われることがなくなることで

  ときには世界の変化に応じて信念を変更し

     柔軟に生きることができるようになるし、

もちろん  信念の変更は難しいのですが


「虚構である」 が故に  それは

  客観的普遍的でなく 個別的なものなので、

  他者には他者信じる(自分のものとは違う

                虚構が存在している と理解でき

  他者の虚構信念を尊重することが

                                可能になるでしょう。

一神教の場合自らの正義が 絶対である


  実は  「他者を尊重する」 とは

          「他者の虚構を尊重する」 ことであり、

  それは

  自分が受け入れ難い虚構も それは それとして

                 尊重することを意味するのです。


  これが  幸せ感の源みなもととなる

  良好な人間関係のための「秘訣」 であり、

  このような態度こそ

      幸せを見いだす道中道なのです


  そして 

  この虚構の対立が 争いを生みだす元になる

                        ことも知っておきましょう




  ホモサピエンスとは

      幻想を生きることを選び取った存在です

               [参考文献:「サピエンス全史 


  サピエンス、「考えることで 

        自然に介入して エサの確保を容易にし、

  自然に介入したことで 自然の在り方を

                           忘れそうになっています


  人間とはわたしたちは

        そのような やっかいな生き物なのです



自然現実)の在り方 忘れるな

            と諌いさめているのが仏教:東洋であり、

「自然から遠ざかり 理想に向かおう

  としているのが 一神教:西洋のように見えます。




(最終改訂:2024年1月20日)