誰かの力になりたいとき(スマホ版) | やすみやすみの「色即是空即是色」

やすみやすみの「色即是空即是色」

「仏教の空と 非二元と 岸見アドラー学の現実世界の生き方」の三つを なんとか統合して、真理に近づきたい・語りたいと思って記事を書き始めた。
「色即是空即是色」という造語に、「非二元(空)の視点を持って 二元(色)の現実世界を生きていく」という意味を込めた。

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       誰かの力になりたいとき
           :課題を分離すれば、他者貢献は容易になる



  目の前に 苦しんでいる人がいるとしよう。

  あなたは 

      その人を助けてあげたいと思うだろう。

  その人のことと 今の状況を考慮して、

  あなたができることは何か と考えるだろう。

  そして それを実行し、

  苦しみがなくなったとしたら 万々歳だ。

  良かった めでたしめでたし、こと済む


  だが、あなたが その苦しみを

        取り除いてあげることができないとき

  あなたは      どんな風に感じるだろうか? 

  あなたも 

        一緒に苦しくなってしまうだろうか? 

  あなたの共感性が高く、

  その人を何とかしてあげたいと 

                             強く思えば思うほど、

  あなたは(も)    苦しくなるかも知れない


  でも そんな必要はない。

  あなたも一緒に    苦しむ必要などはない

  共感とはともに 苦しむことではない


  側にいる人が

         一緒に苦しんでくれるからといって、

  その人の苦しみが癒されるわけではない。

  その人は 自分と同じ苦しみを 誰かに

  同じように持ってもらいたいのではなく

  自分が「苦しみ」を抱えていることを 

     誰かに理解してもらいたいだけである。


「苦しみ」 を理解してもらうことによって、

   「自分自身」 を理解してもらいたいのだ。

  自分を分かってもらうことで、

  分かってくれたその人と たしかに

つながっている」 と確信したいのである。


  人間にとって
  その「つながり以上のものは 
                                       何ひとつない
  あなたにとっても 
               同様に大切なものであるはずだ。

  そして 自分を分かってもらった上で
  そのままの自分を 
                    受け入れてもらいたいのだ。
  (苦しんでいるとしても)そのままでいいんだよ
                と 受け入れてもらいたいのだ。


  人間にとって
  その「ありのままの受容
          以上に大切なものは 何ひとつない


  共感性とは
  その人の苦しみと同じものを 
  ありありと自らの心の中に思い描く
                              能力のことであるが、
  それは ともに苦しむためのものではない

  それは
  その苦しみの解決に向けて
  自分に何ができるのかを検討するため
                                        ベースである

  その上で 何かできそうなことがあったら
                                          やってみる
            結果を期待しないで、やってみる
                     上手くいけば、それでいい
            しかし結果が思わしくないときは、
                                                諦める
                                          それだけだ

  あなたの中に 
  その人に苦しみをもたらしたものと
                         同じ質の経験がなければ、
  ありありと思い描くことはできない
            だろうが、それは それで仕方ない

  しかし 
  その人が「苦しんでいるという
                   事実を理解することはできる
「苦しみ」の出発点や 種類は違っていても、
  結果としての「苦しみ(苦悩)」
                  そのものは どれもみな同じだ
  それなら 共感できるだろう。

    「苦しみ」は
      その人の もの(課題であり
      あなたの もの(課題ではない
      それは どうしようもないことだ。

  その人の世界には、その人しかいない。
  だから、その人が 
  自分で自分の課題を解決するしかない
    誰も 代わってあげることはできない。

  私たちにできるのは
  解決に向けた 提案をすることだけである。
  解決のためには 
  その人が 何かをしなくてはならないのに、
  その人が 
  何もできないと言い しようとしないなら、
              周りは どうしようもないだろう。

  解決のために 
  誰かが代わることもできないのなら、
              やはり どうしようもないだろう。

      では 何もできないからと言って
      その人を 放っておいてよいのか? 
      そうではない。
      そうではなくて 共感し続けたまま
      関心を 寄せ続けなくてはいけない

          誰かの役に立ちたいのなら
          それが あなたの 課題」 

  共感しても 
  解決(結果)にはつながらないだろうが、
  それでも ともにいて、
        同じ時間と場所(過程)を共有する
               「いまここ」を ともにする。
  一緒に苦しむのでなく、 共感しながら 
                         ともにいる(being)
  それが「癒し」につながる。

   「かける言葉がない  からといって
               その人を避けてはいけない。
                           逃げてはいけない
  もとから
「言葉」自体に 癒す力などありはしない。

  その「言葉」に、あなたの 
  どんなメッセージが込められているのか、
  そっちの方が 大切なのだ。そして、
  メッセージを伝えるのは 言葉だけではない。
                          (非言語的メッセージ)

「沈黙」の方が、ときにより大きな
        メッセージを伝えることだってある。
  かける言葉がなくとも(not doing)
      側にいること(but being)はできる


  その人が 弱さを見せようとしているなら、
  あなたは
  その 「弱さ」 を 「受け入れる」 覚悟を持つ。

    他者の弱さを受け入れるためには
    自分が十分に強くなくてはならない
    その人の「苦しみ」から、
    その人の「弱さ」   から、
                  あなたが 逃げてはいけない

  あなたにとって
  その「弱さ」とともにいることは
                                 「不快」だろうが、
「大丈夫だ、頑張れ」などと安易に励まし、
  あなたが 
  不快という「苦」から 逃げてはいけない

「苦しむ」人とともにいることは、
                           「不快」かも知れない。
  でも その「不快(苦)」 は、
       あなたの「苦しみ(苦悩)」 ではない。
「不快」に耐えられず 
            何とかしようともがいても、
                      (結果は)何も得られない。

  何もできないのに、一緒にいることは
                          たしかに「不快」だろう。
  しかし、
  それを 自分の 「苦しみ」 としてはいけない。
苦しむその人と同じように
    その苦しみを なくそうとしてはいけない

  その苦しみをなくそうとして
                      苦しんでいるのは その人だ。
  そして その苦しみ
          その人の 外側ではなく内側にある
  その人が自分で「苦しみ」を創りだしている。
  だから、それは   「その人の課題である

  それを指摘する必要はないし、
    求めていないときに 指摘してはいけない。
  本人が気づくかどうかという問題であるが、
    気づこうが気づかまいが どちらでもいい

  気づこうとしているなら援助すればいいし、
  気づく気がないなら      そのままでいい。
                 あなたは側にいるだけでいい


  その苦しみを しっかりと受け取りつつも、
  それが「どうしようもない」ことだと
     分かっていて、そして それも含めて
 「そのままでいい」 ことが分かっていれば
  苦しむことなく、ともにいられる

  その人が苦しんでいても、
  その苦しみも含めて 
  その人全体がすでに受け入れられている
  ことに気づいていれば、ともにいられる。
  マインドフルネスがあれば ともにいられる

  その人は、
  自分のできないところばかりに焦点を当て、
  できること・良いところに
          目が向かなくなってしまっている。
  わたしには
  その人の良いところが 観えているが、
                 その人には 観えていない

  そのことを 教えてあげてもいいが、
  その人は やはり気づかないかも知れない。
  でも「そのままでいい」 
     気づかなくてもいい。
  マインドフルネスによって 
   それが分かっていれば、ともにいられる

  その人が 変わらなければ、
  その人の苦しみは
                  なくならないのかも知れない。
  そして、 
      人は なかなか変わらない、 変われない
  あなたが変えようとしたところで、  
                                           変わらない
  そんなものだと分かった上で、 
                                     でも ともにいる


  私たちにできるのは、     それだけである。
  それ以上のことができなくとも、
                  それは あなたのせいではない。
  あなたにも わたしにも
                            そんな大きな力はない
  できることは 限られている。
                                  些細なことだけだ。

  あなたの価値が小さい、
                             と言っているのでない。
  あなたには できることが他にある。
  ただ この状況でできることは
                       それしかないということだ。
  あとは  時間が解決してくれる

  それが分かれば、
「一緒に苦しまなくて済む」  のではないか? 
  一緒に苦しまなくていい ことが分かれば
  他者を援助するのは 
               もっと容易になるのではないか? 

  ともに「苦しむ」ことと、
(不快)」 とともに 
  ただ「共感して」側にいることの違いは、
         マインドフルネスだけが知っている。



  そして、よく考えてみよう。
  あなたが誰かを助けてあげたいと思うとき、
  それは 「承認欲求でないと言い切れるか? 

  あなたが 誰かの役に立ったとき、
  誰かを救える自分って 
  なんてすごいんだろう と思っていないか? 

  役に立ったという、その結果がなければ 
  自己受容できないということはないか

  それはあなたの
  誰かの役に立ちたいという自然な欲求か? 
  誰かのために何かをするのは気持ちいい。
  だが 結果がついてこなくとも、やはり 
      平穏さとともに 「気持ちいい」と思えるか? 
                    「それでいい」と思えるか?

  マインドフルネスのもとでよく観てみよう。
  あなたが感じようとしている
「気持ちいい」 は、 承認欲求に基づくものか
    それとも 自然な 本心からの欲求なのか

  自己受容できているなら
  あなたを動かしているものは 
                                自然な欲求だけだ



浦崎雅代さんのブログ(note)
タイの空に見守られて」の2018年12月31日の記事から引用
お話は、タイ スカトー寺の副住職のスティサート師


スティサート師の課題の分離
。。。。。。。。。。

Cさん:
瞑想とはちょっと違う かもしれないのですが、
自分が一番苦しくなるときというのは、
人から辛い経験を聞いたりすると、
        自分まですぐ苦しくなっちゃうんです。

すぐに感情移入してしまうような感じで。
自分にはその辛い経験は起こってないのに、
                                苦しかったりします。

そういうときはどうすればいいのでしょうか? 
いろんな相談事とかされるんですが、
自分と他人をどんなふうに分けて
【課題を分離して】いけばいいのでしょうか?

スティサート師:
よく、 その時の 自分の心を観てみましょう
どういう理由で 自分が苦しくなっているか? 
                                        ということを。

他人の苦しみを、聞きたくないから?
自分がどうしてあげたらいいのか、
                           わからないから?
その人が良くなってほしいのに、
                     そうならならいから?

あるいは他にもあるかもしれませんが、
                                 どちらですか?

Cさん:
その人の話を聞いて、
「自分はそうはなりたくない」  
「自分がそうなったら、どうしよう」
   という気持ちが生じて苦しくなります。 

例えば、
その人が交通事故にあって大変だ
                               という話を聞くと、
自分がもしそうなったら、
                      どうしたらいいんだろう?
        と考えて苦しくなってしまうんです。

ス師:
なるほど。そういう理由なんですね。
でしたら、「今ここにいる」という 
この気づきの瞑想のトレーニングをして
いくことは とても役に立つと思いますよ。

「自分がそうなったらどうしよう?」
    というのは未来の話であるわけですね。
まだ どうもなってないわけです、今は。
       それは思考であって、真実ではない。

思考【妄想】である、
              ことに気づけばいいわけですよ。
思考がパッと起こってきたら、
「あ、今心配な気持ちが生じてきた」と
                    気づきを間に合わせていく。

多くの人が、
自分がすごい疲れている時に、
                        他人から相談事をされて、
「あー、もう聞くのに疲れた。
                                    聞きたくなーい」
      という気持ちが生じてきたりしますね。
  
あるいは、
      相談事をされて助けてあげたいけれど、
どうやって手助けしてあげられるかが
         わからない、ということもあります。

また、精一杯手助けしたけれども、
相手が一向に良くならない、
                   そういうこともありますしね。

他人を助けながら
          自分自分が苦しんでしまっている、、
そういう時、私たちは
他人のケアはしていても 
           自分のケアをしていない時なのです。
自分に気づきを持ってケアをしていないと、
                    苦しくなってしまうわけです。

実際のところ、
自分が疲れてしまうというのは、
    悪いことではないん【当たり前のこと】ですね。
私たちは疲れない状態になるか、
                ならないかは選べないわけです。
【疲れるのは「苦」だが、 それは仕方ない】

誰が誰とどんな関係性を持っているかは、
                         それぞれ違いますよね? 
関係性によって 優先順序がありますよね?

例えば、ファーさん(浦崎のこと)
                                 だったらとしたら、
お子さんのケアで
とても疲れている時もあるかもしれません。  

そんな時に さらに誰かから相談ごとをされ、
疲れて聞きたくない、
                         という気持ちが生じても、
なんら悪いことではありません。

大事なのは
「あ、 いま疲れが生じて 
             聞きたくないと感じているな」 と、
                気づきが間に合うことなんです。
【それに気づけば、「いま疲れているので 
   相談は あとからにして下さい」と言える】
そうやって、
自分自身の心を まずケアしていくことです。

私も、私自身を観察してみた時に、
私はとても人助けをするのが好きですが、
精一杯やっても 
            相手がちっとも良くならないと、
            自分自身が苦しんでしまう、、、
以前は、そんなことがよくありました。

でも 気づきを高める練習を始めてから
                                    変わりました。
私は 私にできる精一杯のこと
         【自分の課題】をさせてもらった。
相手が良くなるか、そうならないか。
それは相手の話【相手の課題】だから、
       結果【相手の課題】は置いておこう。
自分は 自分のお役目【自分の課題】
                   果たすことに努めていこう

そういうふうに、
心を置く【捨:課題を分離する
                       練習をするようになって
苦しまずに
     人助けができるようになってきました

自分が 一生懸命手助けしたのに、 
相手は 一向に良くならない。  自分は 苦しい
だから もう一切何も手助け できない
                                     あるいは しない
あるいは、 別にも やってあげられない

そんな態度になることは、
                    法(タンマ)ではありません。

手助けした結果  相手が どうあろうと
                自分が できることをやっていく
                結果を置いておく、 ということ。



  参考


(最終改訂:2023年9月4日)