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学校教育の問題点
社会にとって都合のよい人間を作りだす
ことが、学校(公的な)教育の目的
(そして、 現代日本における社会とは
資本主義経済社会のことである)
① 賞罰教育におちいりやすい
→ 社会にとって有益な
思考・言動によって褒められる ことを望み
社会にとって有害な
思考・言動によって罰せられる ことを嫌う
無意識的な「承認欲求」が形成される。
(賞罰教育は、承認欲求発生の誘導し 育む)
無条件の 「愛」 を知らない人間は、
「愛」 の代替手段として 「承認欲求」 を育む。
「無条件の愛」 の中で育った人間は
「愛する」 ことに喜びを見いだすが、
承認欲求が大きくなってしまった人間は、
愛する代わりに 愛され(認められ)たくて
(愛とは違う形で) 社会に役立とうとする。
「愛する」 ことは
本来の自分:座 の欲求であるが、
承認欲求に基づく 愛されるための社会貢献は
五蘊の識である自我:エゴ の欲求である。
そして
社会に役立つ「承認欲求」の強い人間は、
社会的に成功し
社会的に有利な地位に就く可能性が高いが、
だからといって、「幸せ」なわけではない。
「承認欲求」の強い人間は、
自分が社会にどれだけ貢献したかによって
自分自身を評価し、
それが「幸せ」の条件になっている。
それゆえに、他者の役に立つタップことが
自らの存在意義になっていたり、
社会的に「立派な業績」をあげることが
自らの存在意義になっている。
(無条件の愛を知って・実現できていたなら、
そんなものは不要なのに…)
それ故に いつの間にか、本来
自分を生かしている 自然に湧き上がる
「いのちのエネルギータップ」を見失い、
自分が 役に立たなくなった途端に
自らの「存在意義」を失い、
「生きる意欲」をなくしてしまう。
「存在意義」 という非リアルなもの(意味)が、
「生きる」 支えになってしまっていたのだ。
あなたが 誰かの役に立ちたいと思うとき、
それは「愛されたくて」 そうしたいのか、
それとも 「愛したくて」 そうしたいのか?
この世の中には、
無条件の愛を知らない人がとても多い。
賞罰のもととなる 評価・試験の存在が大きい
② 試験での評価で 生徒が序列化され、
比較・競争・劣等/優越感が生まれる。
→ その結果、 序列に基づく「縦の関係」 が
無意識レベルに 強固に 形成されてしまい、
社会の 標準的なあり方である と信じ込む。
③ 試験には 正解がある
→ 人生・生き方にも 唯一の正解があり、
こうでなくてはダメ という錯覚が発生する。
③’その正解は 一つしかない
→ 多様な意見や見方・考え方がある
ことに気づかない。
あれか or これか どっちか? という
正/誤・善/悪・優/劣の
二元論的な考え方ばかりが強調される。
④ 試験には 満点がある
→ 完璧を目指す
(まだ ダメという)減点主義的発想の確立。
⑤ 試験では 部分(要素)だけが問われる
→ 部分であるから評価が可能で、
一つだけの正解による満点がある。
→ 全体にこそ 本当の意味があるのに、
試験の答えは「部分最適」でしかない。
【全体はこうだと 言葉で答えることはできず、
全体は 心の中(の座)でしか
感じとることができない。
そして、その 「感じ方」 を
評価することなど 出来はしない】
⑥ 試験では言葉・論理の正しさが評価される
→ 思考【想】に対する 絶対的価値観の成立。
⑦ 試験は 一発勝負のことが多く
失敗が許されない
→ 人生でも 失敗が許されず、
やり直しがきかないと思い込んでしまう。
→ 人生に対して 臆病になってしまう。
⇨ これらのため、一般的な
学校教育の価値観に
過剰適応すると、幸せになれない。
以上、
学校教育における 試験の存在による弊害
をおもに述べたが、
家庭教育においても
同様の価値観が強制されることがある。
特に、この価値観を身につけて
社会的成功をおさめた家庭において顕著だ。
だが 学校教育的な能力が不十分であったり
その価値観と違う価値観 を持っている場合、
その価値観や期待に ついて行けずに脱落し、
イジメられたり 引きこもることさえもある。
学校教育において評価されるものは
「学力」 と呼ばれる
筆記試験での得点能力だけであり、それは
人間の多様な能力の中の ごく一部に過ぎない。
さらに、
高い学力のことを 頭がいいということも多いが、
学力は 頭のよさの ごく一部に過ぎないものだ。
それもこれも、 学力という能力を有することが
「現代資本主義社会」 において
有利であるからだが、
それは かならずしも
「幸せ」 につながるとは限らない。
というか
返って 「本当の幸せ」 を遠ざけてしまう。
「金持ちが 天国に入るのは、
駱駝が 針の穴を通るより難しい」
「資本主義」 の原理は 成長し続けることであり、
「現状のありのまま」 ではダメということであり、
それは、 「今よりも もっと」 「もっともっと」
「他者よりも もっと」 という心性につながる。
「ありのまま」 がダメなら
「幸せ」 を感じるのは難しいだろう。
「もっともっと」 という根源的な自我の本性
を利用した経済システムが 資本主義である。
この 自我の特性を利用した資本主義経済は
驚異的な発展を遂げ、
人類に 計り知れない
「物質的な富」 をもたらすことになった。
資本主義社会的な心性を身につけることは
生きていくためには 「必要」 であるものの、
この心性 「だけ」 で生きていては
幸せに出会えず、
いつまでも 「天の国」 に入ることはできない。
⑧ 学校教師の 多くは
学校教育の価値観における勝者であり、
その価値観の伝道者となる傾向がある。
→ 承認欲求的価値観が再生産され 循環する。
(もちろん、そうでない教師も存在するが)
⑨ 学校教育のほとんどは 未来志向である
→ 「いまここ」の大切さ、
「いまここ」こそが真実であることを
学ぶことができない。
→ ばかりでなく、
「いまここ」を軽視し
「いまここ」の否定にもつながりかねない。
【 「いまここ」 とは beingであり feelingのこと】
教育とは 単に知識を教え込むだけでなく、
社会性・文化・常識・価値観や 世界観を
身につけさせることでもある。
それを 洗脳と呼ぶこともできるだろう。
修行とは、
ダルマの学びと実践を通して
その洗脳内容を諦あきらかにし、
それを 相対化し、
そこから 自由になり、
それを 自在に使いこなす
ためのもの(脱洗脳)だ。
(最終改訂:2023年8月12日)