私の縁起論 | やすみやすみの「色即是空即是色」

やすみやすみの「色即是空即是色」

「仏教の空と 非二元と 岸見アドラー学の現実世界の生き方」の三つを なんとか統合して、真理に近づきたい・語りたいと思って記事を書き始めた。
「色即是空即是色」という造語に、「非二元(空)の視点を持って 二元(色)の現実世界を生きていく」という意味を込めた。

  私の縁起論  (縁起という見方)


[四聖諦]
  まず自分の中にある「(苦悩)」を認めることが、幸せへの道のスタート地点であり、仏教の始まりであった。苦悩には原因()があり、正しい(適切な)八つの修行である「」を行えば(マインドフルな生き方をすれば)原因を消し去り、その結果として苦悩をなくす()ことができる。

苦と行と苦悩の「勝義諦」』という記事の中で、この原因(集)(サンカーラ)」であり行とはリアルな現実の「苦という受」を否定しようとして 人類が発展させてきた非リアルの(概念化によって対応してきた)逃避システムであることを考察した。

  ブッダは、この「集」 を  「十二縁起」という形で説明している。しかし 今まで私が見聞きしてきた十二縁起の説明は ほとんど意味不明で、ごく一部しか理解できなかった。
  そこで 今までの考察をもとに まったく自己流に、十二縁起の解説を試みてみようと思った。


1)  無明 → 2) → 3) → 4)名色 → 5)六入 → 6) → 7) → 8) → 9) → 10) → 11) → 12)老死 憂悲苦悩


1)無明
  無明とは、知らないことである。
  何を知らないのか? 
  真理(法)を知らないのである。
  真理とは何か? 
  真理とはあるがままのことであり、
  三相(無常・苦・無我)のことである。

無常:この世のことは すべて変化し、生じては 滅し 移ろう。永遠には 続かない。
  あなたも わたしも、永遠には続かない。
:この世に生きている限り、苦/不快は楽/快と同様に必然であり、避けがたい。
  あなたも わたしも、苦から逃れられない。
無我:苦を避けるために何かを行う主体(わたし)は本来存在せず、幻想である。
  苦を避けようとする あなたも わたしも、機能に過ぎず、実体ではない。

  上記三つの当たり前のことを知らないことが無明である。
  一言でいうなら、
「自分がなにものであるのか」を知らないこと、
自分はなにものでもないということを知らないこと
無明である。

  そして、
  五蘊   [・・・想→行→識]
  十二縁起   [無明→行→識]という形に注目すれば、十二縁起の「無明、五蘊の「と同じものであることが分かる。


2)サンカーラ 
  すべての生きものは、外界の情報に反応しながら生きている。外界の環境が生存に有利であれば楽/快と感じ、そちらへ向かう。逆に生存に不利であれば苦/不快と感じ、そこから逃げる。
  この快に向かい 不快を避ける働き(機能)が、人類によって強化されたものが「行(渇)」である。
  さらに リアルな感覚である快/不快を、人類特有の能力(思考)によって非リアルな善/悪という概念に変換し、これをどこまでも追求/否定しようとする欲求も「行()」である。

  この行は、鳥の翼・象の長い鼻のように、生物としての人間が サバイバルのために獲得した機能である。
  他の生物はみな、形態(自らの身体)を変化させることにより得た能力を、人類は 心の中を変化させることで 急速にそれを成し遂げた。
  ネアンデルタール人は滅びたのに、ホモ・サピエンスが生き残り 大繁栄を遂げたのは、その「行」の能力ゆえである。

は避けがたいことなのに
  それを無視して【無明】 
  生存を永続させようと
無常の真理に逆らっている【無明】
  のが、「の在り方なのである。


3)
  苦を避けるために何かを行おうとする欲求である「行」には、それを欲求する主体(主語)が必要であった。そのため、そして その欲求をさらに強化するために、あたかも 誰かが欲求しているかのように、「わたし(識)」という 架空の主体がでっち上げられた

  無明によって発生した行がわたしを必要とし、「わたしを生みだしたのだ。
が単なる機能であったのと同じく、「わたし)」も機能であり、「行」を効率よく作動させるための 非リアルな概念(虚構)に過ぎない。

(我)」は機能であり実体のあるものではない【無我】ということを知らないことが 無明である とも言える。
  無明ゆえにわたしを創りだし、「わたしが一体化して 苦しんでいる


4)名色
「行」 と 「識」は、五蘊を構成する要素でもあった。
  五蘊という用語では、
  体(色・受)と心(想・行)をまとめ上げて 一つの概念としたものが「識」と呼ばれる「わたし」である。

  一方 名色という言葉を使えば、
  (色・受)は 名色の「」のことであり、
  (想・行)は 名色の「」のことである。

  だから「名色」とは、3の 「識」の内容を説明していて、十二縁起では 3の 「識」 と 4の 「名色」という言葉を使って、五蘊の内容と同じものを表現していることになる。

    五蘊   [色・受・想・行・識]
    十二縁起[識・名色]五蘊と逆の並びになっている


5)六入
  六入は六根・六処とも言い、「六境(色声香味触法)」という感覚を生みだす 六つの感覚器官のことである。
  仏教では、
  色(体)の感覚器官である「眼耳鼻舌身」が外部の情報を「色声香味触」という感覚に変え、
  名(心)の感覚器官である「意」が「法」という感覚(雑念・思考・感情・観念・信念など)を生みだす
と、「意と法」という言葉を使って ちょっと変わった説明の仕方をしている。

  リアルな存在である六入(意だけは、初めから非リアルな法を生じさせる)、非リアルである「苦悩」を引き起こすスタート地点となる。
  または、「意」という感覚器官はリアルな存在ではないので、最初から 非リアルな「苦悩」スタート地点となることもある(十二縁起の始めの 1 2 3 が、これに相当する)


6)
  六入(という感覚器官)が、外部(環境)または内部(心)の刺激に「触れて反応することで、六境という感覚が生まれる。
  六入は、「を契機として 六境を生じさせる


7)
  六入が「触」を契機として生じさせた六境にはかならず 快または不快(楽または苦)または 不苦不楽の 二次的な感覚(受)が付随する


8)
  この受に対して 2 の「行」の項で述べたごとく、すべての生きものは 生存に有利な楽/快へ向かい、逆に 生存に不利な苦/不快から逃げようとする。
  この/不快を 追求/否定しようとする 原初の一次的な)反応(渇)である。
  いつも楽しい人生がいい・欲しい、というのが「愛」という行である。


9)
  上記の
  一次的な(リアルな)快/不快の感覚(受)を、
  二次的に(非リアルな)善/悪・正/邪などの概念(想)に変換し(想) 
  それらで構成された意見見解イデオロギーなど(想)に強く執着する二次的な反応」である。
  8 → 9 において、リアルから非リアルへの変換(想)が行われている。

  すなわち 5 から 9 までで、2 と同じ「行」の発生について、リアルなスタート地点からの順序の解説となっている。
「愛」 または 「取」は、「行」の より具体的な内容である。

五蘊      [   色   →   受 →(想)→行]
十二縁起[六入→触→受     →    愛/取]

  わたしたちは、「六入」という感覚器官から入ってくる外部の「快の刺激」が満たされることが幸福であると勘違いして、それを追いかけている【渇
  もしくは、始めから内部に発生した「法という正義の概念のようなもの」に付随する「快の感覚」が満たされることが幸福であると勘違いしている【取】

  この「幸福」 は 「無常」であり、永遠に続くことはない。だからそれが失われたとき、それを「不幸」であり「苦悩であると感じてしまうがそれもまた 勘違いに過ぎない。
 わたしたちは、勘違いの人生を送っているようだ。


10)  
  そして ここでやっと、「行(愛・取)」が発生する原因(背景要素)として、初めて「有(生存)」に言及される。

  人類の(わたしの)サバイバル(生存)戦略として

  まず 一次的なが生まれ

  さらに この社会を生き延びるために
  概念化(思考によるストーリーの構築:無明)という方法を選択し
  それを強化するために
  二次的にを築き上げ
  それに強く執着することになったのだ。


11)  
12)  老死 憂悲苦悩
  11 と 12 は、分けて考える必要はないだろう。つまり、合わせて生老病死を代表とする「苦悩」を表している。生老病死と比べると、「病」が抜けていて、「憂・悲・苦・悩」がくっついているが、言わんとすることは「苦悩」のことだろう。
  つまり サバイバルのために生みだされた大元(おおもと)となって、生老死という(苦でなく)「苦悩が生じる
「生きる」こと自体 苦悩(憂悲苦悩)であるが、「生まれる」ことが必然的に「老死」につながる。それが、11 と 12 に分けた理由であろう。
  この時点での 11 12 の この解釈は間違っていてそれについては 後で書いた十二縁起から五縁起へというブログ記事の追記の中で訂正しているので確認して下さい

  今までの記事で考察してきたことに整合するように、勝手に 十二縁起を解釈してみた。今までに見聞きしてきたものと比べると、かなり強引な説明になっている。でも自分には、この説明がとてもよく納得できる。
  1 から順に 一つずつ 次の項目が発生するという(因果関係の)前提を崩して 柔軟に考えることで、十二縁起が やっとスッキリと分かった気がする。


再び無明
  無明とは
  三相(無常無我)という あたり前のこと(真理:ダルマ)を知らないことである、
  と先に述べた。
  でも 別の説明もできるだろう。


  無明とは
  三相を知らないだけでなく、
  本当には知ることができない
  ということを知らないことでもある

「想」と同じものである「無明
  リアルな苦楽(快不快)の「受」を
  非リアルな(善悪などの)「概念」に変換し、
  本来 意味を持たない非二元(ワンネス)の現実に
  対になる概念(言葉)を付与して二元化し
  意味のない現実を 意味づけている

  意味づけることで価値を与え
  ストーリーを創りあげ
  世界を理解したつもりになっている

  それ以外のやり方で、脳は世界を理解することはできない。

  思考というフィルターを通して
  価値判断をしながら
  ストーリーを創って
わたしという限定された感覚を介してしか
  世界と自分を理解することはできない

  したがってその理解は
  仮のものであり、
  限定されていて、
  一時的なものであり、
思い込みに過ぎない

  すなわち、
  言葉による理解とは 妄想(虚構)である

  だからわたしたちは、ありのままの現実を
  決して理解すること、知ることはできない
  全体を全体のまま、理解することはできない。

「世界と自分のあるがまま」は、
  ダイレクトに・直感によって 感じることしかできない

  わたしたちは 本当には知ることができない
  ということを知らないことが 無明である。


  現実の世界を、
  善悪などという 対になる概念で二分・分割(分析)したのち、
  細切れにされた要素を 様々な方法で再構成し、
  意味のある結論(ストーリー)を導き出すのが
  思考のやっていること。

  そこで得られた結論は「仮のもの」に過ぎないのに、
「分かった」つもりになってしまう。
  限定された状況(部分)での傾向を、
  普遍的な真理(全体)であると
  思い違えてしまう。

  このやり方(思考)では、けっして
  全体としての普遍的な真理に到達することはできない。
  つまり 本当の意味で、
  世界と自分を「知る」ことはできない。

  わたしたちは 
  仮に知ったつもり になっているだけで、
  実は なにも分かっていない。
無明とは
  なにも知らないということを 知らないことである
  とかくエゴ(識)は知りたがり解釈せずにはいられない


知ることはできず
感じることしかできない
  しかし 感じたことに対しては、
  それが適切か否かを証明する手立てがない。
  でも そもそも、
「適切も否も」あり得ないのではないか? 
  感じたことは、そのままで ありのままだ。
わたしがそう感じた
  ということだけが事実(現実)だ。
  世界とは、その集積に過ぎないのではないか?   
  エゴが証明にこだわっているだけだろう。

「感じる」とき、素直に感じているか? 
「行」の影響を受けて「識」が感じているのではないか? 
  感じているわたしとは 誰なのか
  そこに十二分に注意して、あとは 
  感じる力である 自分自身の感性を信じるしかないだろう。
  ここでいう「感性」とは、
  五蘊の「感性」ではなく、心の座感性」である。
「識(エゴ)」が 感じるのではなく
心の座 観ながら 感じているのである
  同じ「感じる」という言葉でも、
「識が感じる」のと「座が感じる」のでは
  まったく違う意味になる
  識が感じる対象は「行」に付随するものであり、
  座が感じるというのは「観る」機能のことである。

  確実には知り得ない ということを知っていて、
  なにが正しいのかを知るものは誰もいない ことを知っていて、
  知らないことに寛いでいられれば
  物事を断定することがなくなり、 
  いつでも可能性(夢・希望)が残されていることが分かり、
  そこに平穏を見いだすことができる。

  これが、思い込みに基づく「行である」の魔力から自由になる 一つの在り方であろう。


  無明とは、
  リアルな現実を 非リアルな「想(概念)」に変換することで、
  知ったつもりになってしまうこと である。

  その結果 人類は「知性」を あがめ奉り、「感性」を 貶めることになってしまった。

  人類最大の サバイバルのための武器(知性)
「苦悩」を生みだす原因(無明でもあったのだ。

  知性は無明で(も)ある


  ブッダの縁起論を、因果論としてとらえる向きがある。
  因果応報という言葉もあるし、「これあれば、かれあり。これなければ、かれなし」という有名な言葉は、まさに 因果の説明であるように思える。しかし だからと言って、縁起を因果と同じものであると捉えるのは 危険な間違いだと思う。

  因果、原因と結果の一対一の関係のことである。
  Aという出来事によって Bという出来事が生じたとき、AがBの原因である というのが因果(の理)であり、これは非常に単純で(エゴ)には分かりやすい話だ。
  因果は単純な非リアル世界の関係を示す

  この世には、そんなこともあるかも知れない。たしかに、因果関係といえる出来事もあるだろう。しかし それがあったとしても、それはリアルな世界の ごく一部でしかないだろう。
  現実の世界は複雑であり、一対一の単純な関係などほとんど見当たらない
  それがあるように思うのは、よく観ようとしていないからだ。安直に世界を理解したいと思っているから、理解できると思っているからだ。
  因縁は複雑なリアル世界の関係を示す


  一般的には、AとBの二つの出来事があってAがBの原因と思われるとき、Bの原因となる要素はAだけに留まらず、本当は数限りなく沢山の要素が存在している。
  その気になれば その沢山の要素を見つけて言語化し、列記することもできるだろう。一方、隠れたまま 理解の光に照らされることのない要素も、また数限りないだろう。そして それらの数限りない要素もまた、無数の他の要素の影響を受けている。 
  そのようにして 世界は限りなく延々と果てることなく繋がっているたった一つのものである。空間的にも時間的にも繋がっている、網の目のようなネットワークである。そして その網の目の形を変えながら、絶えず変化して 流れていく

  現実は そのようになっている、というのがブッダの世界理解であり、それを 縁起と呼ぶのだろう。
  因縁の因とは その中の中核的要素(直接的原因)であり、因縁の縁とは その他の周辺要素(条件)という意味であるが、多くの場合 なにが因でなにが縁かも分からないだろう。
  その因縁のネットワークの結節点に現れるのがわたしでありあなたでありさまざまな状況である。焦点を結び 結生したかと思うと、あっという間に形を変え、点がほどけ、また 別の場所に結生するだろう。
  縁によって起こる【縁起】とは、そのことである。縁によって起き、そして 消えていく。
  その延々の繰り返しが世界である
  そのようにして世界は続いていく


  一方 因果関係は分かりやすい。人間の「知」がもっとも好む論理だろう。エゴが分かりやすさを求めている
  因果関係とは、複雑な縁起の世界から 分かりやすいたった一つの関係を抽出した、非リアルな論理である

  たとえば A・B二つのパラメータが存在し、正の相関でともに変化するとき、人は容易に 一方を原因にし、他方を結果としてしまう。だが ひょっとしたら、その因果関係は 逆かも知れないし、別の原因による 異なる二つの結果であるかも知れない。また、たまたま相関があるように見えただけで、実は なんの関係もないのかも知れない。
  それなのにまあ、なんと安易に因果関係があると断定されていることか。それが 世の常のようである。

  だから、因果関係には 注意しなくてはならない。ほとんどの場合、知らないということに寛ぐことのできないエゴが、知りたがり解釈せずにはいられず、習慣的に 無理やり 因果関係をでっち上げている

  普段の人々の会話を、ちょっと注意して聞いてみるといい。「こうだから、ああなった」という 安易な因果関係の話で溢れかえっているのに気づくだろう。
  自分たちは 因果ではなく 因縁というリアルな関係にある複雑な縁起のネットワークの中に生きているのだ ということを意識している人が、一体どれほどいるだろうか?


  そして 全体を構成する関連の中にある、個々の要素の重要性を 相互に比較することもできない。
  そもそも縁起というネットワークの中では、その存在の重要性を評価すること自体が不可能であり評価なきところには 比較も競争も成り立たないのだ。
  評価も また、たった一つの基準という(因果関係が成り立つのと同様な)直線的・単純な世界でしか成り立たない。


  本当のところ、現象としての世界の在り様は とてつもなく複雑である。
  脳(想)その複雑さをそのまま(ありのまま)では理解できず分割し 単純化して理解している。したがって わたしたちの理解とは、分離され限定された 単純な状況下での「仮の理解」にしか過ぎない。

  わたしたちが知り得るのは、この巨大で複雑怪奇なネットワークの網の目の、限定され 分離された ごく一部の経路であり、繋がりのいくつかのパターンに過ぎないものである。
  その ほんの一部の理解が 人類の大繁栄をもたらしたのは事実であるが、だからと言って それに執着してはならない。わたしたちが執着し 手放せないものは、まさにその繁栄を支えているものなのだ。

  現代社会は ずいぶんと複雑なことを知っているように見えるが、これは「単純な仮の理解の 複雑な組み合わせ」に過ぎない。
  その「組み合わせの複雑さ」を増すことで、一見 現実に近づいているように見えるが、結局のところ、最終的には ネットワーク全体である現実の真の姿にたどり着くことはできない。
  理解できることに執着することで、その組み合わせの複雑さを増し、そして その複雑さに絡めとられ、人類は ますます「苦悩を深めているのではないか? 
「思考」の複雑さは、なにかを隠す(逃避・抑圧する)のに丁度いい。

  証明ができなくとも、
  全体を感じる感性を大切にして、
  その「感じる」ということを
  もっと重視すべきではないのか?

  現象としての世界は複雑だが
  その原理は驚くほどシンプルである
思考」を形成する組み合わせの複雑さ
  世界を複雑に見せかけているだけだ。
  感じることは シンプルである。
思考を取り払えば 世界はシンプルになる

  そのシンプルさを、
  社会に持ち込めないものだろうか?


  ブッダの説く縁起論とは、因果論のようなものではないだろう。
  なにか一つの出来事が起こるとき、その状況を生みだしたものは無数に存在する。状況に影響を与える因子は、数限りない。そして それは、人間の理解と支配のおよぶところではないだろう。

「わたしがこうしたから、こうなった」と 人はよく言うが、「わたしのしたこと」 は 「こうなった」結果のほんの一部でしかない。因なのか 縁なのかも分からない。
わたしが状況をコントロールしたわけではない。「わたし」 は「こうなった」 という結節点に関連する、無数の要素の一つに過ぎない。その中で、重要である要素はこれであり、他の要素は重要でない、などとも言えない。

  だから、「わたしのせいでこうなってしまったなどと悩む必要もない

ものごとは私の意志と関係なく勝手に自然に起きている」というのは、このことである。
  しかし、勝手に起きているのだから 自分はなにもしなくていい、というワケではない。
  わたしもネットワークの一員でありわたしは自分が 今すべき今できることを因縁の流れを意識しつつ行なう【無為】のである。それがわたしの「Doing」である。

  この場合、
  それが「わたし」の行為であっても、
  それは しっかりと縁起の流れの中に位置づけられているので、
  それは「わたし「行(サンカーラ) 」によって行った【有為】のではなく
大いなるものが わたしの手を通して行ったのだ、
  と表現してもいいだろう。

  やはり、「わたしのせいでこうなってしまった」などと悩むことはないのだ。
  結果は気にしなくていい
  結果もまた、縁起の因縁の結節点に現れた「或る表現」に過ぎない。
わたしその結果の原因となっているわけではない
  結果に対して 責任は持てないし、持つ必要もない。


  そのことが分かれば、つまりブッダの縁起」 ・ティクナットハンのinterbeing」を理解できれば、「わたし」や「わたしの行為」は限定的であり、全体の一部でしかないことを知ることができる。
「わたし」 が 「行」の力で「なにかを為した」のではなかった。
  それに気づけば、自分が他のみんなと同じ ただ(普通)の人であることが分かり、「生かされているという感覚とともに、「感謝の念」 と 謙虚さが必然的に湧き上がるだろう。

  人間社会における「分業」も、アリやハチなどの昆虫社会での役割分担も、縁起(ネットワーク)の一つの表現形である。それぞれの個体は、全体のなかで必要とされる役割の一端をになっているだけで、その役割に意味の違いや 貴/賎などという比較は成り立たない

  アドラーが「人間の悩みも幸せも、ともに対人関係のなかにある」と言ったことのベースには、縁起(interbeing)という法(ダルマ)の理解があっただろう。
「愛する」ことがなぜ重要なのか? 
  それは、「こそが 縁起interbeingを体現する唯一の在り方だからだろう。
  縁起を体現するものが「愛」であり、「癒し」である。
  そうであれば、アドラーの語る共同体が 単に人間集団に留まらず、この世の存在すべてにおよぶのは、当然のことだろう。わたしたちは他者の存在なしで 生きていくことができないのと同じように、わたしたちを生かしてくれる環境なしで 生きていくことはできないのだから。


  わたしたちは絶えず、他者と 他の存在から影響を受け、同時に 他者と他の存在に影響を与えている。
  それがネットワークの姿であり、ネットワークとは 一方的でない相互作用である。わたしたちは 互いに影響を及ぼしあって、刻々と姿を変え、生まれて死ぬのを 繰り返している。

  そして いつか、わたしの身体(からだ)は本当に死んで、わたしというネットワークは より大きなネットワークである「大いなるもの」の中で 永遠に消滅してしまうのだが、わたしが生きている間に与えた影響は、より大きなネットワーク(大いなるもの)の中に残り続ける。
  そして、わたしの影響を受けたネットワークの要素は、また別の要素に影響を与え、さらに その要素は 別の要素に影響を与え、その影響の連鎖は 果てることなく、空間と時間を超えて 永遠に続いていく。
  これがネットワークの在り様であり、「わたし(の体)が死んでもわたしは死なない」というのは、このことである。肉体が滅んでも なくなることのないわたしの いのち(ネットワーク)」とは、このことである。
  このネットワークを編んでいる網(関係)の線は、愛の関係という太い綱であったり、交友の関係という紐であったり、仕事の関係という糸のこともあるだろう。網の目の線の太さは様々である。そして、その線が繋がっている期間の長さもまた、様々であろう。
  そのようにして わたしたちは、家族や友人や同僚だけでなく、生きている間に関わるすべての人々と すべての存在を介して、全体のネットワークに関与している。
生きているということは、すなわち「関与(関係)しているということである。「孤立している」というのは、妄想(マーヤー)に過ぎない。孤立している・分離しているということも、孤立する・分離するということも、本来あり得ない。
  あるがままのリアルは ネットワーク(つながり・関係性)であり、その全体像を大いなるものと呼ぶ
  わたしたちは、そのことを確認するためにつながりを求めて生きている

  そのように世界を観ることができれば、もう「死」は恐ろしいものではなくなるのではないか? 
という苦悩から解放されるのではないか?
を超えるのではないか?


  人間の身体において、脳が他のすべての臓器・組織・細胞を支配・コントロールしているのだろうか? 
  脳がわたしだろうか? 
  脳死移植という技術は、実はそのような思想・世界観(脳の死はわたしの死である)に支えられているのだが、
  そうではなく、
  脳に限らずすべての臓器が 他の臓器に影響をおよぼすメッセージ物質を分泌し、血流を介して結ばれていることがハッキリと科学的に証明されている。
  臓器同士が 互いに影響をおよぼしあっていることが 分かっている。

  しかも そのメッセージ物質は、同じものでありながら 周囲の状況に応じて、伝える情報の内容を変化させるという。まるで、同じ言葉で違う内容を伝える(または、違う言葉で同じ内容を伝える)ブッダの対機説法のようだ。
  人体において脳という「わたし(主体)」がすべてを取り仕切りコントロールしているわけではなかった

  人体もまた 縁起システムに支えられていて、確固とした実体というよりは、刻々と姿を変えるネットワークの集合体であった
  そして その集合体は、内に膨大な要素を抱えるネットワークであると同時に、他の集合体とも密接かつ複雑に関わり、別のネットワークを構成していて、より大きなネットワーク体の一員(要素)でもあった。
  世界とわたしは、このように フラクタクルな構造を形成している。

  縁起とはいのちの在り方(存在形式)であるが、
  その縁起を一言でいうと、
多元的な ダイナミック(無常)で フラクタクルな ネットワーク」ということになるだろう。

  それがどうした と言われれば、どうという程のことでもないが、科学もまたストーリーであり、わたしたちは ストーリーなしにこの世を生きていくことはできない。


もう一度 十二縁起]
  十二縁起を、因果関係で説明するのが一般的であった。
  1)から 12)まで十二の要素を順に並べ、1)が 2)の原因で、その 2)がまた 3)の原因となり…と、12番目まで続く説明である。
  このように 前後の要素を厳密な因果関係で説明しようとしたから、従来の説明は 分かり難かったのではないだろうか。

  十二縁起とは、苦しみを生みだす要素を 単に12個 選び出しただけではないのか? 
  最初の「無明」と 最後の「老死」は因果関係にあるだろう。だから順観・逆観という言葉も成り立つ。しかし その途中の要素の関係にまで、厳密な因果関係を求めなくてよいのではないか? 
  十二縁起は苦悩が発生する過程を(因果ではなく、因縁関係である)縁起で説明したものであり、各要素は 複雑に影響しあって、一つ または複数の要素が 互いに因となり縁となり、絡みあっている。

  十二縁起のサマリーとして、以下のように 四つの要素でまとめることも可能だろう。
  1)有 → 2)無明 → 3)行 → 4)苦悩

(生存・サバイバル)」のために 人類はリアルな現実から一部を切り出して(分離させて)概念化し、そこで得られた単純な因果関係を 複雑な組み合わせによって再構築し、世界を「理解」したつもりになって、発展してきた。
  これは「知性によるサバイバル戦略」と言えるが、その単なる戦略を「絶対視」してしまい、それに囚われてしまった。これが「無明(知性の絶対化)」である。
  その「無明」が「」を生みだし、「行」が「苦悩」の原因となった。

  以上が 四縁起である。
  十二縁起より分かりやすいと思うが、いかがか? 
  十二個の要素というのは、長すぎないか? 
  脳がすんなり「理解」できるのは、四つくらいではないか?

「十二縁起「十二因果ではない。縁起と因果は違う。
(因果とは違う)因縁の考え方を用いて、この記事の最初で十二縁起を説明してみた。というか、因果でなく因縁を用いることなしに、自分が十二縁起を理解することはできなかった。

  間違っているのかも知れない。
  でも、そんなことはどうでもいい。
  わたしはそう感じたのだ。
  これは頭で考えたことではなく、
  自分が感じたことを そのまま言葉にしてみただけのことだ。


  縁起論とは、
  反知性論(または知性限界論)であり、
  無明(知らないことを知らない)の解説でもある。



(最終改訂:2021年4月19日)