(【 】内は、やすみやすみのコメント)
カンポンさんの説法 「目覚めて、知る」
:夫婦は苦楽を共にすべきである、 は誤り
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一組の夫婦がいるとしましょう。するとね、よく「夫婦は苦楽を共にすべき」と言いますね。それは、パートナーが苦しんでいたら私も一緒に苦しむ。パートナーが幸せであったら私も一緒に幸せになる。そういうことですね。
【課題が分離されていない】
でも、そんなふうに考えてはなりません。パートナーが幸せであったら私も一緒に幸せになる。これはいいですよ。
でもパートナーが苦しんでいたら、私はあなたと一緒になって苦しみません。でも、私はあなたの苦しみが減るように手助けします。
【わたしは、あなたを水飲み場まで連れて行ってあげる。でも水を飲むかどうか(自ら 「幸せ」 を見つけるかどうか)は、あなた次第だ】
修行者は こういう感じでいるようにしましょう。
どんな苦しみが相手に生じようが、修行者は自分も一緒になって苦しむことはない、こうした【課題が分離されている】姿勢でいることは 世間的なメリットがたくさんあります。
そして法(タンマ)的なメリットというのは、自分自身を知るということです。真理の法を知る、正しい道を歩むことができる、ということです。
そうして それが(わたしの)幸せを導くのです。
法に沿った幸せは、世間的な幸せよりもより繊細で丁寧です。
法に沿った幸せは、楽しみや刺激を探し求めなくとも、幸せになることができます。
世間的な幸せは、何かを見たり 聞いたりすることで、自分に刺激が得られたら幸せになる、そういったタイプの幸せです。
世間的な幸せはね、疲れます。そして何かと競争しなければなりません。
法に沿った幸せは、探し求める必要はありませんよ。もうこの自分自身にすでにあるのですから。ただ自分を感じる、自分を知るだけでいいんです。
思考が どんどん飾り立てられていくと、私たちは 苦しみにはまりこんでしまいますが、それらがもう、生じることはありません。
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浦崎感想
この話、カンポンさんはよく説法でお話されていて、初めて聞いた時に私は、目からウロコが落ちました。
相手が苦しんでいる時には、自分も一緒になって苦しまないといけない。。。【それが深く共感することだと】私はずーっとそんなふうに思っていました【勘違いしていた】
相手が幸せなら、自分も共に幸せを喜ぶ。
相手が苦しんでいるなら、自分は苦しまずに、相手の苦しみを減らす手助けをする。
この微妙な違い【課題の分離】を、感じ取っていただけますでしょうか?
相手の苦しみを 自分のことのように感じながらも、一緒になって苦しまない。ただ見守りつつ、良き働きかけをする。
この視点は、夫婦やパートナーシップの話だけではなく、親と子供、友人関係、ひいては社会的な問題【すべての人生のタスク】に対しても、言えるのではないかと思います。
共感するということが とても、大切にされていると思いますが、それは「一緒になって苦しみなさい」ということではないんですね。
【逆説的に聞こえるかも知れないが、共感するためには課題の分離が必要】
修行に取り組む私たちは、まず 自分自身の苦しみを減らし、その安らぎある心で苦しむ他者の苦しみを減らす関わりをする。
【慈悲の瞑想では、まず自分自身を慈しむ。ついで、その慈しみを他者に広げていく】
そのような姿勢が大切なのですね。
相手のためを思うならば、一緒になって苦しまない。先に自分の苦しみをまず、減らしていく。
心がけていきたいものですね!
【課題の分離ができるようになると、驚くほど優しくなれる!】
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やすみやすみの感想
今回のカンポンさんの説法は、アドラーの「課題の分離」というキーワードを理解するのに最適な話題だと思いました。
そして、仏教の「慈悲の瞑想」の背後に、この「課題の分離」という概念が潜んでいたことに気づかされた法話でした。
「夫婦やパートナーシップの話だけではなく、親と子供、友人関係、ひいては社会的な問題」という浦崎さんのコメントは、愛のタスク・交友のタスク・仕事のタスクと分けてアドラーが説明した「人生のタスク」のこと。人生のタスクに取り組むためにも「課題の分離」が必須であることが、あらためて理解できました。