そのままでいい:色即是空
「悟り」の問題を考えていくと、最後は
「そのままでいい」 のか
「そのままだとダメ」なのか
という言い方に収斂する のかも知れない。
様々な 多くの状況において、
「そのままでいい」 というのが
悟りの立場であるが、
「そのままでいい わけないじゃないか」
というのが
一般的な 素直で正直な態度だろう。
でも「いま」苦しい状況で、
それを何とかしたくて
「悟り」を求めているのに、
「そのままでいい」 と言われても
納得できないのが 当たり前だろう。
なぜ「そのままでいい」のか
ちゃんと 説明して欲しいものだ、
と あなたは思うだろう。
では、なぜ あなたは「いま」苦しいのか?
それは、あなたが
「良いもの・正しいもの」という
非リアルな思考に囚われ、
それを追いかけているのに
手に入れられないか、
「悪しきもの・間違ったもの」という
非リアルな思考に囚われ、
それを追い払おうとしているのに
なくならないからだろう。
ところで、
あなたにとっての「良いもの」とは何か?
よく考えてみよう。
それは あなたにとって、
追求するのが当然
と思われていることである。
あなたにとっての
「正義・理想・役立つこと」 である。
仕事をしていく上・生活していく上での
生きていく上での 「最も大切なこと・信念」
とも呼ばれるものである。
それを よく観てみると、
「好きなこと」 と 「正しいこと」 の二つ
に分かれる。
ただ
「好き」なことをしているとき(過程)は、
楽しい。 「快」を感じる。 苦しくない。
それは、あなたの 自然(リアル)な
心からの欲求の反映だからだろう。
過程(いま・ここ)を楽しんでいるだけで
他には どんな意味もない。
しかし、それを
「良いこと・正しいこと」と価値判断して、
そうでなくてはならない と思い込むと、
問題(苦悩)が生じる。
でも、その価値や意味は
単なる「思い込み」である。
「それ」が「囚われているもの」であり、
「それ」が 大事なら 大事なほど、
あなたの「苦悩」も より大きい。
価値判断し 意味を与えるのは、
思考の役目である。
まず、 よく考えてみよう。 あなたにとって
もっとも大切なもの・価値のあるもの・
譲れないものは何か?
自分が追求しているもの、
それが何かを 見つけることがスタートだ。
だが 見つけるのは 結構 難しい。
見つかったら、 次にまた よく考えてみよう。
それは 単に「好きなこと」か?
それとも、絶対に「正しいもの」か?
「それ」が「好きなこと」であり、
心からのリアルな欲求の反映であれば、
問題ない。
でも「それ」が、思考によって
「良い・正しい」と判断された
非リアルなものなら、要注意である。
それは多分、
一般的に 良きもの・大切なことであり、
多くの人が賛同するものだろう。
(そうでないこともあるが)
そして あなたにとっては 疑いもなく
「良い・正しい」と思えるものだろう。
どこからどう見ても、
良き(正しい)もの以外の何ものでもない
と感じているかも知れない。
それは「常識」だし、
「当たり前のこと」だ と思っているだろう。
それ故に、他者にとっても
同様に「正しい」 ことだと思っているハズだ。
自分が正しいと思うことは 普遍的であり、
他者にとっても正しいハズだと思っている。
でもそれが
思考によって判断されたものならば、
絶対的な「良きもの」であることは
あり得ない。
他者は 他者なりの 「考え方」 をするものだ。
思考による「良い」という判断は、
一時的・仮の・相対的な
そして「あなただけ に限定された」
非リアルな概念に過ぎない。
したがって、 ありのままの現実ではない。
本当は「良い」のではなく、
ただ「心地よい:快」のである。
あなたが、それを「好き」なだけだ。
そして多分、それが「得意」だろう。
「好き」は リアル :現実 だが、
「良い」は 非リアル:虚構 であることを
忘れてはならない。
一度 「正しい」 と思うことを(一切合切)
「疑ってみる」 ことが とても大切だ。
あなたの 「好き/嫌い」 が
みんなの 「好き/嫌い」 であるハズはなく、
ましてや その「好き/嫌い」 が
普遍的な 「良い/悪い」 であるハズはない。
「好き/嫌い」 という感覚(現実)を
「良い/悪い」 という意味(虚構)に
変換してしまってはいけない。
たとえば、考え方・言葉使い(言い方)
あなたが その考え方・言い回しが
「好き」で「得意」だとしても、
他者はまた 別の考え方をするものだし、
言葉の使い方も様々である。
どれが「良い」とか どれが「悪い」
ということは、言えないだろう。
考え方・言葉使いとは
思考そのものであり、
常に 分離され・限定的で・
一時的・相対的である。
そのような 思考された非リアルなものに
囚われてはいけない。
ただ「好き」なことを
しているとき(過程)は、楽しい。
でも それを絶対視し、
それに付随する「結果」を求めると、
それがついてこなかったとき、苦しい。
意見(見解・世界観)を言うのはいい
でも 自分の意見(考え方・言葉使い)
に賛同が得られなくとも、
気にする必要はない。
誤りがないかどうか、
常に 謙虚に見直そうとする態度を
持ち続けていればいい。
だから
結果を気にしない(同意を期待しない)で、
説明することを楽しめばいい。
どのみち、
結果をコントロールすることなど
できないのだから。
結果(同意するか どうか)は
他者の課題である。
けっして
無理に説得しようとしてはいけない。
それ(意見の表明:表現すること)は、
あなたの生きる経験に
素晴らしさをもたらし、
あなたに自信をもたらし、それによって
自分を受け入れることができるように
感じるさせてくれるものだろう。
自分の意見を持つことは とても大切だし、
それを 他者に向かって表現することも、
同じくらい 大切なことだ。
そして、 意見を述べ合い 他者と共感する
という「快の過程」を求めていい。だが
その意見は非リアルなものであることを、
忘れてはいけない。
「考え方」は
単なる「説明モデル」に過ぎない。
共感できなくて 「快」 が得られなくとも
やはり 意見を言い合うことは大切だ。
意見が合わないときの 課題の分離さえ
できていれば、意見は違っても
衝突して 「不快」 になることはない。
「意見」 が違っても、「そのままでいい」
リアルな「快」は、
本来 非リアルな「良い」ではない。
だから、賛成してくれるという
「良い結果」を求めなくていい。
求めてもいいが、
求めなくてはならないものではない。
「求めなくてはならない」
と思い込んでいることが、
「囚われている」ことであり、
それは サンカーラの発動である。
「囚われている」から、
それが手に入らないときに
苦しむことになる。
自分を受け入れられなくなる。
受け入れられないなら、
手放すこともできないだろう。
それが「結果」にこだわる、
ということである。
追求してもよい。
結果が手に入るなら、
さらに 気持ちよくなればいい。
でも それに執着してはいけない。
執着すれば、かならず破綻する。
いつも
かならず結果がついてくることなど
あり得ないのだから、かならず破綻する。
では 手に入らないとき、どうするのか?
そのときは ただ 不快を感じていればいい。
「そんなこともあるさ 残念」 と思えばいい。
大切なのは、何をどうしたか、 そのとき
ちゃんと 自分のできることを精一杯したか、
ということだけである。
不快をなくそう としてはいけない。
不快(苦)があることは
許容できないことでなく
本来 どうでもいいことだ。
(苦もあるし、楽もあるのがリアルな現実)
リアルな現実に 不快はつきもの
なのだから。
(無常・苦・無我の「苦」とは、このこと)
「良い・正しい」 と価値判断するから、 実現
「せねばならない」とこだわることになる。
「正義」に囚われてしまうから、
結果を期待する。
「苦があっては いけない」 と価値判断するから、
「苦しむ(苦悩する)」 ことになる。
(この言い方、矛盾してる?)
あなたが求めているものは、
もともと「正義」でも「理想」でもなく、
ただの「快感」である。
「良い(と思われる)こと」をして、
ただ「気持ちよく」なりたいだけである。
「良い(と思われる)意見」を表明して、
「気持ちよく」なりたいだけなのだ。
そこを チャンと押さえておこう。
考え方(見解・世界観)も(つきつめてみれば)
「好き/嫌い」 という 「好み」 に還元される。
それが分かれば、
期待通りの結果でなくともいいことが
納得できるのではないだろうか?
残念な結果の「不快」を受け入れるのも、
容易になるだろう。
世界は、 あなたの 「好き/嫌い」 に従って
動いているワケではないのだから…
「結果」がついてこないことを
「良くないこと」と 評価・ジャッジし、
こんなことは あってはいけない、
これでは自分を受け入れることができない、
などと 思ってはいけない。
思う必要など、どこにもない。
そう思うことが、「苦しむ」ことである。
「そのままだとダメ」というのが
「結果がついてこないとダメ」 という意味なら、
結果などついてこなくてイイのだから
そのままでイイのだ。
「結果がついてこない」 という 「良くないこと」
があれば 自分を受け入れられない(ダメ)
ということはないだろう。
「結果がついてこない」という
「そのまま」 で 「イイ」のだ。
「良くないこと」があっても
自分を受け入れられる。
結果が良くない状況でも 「そのままでいい」
「そのままでいい」 ことは、 状況に依存しない。
どんな状況でも、 変えられないときは
「そのままでいい」
たかが 「好み」 の問題なのだがら、
結果がついてこなくても 「そのままでいい」
過程を楽しめれば 「それでいい」
「良くないこと」があったとしても、
「良くない」というのは
非リアルな 「仮の概念」 に過ぎないのである。
リアルな 「不快」 な感じはするだろうが、
それは ただ味わえばいい。
「良くないこと」だから「ダメ」
ではないのだ。
「良い」 も 「悪い」 も もともと 「ない」 のだ。
「空」 とは、そのことである。
だから、 どうでもいいのだ。
この「どうでもいい」こと
「結果にこだわらない」ことを、
スピリチュアルな言い方では
「そのままでいい」と表現する。
「良いこと」 があろうがなかろうが、
「良くないこと」があろうがなかろうが、
結果がどうであろうと、
自分を受け入れることができる。
というより、すでに 受け入れられている。
「そのままで:無条件で」 受け入れられている。
だから「いい」
人生は結果でなく 過程だ。 過程の連続だ。
「いま・ここ」の過程に 良いも悪いもない。
だから「そのままでいい」
そのままを味わい、 楽しめばいい。
楽しんでいるか どうか?
の方が ずっと大事だ。
この 「楽しみ」 は、 「貪とん」 とは違うものだ。
「そのままでいい」に寛いでいられると、
心が穏やかで「幸せ」な感じになる。
「良い(と思われる)こと」をして
「気持ちよくなる」 のも 「幸せ」 な感じ
だろうが、この二つの「幸せ」は違う。
「良い」 とか 「悪い」 という意味(要素)は、
人間が 後から勝手に創ったもの。
その 仮の要素を
(一時的に)置いておく場所:空き地が
初めからある「空」という本質である。
あなたも わたしも 世界も
本質は「空:からっぽ」であり、
「空」として存在している。「空」 が 「ある」
つまり、もともと「意味」 は 「ない」
でも「ある」ことそのものに
「意味」がある(だから、そのままでいい)
この二つの「意味」は違う。
それが 分かってくると、
「そのままでいい」 という言い方が
しっくりくるようになる。
そして「そのままでいい」ということが
本当に腑に落ちると、 「苦しみ」 はなくなる。
一方
「そのままでいいわけないじゃないか」と
思っている間は、 「苦しみ」 が続くことになる。
別の視点で考えてみよう。
「苦しみ(苦悩)」 は、
「自我」に内包された特性であった。
人は 一人の社会人として自立するために、
自我を確立しなければならない。
そのために
「良きもの」 を 追求し、
「悪しきもの」 を 否定するように
社会から仕向けられる。
「自分の意見をちゃんと持て」 と言われ続ける。
しかし その追求/否定の態度は、本来
社会的に自立するための 必要条件
に過ぎなかったのに、
ストッパー機能を装備し忘れたために
循環・暴走し続け、
「正義」 「理想」 「社会貢献」 などというものを
絶対視して、大そうなものにしてしまった。
その結果、 苦悩を抱えることになったのだ。
「苦悩は自我に内包されている」 というのは
必要条件が 十分条件化(絶対視)し易い
という、上記のことの言い換えだ。
「そのままでいい」というのは、
十分自立できているなら もうそれでいい、
そんなもんだ、
「社会でやって行くには そのままで十分だ」
ということである。
社会的に自立するという
必要条件 さえクリアしてしまえば、
十分条件(愛)は
何もしなくても すでに 「ある」 んだよ、
ということである。
「愛」は すべての人の中に
すでに 潜在的に存在していて、
表に出たくて しょうがない と感じている。
その存在に気づけば「そのままでいい」
ということが分かる。
「そのままでいい」 ことが分かることが、
すでにある 十分条件 に気づくことである。
それ以上 無理する必要は 何ひとつない、
と言っている。
装備し忘れた ストッパー機能の代わりに、
「もういいんだよ」 と言ってあげるのである。
暴走を止めるものは ただ一つ
「愛」だけ なんだ。
「愛」 こそが「十分条件」なんだ。
「そのままでいい」
ということが理解できれば、
追求/否定し続ける必要がないことが分かり、
苦悩から解放される。
「そのままでいい」 ことを理解できる智慧が
自分自身に備わっていることを信じよう。
そして 「そのままでいい」 ということこそ、
「愛」 の本質なのである。
そのままで 「愛されて」 いること
そのままを 「愛する」 ことができること、
それが「愛」 の本質である。
「そのまま」 というのは 「無条件」 のこと。
あなたは、
「愛」 の この本質に気づくことができるか?
では、 もしも まだ 自我の形成が不十分で
自立できていないとしたら、
それでも「そのままでいい」 のか?
もちろん そのままで良いはずはなく、
自我をきちんと形成しなくてはならない。
そうでなければ、
社会人としてやっていけない。
でも 実は、どんな人間も
きちんとした自我を築き上げる
能力を持って生まれている。
ただ、成長途上で それが
何らかの形で阻害されただけである。
だから 阻害要因さえ取り除いてやれば、
どんな人も自ら成長し、 健全な自我を築く
確かな可能性を持っている。
それを信じるのである。
だから「そのままでいい」のである。
と、ここまで書いて思った。
でも これもやはり、
「この世」 のお話(論理的説明)に過ぎない。
「悟り」の立場で言えば、
自我が確立されていようと いまいと、
そんなことはどうでもいい のかも知れない。
自我が確立されているなら、
そのように生きているだろう。
自我が確立されていないなら、
やはり そのように生きているだろう。
結果にこだわり、
ときに 自己受容し、
ときに 自己否定しても
いいのかも知れない。
見た目、
どちらかの方が苦しそうかも知れない。
でも それが何だというのか?
「苦しみ」 をなくすことは可能であるが、
「苦しみ(苦悩)」 があってはいけない
ということでもないだろう。
どちらにしろ、
誰もがみな 懸命に生きている。
それだけで 十分ではないか?
生きているという、
それだけで 十分ではないか?
それが、無条件の「そのままでいい」
ということではないか?
どんな形であれ、
懸命に きちんと生きていれば、
それでいい。
懸命でない人など、いない。
苦しまないためには、気づけばいい。
しかし
気づかずに苦しんでいるとしても、
「そのままでいい」 ことに変わりはない。
あなたは「いま」苦しいので、
それを何とかしたくて
「悟り」を求めている。
「そのままでいい」と言われても
納得できない。
でも 納得しようが できまいが、
「そのままでいい」
納得できたら「苦しみ」は なくなるが、
納得できずに「苦しい」ままだとしても、
「そのままでいい」
「苦しく」てもいいんだ と気づけば、
納得できれば、「苦しみ」はなくなる、
というパラドックス。
あなたは 何が受け入れられなくて
苦しんでいるのか?
あなたは 「苦しみ」 を受け入れられなくて
苦しんでいるのではないか?
あなたは 「正しさ」 を手放すことができずに
(正しさにともなう 「快」 を 手放せなくて)
苦しんでいるのではないか?
「不快」 を 受け入れられず もしくは
「快」 を 手放すことができずに、
苦しんでいるのではないか?
この 「苦しみ」 と、
それを 「苦しんでいる」 ことは違う。
その違い を 説明できるだろうか?
「苦しみ(苦)」を受け入れれば
「苦しみ(苦悩)」はなくなる、
というパラドックス。
マインドフルネスだけが
苦しみを受け入れることができる。
苦しみを受け入れるものが、
マインドフルネスなのだ。
「何か」 を期待することなく、
無条件に 「受け入れる」 ことができるか?
あなたの大事な 非リアルなものを
「手放す」ことができるか?
「正しい」 と信じている 意味や 価値を
(正しさを) 手放すことができるのか?
正しさを手放すことなしに
無条件に受け入れることはできない。
「苦しい」ままで いいんだ。
あなたもわたしも 愛されている。
すでに 受け入れられている。
絶対に大丈夫、OKだ。
それが 無条件の自己肯定なのだ。
「そのままでいい」のは、
リアルな当たり前であり、
「そのままではダメ」なのは、
非リアルな思考が
個人を社会に適応させるために
要請していることだ。
だから 社会に適応したなら、
もう「そのままでいい」だろう。
「そのままでいい」ことを
体で納得することが「目覚め」であり、
「そのままでいい」ことを
知って生きる ことが「悟り」である。
「色即是空」なのだから、
つまり「もともと意味はない」のだから、
「そのままでいい」のである。
という風に いろいろと考えてはみたが、
やはり ちゃんとした説明は難しい。
でも「そのままでいい」のである。
説明もまた 思考なのだから。
もともと 説明など できないのだから。
それでも説明しようとするのが人間だから。
大切なのは、マインドフルネスである。
説明して欲しいのも、説明したいのも、
ともに エゴである。
エゴは、分かりたくて
分かったつもりになりたくて
しょうがない。
だから
エゴ(自我:識)には、 見解が必要だ。
でも 分からなくとも、 そのままでいい。
理由もなく、 わたしは このままでいい。
わたしが このままでよければ、
あなただって そのままでいいハズだ。
だとすれば どんな人も そのままでいい。
だから 誰だってみんな そのままでいい。
結局のところ、
みんな 自分の「好み」 で「快」 を求めて
「考え・意見を言い・行動している」 だけ
のことなのだから、 そのままでいい。
「好み」 の主体は もちろん 「自我」 である。
「自我:識」 も もちろん 「そのままでいい」
参考ブログ:「ありのまま」 を 「愛する」
(最終改訂:2022年5月1日)