はあもにい~セルフ・サポート研究所のブログ~

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『誰にも言えずにひとりで悩んでいませんか?』
家族・友人・知人の依存症(薬物・ギャンブル・アルコールなど)の問題でお困りの方を支援するセルフサポート研究所のブログです。


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 さて、息子についての回想はこのくらいにして、ここからは私の問題について振り返ってみたいと思います。

 私は、最初にカウンセラーに会った時、生きがいは何ですかと聞かれて

 

「息子がクスリをやめることです」

 

 と答えて得々としていたという告白をしましたが、本当にその通りでした。息子の問題を完全に自分の問題ととらえ、境界線が引けていなかった。そんな私自身の病気に、底つきと回復のチャンスを与えてくれたのは、やはり息子の沖縄行だったと思います。

 息子の暴力の問題が発生する以前より、カウンセラーは事態を予測し、

 

 「お母さん、あなたが家を出なさい」

 

 と提案されていました。でも、苦労して働いて家を建てたばかりでしたので、自分が家を出るという選択がどうしてもできなかったのです。そんな私が「息子が出ないのであれば、私が家を出よう」と一大決心をして息子と向き合った時、息子は自ら沖縄に行くという決断をしてくれました。

 さらに息子が沖縄の施設を出され、なんの連絡もないまま4日が経過したときの不安はたいへんなものでした。今すぐにも沖縄に飛んでいって息子を探したい思いに急き立てられましたが、ひたすら我慢しました。

 その後、彼が施設に戻ったと聞いた時、

(ああ、本気で彼は回復に取り組もうとしている)

 ということが確信できました。

 不思議なことに、それまで完全に彼の問題にとらわれて翻弄されていた私が、この確信を機に自分自身の問題へと取り組むようになっていたのです。

 それまでは、相談室のプログラムでの私自身の取り組み方は、不真面目だったと思います。息子が同居していて問題を振りまいている時は相談室に通うのですが、息子が拘置所に入ったり、病院に入院すると足が遠のいてしまっていました。そして、息子がもうじき出てくるとなると、また一生懸命になるのです。

 おそらく私自身、孤独がすごく深かったのだな、ということに最近、気付き始めました。というのは大変な時期を乗り越えたら、グループで、仲間たちのなかで癒されるよりも、一人になることを選んでいたからです。

 それまでは息子の問題で相談室に通っていた私に、ある転機が訪れたのは、相談室が主催していたアサーティブ・トレーニングに出席したときのことでした。その時は、ペアを組んだ相手に対して怒る、というワークをやったのですが、私には怒りの感情というものが全くない、ということに気付いたのです。

 

(えっ?どうして?どうして私には怒りがないの?)

 

 その驚きが、私が私自身の問題に向き合っていくきっかけとなりました。

 私は典型的なアダルト・チルドレン(アルコール依存症がいる家庭や、機能不全家族の中で育ち、その影響を受けて対人関係に困難を感じている人)だったのです。

 

 私の父親はギャンブル依存症者です。終戦後しばらくは通訳の仕事をしていましたが、辞めてからは定職に就かず、麻雀ばかりしていました。徹夜麻雀をするためにヒロポンを使い、ヒロポン中毒にもなりました。勝って景気のいい時には外でじゃんじゃんお金を使い、負けると帰ってきてお金を持ち出す。お金がなくなると母の着物・家具・子どものものまで売ってお金に換えてしまう人でした。食べることにも事欠く生活になった中、お正月くらいは子どもたちにお腹いっぱい食べさせたいと、母が工面してやっと手に入れた一斗のお米まで父が持ち出してしまったときの、母の悲しみに打ちひしがれた顔を、私は今でもありありと思い出すことができます。

 

 父は戦争前には商売をして儲けていた人で、めかけも囲っていました。妾宅が空襲で焼けたとき、父はその人を私たちの家に連れてきて一緒に生活するようになりました。

 

「みっこちゃん。お母さんいなくなるかもしれないけど、あとはよろしくネ」

 母がそういって私をみつめたとき、私は母の死を予感しカーッと体中の血が頭に上り、目のところまで来るのを感じました。これ以上、上に上がったら発狂してしまう。そう思った私は必死に血が上るのをこらえました。小学校三年生のときのことです。

 母はこのとき、下の妹だけ連れて自殺しようとしていたそうです。妹を背負って線路の上をさまよったのですが子どもを道連れにすることに忍びなくて、結局は帰ってきたとのことです。女癖の悪い父は何人もの女遍歴の末、素人さんの女性に手を出しました。母は、その人と一緒になってあげなさい、と言って子ども4人を全員引き取り、正式に父と離婚しました。

 

 そんな風に苦労して生きてきた母の前で、私はいつも聞き分けのいい長女でなくてはなりませんでした。回りのことは考えても、自分のことは全く考えずに生きてきました。弟たちも妹も金銭問題・男女関係問題・社会問題と、あらゆる問題が生じると私に相談するのです。母は私たちを育てるために必死で働いて父親役をしておりましたので、私の役割は母親代わりでした。きょうだい皆が生きづらかった中で、そういう問題を一切母の耳に入れてはいけない、母に心配をさせてはいけないと思い、一身に背負ってきました。挙句の果てには父までがお金を借りに来て用立てました。でも、それらをするのが当然だと思っていました。

 

 アサーティブ・トレーニング(自分も相手も大切にしながら、自己表現する技術を身につけるための訓練)で、自分に怒りの感情がないことに気付き、いかに感情を押し殺して生きてきたかに気付いたあと、母への恨みが出てきて苦しみました。私をこんな人間にしたのは母だ。私を

こんな人間にしたから、こんな息子にしてしまったのだ・・・。そう考えることがかえって自分自身を見つめ直すうちに母もアダルト・チルドレンであることに気付き、母をかわいそうな人と思えたときから恨みも消え、今は年老いた母をいとおしいと思い、女手ひとつでよく4人の子供を育ててくださったと感謝しております。

 

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 2週間ほどして息子に面会できるようになりました。乱暴をしないようにという配慮で、体の大きな強そうな介護人が2人もついていて、私も彼も緊張していて何を話したのか覚えていません。

 

 そのうちに、閉鎖病棟から大部屋に息子は移されました。4人部屋に寝起きしているということで、その頃には普通に息子は会話が出来るようになっていました。普通になった息子に会うことがうれしくて、毎週日曜日になると私は面会に行きました。

 

 4ヶ月でM病院を退院した彼は、すぐに復職したいというのですが、私は先輩に、すぐに雇わないでほしいとお願いしてきました。退院してすぐには体力もないだろうから、3ヶ月くらいは家いいて体力をつけるように、と言って頂いたのです。

「仕事、断られちゃったよ。3ヶ月くらい休んだほうがいいっていうんだ」

 息子は先輩と会って帰ってくるなり、そういいました。

「そうね。体も鈍っているだろうし、どう? 3ヶ月くらい沖縄に行って、青い空と青い海の傍でリハビリしてきたら?」

 と勧めましたが、

「沖縄はいいよ。お金がかかるから」

 そう言って息子は沖縄行きに関心を示してくれませんでした。

 

 その夜私はついに決意を固めました。

 この子が万が一、死ぬことになったとしても仕方がない。息子のことを手放し、神様にゆだねよう。そして息子が家を出ないなら、私が出ようと思ったのです。

「お母さんは、貴方に元気になって、社会復帰して欲しい。だから沖縄に行って、青い空と青い海のそばで、貴方と同じような若い仲間の人たちとリハビリをしてほしいと思っています。貴方が回復するためなら、どんなにお金がかかってもいいと私は思っているの。この家を売ってでもお金は都合するよ。けれど沖縄に行かないなら、お母さんは病気の貴方とは一緒に生活できないから、この家を出て自活して欲しい。いきなり家を出てと言われても困るでしょうから、部屋を借りるお金と一ヶ月分の生活費は出してあげるから。一ヶ月のうちに仕事を見つけてあとは自分で生活してほしい。」

 

 彼の部屋に行き、心をこめて真剣に伝えました。息子はちょっとの沈黙の後、

「少し考えさせて」

 というので私は小さく頷き、階下に下りました。しばらくすると息子が降りてきて、

「沖縄に行くよ!行けばいいんだろう、行けば!」

 と捨て台詞のように言って、3階に上がりかけました。

 私は思わず、その背中に飛びついて抱きつき、

「そうよ、行けばいいのよ、行けば!」

 と言っていました。次の月曜日に、彼は自ら相談室のカウンセラーを訪ねました。そして帰ってくるなり、

「今週の土曜日に行くことにしたから」

 と言います。

「こんなにあっさり行くことになるなんて大丈夫かな?」

 と思いましたが、予定通りに彼は出発していきました。

 そして沖縄でも彼にはたくさんの試練が待ち受けていたのです。

 沖縄に行って一ヶ月もしないうちに施設のスタッフから電話がり、

「彼は缶ビールを買って飲んでたのでハウスを無一文で出しました。お母さんの方に連絡があっても一切、お金は送らないでください」

 と言われました。NA(薬物依存症からの回復を望む人たちの自助グループ)のミーティング会場に行けば食事を食べさせてくれ、翌日にハウスに戻れば中に入れてもらえるそうです。でも、彼から電話はありませんでした。

 知らない土地でお金もなく、どうしていることやらと、心配で食事ものどを通らないほどでしたが、4日くらいしてから連絡があり、彼が施設に戻ったと知らされました。このとき私は彼を信じられると思いました。よく電話をかけてこなかった、立派だ。よく一人でがんばったネ、と心の中でほめちぎっておりました。

 

 7月にフォーラムがあり、沖縄を訪問しました。前夜、息子と会う時間があり、母と私と息子の3人になった時、

「お母さん、俺を沖縄に来させてくれて本当にありがとう」

 と息子は言うのです。嬉しかった。

「明日のフォーラムは会場係なんだ」

 と息子は言って帰りました。当日会場に行ってみますと、息子は会場の中を生き生きとして動き回っておりました。本当に安心したのを覚えています。

 

 沖縄に行って9ヶ月くらい過ぎ、とんかつ屋に彼は就職しました。そして3ヶ月ほどたち、チーフスタッフから「そろそろ彼の自立を考えています。」というお話しもありました。しかし、やれ嬉しや、と喜んだのもつかの間、

「彼をハウスから出しました。夜のNAミーティングに3回遅刻したからです」

 という電話が入りました。給料は全部スタッフに預け、自立の時の資金にしており、息子自身は一日2,000円の生活費をもらって賄っていましたから、彼はまた無一文の状態でした。

「本人から電話があってもお金を送ったりしないでください。お金に困ればハウスに戻ってくるだろうから」

 と、そのスタッフは同じことを言うのでした。

 何日かして、今度は息子から電話がきました。

「施設に預けてある給料分のお金がお母さんのところに届くから、すぐに送って」

 というのです。心では迷いながらも、施設のスタッフに言われた通りにお金は送れないと言ったところ、息子は烈火のごとく怒り出し、

「そんなこと言うなら送ってくれなくていい。そのかわりもう親子の縁は切る」

 と言います。

 

 理由を聞けば、夕方5時までの勤務とは言っても、慣れてくれば店もあてにするし、自分も忙しい最中に時間だからと帰れないこともある。3回目のときは店員が店長と喧嘩して急に帰っちゃったので、手伝わないわけにはいかなかった、とのことでした。

 まったくやむをえないこととしか思えませんでした。社会で働いた経験のない人には分からないでしょうが、私にはよくわかりました。そこでスタッフに本人にお金を渡してくれるように頼みましたが、規則で親にしか渡せません、とのことです。それなのに、いつまでたっても施設からお金は届きません。結局息子に送ってあげられたのは一ヶ月半も経ってからのことでした。

 

 息子の仕事は食べ物商売でしたから、お金はなくとも生きてはいけると思いましたが、野宿・店の更衣室・上司の車の中、そして友人の家と、転々としながら大勢の方々のご好意に支えられて生活していたそうです。

 食べ物商売なので汗臭くてはいけないと、友人の家にお世話になるまでは、店が終わってから外の物陰に行き、ホースの水で体を洗ってしのいだそうです。

 後日、私が沖縄に行き、お店を訪問したときに聞いた話で、我が子ながらすごいなあ、と感心しました。

 

 息子はそのとんかつ屋さんに2年半ほど勤め、主任となり、副店長の仕事をするようになって収入も多くなってきたときに辞めたいと言い出しました。理由を聞くと、朝9時半ごろに家を出てその日の釣銭を銀行で両替して出勤し、夜は夜で売り上げを締めて夜間金庫に預け、パートの女の子を家に送り届けて自宅に帰るのは1時半か2時。休みの日も疲れているので寝るだけで終わってしまう。もっと人間らしい生活がしたいんだ、というのです。まことにもっともだと思い、私も賛成しました。

 

 彼はすぐ靴屋に就職し、1年5ヶ月勤めたところで突然、ジャマイカに行きたいといって東京に帰ってきました。沖縄では給料が安いので旅行資金が貯金できないから、1年間くらい居候させてくださいとのことでした。念願通りジャマイカに行き、また沖縄に戻って、もとの靴屋に再就職して生活しています。

 

 息子が最初に沖縄に行ってから、8年、薬物の問題が発覚してからは実に10年の月日が流れましたが、彼は人間的に本当に大きくなりました。薬物依存症になってつらい思いを何度も何度も経験していますので、人の痛みの分かる思いやり深い人間になりました。

 

 

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 カウンセラーと相談した結果、家に入れずにそのまま病院に入院させたほうがいいだろうということで、病院に手配していただき、裁判所に車で迎えに行きました。

 ところが赤信号で止まっている時に、息子は助手席から逃げ出してしまったのです。弟と私であわてて車をおりて近辺をさがしました。どこにも姿が見つからず、憔悴して戻るとm今度は車がありません。私たちが息子を探している間に、母を乗せたままの車に乗って逃げてしまったのです。

 

 母は途中で降ろしてもらい、電車で家まで帰ってきました。

 正常な精神状態とは思えない息子の帰りを案じながら、たとえ無事に帰ってきても家に入れずになんとかしてそのまま病院に行こう、と思っていました。

 夕方になって息子は帰ってきたのですが、玄関の扉を開けると、私が口を開くまもなくするりと私のわきの下を潜りぬけて、靴のまま一気に階段を三階まで駆け上がってしまったのです。

 自分の部屋に逃げ込まれてしまっては仕方がない。日を改めて病院に連れて行こうということになりました。

「長い間、拘置所に入っていたのだから、少しゆっくりさせてあげてから病院に行ったらどう?」

 と母も申しますし、私もそうすることにしたのです。

 息子はお酒を飲み始めました。眠れないというので、母が、自分の睡眠薬うぃあげていたようです。私たちは、アルコールと睡眠薬を一緒に飲むと悪い影響が出るということを知りませんでした。

 

 ある夜、わけのわからないことを言い出して、息子が私に絡みだしました。

 私は自分の部屋に逃げ出しました。部屋の扉が閉まっていたら、息子は部屋に入ってきません。それまでに何回も、息子はじっと私の部屋の前に立っていることがありました。寂しさの塊のような彼の影をガラス越しに眺めながら「どうしたの?」という一言さえ掛けてあげることが私にはできませんでした。怖かったのです。情けない親です。

 

 その夜も、もう寝てしまおうと思いトイレに行って、出ようと戸を開けたら息子が立っていました。そして私のことをトンと小突いたのです。以前の交通事故のため左足を切断し、片足である私は踏みこたえられず、様式便器の上に座り込みました。

 そのとき彼は初めて私を殴りました。

 座っている状態なので、まともに顔にこぶしが当たります。トイレの中なので身動きもできず、サンドバックのように殴られ続けました。彼はぶつぶつつぶやきながら私を殴っていました。そして2階に駆け上がっては、すぐに降りてきて私を殴ります。息子が階段を上がっていった隙に逃げ出そうとするのですが、立ち上がって松葉づえを脇に抱え、歩き出そうとするときには

「今日がお前の命日だ」

 何回か同じ行動を繰り返すうちに、息子が一言そう言ったのがはっきりと聞こえました。顔をかばって下を向いていた私が思わず彼の顔を見ると、息子の目がはっきりと見えました。完全に狂人の目でした。

 次に彼が2階に上がった隙に命がけで逃げ出しました。履物を履く間も、ドアを閉める間もなく裸足で逃げました。松葉づえをつきながら、彼に捕まったら殺されると本当に思い、必死でした。

 

 「〇〇警察まで連れていってください」

通りすがった乗用車を止めて頼んだのですが、顔から胸にかけ鼻血だらけで裸足の姿を見て、

 「自分でいってください」

と、走り去られてしまいました。

 

 捕まらないように細い脇道を選びながらやっと警察にたどり着き、家におばあちゃんが一人でいて心配だから至急行ってみてほしい、本人はM病院に入院することになっているので連れて行って欲しいと懇願しました。その頃には、私の目の周りは腫れて膨れ上がり、完全に見えなくなっていました。警察は危険を察して、息子をM病院に連れて行ってくれました。しかし、担当医がいなくては夜間の救急は受け入れられないことで、K市の病院に強制措置入院となりました。

 警察の方から、あなたも入院して精密検査を受けた方がよいと言われ、近くの病院に入院しました。幸い顔の打撲傷だけだったのですが、目が見えるようになって自分の顔を見たら倍くらいに腫れ上がっていたのでびっくりしました。

 M弁護士がお見舞いに来て下さったのですが、病室に入っても私だと分からずに一度外に出てしまわれたそうです。

 すぐに駆け付けてくれた妹も、あまりのひどさに絶句していました。妹の息子は医者なのですが、彼に話すと

「お母さん、それは彼がやったことではなく、病気がやったことだよ」

 と言われたそうです。

 

 一週間で退院し、一生懸命に自宅で冷やしました。二週間たってサングラスをかけ、マスクをすればなんとか外に出られる状態になり、息子が入院している病院に行きました。精神障碍者専門の閉鎖病棟で、まことに異様な雰囲気の場所でした。暴れないようにかなり強いクスリを使われているらしく、フラフラしながら私の前に現れた息子は、

 

「お母さん、ごめんなさい」

 とまず言ってくれました。

 

「いいんだよ、お母さんも悪いお母さんだったからね。だけどこれであなたとお母さんはフィフティ・フィフティになったね」

 と話して私は帰りました。

 

「薬物依存症は病気です」

 と、いくら聞かされても納得できず、私の育て方が悪かった、子どもを放り出して仕事にのめりこんでいたからだ、子どもの寂しさを思いやることなく自分の仕事のつらさだけに目を向けて、ストレス解消のために飲み歩いてばかりいたからだと、自分自身を責め続け苦しい思いをしていました。朝、会社に向かう途中ですれ違う若い人を見てうらやましく思ったり、こんなに頑張って生きてきたのにどうして私たちだけが・・・と世の中を恨んだり、そんな自責の念や、他人と比較する気持ちが一挙に消えてしまったのは不思議でした。

 

 息子が、ぶつけようのなかった狂気を思い切り私にぶつけてきてくれたお陰で、どこか楽になってしまった私がいたのも事実でした。

 

 措置入院は三ヶ月で終わりました。 

 5月に退院した後、息子はしばらく入院していましたが、地元の先輩のところに就職しました。措置入院後ずっとお酒をやめていた息子が、その夜の就職祝いで御馳走になったといって酔って帰ってきたときの目が、暴力をふるった日の目に似ていたのでギョッとしました。恐怖感が蘇ってしまったのです。罪悪感や自責の念は楽になった一方で、暴力を振るわれた時の恐ろしさはやはり、私の心にしっかりと刻み付けられていました。

 

 息子は、頑張って汚名を返上しようとしたのでしょう。けれども、毎日仕事に出るようになったものの、一年半くらい月日を独房と病室で過ごしていた体は、体力が落ちて思うようにならなかったようです。足場に乗って重いものを運んだり、セメントをこねる仕事ができるはずがありません。精神状態も安定しておらず、同僚からはヤク中のばか扱いをされて腹が立ったようです。息子は家に帰ってはお酒を飲むようになりました。

 

 今日は飲みすぎているな、と思う日は、母と私は家でをするようにしました。

 歩いて20分くらいのところに弟の仕事の事務所があり、寝泊まりすることができました。夜、9時か9時半頃、彼が部屋へ引き上げるとそっと家を出るのです。そして、息子が仕事に出たのを見計らって家に帰っていきました。

 若干の着替えと保険証、お金などを持った母のあとに、翌朝になって万一家に入れなくても会社へ行けるように、定期券や保険証などを持った私が続いて、とぼとぼと夜道を歩いていきます。その母の後姿を見ていると、申し訳なくて涙が出てきます。

 

 そんな生活が2ヶ月ほど続きました。この間、私たちは何回、家出したことでしょう。けれどもその後の息子は、暴力を振るうことは二度とありませんでした。

 毎日仕事に出て、頑張っていたようですが、やはりまだ無理だったのでしょう。だんだん様子がおかしくなって、仕事の途中に無断で帰ってきてしまったりするようになりました。私は、先輩の親方さんにお願いして、M病院に連れて行ってもらいました。しかし、薬をもらって帰ってきたのに、いくら言っても薬を飲もうとしません。

 

「お前がきちんと薬を飲まないなら入院させるぞ」

 と、先輩からも言われ、

 

「はい、ちゃんと飲みます。」

 と返事だけはいいのですが、飲みません。

 

 先輩が担当医師に相談してくださり、通院日に付き添っていって麻酔注射で眠らせ、そのまま入院させてしまいました。

 あとで聞くと息子は、目が覚めたら拘置所の独房のようなところにいて、一瞬自分がどこにいるのかがわからなくなってしまったそうですが

「俺はこんなことで終わらないぞ」

 と心に誓ったそうです。それが平成9年11月のことでした。

 

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 逮捕されてからがまた大変でした。

 

 前科もなく初犯の場合は三ヶ月もすれば執行猶予で出てくるとのことでしたから、国選弁護人の方をお願いしました。その先生は薬物の弁護は初めてと言っていました。裁判の証人出廷のために事務所で何度も打ち合わせをし、警察の事情聴取にも何度も通いました。

「どうも様子がおかしいですね。普通は逮捕して10日もたつと、クスリが抜けてシャッキリするものだが、彼はシャッキリしませんね。」

 担当刑事さんからそう言われ、息子の精神状態が心配でなりませんでした。決心して通報したのは失敗だったのか。警察に逮捕されてショックで余計に息子はおかしくなってしまったのではないだろうか。眠れない夜が続きました。

 

 裁判の法廷では、私の証言に対して息子は被告人席から反発して、大混乱になりました。

「被告は発言してはいけません」

「これ以上発言すると退廷させますよ」

 という裁判官の再三の制止も耳に入らないようでした。後日、薬物事犯に経験が豊富なある弁護士さんは、その時点で彼が正常な精神状態にないと疑うべきでしたね、と教えて下さいましたが、そのときの私にはそんなことは思いもよりませんでした。国選の弁護士さんもパニックになってしまっていたようです。

「あなたは友人の父親の車に無断で乗っていき、警察に逮捕されたことがありますね」

 などと、弁護士の口から、裁判官が知らない、被告人に不利な発言まで飛び出す始末でした。

 息子は、初犯にしては重い懲役2年・保護観察つき執行猶予3年という判決を得て帰ってきました。その時にまた施設に入寮するよう勧めましたが、息子には受け入れてもらえませんでした。

 

 判決から10日ほどたったある日、息子が夜になっても帰ってこないので心配していると、警察から電話がありました。新宿の地下鉄の階段に座っているところを不審尋問され、トルエンを持っていたので毒劇物取締法違反で逮捕したとのことでした。

 本当は覚せい剤が欲しかったのでしょうが、お金がなくてトルエンを買ったのでしょう。

 私は、今度は国選弁護人なんかに任せておけないと思いました。施設の家族会を主催していたカウンセラーが新たに相談室を開設し、薬物事件の弁護に詳しいM弁護士がその相談室に関わっておられたので、弁護をお願いしました。

 息子は息子で、自分で国選の弁護人を依頼していました。私の世話にはなりたくないという意思表示だったのでしょうか。どちらかにするように裁判所から言われ、弁護士さん同士で話し合って下さった結果、二人で弁護を引き受けますが、費用は一人分でよいとのことになりました。

 

 新宿警察には身の回りのものを届けに行ったきりで事情聴取などはありませんでした。その代わり、池袋にあるM弁護士の事務所にはどれほど通ったことでしょう。仕事が忙しかった私のために打ち合わせはいつも午後7時半頃から始まりました。先生方お二人の質問に私が答え、息子の弁護方針や方法をめぐってお二人の先生が口角泡を飛ばして真剣に討論してくださいました。喧嘩になってしまうのではないかと、私が怖くなるほどの激しさで話し合われることもありました。お二人の先生方に、どんなに心からありがたいと感謝したことか分かりません。

 一審の判決が不服で上告したので、息子の判決は翌年の2月になりました。最初の裁判で拘束された時期を含めると、1年以上、息子は独房にいたことになります。

 

 二度目に逮捕されてからは私も真剣でした。本人が底つきにならなければ回復はない、との言葉を信じました。息子に底をついてもらいたくて、面会はもちろん、差し入れもしてはいけない。手紙も出さないほうがよいとのことで、彼から届く金品の差し入れ願いの手紙を一切無視しました。

 

 母からは「鬼のような親だ」と罵られました。それでも私は、差し入れに飛んでいきたい気持ちを、唇を噛みしめる思いで我慢しました。

(どんなに寒い思いをしていることだろう・・・ 風邪をひいていないだろうか・・・)

 裁判が長引き、5月から真冬まで拘留されている息子を思い、それはつらかったです。

 

 そうこうしているうちに年が変わりました。

 とうとう、我慢しきれなくなってしまったのです。

(やはり私は息子に会いに行こう!)

 と思い、決心して拘置所に行きました。すると、懲罰房に入っているから面会できない、と言われてスゴスゴと帰ってくる羽目になりました。

 小菅の駅で電車を待ちながら、

(・・・何をしたのかしら。私が面会に行かないので、自棄になっているのかしら)

 心配のあまり、吹き付ける冬の風よりも冷たく凍っていく自分の心を、どうすることもできませんでした。

 どうして懲罰房に入れられたのか、M弁護士に聞いていただいたところ、看守につばを吐きかけたとのことでした。やはり息子は頭がおかしくなってしまったのかと、がっくりと落ち込んでしまったのを思い出します。

 

 相談室のカウンセラーからは

「クスリの影響か、もともと統合失調症の病態を持っていてそれが発症したのか、どちらとも言えません」と言われ、

(私は、頭のおかしくなった息子を一生、面倒を見て暮らしていくのだ・・・)

 と決心したのも、この頃のことでした。

 

 その後、また心配でいてもたってもいられなくなり、M弁護士もご一緒してくださるとのことでしたので、二人で面会に行ったのですが、会いたくないと向こうから面会を断られてしまいました。

 

 懲役4カ月、保護観察つき執行猶予2年という再度の執行猶予判決をいただき、

「あなたを執行猶予にするから早く病院に行ってよくなりなさい」と裁判長から言っていただいたのです。

 

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  私たちの家は当時、新築中でした。7月になると息子はその家に移りたいと言い出しました。まだ建築会社からの引き渡しが済んでいなかったのですが、会社の方は構わないというので、息子だけがその家に移りました。今にして思えば・・・

 

「どうぞ自由にクスリをやめなさい」

 

 と言わんばかりの環境を与えてしまったわけです。

 

 本格的な引っ越しは9月でした。引っ越しの日は、親戚が集まって手伝ってくれているのに息子は、3階の自分の部屋に閉じこもっていました。どんなに呼んでも、

 

「うん、うん、分かった」

 

 と言うばかりで、いっこうに出てきません。まさかクスリのためにカラダが動かずにいるとは夢にも思わなかった私は、息子は3階、母は2階、私は1階、集まるのは2階のリビングと、それぞれが独立した間取りでしたから、同居していてもクスリは自由に使えてしまう環境でした。息子は麻薬中毒になっているらしい、なんとかしなければ・・・と、焦りはつのりましたが、どうしてよいのか分かりません。私の弟や妹に話すことも憚られて、一人で悶々と悩み続けました。フラフラと出かけていく息子に懇願して引き留めようとしてみたり、親がこんなに心配していると知らせたら止めてくれるだろうかと彼が出かけた後、真冬の一晩中、毛布に包まって震えながら玄関で帰りを待ったりしました。もちろん何の効果もありません。

 

 どうしようもなく、私の弟や妹にも集まってもらって相談しました。そして、回復した依存症者たちが運営している施設を弟が探し出してくれました。私の体調は悪化し、下痢が止まらない状態になっていましたが、自分のことなど考えてはいられません。とりあえずは親である私が相談に行く事になり、弟と妹が付き添ってくれました。

 

 古ぼけた倉庫のようなところでやっているその施設を訪れた私が、家族の相談を担当していたカウンセラーから言われたのは、

「お母さん、あなたの生きがいは何ですか」

 という言葉でした。

「息子がクスリを止めてくれることです」

 私は、はっきりとそう答えました。

「家族の集まりが毎週土曜日にありますので、少なくとも10週は続けてきてください。」

 カウンセラーから言われた言葉で覚えているのはそれだけです。無我夢中でした。帰りがけに妹に

「お姉さん、なに言ってるの。ばかじゃないかと思ったわ」

 と言われましたが、妹がなぜそんなことを言うのか、その意味が私にはまったく分かりませんでした。

 

 何がなんだか分からないままにも、10回通いさえすれば息子がクスリをやめてくれるかな、などと今から思えば本当にばかみたいなことを思いながら、必死の思いでその施設の家族会に通い続けました。

 

 家族会に集まる家族たちの話は、身の毛のよだつような話ばかりでした。刑務所に入ってくる子どもの話、子どもの体に刺青を発見してショックを抑えきれずにいる話、などなどあげたらキリがありませんが、とにかく強調されていたのは「本人が底つきにならなければ回復しない」ということです。このことは私の頭にしっかりと入り込みましたが、

「底つきとは、生きることも死ぬこともできなくなった状態」

 と説明されても、私にはなんのことだか理解できませんでした。

 家族会に通う中で、真っ先に私が飛びついた答えは、

「施設に入寮すれば息子は治るに違いない」

 

 というものでした。そこですぐに沖縄の施設の話を息子にしたのですが、まったく聞く耳持たずで取り合ってもらえません。

(なぜこんなことになってしまったんだろう。私が仕事にのめりこんで子育てを放棄していたからだろうか・・・)

 私はこの頃、そんな風に自分を責めてばかりいました。

 年が明けて、平成8年の2月頃、母が階段から足を踏み外して救急車で運ばれ、大腿骨複雑骨折で入院、手術ということになりました。息子が何かしたのかと思いましたが、そうではなくてホッとしました。しかしそれもつかの間、母が入院して行動に歯止めが利かなくなった彼は、クスリの量が増えていったのでしょう、わけの分からない行動に走るようになっていきました。

 

 近所の材木屋や、工場の入り口の前に車を放置駐車して交番から呼び出されたり、道路の入り口に車を止めて110番されたり、そのたびに私は自分がやったことのふりをして尻拭いをし続けました。接触事故すれすれの乱暴な運転を息子がするので、人身事故を起こすよりはと思い「生活が苦しいから車を売った」と言って、私は妹に車を預けました。すると息子は、家に来てくれた友人の車に無断で乗って出かけてしまったり、友人のお父さんが出かけに忘れ物を取りに家の中に入った瞬間に、家の前でエンジンが掛かりっぱなしになっていた車に乗り込んで走り出し、110番通報で探索されて千住のあたりを走っているところを見つかって逮捕されたりしました。警察では統合失調症の気味があって医者に行くところだったと説明し、友人宅でも犯人が私の息子と分かって被害届を取り下げてくれたので息子は釈放されましたが、申し訳程度に医者に行ったっきりで息子は治療につながろうと決してしませんでした。

 

 息子の妄想と幻覚は激しくなっていく一方でした。

 一緒に食事をしていても幻聴と会話して一人で笑っていますし、けらけら笑いながら右に左にと転げまわってみたり、自分の部屋のCDの山に火をつけて火事寸前になったりしていました。覚せい剤の影響なのか、それとも本当に気が狂ってしまったのかと戸惑いながらも、とりあえずはクスリをやめさせなければと思って彼の友人、先輩、彼が信頼していそうな人々に連絡を取っては、クスリをやめるように彼を説得してほしいと頼みまわっていました。警察官の友人にも相談しましたが、使っている現場とか所持しているときとか、証拠がなければどうしようもないと言われました。

 

 そうしながらも私は、自分自身が本人と向き合って直接話そうとは決してしませんでした。狂気の彼と話すことが怖かったのです。情けない親でした。その自分の情けがまた嫌で、罪悪感や自責の思いは強まる一方でした。

 

 彼が15.6歳の頃からお付き合いしていた女の子がいます。息子がそんな風になってからも心配してよく家に来てくれました。その頃のことで忘れられないことがあります。

 

 息子は私に対して暴言を吐くようになり、私には手を出さなくても、家具にあたったりするようになっていました。ある晩のことです。その夜も彼女は家に来てくれていました。花でも飾ったら少しでも息子の心が和むのではないかと思い、大好きなバラを買って帰りましたところ、息子はそれを取り上げてむしり捨ててしまったのです。息子は残った花で私をたたこうとしました。彼女は「やめて」と叫んで、彼と私の間に立ちはだかってくれました。すると息子は大粒の涙をボロボロと流しながら、

 

「俺がお前を殴るわけにはいかないんだよ。だからこいつを殴らせてくれ」

 と叫んでいました。今思うと、親の私にも自分自身にも怒りがあって、どこにぶつけてよいか分からなくて暴れていたのだと思います。その頃の彼は、手にも足にも震えがきていました。お茶碗やコップを持っても手が震えるし、足が震えだすとたってもいられないような状態になります。

 

 彼の友人が、一人の先輩を連れてきてくれました。その人がこう言いました。

「おばさん、彼を早くなんとかしないとヤバイですよ。覚せい剤を使っていたやつが俺の知り合いにいるんですが、やめて4年もたつのに頭のおかしいのが治らないんです。今の彼は、そいつがクスリをやっていたときと同じ状態ですよ」

 私はその時に、警察に息子を逮捕してもらおうと決心しました。

「刑務所に行くのも悪いことばかりではないですよ。その間はクスリは使えないし、規則正しい生活が身に付きますよ」

 カウンセラーからはそう言われていたのですが、息子を犯罪者にしたくない一心でそれを避けてきました。しかし、このまま手をこまねいていて息子が完全な狂人になってしまうよりは、自分自身で警察に通報したほうがいいと思ったのです。

 ちょうどビニール袋に入った白い粉を、一階のトイレに発見していましたので・・・。

 自宅で息子が逮捕されたとき、彼女も来ていました。

 彼らがいなくなったとき、「ごめんね」と私は彼女に謝りました。「ううん」と彼女は首を振りました。

 それから、涙がこんなに出るものかと思うほど二人で泣きました。

 

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