Kさんの体験談~⑤自分の回復に取り組む~ | はあもにい~セルフ・サポート研究所のブログ~

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『誰にも言えずにひとりで悩んでいませんか?』
家族・友人・知人の依存症(薬物・ギャンブル・アルコールなど)の問題でお困りの方を支援するセルフサポート研究所のブログです。

 さて、息子についての回想はこのくらいにして、ここからは私の問題について振り返ってみたいと思います。

 私は、最初にカウンセラーに会った時、生きがいは何ですかと聞かれて

 

「息子がクスリをやめることです」

 

 と答えて得々としていたという告白をしましたが、本当にその通りでした。息子の問題を完全に自分の問題ととらえ、境界線が引けていなかった。そんな私自身の病気に、底つきと回復のチャンスを与えてくれたのは、やはり息子の沖縄行だったと思います。

 息子の暴力の問題が発生する以前より、カウンセラーは事態を予測し、

 

 「お母さん、あなたが家を出なさい」

 

 と提案されていました。でも、苦労して働いて家を建てたばかりでしたので、自分が家を出るという選択がどうしてもできなかったのです。そんな私が「息子が出ないのであれば、私が家を出よう」と一大決心をして息子と向き合った時、息子は自ら沖縄に行くという決断をしてくれました。

 さらに息子が沖縄の施設を出され、なんの連絡もないまま4日が経過したときの不安はたいへんなものでした。今すぐにも沖縄に飛んでいって息子を探したい思いに急き立てられましたが、ひたすら我慢しました。

 その後、彼が施設に戻ったと聞いた時、

(ああ、本気で彼は回復に取り組もうとしている)

 ということが確信できました。

 不思議なことに、それまで完全に彼の問題にとらわれて翻弄されていた私が、この確信を機に自分自身の問題へと取り組むようになっていたのです。

 それまでは、相談室のプログラムでの私自身の取り組み方は、不真面目だったと思います。息子が同居していて問題を振りまいている時は相談室に通うのですが、息子が拘置所に入ったり、病院に入院すると足が遠のいてしまっていました。そして、息子がもうじき出てくるとなると、また一生懸命になるのです。

 おそらく私自身、孤独がすごく深かったのだな、ということに最近、気付き始めました。というのは大変な時期を乗り越えたら、グループで、仲間たちのなかで癒されるよりも、一人になることを選んでいたからです。

 それまでは息子の問題で相談室に通っていた私に、ある転機が訪れたのは、相談室が主催していたアサーティブ・トレーニングに出席したときのことでした。その時は、ペアを組んだ相手に対して怒る、というワークをやったのですが、私には怒りの感情というものが全くない、ということに気付いたのです。

 

(えっ?どうして?どうして私には怒りがないの?)

 

 その驚きが、私が私自身の問題に向き合っていくきっかけとなりました。

 私は典型的なアダルト・チルドレン(アルコール依存症がいる家庭や、機能不全家族の中で育ち、その影響を受けて対人関係に困難を感じている人)だったのです。

 

 私の父親はギャンブル依存症者です。終戦後しばらくは通訳の仕事をしていましたが、辞めてからは定職に就かず、麻雀ばかりしていました。徹夜麻雀をするためにヒロポンを使い、ヒロポン中毒にもなりました。勝って景気のいい時には外でじゃんじゃんお金を使い、負けると帰ってきてお金を持ち出す。お金がなくなると母の着物・家具・子どものものまで売ってお金に換えてしまう人でした。食べることにも事欠く生活になった中、お正月くらいは子どもたちにお腹いっぱい食べさせたいと、母が工面してやっと手に入れた一斗のお米まで父が持ち出してしまったときの、母の悲しみに打ちひしがれた顔を、私は今でもありありと思い出すことができます。

 

 父は戦争前には商売をして儲けていた人で、めかけも囲っていました。妾宅が空襲で焼けたとき、父はその人を私たちの家に連れてきて一緒に生活するようになりました。

 

「みっこちゃん。お母さんいなくなるかもしれないけど、あとはよろしくネ」

 母がそういって私をみつめたとき、私は母の死を予感しカーッと体中の血が頭に上り、目のところまで来るのを感じました。これ以上、上に上がったら発狂してしまう。そう思った私は必死に血が上るのをこらえました。小学校三年生のときのことです。

 母はこのとき、下の妹だけ連れて自殺しようとしていたそうです。妹を背負って線路の上をさまよったのですが子どもを道連れにすることに忍びなくて、結局は帰ってきたとのことです。女癖の悪い父は何人もの女遍歴の末、素人さんの女性に手を出しました。母は、その人と一緒になってあげなさい、と言って子ども4人を全員引き取り、正式に父と離婚しました。

 

 そんな風に苦労して生きてきた母の前で、私はいつも聞き分けのいい長女でなくてはなりませんでした。回りのことは考えても、自分のことは全く考えずに生きてきました。弟たちも妹も金銭問題・男女関係問題・社会問題と、あらゆる問題が生じると私に相談するのです。母は私たちを育てるために必死で働いて父親役をしておりましたので、私の役割は母親代わりでした。きょうだい皆が生きづらかった中で、そういう問題を一切母の耳に入れてはいけない、母に心配をさせてはいけないと思い、一身に背負ってきました。挙句の果てには父までがお金を借りに来て用立てました。でも、それらをするのが当然だと思っていました。

 

 アサーティブ・トレーニング(自分も相手も大切にしながら、自己表現する技術を身につけるための訓練)で、自分に怒りの感情がないことに気付き、いかに感情を押し殺して生きてきたかに気付いたあと、母への恨みが出てきて苦しみました。私をこんな人間にしたのは母だ。私を

こんな人間にしたから、こんな息子にしてしまったのだ・・・。そう考えることがかえって自分自身を見つめ直すうちに母もアダルト・チルドレンであることに気付き、母をかわいそうな人と思えたときから恨みも消え、今は年老いた母をいとおしいと思い、女手ひとつでよく4人の子供を育ててくださったと感謝しております。

 

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