Kさんの体験談~④沖縄で見事な回復~ | はあもにい~セルフ・サポート研究所のブログ~

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 2週間ほどして息子に面会できるようになりました。乱暴をしないようにという配慮で、体の大きな強そうな介護人が2人もついていて、私も彼も緊張していて何を話したのか覚えていません。

 

 そのうちに、閉鎖病棟から大部屋に息子は移されました。4人部屋に寝起きしているということで、その頃には普通に息子は会話が出来るようになっていました。普通になった息子に会うことがうれしくて、毎週日曜日になると私は面会に行きました。

 

 4ヶ月でM病院を退院した彼は、すぐに復職したいというのですが、私は先輩に、すぐに雇わないでほしいとお願いしてきました。退院してすぐには体力もないだろうから、3ヶ月くらいは家いいて体力をつけるように、と言って頂いたのです。

「仕事、断られちゃったよ。3ヶ月くらい休んだほうがいいっていうんだ」

 息子は先輩と会って帰ってくるなり、そういいました。

「そうね。体も鈍っているだろうし、どう? 3ヶ月くらい沖縄に行って、青い空と青い海の傍でリハビリしてきたら?」

 と勧めましたが、

「沖縄はいいよ。お金がかかるから」

 そう言って息子は沖縄行きに関心を示してくれませんでした。

 

 その夜私はついに決意を固めました。

 この子が万が一、死ぬことになったとしても仕方がない。息子のことを手放し、神様にゆだねよう。そして息子が家を出ないなら、私が出ようと思ったのです。

「お母さんは、貴方に元気になって、社会復帰して欲しい。だから沖縄に行って、青い空と青い海のそばで、貴方と同じような若い仲間の人たちとリハビリをしてほしいと思っています。貴方が回復するためなら、どんなにお金がかかってもいいと私は思っているの。この家を売ってでもお金は都合するよ。けれど沖縄に行かないなら、お母さんは病気の貴方とは一緒に生活できないから、この家を出て自活して欲しい。いきなり家を出てと言われても困るでしょうから、部屋を借りるお金と一ヶ月分の生活費は出してあげるから。一ヶ月のうちに仕事を見つけてあとは自分で生活してほしい。」

 

 彼の部屋に行き、心をこめて真剣に伝えました。息子はちょっとの沈黙の後、

「少し考えさせて」

 というので私は小さく頷き、階下に下りました。しばらくすると息子が降りてきて、

「沖縄に行くよ!行けばいいんだろう、行けば!」

 と捨て台詞のように言って、3階に上がりかけました。

 私は思わず、その背中に飛びついて抱きつき、

「そうよ、行けばいいのよ、行けば!」

 と言っていました。次の月曜日に、彼は自ら相談室のカウンセラーを訪ねました。そして帰ってくるなり、

「今週の土曜日に行くことにしたから」

 と言います。

「こんなにあっさり行くことになるなんて大丈夫かな?」

 と思いましたが、予定通りに彼は出発していきました。

 そして沖縄でも彼にはたくさんの試練が待ち受けていたのです。

 沖縄に行って一ヶ月もしないうちに施設のスタッフから電話がり、

「彼は缶ビールを買って飲んでたのでハウスを無一文で出しました。お母さんの方に連絡があっても一切、お金は送らないでください」

 と言われました。NA(薬物依存症からの回復を望む人たちの自助グループ)のミーティング会場に行けば食事を食べさせてくれ、翌日にハウスに戻れば中に入れてもらえるそうです。でも、彼から電話はありませんでした。

 知らない土地でお金もなく、どうしていることやらと、心配で食事ものどを通らないほどでしたが、4日くらいしてから連絡があり、彼が施設に戻ったと知らされました。このとき私は彼を信じられると思いました。よく電話をかけてこなかった、立派だ。よく一人でがんばったネ、と心の中でほめちぎっておりました。

 

 7月にフォーラムがあり、沖縄を訪問しました。前夜、息子と会う時間があり、母と私と息子の3人になった時、

「お母さん、俺を沖縄に来させてくれて本当にありがとう」

 と息子は言うのです。嬉しかった。

「明日のフォーラムは会場係なんだ」

 と息子は言って帰りました。当日会場に行ってみますと、息子は会場の中を生き生きとして動き回っておりました。本当に安心したのを覚えています。

 

 沖縄に行って9ヶ月くらい過ぎ、とんかつ屋に彼は就職しました。そして3ヶ月ほどたち、チーフスタッフから「そろそろ彼の自立を考えています。」というお話しもありました。しかし、やれ嬉しや、と喜んだのもつかの間、

「彼をハウスから出しました。夜のNAミーティングに3回遅刻したからです」

 という電話が入りました。給料は全部スタッフに預け、自立の時の資金にしており、息子自身は一日2,000円の生活費をもらって賄っていましたから、彼はまた無一文の状態でした。

「本人から電話があってもお金を送ったりしないでください。お金に困ればハウスに戻ってくるだろうから」

 と、そのスタッフは同じことを言うのでした。

 何日かして、今度は息子から電話がきました。

「施設に預けてある給料分のお金がお母さんのところに届くから、すぐに送って」

 というのです。心では迷いながらも、施設のスタッフに言われた通りにお金は送れないと言ったところ、息子は烈火のごとく怒り出し、

「そんなこと言うなら送ってくれなくていい。そのかわりもう親子の縁は切る」

 と言います。

 

 理由を聞けば、夕方5時までの勤務とは言っても、慣れてくれば店もあてにするし、自分も忙しい最中に時間だからと帰れないこともある。3回目のときは店員が店長と喧嘩して急に帰っちゃったので、手伝わないわけにはいかなかった、とのことでした。

 まったくやむをえないこととしか思えませんでした。社会で働いた経験のない人には分からないでしょうが、私にはよくわかりました。そこでスタッフに本人にお金を渡してくれるように頼みましたが、規則で親にしか渡せません、とのことです。それなのに、いつまでたっても施設からお金は届きません。結局息子に送ってあげられたのは一ヶ月半も経ってからのことでした。

 

 息子の仕事は食べ物商売でしたから、お金はなくとも生きてはいけると思いましたが、野宿・店の更衣室・上司の車の中、そして友人の家と、転々としながら大勢の方々のご好意に支えられて生活していたそうです。

 食べ物商売なので汗臭くてはいけないと、友人の家にお世話になるまでは、店が終わってから外の物陰に行き、ホースの水で体を洗ってしのいだそうです。

 後日、私が沖縄に行き、お店を訪問したときに聞いた話で、我が子ながらすごいなあ、と感心しました。

 

 息子はそのとんかつ屋さんに2年半ほど勤め、主任となり、副店長の仕事をするようになって収入も多くなってきたときに辞めたいと言い出しました。理由を聞くと、朝9時半ごろに家を出てその日の釣銭を銀行で両替して出勤し、夜は夜で売り上げを締めて夜間金庫に預け、パートの女の子を家に送り届けて自宅に帰るのは1時半か2時。休みの日も疲れているので寝るだけで終わってしまう。もっと人間らしい生活がしたいんだ、というのです。まことにもっともだと思い、私も賛成しました。

 

 彼はすぐ靴屋に就職し、1年5ヶ月勤めたところで突然、ジャマイカに行きたいといって東京に帰ってきました。沖縄では給料が安いので旅行資金が貯金できないから、1年間くらい居候させてくださいとのことでした。念願通りジャマイカに行き、また沖縄に戻って、もとの靴屋に再就職して生活しています。

 

 息子が最初に沖縄に行ってから、8年、薬物の問題が発覚してからは実に10年の月日が流れましたが、彼は人間的に本当に大きくなりました。薬物依存症になってつらい思いを何度も何度も経験していますので、人の痛みの分かる思いやり深い人間になりました。

 

 

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