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はあもにい~セルフ・サポート研究所のブログ~

『誰にも言えずにひとりで悩んでいませんか?』
家族・友人・知人の依存症(薬物・ギャンブル・アルコールなど)の問題でお困りの方を支援するセルフサポート研究所のブログです。

  息子の言動がおかしくなったのは今から10年前、平成7年6月頃のことでした。

 

 その頃、彼は毛皮製品のセールスの仕事をしていて昼も夜も働いていました。母親の私自身も保険のセールスをしていた経験があり、皮肉・中傷が日常茶飯事の営業の世界で息子が疲れていることに常々、心配をしておりました。

 

 ある日、珍しく夜の早い時間に帰ってきた彼は、

「おれ、会社をクビになっちゃった」

 と言います。

「えっ、どうして?」

 と聞きますと、

「クスリを使っているようなやつは使っていられないっていうんだ」

 と息子は答えました。

 

 そのとき私は、クスリと言われても何のことかわかりませんでした。

「こんなに一生懸命働いているのに、なんでやめさせられなきゃならないんだ」

 と、息子はひどく憤慨しておりました。

「使えないなんて言われちゃったら、仕方がないじゃない。お母さん、あなたの体が心配だから、辞めてもいいと思うよ。まあ、ご飯でも食べなさいよ」

 

 その時は、そういって息子をなだめた覚えがあります。しかし、息子は食事を取らずに自分の部屋へ行ってしまいました。

 

 その夜、息子の様子がだんだんおかしくなってきました。

「〇〇さんが死んじゃったんだよ。殺されちゃったんだよ。いい人だったのに・・・」

 と、その人からもらったというブランド品のスーツを抱きしめて泣いているので

「誰、その人?」

 と尋ねると

「六本木に棲んでいるヤクザの幹部なんだけど、とてもいい人だったんだ。『若いのによく働いて感心だね』って言って、このスーツをくれたんだよ」

 と言って息子は嗚咽するのです。

 私は、寝ることも出来ずに、一緒に起きていました。午前1時頃になると、息子は急に居丈高になり、コーラを買ってこいと言い出しました。彼の友人に酒屋の息子さんがいるのですが、そこの店の自販機の〇〇というコーラじゃないとダメだと言い張ります。彼の気が鎮まるのならと、真夜中にその酒屋まで私はコーラを買いに行きました。

 すると次に彼は、外に誰かいるから見てきてくれ、と言います。見ても誰もいないのでうそう伝えると、いる、と言い張ります。

「じゃ自分で見てごらん」

 と言うと、

「俺が外に出ると殺されるんだよ」

 と、ひどく怯えた様子を見せるのです。

 そうかと思えば、またスーツを抱きしめて子供のように泣きじゃくったり、家や車の中に盗聴器が仕掛けられていると騒いだり、結局は一晩中、大騒ぎでした。

 (収入多かった仕事をやめさせられてパニックになっているのかな?)

 と、私は思っていました。

 

 翌日仕事から帰ってくると、息子は部屋の隅でたくさんの名刺を、カードを並べるように一枚一枚並べています。 

「食事もしないで、ああやって一日中いるんだよ」

 と、同居している私の母が声をひそめて言いました。仕事を急にやめたせいで精神的にまいってしまったのかな、うつ病にでもなってしまったのかなと、私は思いました。私はそのとき息子が薬物でおかしくなっているとは想像もできなかったのです。息子のそんな状態が4.5日続いた時には、心配のあまり私は食事もろくにとれない状態になりました。

 

 母は、最初から息子が薬物で錯乱していることを分かっていたみたいです。

「あなた、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。クスリさえやめたらもとに戻るんだから」

 母にそう言われて、息子が何か薬物を使っているのかと初めて思い当たりました。私の父が昔、ヒロポン中毒になり、入院して治した経験があるので母にはすぐに分かったらしいのです。

 

 夫は、息子が10ヶ月の時に病気で亡くなりました。それ以来、母一人子一人で生きてきた私は、同居し始めたばかりの自分の母に迷惑をかけたくないという一心だったことを思い出します。そして、これがその後4年にわたる息子の薬物依存症との闘いの幕開けだったとは、その時の母や私には思いもよりませんでした。

 

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ひとりで悩まずにまずは私たちにご相談下さい。

家族は被害者でも加害者でもありません。

支援者です。

私たちは依存症の当事者とその家族の方を応援しています。

当センターは臨床心理士が主宰する相談機関で、家族支援を通して本人を回復へ導くプログラムやカウンセリングを行っています。

経験豊富なスタッフが丁寧にお話を聞かせていただきます。

特定非営利法人 セルフ・サポート研究所

電話相談 03-3683-3231

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 私にはまだ、後遺症的なものがたくさん残っています。特に身体的な面では、長男が入院して、2.3ヶ月目から頭痛が、肩が張り、首も回らず、腕が上がらなくなってしまいました。でも、苦しみの真っ最中の時には、自分の体の治療のことなんか何も考えられませんでした。一昨年の春頃から、整形外科の病院には通院をし始め、首の牽引をしてもらい、痛み止めの薬も処方して頂いているのですが、精神的にすごく不安定になっていたためか、検査でMRIを撮ることになった時に、閉所恐怖症のような症状がでてしまい、MRIの機械に入ることができませんでした。長男が無給ながら仕事に通うようになったころから、やっと落ち着いて、自分の治療をする心のゆとりがもてるようになってきました。気功やマッサージ、温熱療法など色々試したところ、温熱療法が一番効果があり、続けられるうちに最近ようやく少しずつ首が回るよになり、視界が広がりつつあるような状態です。

 

 でも、こうした苦しみと、プログラムによる回復を通して、私は自分自身のものの考え方や見方が大きく変わってきたのを感じています。昔の私は、薬物依存になる人は、よほど本人がおかしいか、親の育て方が悪いのだと思っていました。普通の家庭に育った人には縁がないと思っていたのです。しかし、長男がこういうことになって、薬物依存症という病気は何時、誰にでも起こりうる病気なんだということを学びました。また、いやおうなしに目を向けさせられたかたちですが、勉強するうちに、自分の価値観が独断と偏見でゆがんでいることも知りました。私はそれまで、自分でも嫌に感じるときがあるくらい、生真面目な性格で、高校生のときから「不良」と呼ばれる人たちが大嫌いで仕方ありませんでした。校則というのは守れば勉強がしやすくなるのに、なぜわざわざ破りたいと思うのかしらと思っていたものです。

 

 でも今は、自分の理解の枠外にいた人たちにも関心の目を向けて、共感しようとしている自分がいます。嫌だなと思っていた人に対しても、それほど気にならなくなってきました。かつての自分は、謙虚に生きていきたいものだと思いながらも、気がつかないうちに、どこかである種の傲慢さが身についていたのだと思います。

 

 だけど正直な気持ちをいうと、多少ひとから嫌われていてもいいから、こんな苦しい経験だけはしたくなかったという気持ちもあります。まあそんなことを笑い話でできるようになってきたのは、私が回復してきたことの表れなのかもしれません。

 

 12ステップのステップ1、「無力」ということはつくづく実感しました。子どもたちに対して多くは望まないが、人間としてしなければならないこと、してはいけないことをわきまえた、社会に通用する人になってほしいと念じて育てたつもりでした。それなのに私は一体、母親として何をしてきたのだろうと思いました。そういう「無力感」にいつも捕らわれていました。

 

 ハイヤーパワーというのは最初、よく分かりませんでした。長男の問題が起きる日までは本当に毎日、気楽に暮らしていたのです。私は以前から富士山が大好きで、出かけた帰り際に富士山が見えるとそれだけで嬉しかったものです。長男の問題が起きてからは、犬の散歩のときに毎日、富士山が見えるとことまで行って「助けてください」と祈っていました。何日か、曇っていて富士山が見えない時が続きました。それがある日、真っ白に雪化粧して朝日に輝き、雄壮で神々しい富士山がパーッと開けて見えたのです。そのとき「しっかりしなさい、あわててはいけない」と富士山にいわれたような気がしました。それ以来、富士山を見るたびに「よろしくお願いします。」と祈っていました。富士山が雪雲に隠れている状態、それが今の私だ。雲が晴れたときに富士山は、あれだけ美しい姿を見せてくれる。あの富士山のようにどっしり構えていればきっと、晴れる日はくるはずだ。そう心に言い聞かせてきました。

 

 私の父は晩年に苦労した人でした。子どもを大勢抱えて満州から引き上げてきました。「誠実に生きろ」と、それだけが口癖のような人でした。父がなくなった後も何かあるたびに「お父様・・」と相談すると「誠実」という言葉が返ってきていました。でも、長男のことがあってからはもう「誠実」だけではダメでした。それにかわるものが富士山だったのかもしれません。そして、富士山に向かって祈るようになったときに、12ステップのいう「ハイヤーパワー」という言葉が私にもなんとなくわかる気がしたのです。

 

 私はいまも相談室で開かれている12ステップを勉強するグループに出続けています。長男の問題で始まったプログラムですが、今は自分の問題を見つめるために相談室に通い続けているのです。「薬物依存症です」とお医者様から宣言を下され、暗闇の地獄の底に突き落とされ、ここからどうやって這い上がればいいか分からず途方に暮れていた5.6年前の私。そして今、相談室のカウンセラー、プログラムを通して出会った仲間に助けられて回復しつつある私。現在もこの問題で苦しんでいる家族の方々に対して何かお役に立てることがあればと、「はあもにい」の活動にもできるだけ参加しています。細く、永く、無理をせずに・・・。

 

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今日はセルフ・サポート研究所のプログラムのなかで利用されている資料の一部をご紹介します。

「アディクションの木」と「コミュニケーションの木」です。それぞれ比べてみましょう。

「アディクションの木」

 

果実:
・もえつき
・恋愛依存
・ショッピング依存
・セックス依存
・ニコチン依存
・薬物依存
・アルコール依存
・仕事依存
・虐待・暴力
・共依存
・ゲーム依存
・摂食障害
・引きこもり
・ギャンブル依存
・インターネット依存
・自傷行為

疎外(不安)

背景:死、刑務所・精神病院

栄養分:悲しみ・怒り・恨み・罪悪感・後悔・不正直・恐れ・自己憐憫・喪失感


 

「コミュニケーションの木」

 

果実:
・スピリチュアリティ
・子育て
・ボランティア
・介護
・自然・環境
・趣味
・仕事
・学校
・レクリエーション
・恋人
・身体的なセルフケア
・結婚
・地域活動

 

所属感(安心)

背景:家族、友人・仲間

栄養分:愛・共感・自己肯定感・協力・信頼・尊敬・赦し・忍耐・感謝

 

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 こうして振り返ってみると、息子の件に関しては長女が一番、冷静だったかもしれません。「ごめんなさいね、あなたの弟がこんなになっちゃって」と娘に謝ったことがありました。H病院で「刑務所か精神病院かコンビニだ」と言われたときのことだったと思います。娘は泣きながら「お母さんが謝る筋合いのことじゃないよ、あの子はあの子でやっていくし、私は私でちゃんとやっていくから」と答えてくれました。この事件が起こってから、娘は大変涙もろくなったようです。

 

 警察で、先に事態を悟って廊下で一人で泣いていたあの子が、私が取り調べ室からでてきたら私の横にすっと寄り添ったこともよく思い出します。「私は大丈夫なのになぁ・・」と思いながら、娘の気遣いに身を任せていた覚えがあります。でも娘が想像した通り、その後の私はガタガタと崩れていきました。いちばん崩れたのは、最愛の息子が精神病院に入った、麻薬中毒者だと分かった次の日の朝だったと思います。一晩寝て起きたら食事はのどを通らないし水も飲めませんでした。一日中、体が震えていました。

 

 長男がまだ幼稚園児だった頃、お金を盗んだことがありました。子どもを疑うのが嫌なのでいつも財布は出しっぱなしだったのです。「そんな子供は大人になったらきっと大泥棒になってしまう。一緒に死のう」と言って追い掛け回したことがありました。そんな過去のことがどんどん思い出され、あれがいけなかったのではないか、これがいけなかったのではないかと、自分のことを責めてばかりでした。長男が退院したときに娘に「お母さん厳しかった?」「どこが悪かった?」と聞きました。「お母さんは優しかったよ。もっと弟に厳しくしてもいいと思ったことがあっても、お母さんはいつも優しく見ていたよ」と娘は言ってくれました。あれは平成12年の暮れのことだったと思います。「今晩は忘年会で遅くなるから」というので「どうぞゆっくり楽しんでいらっしゃい」と答えると「お母さん。私ね、あの日以来、初めて寄り道をして帰ってくるのよ」と娘は言いました。全く気がつきませんでした。1年以上、会社と家を往復するだけで、お友達とのお付き合いやお稽古事を休んでいたなんて、弟や私のことをそんなに心配してくれていたんだ・・・。今でもそのことを思い出すたびに彼女に感謝すると同時に、申し訳なさで胸が熱くなります。

 

 娘は大学三年のときにアメリカに留学しました。そのときは気軽な気持ちで送り出しましたが、平成14年の9月から自費で2年間イギリス留学することが本決まりになったときは、「あなたはあなたの人生を大事にしなさい」と口で言いながら、長男のことで不安が強く、娘に傍にいてほしくて心では泣いていました。

 

 娘が出発する前夜、4人でレストランで送別会をしました。しかし、時間になっても長男はやってきません。いつも約束の時間は守る子なのに、かなり混乱している時期だったのでしょう。3人で真っ白なテーブルクロスを見つめてばかりでした。ようやく4人そろっても会話のない気まずい夕食会になってしまいました。

 

 出かける朝も娘は泣いていました。心配しないでいっていらっしゃい、行ったらむこうでの生活を楽しみなさいと伝えたのですが、私の心の中も涙であふれそうでした。

 

 でもそんな姉と弟とは、とっても仲がいいのです。姉弟なのに、まったく競争心がなく、互いの長所を認め合い喧嘩らしいこともせず、学校から帰ってくるとまず「弟は?」「お姉ちゃんは?」と探し合っていました。

 

 一番苦しんで我が家からは笑い声がすっかり消えてしまった頃、隣の家から楽しそうな声が聞こえてきて、それを私が羨ましがったことがありました。そのときは娘に怒られました。「隣の芝生は青く見えるんだよ。隣には隣の事情が色々あるに決まっているじゃない!」と教えられたのです。

 

 その後、メールや電話を通じて長男がよくなっていくのを聞いて、イギリスにいる娘は嬉しそうでした。弟にお説教のようなメールを送ったりしていたようです。

 

 私たちの価値観では、薬物なんて絶対悪。しかし長男たちの価値観ではタバコ程度。その価値観の相違はどうしようもありませんでした。埋めようのない溝でした。そんな中で、娘はいつもしっかりしたことを教えてくれる存在でしたが、娘への依存も手放して、分からないことは全てカウンセラーに聞こう、そして主人と二人で解決していこうと思いました。

 

 昔は主人に対して恨みを抱いたこともありました。仕事と付き合いばかりで、全然長男に向き合ってくれなかった。私が心配しているところを一緒に心配してくれなかった。だからこうなったんじゃないかという思いを持ってしまったのです。

 

 でも、2度目に長男がリラプスしたときには主人の方が落ち込んでいました。「あの子は一生懸命に生きているから大丈夫だよ、クスリはやっていないよ」と信じていただけに、裏切られた気がしたのだと思います。教育プログラムで話を聞いている分には、再発はいくらでも起こりうることなのだという予備知識は主人にも私にもありました。しかし「うちの子は大丈夫だろう」と思ってしまうところが親バカなのだと思います。

 

 「沖縄から帰ってきてからは、彼は着実に回復の道を進んでいると思うよ。あとは見守るしかないよ」と主人は言っています。この問題が起きるまでは息子との接点が薄かったことを反省し、定年後のいまは、長男が通っていた整体の学校に主人も通い、終了証を頂いてほんのわずかですが整体の仕事もしています。

 

 私が精神的に参ってしまった後は、主人がすぐに私に寄り添ってくれました。土曜日のプログラムに私と一緒に1年間、通ってくれました。本当に支えてもらったと思って感謝しています。

 

 自責の念に駆られて過去の間違い探しをしても、本人や私たちの回復になんの効果もないことがよく分かりました。H病院の家族会で私は泣いてばかりいたことを思い出します。自己紹介の名前さえ言えないくらい涙ばかりが出ていました。名前をどうにか言っても、今度は、次の言葉が出ないほど涙が止まらないのです。でも家族会の人たちは、私が何かを言うまでじっと待ってくれていました。毎回、私の番になるとミーティングが進みませんでした。自責の念と緊張感がひどく、心臓がどきどきして、食事を全然とれなかったことも思い出します。水分さえも受け付けないのです。ご飯を食べられないのにどうして私は生きていられるのだろうと不思議に思っていました。

 

 M病院で「はあもにい」のメッセージを伝えた後に流した涙は、H病院のときとは全く種類が違っていました。H病院の時は罪悪感とショックの涙でした。M病院のときは手放すつらさを噛みしめる「タフ・ラブ」(「厳しい愛」「ほんとうの愛」という意味。おせっかいや甘やかしではなく、その人自身が自立していけるように援助すること)の涙でした。「いま行けばまだ長男を止められる。でも、あの子が選んだことだから、行きたいのなら行かせるしかない」という苦しみから出た涙でした。プログラムのお陰で成長していたのだと思います。

 

 今でも自責の念は拭えません。仲間のお母さんに言われたことがありました。「子どもの育て方では、年上だから、年下だからで差をつけてしまったなんて、あんまり考えないほうがいいのよ。二卵性双生児は、同時に育てるはずが、一人は飛び跳ねて何もかもひっくり返す子で、もう一人は静かだ、なんていうことはよくあるらしいの。子どもの気質には、持って生まれたものがあるらしいから」この言葉は救いでした。

 

 このような回復と成長、仲間との出会いは全て相談室のプログラムのお陰でした。薬物のことが全く分からなかった無名の闇のようなH病院時代の状態に比べたら、この安心と落ち着きはどうでしょう。長男自身も成長したと思います。「仕事がある幸せ、させてもらえるだけで幸せだよ」という言葉を聞いたとき、この経験は無駄ではなかったと思いました。「依存症は一生抱える病気ではあるのだろうけれど、一病息災という言葉のようになってくれたらいいね」と主人といつも話しているのです。

 

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 長男はその後も家の中でゴロゴロしていましたが、NAにだけは週に3回、少ない時でも1回は必ず出ていました。時々、相談室のカウンセリングにも行っていたようです。昼夜逆転の生活はしなくなりました。

 

 私はその頃、お稽古事や友達付き合いを少しずつ再開していました。長男がH病院を退院して以来、薬物を再使用してしまうんじゃないかと心配で、相談室に通う以外は一切、外出できなくなっていましたが、次第にあの子が一人で家にいることが気にならなくなり、私は私のことを楽しめるようになっていました。それはものすごく大きな違いでした。相談室で受けたプログラムが効いていたのでしょう、嬉しかった。

 

 そして年の瀬が近づいてきた頃「今年の暮れからお正月にかけてはどうするの?」と聞いたら、「東京にいたくない。沖縄のリハビリ施設に行こうかと思うんだ。沖縄に行かせてくれないかな?暮れから正月にかけて、できたら一ヶ月」と言うのです。耳を疑うような気持ちでした。

 

 でも私の本音では、1年でもいいから行ってほしかった。1ヶ月くらいで何になるの?と思ったのも事実です。回復している仲間たちと行動を一緒にして考えてほしかった。カウンセラーは「まあ、本人が1ヶ月というなら、1ヶ月でいいんじゃないですか」と仰いました。あとで「どうして1ヶ月という期間にしたの?」と聞いたら「お金がかかるから。これ以上甘えたら悪いから」とのことでした。

 

 平成14年の暮れから15年の1月まで沖縄に行き、ちょうど1ヶ月目で帰ってきました。

 それからは頑張りました。学校とデイケアに毎日、通い始めたのです。3月頃「今までで一番の優等生ですね、皆勤賞だ。依存症者はそうなのですよ。頑張りすぎるか、全然ダメかどちらかで中間がないのです」とカウンセラーは笑って仰っていました。

 

 デイケアに通所している間は収入がないのでお小遣いをあげていましたが、もう薬物は使わなかったようです。「クスリはもうやっても楽しくないし、使えないことが分かった」と言っていました。

 

 4月に入ったらデイケアの回数を減らして、重点を学校に移しました。これもカウンセラーと相談しながら決めたことのようです。7月に入ると、卒業がどうやら当分先だということが分かり、働きながら学校に行きたいと言って整体の仕事を見つけてきました。仕事先からは「ある程度の基礎技術が身につくまで通ってくれ」と言われたらしく、デイケアを休み、7,8,9月とみっちり通って技術を仕込まれたようです。そしてある日、「10月から給料をもらえることになった、奇跡だ」と大喜びして帰ってきました。給料を頂けるのはまだまだ先の先、と思っていたようです。そのとき彼と交わした固い握手の感触を今でも忘れることができません。

 

 長男が働いていたのは、都心の繁華街でチェーン店展開をしている店です。営業が昼から夜の10時くらいまでなので、帰ってくるのは夜中の12時半くらいになります。夜の食事は午前1時過ぎ、という生活が1年半続き、長男の体が心配でしたが、本人が自分の意志で頑張ってしていることだからと思い、信じて見守りました。その店で正社員にならないかと随分勧誘されたようです。でも長男は旅行に行きたいという夢をもっていたので時給の契約社員で通しました。息子は4月8日が誕生日なのですが、今年、その日にパナマで皆既日食が見られるとのことで、パナマに行きたがっていたのです。4月の始めから旅に出て5月中旬に日焼けして元気に帰ってきました。パナマからコスタリカを回ってニューヨークに行き、ニューヨークでは向こうのNAに2箇所くらい行き、拙い英語であいさつしたそうです。あちらこちらでドラッグを勧められたそうですがクリーンでいられたといいます。帰国後すぐに相談室のグループで自分の経験を話してくれました。

 

 つい先日、彼は再就職しました。O町にある整骨院です。老人相手の整体ですが、経営者に随分見込まれて、頑張っているようです。

 

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